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彷徨うばかりは


「これは食べられるか? お前の好物だっただろう?」


アランに作ってもらったアロエ果肉の蜂蜜漬けを、リューンはムイの前に差し出した。


ベッドに座っているムイは、真っ直ぐ前を見据えていて、リューンの手の中にあるビンには、届かない。


リューンは細く息を吐くと、椅子から立ち上がり、ベッドの端に座った。そして、スプーンでアロエの果肉を一つ掬うと、ムイの口元に持っていった。


口にスプーンの先端をつけると、口が薄っすらと開く。その中に果肉を滑り込ませると、もぐもぐと口が動いた。


「アラン、が作ってくれたのだ」


その言葉に、ぴくっとムイの頬が動いた。


「あ、アランは、覚えているか? 庭師のアランだ。バラを育てていて、お前がよく押し花にする花を、」


アロエの果肉を飲み込もうと、ムイは喉をこくりと下げた。


「あ、アランを呼んでくる」


リューンは立ち上がると、ドアから飛び出して、アランを呼んだ。


ローウェンに連れてこられたアランは、ムイの目の前に座ると、そっと手を頬に当てがって、ムイ、と名を呼んだ。


「ムイ、俺がわかるかい?」


薄っすらと、唇が笑った気がして、リューンの心臓は跳ね上がった。


けれど、ムイの反応はそこまでだった。直ぐに、その瞳は陰っていき、そして、閉じられた。


様子を見ていたジュリに促され、ムイはそのままベッドに横になった。


皆が部屋から出ていくと、リューンは肩を落とした。


ムイの、眠る横顔。


「ムイ、早く俺を思い出してくれ。愛しているんだ、お前を愛してる」


呟いた声は、灯りを落として薄暗がりにされた部屋に、虚しく響いていった。


✳︎✳︎✳︎


バラ園を越えて、白いガゼボにも行った。二人で飛び込む羽目になった裏庭の蓮の泥畑にも行った。鳥の雛を拾ったことも、押し花の教室のことも、何度も繰り返し話した。


そして、リューンとムイは今、マニ湖を望むバルコニーで、沈んでいく夕日を眺めている。


「寒くはないか?」


リューンが訊くと、ムイの身体が揺れた。


リューンは羽織っていた自分の上着をムイの背中にかけると、そっと肩を抱いた。小刻みに震える振動が、リューンの腕に伝わってくる。


「まだ寒いのか?」


暖めようとして、さらに腕に力を入れると、ムイが小さく縮こまって身を硬くした。俯く唇が、ぐっと引き結ばれる。


たまらなくなって、リューンは顔を近づけた。


「ムイ、愛しているんだ」


唇を、ムイの唇に合わせようとした時。


どんっとリューンの身体が押されて、ムイが二歩、後ろへと下がった。


「あ、」


リューンが手を伸ばす。その手から逃れようと、さらに後ろに下がる。そしてムイは、リューンの横をするりと抜けると、城内へと戻るドアへ向かった。


「ムイっっ」


リューンが追いかけて、ムイの腕を掴む。


背中から、ぐいっと抱き締めると、リューンはムイの髪に顔を埋めた。


「ムイ、どうして逃げるのだ」


久しぶりに嗅いだムイの髪の香りに、リューンはくらっと気が遠くなっていくような感覚に陥った。


二人がお互いに愛し合っていると確信が持てた日々は、実はそう多くはなかった。


「そういうのを『両片想い』と言うんですよ。まったく面倒くさいったらありゃしない」


城の近所に店を構える、未亡人のミリアが、腰に手を当てて仁王立ちで言い放った。


「りょ、両片想い?」


リューンが頭を掻きながら、訊き返す。


「そうですよ。お互いがちゃんと相手のことを好きなのに、気持ちがきちんと伝わっていないんです。お二人を見ていると、私なんかはもうじれったくてじれったくて……リューン様っっ、あなたが何とかなさらないとっっ」


「お、俺は、その……ムイが俺を好きになってくれれば、嬉しいに越したことはないのだが、」


照れながら言うと、ミリアは更に声を上げた。


「だからもう、その段階はとっくの昔に超えているんですっっ」


「そ、そうか?」


ミリアの声に驚いて、リューンが手を添えていたティーカップがガチャと音を立てる。


「あなた達は、もうどこからどう見ても完璧な『両想い』なんですから、自信を持ってくださいっ‼︎」


仁王立ちをやめて、ブツブツと言いながらミリアは商品を並べ始めた。けれど、直ぐに手を止める。


「リューン様。あなたがそんなんじゃ、ムイが可哀想です」


「え、」


リューンが顔を上げる。


「ムイはリューン様を心から愛しているんです」


「そ、それが本当なら、すごく嬉しいんだが、」


「リューン様のお側にいたい、ってのがムイの口癖です。以前、リューン様に好きな人ができたって時があったでしょ。あの、いけ好かない女のことですよ」


「ユウリのことか? あれは別に好きとか、そういうんじゃなく、国王陛下の姪だからと、」


「その時も、」


ミリアが、リューンの言葉を遮って続ける。


「その時も、ムイはリューン様の側にいたい、と言っていました。普通はできないでしょう。愛する人が他の女と結婚してですよ、その二人の姿を側で見続けるなんてこと」


「あ、ああ。できない、と思う」


「そんなにムイの愛が信じられませんか?」


「……そうだな。俺が信じてやらないとムイが可哀想だ」


「それにですよ、リューン様だって、」


ミリアが話すのを、今度はリューンが遮った。


「ああ、わかっている。ムイにも信じてもらわねば」


(……俺がムイをどれだけ深く愛しているかを)


言葉にするのは気恥ずかしくてできなかったが、その時、心で強く思った。


そして今。


ムイの髪に顔を埋めたまま、後ろから抱いた両腕に力を込める。


(俺の愛が伝わるように、)


ムイの黒髪に何度もキスをする。


(信じてもらえるように、)


「愛してる、ムイ、愛してる、」


何度も繰り返し、次には首筋にキスをした。


その時。


カタカタと震える身体。それに気がつくと、リューンの腕の力が一気に抜けていった。


「ムイ?」


どうした? と訊く前に、ムイの様子が震えとなって、両腕に伝わってくる。


「俺が、……俺が、怖いのか?」


顔を覗き込む。グレーの縁取られた薄翠の瞳が、ゆらゆらと揺れている。


ぎゅっと身体に力が入れたのか、ムイはさらに身を硬くした。


「どうしてだ、なぜなんだ。アランには笑ったではないか。俺にも笑ってくれ、お願いだ、俺を見てくれっ」


ムイの身体をぐるっと回すと、ムイの顔に顔を近づけて、再度唇を合わせようとする。


ぎゅっと閉じた目。力一杯に引き結ばれ、白く浮き上がる唇。弱々しく寄せられる眉根。


「お、俺が怖いのか? これでは俺が……お前に初めて会った時と同じではないか、」


(俺が怖くて、俺から逃げてばかりいた、あの時のように……)


リューンは愕然とした。もう次の言葉は出てこなかった。


身体を離すと、ムイはその場に崩れ落ちた。


滑り落ちた上着をそっとムイの背中にかける。びくっと波打った身体。


そのムイの反応に傷つきながらも、リューンは絞り出すように一言だけ言った。


「……少しだけ、我慢していてくれ」


崩れ落ちたムイを上着ごと抱き上げると、ムイの震えは更に増した。目を瞑って必死に我慢するムイの顔を、リューンは見ることができなかった。


リューンはそのまま部屋へと戻って、ムイをベッドに寝かせてから部屋を出た。


(ああ、……まさか、こんな日が来るなどと)


虚しい心は、沈みゆく夕日と共に、バルコニーに置いてきた。


✳︎✳︎✳︎


「はは、いいんだ。たとえ嫌われていても、俺はムイから離れない」


苦く笑うリューンに代わりの紅茶を注いだローウェンは、呆れた顔をして言った。


「自虐はやめてください。まったくもって面倒くさい」


「そうじゃない、事実だから仕方がない」


「ムイがバラ園にばかり出かけていくから、あなたは腐っているのでしょう」


「ローウェン、お前はいつも厳しいな」


リューンは紅茶を一口含むと、こくと飲んだ。


「国王陛下が、このようなムイはもう必要ではないと、匙を投げてくれたのだ。それでいい、もうこれで十分だ」


視線を流すと、バラ園のバラを摘んでいるムイの姿。アランがバラの棘でムイに傷がつかないようにと、傍で見守っている。


その二人の様子を見て、リューンはふ、と笑った。


「心配するな。もう、嫉妬などという下らない感情は持っていない」


リューンがティーカップを置いて、そして椅子に深く腰掛けた。


「ムイがこうしてこの城で暮らしてくれれば。俺の側で時々、ああやって笑顔を見せてくれれば、それでいいのだ」


ムイが笑いながら、バラに顔を近づけている。


「こうして遠くから見ているだけで……十分だ」


目を細めて、息をついた。


「……十分なんだ」


そんなリューンに呆れたのか、ローウェンはすでに去っていた。


✳︎✳︎✳︎


(これ以上、ここに居ることは許されない。大切な、大切なシバも死なせてしまった。そして、リューン様の大切なリンデンバウムをめちゃくちゃにしてしまった。私の、……私が全ての元凶……これ以上、皆を不幸にしてはいけない、リューン様を不幸にしては、いけな、い……)


震える手で、少しずつ集めていた私有物をカバンに詰める。


その中に、ムイとは縁のないタバコのケースがあった。


アネモネの花びらで彩られたシガレットケースは、以前ムイが手作りし、リューンにプレゼントしようとしたものだった。


(ふふ、受け取っては貰えなかったけれど……)


ムイは弱々しく笑った。


記憶はあったのだ。頭を打った後、目覚めた当初は混乱はしたが、意識ははっきりしていた。


最初に目覚めた時、リューンを真っ直ぐに見ることができなかった。何という大それた事をしてしまったのかと、そんな負い目がムイの目を現実から背けさせた。


そして、声も。ここリンデンバウムで自分が一言でも言葉を発するということは、大罪に値する、そう思ってしまったのだ。


それなのに、リューンはムイを離さなかった。耳元で何度も愛していると、囁いてくる。


「……お許しください、リューン様、私がこのままリンデンバウムに留まれば、きっと批判の声が日に日に増すことになってしまう……」


国王陛下の使いが、廊下でひそひそと囁き合っているのを聞いた。


「リューン様はどう収拾つけるおつもりなのだ」


「ユリアス殿は裁判の過程でムイ様と共謀したと言ったらしいぞ」


「さすがに陛下は信じなかったがな。けれど、噂は直ぐに流れていく。人の口に戸は立てられぬ、だな」


「ああ。だが、陛下にはもうムイ様を諦めてもらうしかない」


「まあ、ムイ様があんな風じゃ、どっちにしてもダメだろ。喋れないなら、歌を歌うこともできんからな」


使いの者二人が「これじゃ使い物にならん」などと言い捨てて国王の元へと帰っていったことは、侍女のジュリの怒りを含む独り言で知った。


ムイは、手元を見た。


持っていたシガレットケースを、ずっと使わせてもらっているリューンの寝室にあるタンスの引き出しに、そっと入れる。


そして、それと引き換えに出したのは、小さな麻袋。紐を伸ばして、首にかけた。


手で握ると、小袋の中のものがゴツゴツとしていて、手のひらを押した。


(これだけは、手離さない。これだけは……リューン様の代わりに)


リューンに貰った花の髪飾り。リューンの母親の形見の品。


ムイはそれを長い間、ずっと手元に残して大切にしてきた。リューンと離れていた間も、肌身離さず、ずっと。


(リューン様、どうかお幸せに)


涙がぼろぼろと溢れて、そして溢れ落ちていく。


どうか、どうか、お幸せに。


そっと、部屋を出た。



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