7
屋敷の外へガーモル――今は女性化魔法でコクィルになりすましているが――を連れ出したマステールは、テラスに置かれた白いテーブルを差し示した。「コクィル」が腰掛けるのを手伝ったあと、給仕を呼んで飲み物と食べ物を持って来るよう言いつけ、自分も席に着いた。
二人とも運ばれて来た料理にあまり手をつけなかった。しばらく食べ残しを見つめていたマステールが口を開いた。
「君と僕が初めて会った時のことを覚えてる?君はお父上に昼食を届けにここへ来ていたね。僕は君を見た時、そこに光り輝く宝石が一粒落ちているものと思ったよ……」
「コクィル」はなぜか浮かない顔をしていた。急に顔を上げ訴えるように言った。
「マステールさん、アンジェラさん、でしたっけ、あの娘がさっきあたしに言ったんです。自分はマステールさんと相思相愛だって」
「しょうがない娘こだな。それはずっと昔の話さ。まだ小学生にもならない頃の話だよ」
「その時は彼女が好きだったんですか」
「おいおい、幼稚園児の好き嫌いにどれだけの意味があるって言うんだ」
「もう嫌いになったんですか」
「……彼女は僕のためを思って色々なことをしてくれた。その中には僕の気に入ることもあったし、迷惑なことも、少しはあった。彼女はどうしても僕の気に入ることだけをしてあげたいと考えて、死ぬほど辛い思いをして感情を読む魔法を習得したんだ。それからさ、二人の関係がおかしくなったのは。顔を見るたびお互いの心の探り合い。相手を傷つけまいとする余り挨拶するのさえ恐くなった。もう彼女と以前のように言葉を交わすことはないだろう」
「そうだったんですか」
今マステールの目に「コクィル」の哀れみの感情が映った。マステールは気を取り直した。欲しいのは彼女の愛情だ。哀れみではない。
「そういう訳だから、今は君しか眼中にない。彼女のことは気にしないで。……そう言えば、今日は珍しく星がきれいだね。でもここは明るすぎてせっかくの星空が半分しか見えない。庭園の方へ行ってみよう。あそこなら満天の星空が見渡せる」
マステールが手を差し伸べると、「コクィル」はおずおずとその手を取り、顔を赤らめた。マステールには彼女の心の中で再び強い愛情が閃くのが「見え」た。
マステールはコクィルの手を引いて、まばらにしか明かりのない庭園の中を散策した。歩きながら彼は星を指差して星座について語った。彼は天文に詳しいらしい。神話や故事などを織り混ぜて星々へのロマンをかき立てた。
「少し疲れたね。あのあずま屋で一休みしよう」
マステールに言われるまま「コクィル」はあずま屋のベンチに腰を下ろした。
「やっと涼しくなってきたね」
マステールは隣りで少し照れ臭そうにしている「コクィル」の肩を抱いた。すると、どういう訳か、一瞬だけ彼女の心に嫌悪感が映るのが見えた。マステールはいぶかった。――たぶんコクィルは男性とつき合うことに慣れていないため、過敏に反応したのだろう。それを証拠に、もう彼女の心は元どおり愛情一杯になっているではないか――そう納得してすぐ笑顔を取り戻した。
それからしばらく、マステールは「コクィル」の肩を抱いたまま将来の夢などを語って聞かせた。彼女はうとりとした表情でその話に耳を傾けていた。
パーティー会場の明かりが暗くなってゆくのが見えた。
「どうやらパーティーは終わってしまったみたいだね。君と一曲しか踊れなかったのは残念だ」
「あたしも、……少し残念」
「さあ、こちらへ。もうすぐこの庭園も明かりがおとされる」
「あっ」
立ち上がろうとした「コクィル」は高い靴に不慣れなため、よろめいた。その拍子にマステールの胸の中へ倒れてしまった。
「ごめんなさい」
「コクィル」は慌てて離れようとしたが、すでにマステールの両腕が彼女の体を包み込んでいた。
「コクィル」は目を閉じた。マステールはその唇に自分のを重ねた。その瞬間、強烈な嫌悪が「コクィル」の心から放たれた。しかしすぐ、それにも勝る強い愛情がまた輝き始めたため、マステールは口づけをやめなかった。
唇を離し、「コクィル」の求めるような瞳を見つめた時、マステールは生まれてこの方経験したことがないほどの明るい光りを放つ「愛情」を、彼女の心の中に感じていた。
やれる。
マステールは最終判断を下した。
「もう遅い時間だ。しかし君ともっと話がしたい。もうしばらく一緒にいてもらえるかい?僕の部屋に来てほしい……」
マステールは表面上優しい笑みをたたえていたが、心の中はすでに勝ち誇っていた。
「はい……ぜひ」
「コクィル」が耳まで真っ赤にしてうなずいた瞬間マステールが彼女の心の中に見たものは、摩可不思議とか理解不能とかいう言葉で表現しきれるものではなかった。強烈な愛情と、ほとんど殺気と言ってもよいような嫌悪が同時に現れたのだ。まるで二色の稲光が次々と夜空に閃くかのように。
しかし、さすがのマステールもすでに舞い上がっていた。はやる心を抑えるのに必死だった。コクィルの心の中にあるのは、きっとふしだらな自分に対する自己嫌悪か何かだろう、と独善的解釈で納得し、腕にすがりついてくる「コクィル」の肩を抱いたまま、自分の部屋のある建物へと歩き出した。
自室までの間、「コクィル」の心には強い愛情しか見えなかった。今彼女はマステールを求めている。それ以外の感情は全く見えてこなかった。
マステールは自室の扉を開いた。中はちょっとした応接室になっていた。さらに奥へと進み、また別の扉を開くとそこはベッドルームだった。
マステールに促されると、「コクィル」はためらいがちに中へ入った。そしてマステールに肩を抱かれたままベッドのへりに腰かけた。
もはや「コクィル」の心は愛情しか発さなかった。たぶんふっ切れたのだろう、とマステールは思った。心だけではない、彼女の表情もしぐさも、マステールの愛を拒まないどころか逆に求めていることを示していた。再び唇を重ねても彼女の求愛の感情に変化はなかった。
舌のからみ合う濃厚なキスが終わるとマステールは立ち上がった。
「汗ばんで気持ち悪いね。僕、先にシャワーを浴びて来る。しばらく待っていてくれ」
マステールはベッドルームに隣接しているシャワールームに入って行った。がさごそと服を脱ぐ音をたてている。
「コクィル」はうっとりとした表情でキスの余韻を噛みしめていた。
が、急に思い出したように頭を抱え、顔をしかめた。
「ぐわああっ、マステールとキスなんかしちまった。それもディープキスだぞ、気持ち悪い。くそっ、これだけのことをやって引き代えに得られるものはやつの裸踊りだけか。やっぱり屋上からつき落とすか食い物に毒を入れる方がよかったかな。まあいい、足りない分の仕返しはまた別の機会に……そうだ、どうせならこのまま彼に抱いてもらおう。そうすれば割に合う……じゃねえ。ああ、だめだ。またやつが好きだという感情が沸いてきやがった。……でも、このまま抱かれたとしても、彼が好きなのはコクィルであって、このあたしじゃない。どうしたらいいの。彼に本当のことを打ち明けるべきかしら……って、どうして女言葉が入るんだ。いかん、ぼやぼやしてると本当にやられてしまう。よし、今ごろやつはシャワーを浴びているはず。魔法石は外しているだろう。えーと、魔法カードはスカートの中に……あった。これが操心魔法の入ったやつだな」
ガーモルはシャワールームへと歩み寄った。そして扉の把手に手をかけようとした瞬間、内側から扉が開いた。慌てたガーモルが、手にしたカードを後ろへ隠そうとした時、カードは勢いで手から離れて飛んで行き、ベッドの下に入り込んでしまった。
狼狽する「コクィル」をバスローブ姿のマステールは不思議そうに見つめた。
「何をしている?その慌てぶりからするともしかして僕を驚かすつもりだったんだな。悪戯好きなんだね、君は。それはそうと、あそこにある石鹸を取ってくれないか」
ガーモルが石鹸を手渡すとマステールはシャワールームへ戻って行った。
ガーモルはすぐにベッドの下を探したが、カードは一番奥の壁際まで入り込んでいた。彼はベッドの下にもぐり込み、何とかカードを掴もうと、もがいた。やっとの思いでカードを手にして這い出た時、ベッドルームの中央にはマステールが仁王立ちしていた。無表情で「コクィル」を見下ろしている。
ガーモルは立ち上がりながら、意味不明の作り笑いを浮かべ、言い訳の言葉を捜した。
「え、えーと、あの、その、そうだ、ベッドの下にもぐりこんであなたを驚かそうとしたのよ。はははは……」
マステールは、しかし優しく微笑んだのだった。
「君がそうやっていたずらっぽい笑顔を見せると、僕はいつも君の兄さんのことを思い出すんだ」
「えっ?」
「君の兄さん、ガーモルっていい奴だな」
何言ってるんだ、こいつは。ガーモルは耳を疑った。ははあ、大方兄をほめてポイントを稼ぐつもりだな。
「たまに君の兄さんが羨ましいと思うことがあるよ。面白くて、クラスの人気者。友達もたくさんいていつも楽しそうだ」
……それ以上おべっかを使ってもムダだぞ……
「僕はベチューン財閥の跡取り息子。僕のまわりには、僕にへつらう人間か、僕を敵視する人間しかいないんだ」
マステールは目を伏せた。こんな自信なげなマステールを見るのは、ガーモルは初めてだった。かれがおべっかを使っているとは思えなくなってきた。
マステールはぼそぼそと話し続けた。
「さっきも言った通り、僕は人の感情が読める。新学期が始まった時僕はガーモルと友達になりたいと思った。でも彼は僕を『嫌って』いた。彼が気にいるようなことを見つけようとして心を読んだ。なのに彼は僕のやることはどんなことでも嫌がった。僕は何とか彼に話しを合わそうとしたがうまくいかなかった。だんだん自分に腹が立ってきて、それがいつの間にかガーモルへの逆恨みになってしまった。彼やその友人たちに辛くあたるようになってしまったんだ」
ガーモルは自分でも知らないうちに、ベッドのへりにマステールと並んで腰かけていた。彼の横顔を見つめながら、耳を傾けた。
「君の兄さんがクラスメートのミイナに気があることはわかっていた。僕は奇妙な嫉妬心にかられた。ガーモルがミイナに恋文を渡そうとした時、僕は大人げなくそれを取り上げて人前で笑い者にしてしまった。彼は絶対僕を許さないだろう」
「マステール……」
ガーモルはつい「さん」を付け忘れてしまった。しかしマステールは気づかなかった。
「ねえ、コクィル、僕がなぜエリート学校のノースキャップ学園から聖レジーナへ移ったと思う?お互いに心を読み合うばかりの、上流階級の人間関係が嫌になったんだ。そして聖レジーナでちゃんとした友達を作ろうと思った。二度と人の心なんか読まない、誤解されたり傷つけたりすることがあっても思い切り自分の言葉を相手にぶつけようと決心した。でもダメだった。相手の笑顔の下に何か悪い考えが潜んでいるのではなかと不安でたまらなかった。僕はどうしようもない臆病者なのさ」
ガーモルは無言のままマステールの腕にそっと手を置いた。操心魔法のせいなのか自分の意志なのかよくわからない。
「コクィル、こんなことを話すのは君が初めてだ。僕にはわかる。君ほど僕のことを想ってくれる娘はいない。だから君にはすべてを話したい。他の女の子はみんな、僕が社長の息子だから、地位が約束されてるからって近づいてくる。彼女たちの心の中には、僕への好意だけでなく憧れのようなものが見て取れる。でも君は違う。今までは君の心の中にもそういう部分があった。しかし今の君の心は僕への愛情で一杯だ。君は純粋に僕のことを見てくれている」
マステールは目を上げた。その目にはもはや「コクィル」を包み込むような光はない。いたわりを求める目だった。
ガーモルはマステールの肩を抱いた。今やガーモルは後悔の念で一杯だった。「コクィルの純粋な想い」は魔法ででっち上げられた偽りの感情にすぎないのだ。だんだん、マステールがかわいそうに思えてきた。
この感情を、マステールは読み取ってしまったようだ。
「ごめん、変なことを話してしまって。退屈だったろう」
「ううん、そんなことない」
「もう遅いから今日は帰ったほうがいい」
「でも……」
「お父上や兄さんが心配するといけない」
マステールは立ち上がった。隣りの部屋でガーモルを待たせ普段着を着ると、ガーモルを案内して自室を出た。
二人は言葉なく車庫までやってきた。御者が馬車を用意している間、ガーモルはマステールのそばに寄って話しかけた。
「今日は楽しかった。また誘ってね」
「ああ、もちろんだとも」
「あの、さっきの話しだけど…やっぱり人の心を読むのはやめた方がいいと思う。うまく言えないけど……あたしも幼なじみの友達が自分の身近にいる人に想いを寄せてることに全然気づかなかったし、他にもその友達のこと色々誤解してたって、最近わかったし……何て言うか、そういうものなんじゃないかな。だから、勇気を持って……ね?」
「わかった、そうするよ」
「それから、マステール……さん、おまえ……あなたが本当の気持ちを話してくれて嬉しかった。……じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
ガーモルは馬車に乗り込んだ。行きと違い小さな馬車だった。
馬車が出発してもマステールはしばらくその場を動かなかった。
馬車はベチューン邸をあとにした。乗り心地は悪いはずなのに、ガーモルは行きより良い心地がした。
馬車はトルメカの家の前までガーモルを運んでくれた。
ガーモルが裏口の扉を開くと、トルメカが壁際にうずくまって居眠りしていた。呼び起こされたトルメカは、目の前にコクィルが立っていると思って一瞬顔をこわばらせたが、すぐにガーモルだと気づき、立ち上がって首尾を尋ねた。ガーモルは何も言わず、表情も冴えなかった。まさかマステールとああいうことをしてしまったのだろうか。トルメカの頭に悲観的な想像が浮かんだ。もしそうならこの計画を言い出した僕の責任だ。ガーモルは許してくれないだろう……
ガーモルは地下室への階段を降りて行った。トルメカもそれに従った。地下室のランプがつけられ、二人が椅子に腰を下ろすや、ガーモルが口を開いた。
「俺はマステールのことを誤解していたのかもしれねえ」
トルメカはいぶかった。なぜこんなことを言うのだろう。そう言えばガーモルは操心魔法にかかったままだ。そう気がついたトルメカは魔法書を開き解除呪文を唱えた。しかしガーモルは表情を変えなかった。トルメカは不思議に思ってガーモルに尋ねた。
「誤解ってどういうこと?」
ガーモルは今夜の出来事を一部始終語って聞かせた。トルメカは無言で耳を傾けていた。最後にガーモルは苦笑した。
「ははは、どうしちゃったんだろうな、俺。せっかく仕返しに行ったのに何もしないで帰ってくるなんて。やっぱりトルメカの操心魔法が効きすぎたのかな」
トルメカは首を振った。
「違うと思う。僕だってガーモルと同じ経験をすれば考えを変えるだろう。だから…やっぱりこれで良かったんだよ」
「そうか、そうだよな」
「じゃあ、もうトートメ魔法の書は燃やしてしまうよ。貴重な文化遺産だけど……心を操る魔法っていうのは人間の手に負えるものじゃないよ」
「その前に俺を男に戻せ」
「ああ、そうだった。先に着替えてきて。その格好のまま男に戻ったら、コクィルの一帳羅が破れちゃう」
「あーあ、一度ぐらい女風呂に入ってみたかった」
「僕もコクィルの着替えてるところを見たかった」
「何ぃ?」
「冗談だよ」
「でも、おまえ、平気なのか。コクィルとマステールは両思いなんだぜ。つまり、その、おまえの入り込む余地はコクィルにはないってことだ……」
「コクィルが彼を想ってる以上仕方ない。でも僕は諦めないよ。いつか彼女を振り向かせることができるかもしれない」
「そうか。強いんだな、おまえは。……それはいいとして、トルメカ、今夜の『コクィル』の行動をマステールにどう説明する?今夜のコクィルは積極的すぎたし、次にマステールがコクィルに会った時、彼女の頭の中にはダンスパーティーの記憶も、マステールの部屋に誘われた記憶もないことになる」
「大丈夫。言い訳は考えてある。うまくつじつまを合わせておくよ。それより、ねえ、ガーモル、やっぱりここで着替えてよ。今のガーモルの裸はコクィルのとほとんど同じだと思うんだ。だから……ね?」
「バカ野郎」
「ふふふ」
二日後の早朝、カリハタン海岸行き乗り合い馬車の出発点であるガントール広場に三人の若者が姿を見せた。
「あら、アクル君。早く来たのね」
アンナが言った。
「珍しく早く目が覚めたんだ。俺あんまり朝は得意じゃないんだけど、どういう訳か今日はばっちり冴えてるんだ。ところで、アンナ、おまえ髪を切ったんだな。どうした?男にでもふられたのか?」
「もう、みんなそんな風に言うんだから。暑いから切っただけ。男の子にふられて髪を切る、なんて恋愛小説の中の話よ」
「そうなのか。でも、似合ってるよ、ショートカットも」
「ほめても何も出ないわよ。
「何も出ねえのか。ちぇっ、誉めて損したぜ。……あれ、クラウディア、おまえも何か雰囲気違うな。そんな短いスカートはくなんて、どういう風の吹き回しだ」
「うん……暑いから……」
クラウディアはアクルに見つめられて、いつもにもましてもじもじしている。
「あ、ガーモル君とトルメカ君が来たわよ」
アンナが指差すと、クラウディアは顔を上げ、ぱっと瞳を輝かせた。
「おまえらもう来てたのか。気合い入ってるな」
ガーモルは広場にたたずむ三人の顔を見た。遠慮がちだった前回と違い、アンナもクラウディアもとびきりの笑顔でガーモルを迎えた。ガーモルとトルメカが三人のそばに立ち止まると、クラウディアがガーモルにおずおずと話しかけた。
「ねえ、ガーモル君、ガーモル君って泳ぎ得意なの?」
「得意っていうほどじゃねえけどな。早くは泳げねえから。まあ、ゆっくりでいいんなら、どこまでだった泳げるぜ」
「すごい。実はあたし、全然カナヅチなんだ。一メートルも進まないうちに沈んじゃうの」
「どうして沈むんだ?力を抜きゃあ、勝手に浮くだろう」
「だって、沈むもん」
「胸が重すぎるんじゃねえか。それだけありゃあな」
ガーモルの視線がボリュームある胸の膨らみを指すと、クラウディアは真っ赤になってうつ向いた。
「お、真打ちは最後にご登場ってか」
アクルがあごで示した先に、ミイナが小走りにやってくるのが見えた。
「ごめーん。遅くなっちゃった」
「約束の時間よりきっかり十分遅れ。几帳面なこった」
アクルはぼやいたがガーモルは黙ってミイナの駆け寄ってくるさまを見つめていた。今日のミイナはオレンジ色のタンクトップにベージュ色のショートパンツ、足はオレンジのサンダル履きだった。化粧はしていないが、耳にオレンジ色の大きなイヤリングが光っていた。
「あ、ガーモル。今クラウディアをいじめてたでしょ。遠くから見えてたんだから」
「いじめてた。胸に重りを入れてるから泳げないんだって。な、クラウディア」
「そう、いじめられてたの。あたし泣いちゃおうかな」
「泣くのなら俺の胸を貸すぜ」
「遠慮しとく」
いきなりガーモルとクラウディアが楽しげに話し始めたので、ミイナは言葉が出てこなかった。彼女にしては珍しいことだ。横で見ていたトルメカはそう思った。それに、心なしか寂しげな目をしている……
「よし、全員そろったな。もう乗り合い馬車が来てるぜ。出発までまだ間があるけど乗っちまおう」
アクルがそう言って歩きだそうとするのを、アンナが制した。
「実は……もう一人誘ったの。同じクラスの子なんだけど……」
アンナはトルメカに目配せした。
「あ、来たみたいだよ」
トルメカは通りの先に目をやった。その他の者もそれに習った。立派な造りの馬車が朝陽の中を悠然と走って来る。車体の側面にはベチューン家の紋章が光っている。
馬車がガーモルたちの前に停まり、中から出て来たのはマステールだった。
「やあ、諸君、おはよう」
ガーモルとミイナとクラウディアは驚いていた。アクルはすごい剣幕でマステールを睨みつけていた。トルメカとアンナは笑顔だった。マステールはアンナにうなずいて見せた。
「アンナがどうしても僕に一緒に来てほしいと頼むものだから、仕方なく他の用事をキャンセルしたんだよ。試験休みと言っても予定が一杯だからね、僕は。まあ、たまには息抜きもいだろう」
いつの間にか、ガーモルとミイナとクラウディアも笑顔になっていた。アクルは、しかし一層不機嫌な顔だった。何か言いたそうにしていたが、アンナに微笑みかけられて結局黙っていた。
マステールは御者に、馬車を御して屋敷へ帰るよう命じた。
「あれ?馬車で海まで送ってくれるんじゃないの」
ミイナが不満そうに言った。マステールはいつものうすら笑いの表層を崩さなかった。
「いくらなんでも七人は乗れないよ」
「なーんだ。馬車賃が浮くと思ったのに」
「ミイナがお望みならいつでも我が家の馬車に乗せてあげるよ。今度二人きりでどこかへ行く時にね」
「うん、そうだね」
ミイナは笑顔でそう答えた。それを聞いてガーモルはちらっと彼女を見た。ミイナも瞬時ガーモルの方に目をやったが、すぐに別の方向を向いてしまった。
「さあ、乗り合い馬車に急ごう。もうすぐ出発の時間だ」
マステールは自分がその場の主役になったかのように宣言した。
七人を乗せた馬車が出発した。
馬車の中ではマステールとミイナの会話が一番盛り上がっていた。不機嫌な顔のアクルはアンナがなだめていた。ガーモルはずっとクラウディアと話していたが、一段落したところでふと傍らを見ると、トルメカのにこにこ顔があった。
「おまえ、今日はあんまり話さないんだな」
「僕はクラスも違うし、共通の話題が少ないからね」
「それはそうと、マステールが来たのはおまえの差し金か?」
「実を言うとそうなんだ。昨日アンナに連絡を取ってマステールを誘うように言ったんだよ。……だめだった?」
「いや……別にいい」
「そう。ならいいけど」
トルメカはマステールとの会話に興じているミイナの方に目をやった。
「ミイナって本当に誰とでも話しができる娘こなんだね。いつも自分のペースで話したがるマステールが聞き役に回らされてるよ」
「あの二人、案外気が合うんじゃねえか。マステールがその気になりゃ、おまえはコクィルを狙えるぜ。よかったな」
「何言ってるの。ガーモルはミイナと……」
トルメカはガーモルの顔を見やった。寂しいような悔しいような複雑な表情をしていた。
「あ、見て、海」
クラウディアが窓の外を指差した。
「本当だ」
ガーモルはまたクラウディアと話し始めた。
馬車は浜辺のすぐ横に停まり、ガーモルたち海水浴客を吐き出した。まだ浜辺にほとんど人はいない。今乗って来たのがアルテーラ発の一番馬車なのだ。混むのはこれからだろう。
ガーモルたち一行は手近な浜茶屋を選び、そこで着替えることにした。四人の男たちはすぐに着替え終わり、浜茶屋の外で女たちを待った。マステールの胸と両手首には青い魔法石が光っている。
しばらくして女たちが出て来た。三人は少し照れながら、互いの身を寄せるようにして歩いて来る。アンナは花柄のワンピースタイプの水着にパレオを巻いている。クラウディアは青のビキニ。かなり大胆なデザインだ。意外なことに、ミイナは割と平凡な、オレンジ色のワンピースを着ていた。しかしよく見ると、真っ白な肌にオレンジ色がよくマッチしている。スレンダーなボディ、長い脚。その姿はガーモルたちだけでなく、周りの男たちの視線をも釘付けにした。
そんな視線を振りほどくかのように、ミイナはいきなり走り出して、海へと突進した。彼女の姿は水面下に没し、やがて頭だけが出て来た。こちらに手を振ってガーモルたちを誘っている。
ガーモルとアクルはこらえきれず駆け出した。二人はそのままの勢いで岸から五十メートル先まで泳いで行った。残された四人はガーモルたちが放り出した手荷物やビーチサンダルを回収しながら波打ち際の方へ歩み寄り、シートを広げた。
七人は海辺での時間を満喫した。
泳げないクラウディアと、そもそも運動音痴のトルメカは砂浜で体を焼くか、波打ち際で水を触るかしていた。アンナは少し泳いでは浜に戻って、クラウディアやトルメカと話したりしていた。
他の四人はかなり沖合いまで泳いで行ってしまった。マステールは泳ぎも得意なようで、常に三人の先を泳いだ。時たま止まって、ミイナが追いつくのを待った。速度という点ではガーモルが一番遅かった。
四人が浜辺に戻って来た時、ガーモルは疲れた顔をしていた。
「ああ、辛れえ。マステールやアクルはともかく、ミイナ、おまえどうしてそんなに速く泳げるんだ。ついて行けねえ」
「ガーモルは下半身の使い方が下手くそなの。ほとんど手だけで泳いでるみたい」
「へえ、へえ。どうせ俺はいつも手ばっかり使ってますよ」
「何すねてんのよ」
「別に。とにかく、少し休むぜ。俺はこの中で一番年寄りなんだ。何せ四月二日生まれだからな」
「そう、じゃあ、あたしは三月三十日生まれの若者だから、もうひと泳ぎして来ようかな。……マステール、行こ」
「ミイナ、それが今、アクルに勝負を申し込まれてね。高校生にもなってそんな子供っぽいことにつき合いたくはないのだが、勝負を挑まれて逃げたとあっては僕のプライドにかかわる。それでミイナには公平な立場で審判をしてもらいたいのだが」
「うん、いいよ」
「では先に沖へ出て待っていてくれ。……アクル、今度は僕は本気を出すつもりだ。君もせいぜい頑張ることだ」
「あおまえこそ、負けそうだからってずるはするなよ。魔法の力を使ったりしたら、正々堂々の勝負とは言えないぜ」
「ご心配なく。速く泳ぐ魔法など僕は知らない。では行くぞ」
「よし」
二人はものすごい勢いで泳ぎだした。はるか沖合いのミイナ目がけて。
ガーモルは苦笑した。
「あいつら大丈夫か。帰ってきたらくたくたで伸びちまうんじゃねえのか」
「ねえ、何か飲み物買っておこうか。きっと喉を渇かして帰ってくるわ」
アンナが立ち上がった。
「あ、じゃあ僕も一緒に行くよ。一人では七つも持てないでしょ」
トルメカはアンナと共に浜茶屋の方へ歩いて行った。
取り残されたガーモルとクラウディアはしばらく黙っていた。意を決したように、クラウディアが口を開いた。
「ねえ、ガーモル君。ミイナのことどう思ってるの」
「え?どうって言われても……」
クラウディアはガーモルを、求めるようなまなざしで見つめた。
「ミイナって、ああいう性格だからよく誤解されるんだけど、本当はすごくナイーブなのよ。……この間アクル君がミイナとガーモル君のこと冷やかしたでしょ。つき合ってるんじゃないのか、て。ミイナね、男の子とつき合うの初めてだから照れ臭くて、ついつい合ってることを否定しちゃったんだって。でも心の中ではガーモル君が、俺たちはつき合ってるんだって言ってくれることを期待してたのよ。でもガーモル君、そうは言ってくれなかった。ミイナとはそんな関係じゃない、としか言わなかった。それからしばらく、ミイナ本当に落ち込んでたんだから」
「そうだったのか」
「それにちょっぴり腹も立ててた。それで、ガーモル君がラブレターを渡そうとしてマステール君に恥をかかされた時、ミイナ、やけになって、一緒に笑っちゃったの。ガーモル君そのあと学校休んでたでしょ。その間、ミイナずっと後悔してた。みんなの前では笑ってたけど、私たちだけになると泣きそうな顔だったの。きっとガーモル君に嫌われた、って。だから、ガーモル君が学校に来だしてミイナと普通に話してくれた時、ミイナ陰で涙流して喜んだわ」
「ミイナ……」
ガーモルは唇を噛んだ。
「あたし、ずっとこのことをガーモル君に伝えたかったの。でも言い出せなくて。やっと肩の荷が降りたわ」
クラウディアは立ち上がって、波打ち際の方へと駆けて行った。
昼食後、浜辺で一人たたずんでいたトルメカの横にマステールが腰を下ろした。
「僕を今日ここへ誘ったのは君の差し金なんだって?どういうことだ」
「別に。魔法を使える者同士、色々と共通の苦労もあるんじゃないかと思ってさ」
「まあね」
「そう言えば、僕の家で古い魔法の書が見つかったんだ」
トルメカは、ここまでは本当のことを言った。
「その本にほれ薬の作り方が書いてあったから、三日前試しに作ってみたんだ。それが見事に大失敗。飲んだら今想っている人のことが一層好きになるんだけど、薬が効いている間の記憶がなくなっちゃう。それをガーモルの妹が間違って飲んじゃってね。土曜日の夕方、どこかへ出かけたみたいなんだけど、その時のこと全然覚えてないって」
この作り話は、もちろん、二日前マステールの家で起こったことのつじつまを合わせるためにトルメカがでっちあげたものだ。
それを聞いてマステールはがっくりと肩を落とした。あの積極的なコクィルは、魔法で作り上げられたにせのコクィルだったのか。しかし、すぐに気を取り直した。またトライすればいいさ。いつか彼女は本当に僕に心を開いてくれる。すでにいつもの不敵な笑顔に戻っていた。
「ところで、マステール、君は人の心が読めるんでしょ。この前遊園地のレストランで気づいたんだけど」
「いや、僕はもう二度と人の心は読まないことにした。二日前ある女性に言われてそうすることを決心したんだ。人の心の中は知らない方がいい。心が見えないから言えることもある。心が見えないからわかろうと努力する。そういうものなんじゃないかな、人間って」
「そうだね」
夕方、人もまばらになった波打ち際をミイナが一人歩いていた。後ろから呼び止められたので振り向くと、そこにはガーモルが立っていた。
二人は肩を並べて歩き始めた。どういう訳か、無言だった。
トルメカの呼ぶ声がした。もうそろそろ帰る仕度をしなければ。ミイナは小さく手を振って答え、みんなのいる方へ走り出そうとした。しかしガーモルはその場で立ち止まった。
「どうしたの、ガーモル」
二人はお互いの瞳を見つめた。
「俺、ミイナのことが好きだ。入学式で初めて会った時からずっと好きだった」
ミイナは、少しつり上がっている目尻を微笑みによって下げた。
「あたしもガーモルのこと……好きだよ」
アイ・ラブ・ライバル 完




