変わる世界
シバは薄っすらと微笑んでいた。
「シバ……?」
「いるよ、最愛の人」
「誰なの?」
「それはね、」
シバは、哀しそうに顔を傾げた。
「……ムイ、あなたなのよ」
✳︎✳︎✳︎
「ねえ、団長、聞いてよっ。またムイってば、花束を貰ったのよ。ムイにばかりで、ちょっと不公平じゃない?」
シバが心底、不満そうに言った。
国王陛下直属の楽団「パロール」をまとめ上げる代表であり指揮者でもあるレジーナがケースの中に、慇懃に指揮棒を仕舞った。
「不公平って言ったってねえ。ここじゃ歌うたいのムイが目立っちまうのは仕方がないことさ」
レジーナが髪留めを取って、ばさりと髪を落とした。緑がかった黒髪にまとめ上げていた髪型の癖がついて、波のようにうねっている。
歌姫ムイの人気はさることながら、この美人指揮者の人気も高く、二人を目当てに遠方から一日をかけてやってくる客もいるほどだった。
艶のある髪が、レジーナの妖艶さを引き立てている。
レジーナは、その自慢の髪を手櫛で何度かとぐと、指揮棒ケースを取り上げてカバンの中へと丁寧に入れた。
「でも団長、私の二胡も大したもんでしょ?」
「ああ、あんたの奏でる二胡の旋律は、人の琴線に絶妙に触れてくるんだよ。あんたあっての、ムイだね」
さっきから二人のやりとりを苦笑いで聞いていたムイが、靴を履きながら声を掛けた。
「そうよ、シバ。あなたあっての、私よ」
シバは、嬉しそうな顔をすると、「そうよねっ」と胸を張って自慢げに言った。
「いただいた花束をみんなで分けましょう」
ムイが言うと、楽団の女性の団員たちが寄ってきて、歓声をあげる。
「綺麗な花ね」
「本当に」
「こういうのは男に直接、貰いたいもんだわ」
皆がちらっと後ろを見やる。
そこには男性の団員がたむろしていて、楽器を置いたままテーブルを取り囲んで、カードに興じていた。
「俺らに期待すんなよ」
「そうだそうだ、恋人にでも貰ってくれ」
わははと囃し立てると、女性の団員たちがそれに応じた。
「バカね、期待なんかするかっての」
「そうだそうだ」
プイッと顔を戻すと、花を分け始める。
「でもいいなあ、ムイは。こんなにもたくさんの男に言い寄られて」
「よりどりみどり、選びたい放題だね」
「ムイはちょっとヌケてるところがあるから、ちゃんと品定めしないとダメだよ」
次々に言ってくる言葉を笑いながら受け流し、ムイは花を分けていった。
「ねえ、ムイには好きな人がいるんだよね?」
シバが、ムイの顔を覗き込むように、問う。
手元に落としていた顔を上げる。ムイは手を止めて、そして笑った。
「ふふ、内緒」
「うそ、だれだれ?」
「楽団の人?」
すると、皆がまた後ろへと振り返る。
思いも寄らぬカードをつかまされて、男たちがくそおっと、声を上げている。テーブルをだんっと叩いたり、足をならして地団駄を踏みながら、大袈裟に騒いでいた。
「バカね、あんた。あんなの中に居るわけないじゃないっ」
その声にぶはっと一斉に吹き出す。女たちの甲高い声が部屋中に響き渡った。
ムイはふふっと笑いながら、分けた花束を花瓶へと持っていく。シバはその後についていってムイに近づくと、耳にそっと唇を近づけた。
「……それって、前にムイが言ってた人だよね?」
花瓶に花を一本ずつ差しながら、ムイはこくんと頷いた。
「でも、その人、領主様なんでしょ? そんな家格の高い人と結婚できるのかしら?」
ムイは、ふるふると顔を振った。
「結婚なんて望んでないの」
「ムイ、」
「ただ、側に居られればそれでいい」
「…………」
「でもだめね。陛下が帰してくれないから」
「だめだよ、行っちゃだめ」
「シバ、」
「ムイは私の歌姫でもあるんだから。どこにも行っちゃだめだよ」
シバがムイの手を握った。
その手に力が入って、シバが唇を噛んで俯くのが見えた。
✳︎✳︎✳︎
「……シ、バ、」
力の入らない唇を動かし、なんとか声を出す。
目の前には高く高く青い空が見えているが、その視界の端に、ついさっきまでそこにいたはずのバルコニーの手すりが映った。
けれど、すぐに視界はぐるぐると回り出し、ムイは目を瞑らざるを得なかった。
背中は、温かい体温に包まれている。
誰かに庇われたとわかっていても、それがシバだとわかるまで、少しだけ時間がかかった。
「ム、イ、」
どこかから聞き覚えがある声。それがシバのものだと、その時知った。
「……私の、歌姫、」
そして、声は聞こえなくなった。
✳︎✳︎✳︎
「ムイ、ムイっっ‼︎」
リューンの声が、廊下にまで聞こえてきて、ローウェンがその部屋の中へと飛び込んだ。
一週間ずっと眠り続けていたムイの目が薄っすらと開いている。傍で、リューンがムイの名前を呼び続けていた。
ローウェンは廊下へと飛び出すと、早歩きで歩きながら叫んだ。
「ルアーニ、ルアーニ、ちょっと来てくれっ」
廊下の先の小部屋から、城の侍医であるルアーニがドアを開けて出てくる。その姿を見たローウェンが、いち早く手を振りながら叫んだ。
「ルアーニっ。ムイの意識が戻ったぞっ」
鉄面皮で通しているローウェンの、言葉に加え足取りまでも跳ねているのを、この時、自分でもわからないほどに、ローウェンは興奮してしまっていた。
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「ムイ、ムイ、良かった、目を覚ましたんだな」
リューンはムイの手を握りながら、涙を流していた。
「ムイ、良かった。本当に良かった」
目覚めたムイは、そう繰り返すリューンの顔をぼうっと見ている。ムイの目は半分開いてはいるが、その瞳の焦点がなかなか合わないのを、リューンは少しもどかしく感じた。
「俺がわかるか? ムイ?」
そっと頬を撫ぜて、額に手を当てる。
「ムイ、なんとか言ってくれ。頼む、お前の声が聞きたいんだ」
背後でドアが開き、バタバタと足音がする。
「リューン様、少し横へ。ちょっと、失礼」
ルアーニが聴診器を片手にベッドの側に立った。毛布をめくり、ムイの寝間着に手を掛ける。
「リューン様、少し外へ出ていてもらえませんか? ローウェン殿もです。直ぐにお呼びしますので、廊下でお待ちください」
「あ、ああわかった」
結局は、ムイの声を聞くことができず、不安を残したまま、部屋を出た。
廊下でうろうろと何往復もしながら、リューンは待った。
「それにしても、意識が戻って良かったです」
ローウェンが珍しく、興奮している姿を見せている。それほどに、ムイの目覚めは、皆に渇望されていた。
第二の首謀者として捕らえられたユリアス神父は、彼の父親、つまりは先代の時代から、教会至上主義の危険思想の片鱗を見せていて、周りはそれを遠巻きに見ていたらしい。それは今回の事件の現場検証において、彼の書いた書物や日記からも窺い知ることができ、彼の謀反の証拠はそれで決定的となった。
第一の首謀者であるハイドが仕えていたリアン宰相は、その責任を取らされて罷免されたが、リューンを軟禁していた事実がソフィア妃殿下の口から漏れたのか、さらに刑を課せられるところを自分は無関係だと抵抗している。
そして、ムイは。
リューンと父親との二人を盾に、ハイド、ユリアスに脅迫された末の行為として、秘密裏に不問とされた。
ムイの歌姫の名誉は未だに続き、リューンはそこにこの上ない国王のムイへの執着を見た気がした。
(けれどもう、ムイを手離しはしない。ずっと側にいるのだ。リンデンバウムの領主としてではなく、ムイの夫として)
ガタンと音がして、中からルアーニが布で手を拭きながら出てくる。
「ルアーニ、ムイはどうでしたか?」
「ああ、もう背中と頭の傷はずいぶんと良くなっている。けれど、無理してまた出血するといけない。まだしばらくは安静にしておかねばならんよ」
一様に、ほっとした表情を浮かべ、特にリューンは顕著に心から安堵した様子を見せた。
「ただ、」
そのまま掛けていた眼鏡を外し、持っていた布でグラスの部分を拭きながら、ルアーニは続けた。
「まだ意識がはっきりとしないんだ」
「目は開いていた」
「ああ、だが、この上なくぼんやりしている。目の焦点もあってないようだし、少し様子を見てくれ」
リューンの肩をぽん、と叩く。
ルアーニはリューンの父親の代から続く、リンデンバウム城の専属侍医だ。リューンは小さい頃から、医学だけでなく、さまざまな分野の知識に秀でているルアーニを慕っていた。そんなリューンをルアーニも特段に可愛がっていた。
そのルアーニの言葉に安心する。
「でも良かったですね。リューン様、本当に良かった」
心からのローウェンの言葉に、リューンは何度も頷いた。この時は、胸に去来するものは、喜びでしかなかったのだ。
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「ローウェン様、今お時間良いでしょうか?」
普段は掃除係のジュリをムイの世話役にしてから三日後、迷う素振りを見せながら、ジュリがローウェンにこそっと声をかけてきた。
リューンはムイをつきっきりで看病し、そしてその合間を縫って、ジュリがムイを着替えさせたり食事させたりしているため、ようよう気づかなかったのですが、とジュリは前置きしてから話し始めた。
「何だって? ムイが喋れなくなっている?」
「はい、今朝の着替えの時です。私が下着を脱がせていると、ムイ様の髪が飾りのボタンに絡まってしまいまして。脱がせる時に、かなり強く引っ張ってしまったのです」
「それで?」
「相当、痛かったのだと思います。ムイ様は顔を歪められはしましたが、それでも声を上げませんでした。その時初めて、そうではないかという確信が持てたのです」
「かなりの痛みで声を出さないというのは、確かに少しおかしいですね」
「けれど、リューン様に申し上げますと、」
言いにくそうにジュリが俯いた。
「とても心配されて、それはそれは見てられないほどに、慌てられるので」
ローウェンは苦笑し、そして言った。
「それはわかっている。リューン様には言わなくて良い」
「はい、わかりました。それでは失礼します」
ローウェンの執務室を後にしようとするジュリに声をかける。
「ジュリ、ありがとう。また少しでもおかしなことがあったら、報告してくれ」
「かしこまりました」
もしかしたら、と思っていたことが加速して的中し始めようとしている。
皆が何度もムイに話しかけるが、目覚めて以来、誰も一言もムイの声を聞いてはいないこと。それだけではない。ムイが、リューンを欲しようとしないのだ。
(リューン様が一番、お分かりなのかもしれないが……)
何事も上手くはいかない運命のようなものに、ローウェンは薄く笑うしかなかった。
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(ムイはなぜ、俺を見てはくれないのだ)
ムイの様子がおかしいとジュリが気づく前から、リューンはそう思っていた。
言葉も発しないし、いくらムイに話しかけても視線が合わないのだ。
(以前は、あんなにも熱い視線で、俺を見てくれたのに)
一緒にベッドに潜り込む時、ムイは恥ずかしがりはするが、とろんととろけるような瞳で、自分を見つめてくれた。
その視線がリューンの身体を熱くし、そして深い愛情を与えてくれた。
「ムイ、俺を見てくれ」
天井を見たままのムイが、そのままそっと目を閉じる。そして、いつも眠ってしまうのだ。
「良いよ、眠りなさい。しっかり治してからで良い。傷が癒えたらで良いんだ。そしたらまた、俺の名を呼んでくれ」
手を握った。
初めのうちは、そうされていた。
けれど途中から、ムイから手を離すようになった。
その離し方。逃げるように引っ込められる。
リューンは、ムイが自分から離れていくのではないかという不安な気持ちを持った。
(……明日には、良くなるはずだ)
けれど、一向に状況は良くはならず、むしろ悪くなっているのではと、リューンは何度もそう思った。
「何も、覚えていないのかもしれません」
「ルアーニ、どういうことだ?」
「記憶を失っているのかも、ということです」
「なんだって、」
「頭を強く打っていますし、こういうことはままあることで。失った記憶が戻ることもありますし、永遠に戻らないこともあります」
「どうして、そう思う?」
「ムイにとって、今回の事件は辛い思い出となったはずです。意に沿わないことを無理矢理に押しつけられたわけですからね。それに……」
ルアーニは、盛大にため息をつきながら、続けた。
「これはムイがわかっているかどうかはわかりませんが、シバというムイの友人が、ムイを庇って死んでいます。知っているのなら、それもショックだったことでしょう」
「ムイはリューン様が不在の間に、このリンデンバウムを蹂躙してしまったことを酷く、後悔していました。あの小さな胸を握り潰すくらいの、大きな罪悪感を感じていたのだと思います」
そうローウェンが挟んだ。
リューンの握ったこぶしが震えだした。
「ムイ、何という辛い思いを……俺が、不用意にもブァルトブルグに行ったばかりに」
涙が頬を伝った。
リューンはもう人前で涙を見せることに抵抗がなかった。それほど、リューンの人生は、悲しみや苦しさに見舞われていたのだ。
「辛い記憶を消してしまおうとするのは、人間の防衛本能によるものです。どうか、ムイを責めることはせず、記憶を取り戻す助けとなってあげてください」
「……そうだな、わかった。ムイは俺が守る」
その場の誰一人、異を唱えなかった。




