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対マステール作戦が決定してから一週間、ガーモルは一応試験勉強に専念できた。もちろん、息抜きと称してマンガを読んでいる時間の方が長かったのは言うまでもない。試験前になると今まで読まずに積んであったマンガが急に読みたくなるのはなぜなのだろう。ともあれ中間試験の時より少しは多く勉強できた。あとは前日の詰め込みに頼るしかない。
試験の前日、学校は午前中で終わった。ガーモルが教室を出ようとした時後ろからクラウディアに呼び止められた。
「あ、あの、ガーモル君、期末試験が終わったら試験休みでしょ?ガーモル君はもう予定が一杯よね?」
「え?いや、まだ何も……ただ、試験の最終日にはちょっと用事があるけどな」
「ち、中間試験の後みんなで遊びに行った時楽しかったわね」
「今度の試験休みにもまたどこかへ行こうか。あの時のメンツで」
「良かった、そう言ってもらえて。本当はね、あたし代表で聞きにきたの。ミイナもアンナも今度は誘ってもらえないのかなって心配してたのよ」
クラウディアの振り向いた方にガーモルも目をやると、ミイナとアンナが立っていた。クラウディアは指で丸印を作って彼女たちに示した。ミイナとアンナは喜びの表情を見せた。そう言えば、マステールへの仕返しのことばかり考えていたためミイナを誘うことさえ忘れていた。
ミイナとアンナは駆け寄って来て、クラウディアと喜びを分かちあった。ミイナが一番はしゃいでいた。
「海よ、海。夏と言ったら海に決まってるじゃない」
「そうだな。手近なところでカリハタン海岸てのはどうだ」
ガーモルの提案に三人は同意した。
その瞬間、ガーモルは視線を感じて後ろを振り向いた。マステールがぼーっと立っている。彼はいつものニタニタ笑いを浮かべていた。ガーモルは負けなじとマステールを睨み返した。やつは試験休みが明けた最初の登校日、多くの生徒、職員の前で大恥をかくことになるのだ。
マステールはガーモルの視線の勢いに些か圧倒されたようで、何も言わずその場を去った。
ガーモルは、水着を新しく買うかどうかの相談をしている三人の方を向き直った。
「詳しいことはまたあとで決めようぜ。アクルとトルメカを誘わにゃならねえし」
「うん、わかった」
答えたのはクラウディアだった。ミイナとアンナは自分たちの話に夢中だった。
ガーモルは三人に別れを告げて教室を出た。最後までガーモルを見つめていたのはまたもクラウディアだった。ガーモルは思っていた。ラブレターの一件以来ミイナとの関係はやはり多少おかしいのかもしれない。
試験もあと一日を残すのみとなった。試験の出来はこれまでのところまあまあだった。夏休み補修を受けなくて済む可能性が、少しではあるが大きくなった。
しかしガーモルは、あと一日で終わりだ、という解放寸前のワクワクした気分になれなかった。明日の夕方には対マステール作戦が待っている。今はむしろ戦いを前にした良い意味での緊張感があった。
夕食後ガーモルはしばらく机に向かっていた。一段落したところで教科書から目を上げ長い髪を掻き上げた。後ろを振り向いた時ちょうどコクィルがカーテンを開いた。
「お兄ちゃん、あたし一息入れるんだけど、お兄ちゃんもお茶飲む?」
ガーモルがうなずくとコクィルは茶の準備を始めた。
「あと一日だね」
「中学校も明日で試験が終わりなんだな」
「うん」
「おまえは……試験が終わったらどこかへ遊びに行かないのか」
「行くよ。明日友達の家に行くんだ」
「男か?」
「まさか。女だけで集まって大騒ぎするの。いつものことよ」
ガーモルは胸を撫で下ろした。どうやら、コクィルはベチューン家のパーティーのことを知らないようだ。
コクィルはティーカップをガーモルの机に置いた。自分は食卓の椅子に座って茶をすすり始めた。二人のちょうど中間の床の上に、酔いつぶれた父が横たわっていびきをかいている。
「なあ、コクィル、おまえずっと前交換日記を書いてただろ。彼とはうまくいってるのか」
「だからあの子とはそんな関係じゃなかったんだって。もうあの子とは交換日記やめたよ」
「そうなのか。じゃあ、今つき合ってるやつはいないのか」
「そんなことはどうだっていいじゃない」
「いない、と言わないところが正直だな。まあ、受験勉強に差し障りがない程度につき合えよ」
「だ、大丈夫よ。向こうはちゃんとした人だから」
コクィルは顔を赤らめ瞳を輝かせた。相手の男、つまりマステールを信用しきっているようだ。
マステールはそんな奴じゃない。ガーモルは復讐の決意を新たにした。
翌日、午前中の二時間で試験は終わった。生徒たちは溢れる解放感で顔をほころばせながら、帰宅の途についた。
ガーモルたちは教室に残って、二日後の月曜日海へ行く打ち合わせをした。ガーモルはやはりクラウディアと話す時間が長かった。ミイナとは以前ほど親しくはないように思えた。
打ち合わせを終えたガーモルは帰宅し、妹と一緒に昼食をとった。昼食後コクィルは友人の家へ出かけて行った。ガーモルは妹の衣装ケースから、彼女のとっておきの一帳羅を引っぱり出し、一番高級そうな靴を取り出し、それらをカバンに入れてトルメカの家へ向かった。
トルメカの家の玄関扉を叩くとトルメカの母が返答した。扉が内側から開かれた時そこに立っていたのはスカートをはいたトルメカだった。泣きそうな顔をしている。
「ガーモル、トートメ魔法のこと、お母さんに知られちゃった」と女声で訴えた。傍らには彼の母が世にも美しい笑顔でたたずんでいた。
「さっき地下室へ行ってみたら女になったトルメカが座っていたのでびっくりしたわ。面白い魔法を見つけたのね。トルメカがあんまりかわいいものだから思わず私のスカートをはかせてみたの。そしたらこれが本当によく似合うのよ。ね、ガーモル君もそう思うでしょ」
母はトルメカの姿を眺めてご満悦の様子だった。
「お母さん、もう男に戻ってもいいでしょ。この格好恥ずかしいよ」
「ふふふ、かわいい声。私、本当は女の子が欲しかったの。ねえ、トルメカ、そのまま女の子でいたらいいんじゃない?学校は……そうね、女子校に転校させてあげる。それと、もっと髪を伸ばさないと。それじゃあいかにも男の子みたいな髪型だわ」
「女子校に行くなんてイヤだよ」
「せめて、いつ女の子の姿に変身してもおかしくないよう、ガーモル君ぐらい髪を伸ばしなさい」
「イヤだってば」
そこでトルメカの母はその美しいまなざしをガーモルに向けた。ガーモルはその目に、何か良からぬ考えが宿っていることを感じた。
「そう言えばガーモル君は髪が長いから女性化の術をかけて女ものの服を着れば女の子そのものだわ。と言うよりコクィルちゃんそっくりになるかも。トルメカ、やりなさい」
ガーモルはもう諦め顔でじっとしていた。トルメカもやるせない表情で魔法書を開き、呪文を唱えた。ガーモルの目線はどんどん下がっていった。
「まあ、かわいい。どう見てもコクィルちゃんだわ。ちょっと待っててね。お母さん、服を取って来るから」
彼女は階段を駆け上がっていった。ガーモルとトルメカは顔を見合わせ、困ったものだ、とでも言う表情を浮かべた。
しかしトルメカの母の悪ふざけはガーモルたちに思わぬ利益を持たらした。彼女は二人を女姿のまま待ちへ連れ出し、女ものの下着を買い与えてくれたのだ。さらに、より少女らしい服装を求めて、若者向けのブティックで服を買い、靴屋で靴を買い、アクセサリーまで付けてくれたのだ。
ガーモルはコクィルの知り合いに会ってしまったらどうしよう、と冷や冷やしていた。もしそうなったら、私はコクィルのはとこですとでも言おうかと思っていた。
しかし、そういうこともなく、無事買い物を終え、三人はトルメカの家へ戻って来た。
「お母さん、女の子の服なんて買ってしまってどうするの。言ったでしょ、このトートメ魔法の書はもうすぐ焼き捨ててしまうって」
「いいのよ、これぐらい。コクィルちゃんにでもあげるから。ねえ、それより、あと一つだけお願いがあるの。ガーモル君の髪型、もう少し女の子ぽいのにしたいのだけど、いいでしょ」
トルメカの母は整髪料を持って来て、ガーモルを鏡の前に立たせ、髪型を直した。
「これで完璧。うん、ふたりともかわいいわ。……ごめんね、ガーモル君。変なことさせて。あ、もう三時ね。今お茶出すわ。トルメカ、お母さんお茶出したら出かけるから」
そう言って彼女は台所へ引っ込んだ。
「ガーモル、あと三十分でベチューン家の馬車がフフェイル広場に迎えに来る。あまり時間がない。これを渡しておくよ」
トルメカは三枚の魔法カードを手渡した。
「これが『校庭を見たら裸踊りがしたくなる』カード。これは相手を眠らせるカード。首尾よくマステールに操心魔法をかけることが出来たら、これで眠らせて彼の部屋から出るんだ。そしてもう一枚のが痴漢撃退用のカード。もしマステールに押し倒されたらこれを使うといい。もちろん、彼が魔法石をつけてたら意味がないけど、一応ね」
「よ、よし、やってやる。覚悟はできている」
「この作戦の成功の鍵は、マステールを油断させて魔法石を外させることにある。だから、ガーモルは彼の部屋に招かれるまでは、むしろ気を許しておいた方がいい。……もっともある程度は気をしっかり持たないと本当に『やられ』ちゃうよ」
「わかった、うまくやる。これも俺のプライドのため、、妹の身のためだ」
そこへトルメカの母が茶を持ってやって来た。カップをテーブルに置いた後、ガーモルに別れを告げトルメカに留守を頼み、出かけて行った。
「じゃあ、ガーモル、マステールを好きになる魔法をかけるよ」
「やってくれ」
トルメカは魔法の書を開き呪文を唱えた。
ガーモルは身をこわばらせた。
「大丈夫?ガーモル」
「だ、大丈夫だ。それよりコクィルの一帳羅に着替えないと」
ガーモルは隣りの部屋でフォーマルなドレスに着替えて来た。ガーモルの瞳は輝いて見えた。まるで、これから男と会うことを楽しみにしているかのようだ。トルメカは少し心配だった。
「ガーモル、気をしっかり持って。マステールへの憎しみを忘れちゃだめだよ」
「わ、わかってる。心配するな。きっとうまく行くさ。……帰って来るのは深夜になるかもしれねえ。トルメカはここの裏口を開けて待っていてくれ」
「了解。それと、言葉遣いには気をつけて。今のガーモルは女なんだからね」
「気をつけるわ。……これでいいかしら」
「ちょっと強調しすぎかな。まあ、相手が好きな男ならそんなものかも」
「おい、もう三時二十分だぜ。俺は行くぞ、じゃなかった、あたし行くわ」
「待って、僕も広場まで一緒に行くから」
二人は家を出て小走りにフフェイル広場を目指した。大通りをしばらく進んで行くと、広場に豪華な飾りの付いた馬車が停めてあるのが見えた。二人が馬車の近くまで来た時、御者がうやうやしく一礼し、扉を開いてガーモルを中へ促した。
「じゃあ、行ってくる……わ」
「い、行ってらっしゃい」
トルメカはガーモルを気遣う言葉をかけたかったが、御者の前で、気をつけろとか頑張れとか言っては不思議がられる。その代わり、視線に精一杯そういう意味を込めた。ガーモルも瞳でそれに答えた。
ガーモルが馬車に乗り込むと、御者は扉を閉め、御台に上がり鞭を入れた。馬車は山の手の方向へと走り出した。トルメカは馬車が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
自宅へ戻ろうと、トルメカが体の向きを変えた時、目の前に女の子の一団がいるのに気づいた。その中の一人はコクィルだった。
「あれ、偶然ね、こんなところで会うなんて」
トルメカは、いつもの癖で顔をこわばらせてしまった。コクィルは怪訝そうな顔をした。
「どうしたの、トルメコ、恐い顔して」
そう言われて、トルメカは慌てて下を向いた。服の胸の部分は盛り上がっていた。よく考えれば、男に戻るのも着替えるのも忘れていた。
「トルメコ、今日はおめかししてるんだね。いつも男の子みたいな格好してるのに。ねえ、あたしたち、これからお茶にするところなんだけど、トルメコも一緒に来ない?ケーキのおいしいお店なんだよ。トルメコもケーキが好きだって言ってたよね」
「うん、御一緒させて」
トルメカは顔をほころばせた。僕はいつになったら、男の姿のままコクィルの前でこの顔ができるようになるんだろう。トルメカは自分自身を情けなく思った。
ガーモルの乗った馬車は一路ベチューン邸のあるロックレスト通りへと向かっていた。馬車の乗り心地は最高だった。座席のクッションがふかふかなせもあるが、車体そのものが振動を和らげるしくみになっているようだ。乗り合い馬車は座席も固く、車体も上等とは言えないので、十分も乗っていると尻が痛くなる。今ガーモルは馬車に乗っているというより、じっと家の窓際に座って、動いている外の景色を眺めているかのように感じていた。
通りを行く人々はガーモルの方を憧れのまなざしで見つめた。馬車が交差点で止まった時通りのわきに立っている婦人たちが、
「まあ、見て、ベチューン家の車だわ。乗っているのは一体どこのお嬢さんかしら」などと話すのが聞こえた。
ガーモルは気分は悪くなかった。自分が本当に上流階級のお嬢さまのような気がした。しかも、魔法にかかっているためどうしても、マステールに会えることが楽しみだと感じてしまうのだった。
いかん、いかん。ガーモルは自分を叱咤し気を引き締めた。
やがて馬車は山の手に入った。もう馬車を羨望の目で見る者はいなくなった。通りに人影はほとんどなく、立派な造りの馬車とたまにすれ違うだけだった。
馬車が交差点を、ロックレスト通りの方向へ曲がると、ガーモルはいよいよ興奮の度を高めた。対マステール作戦を前にした緊張感と、「愛しの」マステールの顔が見られることへの喜びが交錯した。後者は魔法ででっち上げられた偽りの感情にすぎない。そうわかっていても、次第に後者が前者より強くなり始めていた。
ベチューン邸が見えてきた。ここへ来るのはガーモルは二度目だ。通用口から申し分けなさそうに出入りした前回と違い、堂々と巨大な門を通り抜けて邸内へ入った。
敷地の奥へ馬車が進んで行くと、しばらくしてひときわ大きな建物がガーモルの目に飛び込んできた。馬車はその建物目がけてひた走り、建物の正面にある車寄せに吸い込まれて行った。
馬車が停止し、外から扉が開かれた。車寄せの中に立っていた男がうやうやしく手を差し伸べた。ガーモルはおずおずと馬車から身をのり出した。男は、ガーモルが自分では何もできない幼児だとでも言うように、優しく腕を取って、ガーモルが車の外に出るのを助けた。そして手のひらで建物の入り口の方を差し示した。
ガーモルはたどたどしく足を踏み出した。右も左もわからない、とはまさにこのことだった。ダンスパーティーが一体どんなものなのかさえよくわかっていないのだ。今どこへ行って何をすればいいか、皆目見当がつかない。ガーモルの近くでひとかたまりに群れている若い女たちが横目でガーモルの様子を窺ってはひそひそと何か囁き合っている。ガーモルは泣きたい心境だった。
「やあ、コクィル、もう来ていたんだね」
後ろで声がしたのでガーモルは慌てふためいた。まずい。やはりコクィルはダンスパーティーのことを知って来てしまったのだ。ガー
モルは恐る恐る後ろを振り返った。そこにはタキシードを着たマステールが立っていた。彼はつかつかとガーモルに歩み寄った。
「すまない。君を出迎えるつもりだったのに、人と話をしていたら遅くなってしまった」
そう言って、ガーモルの手を取り甲に口づけした。ガーモルは今やっと、自分はコクィルになりすましているのだということを思い出した。
おどおどしているガーモルを見て、マステールは優しく声をかけた。
「何も心配することはない。今日僕は君のそばを片時も離れはしない。だから肩の力を抜いて、普通にしてればいいんだ」
ガーモルは安堵した。と同時に、魔法のせいもあって、マステールがとても頼もしく思えた。ガーモルは知らず知らず笑顔になっていた。マステールも優しい微笑みでそれに答えた。
ガーモルは少し冷静さを取り戻し、状況を分析した。マステールは恐らくすでにガーモルの心を読んだだろうが、今の笑顔からすると、ガーモルの心に嫌悪感を見い出してはいないようだ。トルメカのかけた魔法は今のところうまく機能している。
マステールはガーモルを上から下までしげしげと眺めていた。
「今日のコクィルは大人っぽく見える」
「そうか?いや……そうかしら?」
「ああ。最初君のそのドレスのせいかと思ったが、よく見ると顔立ちまでいつもより一歳か二歳大人びているような気がする」
ガーモルはどきっとした。今のガーモルがコクィルに似ていると言っても、彼女より一つ年上なのだ。見る人が見れば本物のコクィルより少し年かさに思えるのも当然だ。
マステールはガーモルの心の中の狼狽を早くも読み取って怪訝そうな顔をした――大人っぽいと言われてなぜ狼狽するのだろう。ガーモルは何とかごまかそうとした。
「あたしさばを読んだりしてませんよ」
「ははは、誰もそんなことを疑ったりしないよ。……さあ、こちらへ」
マステールはガーモルを奥の広間へ案内した。広間の中にはすでに多くの人が集まっていて、いくつものグループになって会話に興じている。楽団が小さめの音で静かな曲を演奏している。人々のかたまりの間を縫うように、マステールはずっと奥へ進んで行った。時折ガーモルの方を振り返り、いたわるような笑顔を見せた。いつもならいやらしいニタニタ笑いにしか見えないその顔が、今は暖かい表情に思えてしまう。ガーモルはまた心の中で自分自身を咎めた。気を許すとその暖かさに身を委ねてしまう。
マステールが立ち止まったのは恰幅の良い中年紳士の前だった。同じような体格の男と言葉を交わして笑っている。
「お父さま、ちょっとよろしいですか。お父さまにお引き合わせしたい人がいるのです」
マステールがそう言うと中年紳士はこちらを向いた。マステールはガーモルを紳士の前に立たせた。
「こちらは僕の友人で、コクィル・タウメルと言います。……コクィル、こちらが僕の父、カウドだ」
カウドはじろっとガーモルを睨んだ。しかしすぐ儀礼的な笑顔に戻った。
「そうか、マステールの友達か。私の息子といつも仲良くしてくれてありがとう」
「い、いえ……」
ガーモルは言葉に詰まった。こういう社交辞礼はガーモルは苦手なのだ。しかしカウドは特に気にした様子もなく笑っていた。
「まあ、楽しんで行ってくれたまえ。……ところで、マステール、今日のパーティーにはアンジェラも来ている。ちゃんと挨拶しておくんだぞ」
「お父さま、いつも言ってることですが、僕はアンジェラとは……」
「マステール。おまえももうすぐ十六なんだ。そんな子供のようなわがままがいつまでも通用すると思っているのか。わかったな、とにかく、アンジェラとはうまくやるんだ」
マステールは無言のままきびすを返し、ガーモルを別の場所へと導いた。
やがてダンスのための曲が演奏され始めた。人々は男女ペアになって床の上で旋回したりステップを踏んだりしている。ガーモルはその華やかな光景にしばらく見とれていた。そんな彼(女)に、マステールは横から声をかけた。
「コクィル、飲物は何にする?……ねえ、コクィル、聞こえないのか」
「え?あ、ああ、聞こえてるよ、じゃなかった、聞こえてるわよ」
ガーモルはまだ、コクィルと呼ばれて反応することに慣れていない。マステールはかまわず話を続けた。その間じっとガーモルの目を見つめていた。
「ここにはソフトドリンクとして、ノンアルコールのフルーツカクテル……トロピカルドリンク……それにシードルが用意されているが……君にはトロピカルドリンクがいいんじゃないかな」
「あたし、ちょうどそれが飲みたいと思ってたんです。ありがとう、いただきます」
そうか。マステールはいま俺の好き嫌いの感情を読んだのだ。なるほど、やつはいつもこの手で女の機嫌を取るわけだ。
そう考えながらガーモルは受け取った大きなグラスをわし掴みにし、その半分を一口で飲み干した。緊張のため喉が渇いていたからだ。まわりの人々は目を丸くした。何て豪快な娘なんだ。ガーモルは彼らの視線に気づいて、グラスから口を離した。そして再度グラスに唇をあて、ちびりちびりとなめるように飲んだ。マステールはそんなガーモルの様子に気づいてまた暖かく微笑みかけた。
「人の目を気にする必要はない。君はここに楽しみに来たんだ。窮屈な思いをしていては楽しめないだろ」
「は、はい」
ガーモルはマステールの優しさに心を預けたくなった。一方でそれを抑えようと心の中で必死にもがいていた。
――マステール、なんて優しいんだ。こんないい奴になぜ俺は仕返ししなければならないんだ……何言ってんだ。マステールは俺に大恥をかかせた野郎だぞ。アクルに怪我をさせた奴だぞ。コクィルをたぶらかした男なんだぞ。俺はやつをぎゃふんと言わせてやる。そのためにわざわざ女の格好をしてこんなところまでやって来たんだ。何が何でも仕返しをやり遂げるぞ……ああ、でもあの暖かい笑顔。俺を気遣ってくれてるんだ。マステール、俺は君が好きだ。この身を君に委ねたい……ううっ、気持ち悪い。今俺は何てこと考えたんだ。あのマステールにこの身を委ねるだと?冗談じゃね。俺はマステールが憎くてしようがねんだ。魔法のせいで好きな気がしているだけなだ……でも好き。魔法で作られた偽りの気持ちでもいい。今はこの想いに酔いしれたい……違う!マステールは俺の敵だあっ!
ガーモルが相反する感情のせめぎ合いに一人悩んでいるのを、マステールは不思議そうな目で見ていた。マステールの目には、ガーモルの心の中に自分を好きだという感情と嫌いだという感情が交互に見えたのである。マステールは首を傾げた。こんな心を持った娘は初めてだ、とでも言うように。
ガーモルはマステールの様子に気づいた。――マステールは俺を怪しんでいる。下手をすると自分の部屋に招いてくれないかもしれない。……仕方ない。少しマステールに心を許そう――
するとマステールは笑顔に戻った。
「あ、二曲目が始まったよ。さあ、コクィル、踊ろう」
「で、でも……」
「大丈夫、僕がついている」
「わかりました。御一緒します」
マステールは、今度は「コクィル」の中に嫌悪感を見いだすことはなかった。
二人は踊りだした。割と早いテンポだが、単純なリズムなので、初心者のガーモルでもついてゆくことができた。元々ガーモルは運動神経が良い。一分と経たないうちに、マステールのリードに的確に応えられるようになった。
やがて二人は周囲の人々の注目を浴び始めた。他のどのカップルよりものびのびと楽しそうに踊っている。男の子のほうはかなりの実力の持ち主だ。小さい頃からレッスンを受けているらしい。女の子のほうは足取りはたどたどしいが、その表情の明るさは踊ることの喜びを心の底から感じていることを表している。何と言っても目の輝きが素晴らしい。相手の男の子を全身全霊で慈しんでいるかのようだ。
曲が終わった時、大きな拍手が二人を包み込んだ。マステールは
「コクィル」をフロアの端の方へと導いたが、すぐさまその周りに人だかりができた。皆口々に賞賛の言葉を述べた。若い男たちは「コクィル」に次の曲のパートナーになってほしいと申し込んできた。
「コクィル」がマステールに助けを求める視線を送ると、マステールは男たちを追い払おうとした。男たちはマステールの言葉より、
「コクィル」の瞳がマステールにだけ放つ恋慕の輝きを見て、諦めざるを得ないと感じた。
マステールと「コクィル」はしばらく会話に興じた。マステールは読心魔法と巧みな弁舌でどんどん「コクィル」を魅了していった。
「コクィル」の心はマステールに対する好感で満ち溢れ、それがさらに強い、深いものとなっていった。
マステールは驚いていた。確かにコクィルとは二ヶ月ほど交換日記を書いたりした間柄だ。しかし彼女は、身分の違いからか、完全には心を許してくれなかった。だから二ヶ月も経っているのに手をつなぐところまでもいかなかったのだ。
ところが今日のコクィルは強く「好感」を放っている。これは、ちょっと気に入った男の子、というレベルのものではない。先日、親の反対を押し切って大恋愛の末に結婚した新婚夫婦と出会った。マステールはつい彼らの感情を読んでしまったのだが、その時の彼らの感情と今のコクィルが自分に抱いているものとがよく似ているのである。つまり、コクィルの好感のレベルは、相思相愛の、すべてを許し合った男女間の感情にまで達しているのだ。
マステールは生唾を飲み込んだ。
いける。
まさかこれほどすんなりことが運ぶとは。あとはタイミングを見誤らないよう気をつけるだけだ。
脳の中をバラ色の思いで一杯に満たしていたマステールを、枯れ果てたサボテンのようなしわがれた声が呼び止めた。
「お坊っちゃま。お父上様がお呼びにございます」
背広に蝶ネクタイ、低すぎる物腰の老執事がマステールの父、カウドの方を差し示した。マステールはうんざりした様子で、今行く、と答えた。そして「コクィル」に暖かい笑顔を向けた。
「お父さまのところへ行かなければならないがすぐに戻って来る。ここで待っててくれ」
「はい」
マステールは今一度優しく微笑みかけてから、人と人の間を縫うようにして去って行った。
一人残された「コクィル」あるいはガーモルは少し心細かったが、気分は良かった。マステールとの会話でコクィルらしく受け答えをしようとしているうちに、本当に自分がコクィルのような気がしていた。女らしく振る舞うことにも慣れ、話しかけてくる人に笑顔で答える余裕も出てきた。
その時、コクィルと同い歳ぐらいの娘こがつかつかと歩み寄って来て、「コクィル」を見下すような目つきで睨んだ。「コクィル」は些か圧倒されながら彼女の顔を見返した。広い額、つり上がったきれ長の目、尖った鼻、小さい口。髪は長く豊かで、前髪をカチューシャで上げている。こういうタイプの娘がマンガに出て来る場合、とことんヒロインをいじめ抜くと相場は決まっている。でもそれはマンガの話。ガーモルは自分と歳が近いその娘に親しみを覚えて話しかけた。
「もうすぐ日が沈むというのに暑いわね。こっちへ来てごらん。ここに立ってると、どこからか風が吹き抜けるのよ」
相手の娘こはさげずむような目つきのままだった。
「あなた、マステール様とあまり慣れ慣れしくしないでちょうだい。あなたのような低身分の出の人はあの方に似合いませんわ」
ガーモルは驚くと言うより、苦笑いしたい気分だった。まさか外見から予想されるそのままのキャラクターだったとは。しかしガーモルは悲劇のヒロインを演ずるつもりはなかった。
「そう言うあなたはマステールさんとどういう関係なのかしら。あたしはつき合いはじめてもう二ヶ月にもなるのよ」
「二ヶ月ですって?それがどうしたって言うの。わたくしはもうずっと前からマステール様のいいなずけですのよ」
「いいなずけ?」
「そうよ。わたくしのお爺さまの経営する銀行は昔からベチューン社に多くの融資をしてきたわ。中堅銀行を傘下に納めて一応『財閥』という形を取っているものの、ベチューン社はまだまだうちの銀行の意向を無視することはできないんだから。両者の関係を強化する意味でわたくしとマステール様の結婚は重要なのよ。おわかり?」
ガーモルはちんぷんかんぷんだったがとにかく反論を試みた。
「あなたはマステールさんを会社同士の取引の道具としてしか見ていないの?マステールさんの気持ちを考えたことはないの?」
娘は手の甲を口にあて高笑いした。
「ほほほほ、これだから低い身分の出の人はイヤですわ。わたくしたちはあなたがた庶民よりもずっと大きなものを背負っているのよ。お家や会社の繁栄のためにこの身を献げることができるなんてすばらしいことじゃない。あなたがたのように、家事をしたり子供を産んで育てたりすることが唯一の生きがいなんて考えられないことね」
「じゃあ、あなたは自分が好きでもない人、自分を好きでもない人と暮らしながら他に生きがいをもつことが幸せだっていうの?」
ガーモルは精一杯コクィルの立場で主張した。
「ご心配なく。マステール様とは相思相愛ですわ」
「え?」
そこへマステールが戻って来た。「コクィル」の真ん前に仁王立ちしている娘に気がつくと、たちまち表情が曇った。
「アンジェラ」
「あら、マステール様、お久しぶり。あなたも罪な方ね、いいなずけに『お久しぶり』などと言わせるなんて」
マステールと、アンジェラと呼ばれた娘はしばらく睨み合った。先に口を開いたのはマステールだった。
「この前も言ったはずだ。僕は君と一緒になるつもりはない。そもそもいいなずけなど親が勝手に決めたことだ。僕の意志とは関係ない。それに僕は会社を継ぐ気はないからね。君と僕が政略結婚しても何の意味もないんだ」
アンジェラは唇を噛んだ。
「どうしてあなたはわたくしのことを気に入ってくださらないの。今のあなたの心はわたくしに対する嫌悪とその娘に対する好感で一杯だわ。わたくしはどうすればいいの?どうすればあなたの心を私への好感、いえ愛情で満たすことができるの?」
「それは……無理だ。君がウォフトン銀行会長の孫である限り。君に人の心が読める限り」
アンジェラはマステールと「コクィル」を見比べ一層悔しさを表情に現した。そしてまた「コクィル」をさげずむような目で睨んだ。
「あなた、気をつけた方がいいわよ。わたくしたちは人の感情が読み取れるの。この方があなたの気に入るように振る舞うことができるのはその魔法のおかげなのよ。決してあなたと心が通い合っているからじゃないの。カン違いして浮かれないようにね」
アンジェラはくるりと背を向け、去って行った。マステールはばつの悪そうな顔をしていた。
「今彼女の言ったことは本当だ。僕は君の感情を読んで君の気に入る行動を取ってきた。しかし、それは君のことを想っているからだ。想う人のために自分にできるすべてのことをしてあげたいと考えるのは当然だろう」
「マステール……さん」
二人は見つめ合った。マステールは「コクィル」の心に、これまでで最も強い好感を感じ取った。いや深い愛情と言ってもよかろう。
「ここは騒がしい。どこか静かなところへ行こう。テラスの方へ出てみないか。もう日も落ちた。少しは空気が涼しくなっていることだろう」
「コクィル」は黙ってうなずいた。マステールは彼女を建物の外へと案内した。




