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ガーモルたちが遊園地に行った翌日、マステールは平然と登校していた。さすがにミイナやアンナやクラウディアと目を合わせようとはしなかったが、いつも通り女子を侍らして、にたにた顔で自慢話に興じている。ガーモルは腹が立つと言うより呆れていた。昨日アクルが怪我をした時、大丈夫かの一言もなくどこかへ行ってしまったことだけでも問題なのに、今日アクルが学校に来ていないことを知ってもガーモルたちに安否を尋ねることさえしないというのでは、マステールの神経を疑いたくもなる。
「昨日は大変だったね」
休み時間、ミイナが言った。昨日あれからアクルを病院に運んだり、家族に知らせたりしたために遊ぶどころではなくなってしまたのだ。
「アクル、意識はしっかりしてたし、元々頑丈そうだから大丈夫だと思うけど……検査結果はどうだったのかな」
「俺今日も病院に行ってみるつもりなんだ。あいつ昨日は興奮して、俺たちが病院を出るまでわけのわからねえこと言ってやがったからな。一日経ちゃあちっとは落ち着いて話ができるんじゃねえかと思ってさ」
ガーモルの提案にミイナも同意した。
「そうだね。あたし今日バイト休みだから一緒にお見舞いに行くよ。アンナ、クラウディア、あんたたちは?」
側で二人の話を聞いていたアンナとクラウディアは首を振った。
「あたしたち部活があるから」
ガーモルは些か気分を害した。昨日あんなことがあったのだからもう少しアクルに気を使ってやってもよいではないか。
結局見舞いはガーモルとミイナとトルメカの三人で行くことになった。放課後乗り合い馬車でカリーナ市民病院へ向かい、アクルの病室の扉を叩いた。
アクルは全く元気だった。検査結果も全然異常がなく、明日にも退院できるとのことだった。彼はアンナが来ていないことを、やはり少し残念がっている様子だった。ガーモルたちは意識して、マステールのことに話が及ぶのを避けた。しばらく談笑した後、付き添っているアクルの母に別れを告げて病室を出た。
乗り合い馬車がガントール広場に着いた時、すでに日も落ちて、あたりは薄暗くなっていた。街灯が照らし出す石畳の上を歩きながらミイナが言った。
「それにしても、アクルもバカなことしたよね。何も殴りかかることないのに」
ガーモルはむっとなった。
「何言ってんだ。あいつはアンナのためを思ってやったんだぜ。悪いのはマステールだろうが」
「マステール君は悪くないよ。よく考えてみて。彼、別にアンナを取って食おうとしたわけじゃないんだから。アンナがマステール君とお茶を飲もうと、あたしたちとジェットコースターに乗ろうと、どのみち楽しむことができたはずでしょ」
「う……」
確かにミイナの言う通りだ。ガーモルは二の句が告げなかった。しかし、ミイナのほうはいつもの明るいミイナのままだった。
「ねえ、トルメカ、あなた魔法に詳しいんでしょう?昨日マステール君が襲われた時出た青い光、あれも魔法なの?」
「うん、たぶん手首と胸元に魔法石を付けているんだろう。ブレスレットとネックレスになっているんじゃないかな。万が一の時身を守る魔法が魔法石にし込んであるんだよ」
「へえ、そんな便利なものがあるんだ。あたしも買おうかな」
「きっとものすごく高価だと思う。魔法石が三つもあれば家が一軒建つぐらいだよ。だから、魔法石を一般の人にも買えるよう簡略化した魔法カードが開発されたんだ」
「じゃあ、魔法カードに、マステール君の魔法石と同じ魔法を封じることは?」
「できないだろう。あの魔法は高度すぎてカードには入りきらないよ」
「なあんだ。あたしたちはせいぜいこれくらいで満足するしかないってことね」と言いながら、ミイナはカードを一枚取り出して、珍しくうつ向いて歩いているガーモルに向けた。
「ぎゃっ」
ガーモルの左腕に電撃が走った。
「何するんだ」
「ガーモルが暗いから、お仕置。これ、痴漢撃退用の魔法カード」
カードはミイナの手の中ですでに灰になっていた。ガーモルの腕はまだしびれている。
「おまえなあ、本当に痛かったんだぞ」
「だって痴漢撃退用だもん。当然でしょ」
「こいつ、許さねえ」
「きゃっ」
ガーモルが襲いかかろうとすると、ミイナはひらりと身を翻してよけた。
「あ、車道に出ると危ないよ」
トルメカの諌言にもかかわらず、二人は追いかけっこをやめなかった。
しばらくしてトルメカが言った。
「僕こっちの方が近いから」
トルメカは別れを告げて細い路地へと入って行った。
追いかけっこに飽きたガーモルとミイナは肩を並べて大通りを歩いた。ガーモルは横目でちらっとミイナの方を見た。彼女の顔が街灯の光に照らされて一層白く見える。そうしていると、なぜか昨日の大人っぽいミイナの姿が思い出された。
「なあ、ミイナ。昨日はせっかく遊びに行ったのに全然楽しめなかったな」
「ううん、あたしはホテルで昼食が食べられたし、それなりに満足した」
「でも、アクルの一件がなければあの後もっと面白いことがあったのかもしれねえ」
「そうかもね」
「また遊びに行きてえな」
「うん、行きたい」
「みんな一緒に行くのもいいけど、団体行動って疲れるよな」
「そう?」
「なあ……今度は二人きりで行かないか。俺とおまえとで」
「うん、それもいいかもしれない」
「いいかも、って、OKってことか」
「うん」
ガーモルは心の中が溢れ出た感動の涙で満たされる思いだった。
「ねえ、どこへ連れてってくれるの」
しかしミイナのほうは二人きりということを特別に意識していないようだ。
「そ、そうだな……新しくできた水族館があるだろ、『アクア・ミュージアム』ってやつ。あそこに行ってみないか。次の日曜日にでも」
「次の日曜はだめ。友達と約束があるんだ」
「じゃあ、その次の日曜日」
「うん、その日なら空いてるよ」
「よし、決まりだ。まだ先の話だから、詳しいことは学校ででも決めようぜ」
「わかった」
ガーモルは再び沸き上がる喜びを抑えきれずにガッツポーズをとってしまった。ミイナに不思議そうな目で見られたので、ボクシングの真似をしてごまかした。
それ以来、ガーモルとミイナは週末ちょくちょく二人で出かけるようになった。
ミイナはどちらかと言うと、金のかかる娘こだった。高い入場料を取る場所や遠く離れた街に行きたがった。ガーモルの財政はたちまち悪化した。ミイナも彼のふところ具合を知ってか知らずか、いつも「割りカンでいいよ」と言ってくれた。
それでもガーモルの安小遣いでは到底まかないきれず、トルメカやコクィルからの借金も限界に来て、遂に近所の魚市場で早朝アルバイトをすることになった。ガーモルは取り立てて朝が苦手というわけではないが、ほとんど毎日のように早起きが続くとさすがに体にこたえた。授業中居眠りすることもしばしばだった。
トルメカはガーモルの体と成績が心配だった。ガーモルが毎朝魚市場から直接学校へ行くようになったので、トルメカと登校することもなくなっていたが、帰りは相変わらず一緒だった。今日も二人は肩を並べて校門を出た。
「ふわぁ、眠い。今日も疲れたな」
ガーモルは歩きながらあくびをしている。よほど疲れているのだろう。
「ガーモル、大丈夫?あんまり無理しちゃ体を壊すよ」
「ああ、わかってるよ」
「早いものだね。もうすぐ七月だよ」
「ああ」
「七月に入ったらすぐに期末試験があるね」
「それを言うなって。期末試験の成績も悪かったら夏休み補習をうけにゃならん。考えただけで気が滅入る」
「ちゃんと勉強しないとだめじゃない。ねえ、少しバイトの日数を減らしたら?」
「ああ、今仕事を覚えている最中だからな。慣れたら少し減らすよ」
「お金ためて、何を買うの」
「いや……特に買いたいものがあるわけじゃねえんだが」
「じゃあ、何に使ってるの」
「…………」
「ごめん、変なこと聞いた」
「……別に隠すほどのことじゃねえんだが……最近ミイナとちょくちょく出かけるんだ。土曜か日曜には必ずって言っていい。それで金がかかってな」
「何だ、そんなことだったの」
「そんなこと、っておまえ何だと思ったんだ?」
「僕は……ひょっとしたらその……例えば何かの事情で借金でも作って返済に追われているのかと……」
「な訳はねえだろう。うちの父さちゃんはああ見えてもしっかりしてるんだぜ。競馬に行く時だって財布にお札一枚しか入れてかねえんだ。酒だって、うちで安酒飲んでくだをまくだけだ。本当は居酒屋にでも行きてえんだろうけど」
「そう。ならいいんだ。僕、下手したらガーモルが学校をやめることになるんじゃないかと思ってた。それに……」
「あ、コクィル、おまえ何やってんだ、こんなところで」
交差点の左の方からコクィルが歩いて来た。
「あれ、お兄ちゃん。それにトルメカ」
「学校の帰りに寄り道か?しかし中学校はずっとあっちの方にあるんじゃないか。えらく遠回りしたんだな」
「え?あ、えーと、その、ちょっと友達と会ってたのよ」
「ふーん」
「そ、そう言えばトルメカと会うのは久しぶりね。元気にしてた?」
コクィルはガーモルそっくりの笑顔をトルメカに向けた。
「……うん」
「どうしたの?何か元気ない」
「そんなことないよ」
トルメカは、顔面が石でできているかのように無表情になっていた。
「昔はよく一緒に遊んだのに、最近は全然うちにも来ないね」
「そのうち遊びに行くよ」
「お兄ちゃん、あたし夕食の買い物まだだから、急いで行って来るね。トルメカ、あなたのお父さんとお母さんによろしくね」
コクィルは通りを駆けて行った。
「あいつ、最近妙に浮かれてるんだよな。彼氏とうまく行ってるのかな」
ガーモルの隣りでトルメカがぴくっと動いた。
「何だ、どうした、トルメカ」
「ううん、別に何でもない」
トルメカの表情は依然として鉄のように固かった。
翌日、体育の授業は水泳だった。
男子の更衣室は手狭で、二十人もの生徒が一度に着替えると肩や肘を横の生徒にぶつけてしまう。混雑を避けるため、ガーモルとアクルは更衣室の前で中の生徒が減るのを待った。
「ああ、かったりい。何が悲しくて、男同士でプールに入らにゃならんねえんだ」
アクルはしかめっ面で言った。
「プールと言えば水着姿のギャルやおねーさんがつきものだろうが。どうして女子は一緒に水泳をやらねえんだ」
ガーモルは同意した。
「中学校までは一緒だったのにな。去年と今年でどこが違うって言うんだ」
「水着姿だからって、何も襲いかかろうって言うんじゃねえ。ちょっとぐらい目を楽しませてくれたっていだろうが、減るもんじゃなし」
「だよな。あさっての体育の時間女子が水泳をやる時には、ぜひとも男子の授業をプールの近くで行ってもらわないと、割に合わねえぞ」
二人のムチャな論法はだんだんエスカレートしていった。
「その通りだ。もし体育館でやる、なんて言いやがったら俺は断固ずる休みをしてプールを覗く。そうしないと気が済まねえ」
「うまく覗ける場所がなけりゃ、俺は女子の水着を着てでもプールに忍び込んでやる」
「う……それはちょっと気持ち悪いかもしんねえ」
「俺も自分で言っててそう思った。でもよ、トートメ国って知ってるだろ?歴史の授業で習ったやつ。その国には女になれる魔法があったんだってさ。歴史好きのトルメカが言ってた。そんな魔法がありゃ、堂々と女子の水泳の授業にまぎれ込めるんだがな」
「それどころか女子更衣室にも入れるぜ。いや、銭湯の女湯にだって……」
二人の頭の中は淫らな想像で一杯になった。
「むなしい……」
「そうだな……」
二人は頭こうべを垂れた。
「でもなあ、ガーモル、おまえはいいよ。ミイナがいるもんな」
「へ?」
ガーモルはその場で五センチほど飛び上がった。
「どうしてミイナの話が出て来る」
「あれ、おまえらつき合ってるんじゃねえの?もっぱらの噂だぜ。ちょくちょくデートしてるんだろ」
どこからそんな噂が広まったんだ。ガーモルはいぶかった。しかし考えてみれば、特に隠そうとしていたわけではない。ミイナ本人がいたのかもしれない。それに、別に隠す必要もない。
「そ、そうか。知っていたのか。いや、ここ一ヶ月ぐらいのことなんだ。ミイナがどこかに遊びに行きたいって言うから、連れて行ってやってるんだ」
「で、どこまで進んだ」
「何が」
「とぼけるなよ。ひと月も経ってキスもしてないなんて言っても信じねえぞ」
「何言ってやがる。俺はミイナと遊びに行ってるだけだ。そんなことになる雰囲気はねえ」
「おまえ意外と臆病だな。今どきキスぐらい小学生だってやってるぜ」
「だから、彼女とは……何と言うか、そういう関係じゃねえんだって」
「じゃあ、どういう関係なんだ」
ガーモルは言葉が出てこなかった。ミイナとの関係についてはガーモル自身よくわからなかった。彼女とは気軽に話し合えるし、一緒にいるといつも楽しい気分になる。ガーモルはこれまで何度か女の子とつき合ったことがあるが、今度の場合今までと少し違う感じがする。
「よくわからねえけど、とにかく、そういう雰囲気じゃねえんだよ」
「ふーん、まあいいか……お、更衣室がすいてきたぜ。早く着替えねえとズワイメルの野郎にどやされる」
「あの先公は説教が長げえからな」
二人は更衣室に入った。中ではマステールともう一人が着替えを終えたところだった。マステールの隣りの男は、髪をぴっちり七三に分け、いつも金魚のふんのようにマステールのあとをついて回っている。マステールの友人と言うより、一方的に彼を慕っているようだ。
アクルはマステールを睨みつけた。遊園地の一件以来、アクルがマステールを見る目は、ある意味で変わった。腕力に自身のあるアクルはそれまでマステールを、どちらかと言うと「格下」に見ていた。やることなすこと気にくわないからいつかぶん殴ってやる、ぐらいに考えていた。しかし遊園地で、マステールが魔法によって守られていることを思い知らされて、今や「かなわない相手」になっていた。
マステールは以前にも増して不敵な笑みをアクルに向けて放った。首からはネックレスがぶら下がり、裸の胸元に青い宝石が光っている。両手首のブレスレットにも青い宝石がちりばめられている。
「水泳の時も魔法石を外さないのですか」
マステールの隣りの七三男が言った。
「ああ、僕ほどの人間ともなれば敵も多い。いつ、何が起こるか予想できないからね」
そう言ってマステールはまたアクルを睨んだ。そして悠然とその横を通り過ぎて、七三男と共に更衣室から出て行った。
「くそっ」
アクルは悔しさを隠そうとしなかった。握り締められた拳が、口から漏れた言葉以上に彼の気持ちを表していた。
昼休み、学食から教室に戻ったガーモルは次の週末の相談をしようと、窓際のミイナの席へとやって来た。
「なあ、ミイナ、次の週末はどこへ行く」
ミイナはファッション雑誌から目を上げた。ガーモルは少し照れ臭かった。さっきアクルに、おまえらつき合ってるんだろ、などと言われたからだ。
「どこへ連れてってくれるの」
「どこがいい?」
「うーん、面白いところ」
ミイナを誘うと、彼女は決まり文句のようにそう言うのだった。
「じゃあさ、ソリン公園に行ってみないか。結構いいところらしいぜ」
「面白いものがあるの?」
「いや、まあ、公園だからな。池があって、ボートとかあるんだと思う」
「ふうん」
ミイナはあまり乗り気でないように見えた。
しかし、ガーモルのほうは考えがあってソリン公園に誘ったのだ。あの公園は週末ともなればカップルだらけになる。木陰や奥まったところにあるベンチで男女がいちゃいちゃする光景を、ガーモルは何度か目にしたことがある。まだ手をつないで歩いたことさえない相手にいきなりキスを迫るところまではいかないだろうが、せめて一歩でも関係を進めたい。
「た、たまには静かな場所でのんびりと過ごすのも悪くはねえんじゃねえかな」
「うん、じゃあ、そこでいい」
ミイナはうなずいた。
「よし決まりだ。じゃあ、土曜日の……三時でいいか」
「あ、そう言えば、あたし土曜日はだめだったんだ。ねえ、日曜でいいでしょ」
「え?」
日曜はまずい。日曜日はソリン公園に家族連れがどっと押し寄せて来て、ガキ共が走り回り、ほとんど保育園の運動場と化すのだ。
「土曜はだめなのか」
「うん」
「どうしても?」
「どうしても。友達と約束があるんだ」
ミイナは週末、ガーモルと一緒でない日はいつも「友達」と会っているようだ。ガーモルの頭に、ふとひと月前の弁当屋での出来事が浮かんだ。
「なあ、ミイナ、その『友達』って女なのか」
ガーモルは言いにくそうに小声で尋ねた。
「え?何?聞こえなかった。もう一度言って」
ミイナが聞き返したちょうどその時、アクルがそばにやて来て、茶々を入れた。
「よ、お二人さん、よろしくやってるかい」
「あ、アクル」
ミイナがアクルを見る目は、心なしかガーモルを見る時より輝いているように思えた。
「おい、アクル、何か用か」
「それはつれないお言葉だね、ガーモル君」
「今大事な話、してるんだよ」
「ほう、式の日取りでも決めているのかね」
「おやじみてえな喋り方はやめろって」
「君たち、昼間っから変なことをしてはいけないよ。君たちはまだ高校生だ。子供ができても育ててゆくことはできないんだからね」
「おまえ、そんなくだらねえこと言いに来たのかよ」
ガーモルは露骨にうっとうしそうな顔をしたが、ミイナは明るく笑っていた。
「でも高校生ぐらいの歳でも子供を産んで育ててる人はいるよ。うちのお母さん、あたしを産んだの十五の時だもん」
「え?じゃあ、今まだ……」
「三十だよ」
「若けえ。うちの母さんもう四十だぜ」
「それってなんか不思議だね。同じ『お母さん』なのに、あたしたちとウォルコックス先生と同じぐらい離れてるなんて」
「そう言やあそうだな」
ガーモルは黙っていた。母を幼い時亡くした彼にとってはピンと来ない話だったのだ。彼にとって母親のイメージと言えば、かすかに残っているぼやけた記憶と、あまりに美しくて現実味に乏しいトルメカの母の姿しか沸いてこない。
「じゃあ、ミイナの父さんはいくつなんだ」
「あたし、お父さんのことよく知らないんだ。もの心ついた時からずっとお母さんと二人暮しだったけど、お母さん、お父さんのことあまり話してくれないし、あたしも別に聞きたくない」
「そうだったのか。悪いこと聞いちまったのかな」
「ううん、あたし全然気にしないんだ、そういうこと。でも……あたしの子供は同じ目に遭わせたくないて思ってる。だから、ずっとあたしのことを好きでいてくれる人と結婚したいな」
アクルの顔がマステールばりのにたにた笑いに引き歪んだ。
「だってさ、ガーモル。まあ、せいぜい頑張れよ」
「何言ってやがる。ほら、ミイナが困った顔してるじゃねえか。なあ、ミイナ」
ガーモルはミイナがこの言葉を否定することを期待した。しかしミイナは
「そうだよ。あたしも困るし、ガーモルだってイヤだよね。ガーモルはあたしを面白いところに連れてってくれるだけだもん。そんな言い方したらガーモルファンの娘に悪いよ。ガーモルって女子の間で結構人気高いんだから」と言ったのだった。
ガーモルは一瞬、頭の中が真っ白になった。
「あれ、おまえら、つき合ってるんじゃねえの?」
アクルは不思議そうな顔をした。ガーモルはどういうつむじ曲がりか、
「だから言っただろ。俺とミイナはそんな関係じゃねえって」などと口走ってしまった。それを聞いてもミイナはいつもの笑顔だった。
「そうそう。高校生にもなって、男の子と二人きりで出かけたぐらいでつき合ってるとか言われたら迷惑よね」
「ふーん。そうなのか」
アクルは釈然としない様子だった。ガーモルは意味のない作り笑いで顔をひきつらせていた。
「じゃあ、ミイナ、今度の週末はスケジュールが合わねえみてえだから、遊びに行くのはなしにしよう」
「うん、わかった」
ガーモルはくるりと背を向けて、自分の席へと帰って行った。
翌日、一部の女子の見る目が変わっていることに、ガーモルは気づいた。よく考えてみればそれらの女子は、以前からガーモルに意味ありげな視線を送っていたような気がする。それが今日になって急に、はっきりと感じられるほど強くなっていた。
きのうアクルと交わした会話の内容がわずか一日でクラス中に知れわたったらしい。アクルが言いふらしたのか、ガーモルたちの話を立ち聞きした者がいたのかわからないが、ガーモルはどちらでもよかった。ガーモルの頭の中はミイナのことで一杯だった。
今、ウォルコックス先生が古代文字の読み方を説明している。黒板に書かれた文章にはかなり何度の高い文字が含まれているため、ガーモルにはさっぱり意味がわからなかった。
先生は一人の生徒にその文章を読むように命じた。生徒はすらすらと読み上げた。誰も賞賛しないし、先生も驚かないということは、あの程度はみんな理解しているのだろう。
これでは期末試験が思いやられるぞ。ガーモルはそう自分に言い聞かせたが、頭に浮かぶのはミイナが昨日言ったことだけだった。
その日、ガーモルはミイナに話しかけなかった。どう接してよいかわからなかったのだ。
放課後、教室を出たガーモルはC組の教室の方を見やったが、まだ終わっていないようだった。彼はトルメカのように相手の教室の前でじっと待ったりはしない。いつもならこんな時、ミイナを引き止めて話につき合ってもらうのだが、今日はそんな気になれない。
ガーモルはカバンを開け、マンガ雑誌を取り出し、廊下の窓枠に腰かけて読み始めた。
「あの、ガーモル君」
聞き覚えのあるようなないような声がしたのでガーモルは目を上げた。前に立っていたのはクラウディアだった。
「あ、なんだ、クラウディア。俺に何か用か?」
彼女とは以前、遊園地に一緒に行ったことがある。しかしその時、彼女はガーモルと目も合わさなかったし、それ以後も彼に近づいてきたことさえない。
「あ、あの……ガーモル君の妹さんて、ヘーゼル中学校に行ってるんでしょ」
「ああ」
「あたしの弟と同じクラスなんだ」
「そうか」
「…………」
「…………」
「あ、ごめん、変なこと言っちゃった。あの、あたし、部活あるから。ま、また明日」
クラウディアは耳まで真っ赤にして駆けて行った。
「何なんだ、あいつは」
ガーモルは首を傾げるしかなかった。
「ガーモル、お待たせ」
いつの間にか、すぐ横にトルメカが来ていた。
「どうしたの、ガーモル、変な顔して」
「いや、なんでもねえよ」
二人は帰宅の途についた。
敏感なトルメカは、昨日も今日もガーモルが落ち込んでいることに気づいていた。またマステールと何かあったのか。それとも成績のことだろうか。やはりバイトがきついのだろうか。ガーモルとの会話の中から落ち込んでいる理由を探り出そうとしたが、うまくいかなかった。
「ねえ、ガーモル、うちに寄ってかない?お母さんがね、今日ケーキを焼くって言ってたんだ。いつも食べきれないほど作って困るでしょ。だから、またガーモルが食べるのを手伝ってくれると嬉しいんだけど」
「そうか。じゃあ、食いに行くか。おばさんのケーキうまいからな」
「うん、ぜひ頼むよ」
ガーモルがトルメカの家を訪れるのは入学式の日以来だ。診察時間中なので正面から入ることはできない。トルメカが裏手の扉を開くと、香ばしいケーキの匂いが漂って来た。
「あら、ガーモル君、いらっしゃい。ふふふ、トルメカ、やっぱりガーモル君を連れて来たのね」
いつ見ても美しいトルメカの母は、今日もとびきりの笑顔でガーモルを迎えた。
「もう少しで焼けるから、応接室で待っててね」
「ううん、地下室に行くから、できたら呼んで」
トルメカはガーモルを促して地下への階段を降りた。地下室の中央に置かれた机の上には、やはり読みかけの本が乗っていた。
「今度は何の本を読んでるんだ」
ガーモルは机に近づいて本のページを覗きこんだ。
「それもトートメ国に関する本だよ。あれからずっとここの本棚の本を読み進めてきたけど、最近気づいた。これだけたくさん本があるのに半分近くはトートメ国の本なんだって」
「へえ。おまえの爺ちゃんも歴史が好きだったんだな」
「歴史が好きって言うか、トートメ国の研究か何かをしてたみたい」
「そうなのか」
ガーモルは興味なげに相づちをうった。トルメカが彼を、音が外に漏れないこの部屋に連れて来たのは祖父の話をするためではなく、別の訳があった。
「ガーモル元気なさそうだね。どうしたの。困ってることがあるなら僕に話してみてよ」
「おまえじゃ言っても仕方ない」
「どうして」
「女の話だからな」
「……確かに僕は女の子とつき合ったことはないし、好きだと言われたこともない。でも、だからこそ言ってあげられることもあるんじゃないかな。人の気もしらないで、って言い方があるけど、知らないからわかってあげたいと思うのが人情ってものだよ」
「…………」
「ごめん。偉そうなこと言った」
「……俺、女ってやつの考えてることがわからなくなってきた」
「ミイナのこと?」
「ああ。俺、ミイナと話してるとすごく楽しいし、あいつだって楽しそうにしている。俺はあんな気持ちになれるのはミイナといる時だけだ。だから向こうも同じだと信じていた。今までずっと、ミイナにとっても俺は特別なんだと思い込んで一人、はしゃいでた。
俺はどうすればいい?ミイナの気持ちを確かめたい。でも今更、つき合ってくれ、なんて言って、もし断られたら、この一ヶ月間は一体何だったんだ。てことになる。俺はカン違いで、借金だのバイトだのと騒いだ大バカ野郎ってことになっちまう」
トルメカより十五センチも身長の高いガーモルの姿がこの時ばかりは小さく見えた。
「やっぱりガーモルは自分の気持ちをはっきりと伝えるべきだと思う。もし断られてもこの一ヶ月は決してムダじゃない。ミイナと楽しい時が過ごせたんだから」
「しかし面と向かって告白こくるのは、今となってはどうも……」
「手紙を書けばいいんじゃないかな。手紙を書いて直接手渡せば、彼女も何か特別な意味があるとわかるだろうし、読んでる時ガーモルが席を外せば彼女の顔を見なくてすむ」
「手紙か……」
ガーモルは天井を見上げ、拳を握った。
「よし。俺は手紙を書くことにする。そうと決まりゃあ、善は急げだ。トルメカ、すまねえ、ケーキはまたにする。おばさんに謝っといてくれ。じゃあな」と言い残し、脱兎の如く階段を駆け上がっていった。
「あっ、ガーモル」
トルメカが引き止める間もなかった。しかし、ガーモルのはつらつとした姿を見れば、トルメカはそれで満足だった。
翌日の放課後、ミイナはアンナとともに音楽室の前に来ていた。昼休み、ガーモルにそうするよう言われたからだ。アンナが、少し不安を感じたのか、同行を提案した。音楽室は一段奥まった、人通りの少ない場所にあるのだ。
一分ほど待っているとガーモルが姿を現した。この校舎は廊下も階段もじゅうたんが敷いてあるので、ガーモルの足音はまったく聞こえなかった。
ガーモルは何か力の込もった表情だった。
「ミイナ、待たせた」
ガーモルはどうにか笑顔らしきものを作った。
「あ、ガーモル、遅いぞ、このあたしを待たせるなんて」
ミイナは例の明るい表情だった。ガーモルが用件を切り出そうとした時、ミイナの傍らの柱の陰にアンナが立っているのに気づいた。
「あれ、アンナ、どうしてここにいるんだ」
答えたのはミイナだった。
「うん、どうしても一緒に来たいって言うものだから」
ガーモルの表情が曇った。アンナがいては手紙を渡しにくい。かと言って、アンナにどっか行けというわけにもいかない。
「ねえ、ガーモル、何があるの?ガーモルのことだから何か面白いことやってくれるんじゃないかって、少し期待してたんだ」
仕方ない。手紙を渡して家で読んでもらおう。
「ミイナ」
「な、何?」
「実は、これなんだ」
「何これ」
「とにかく受け取ってくれ」
「うん」
ミイナは何の気なしに差し出された封筒を手に取った。そして裏と表をしげしげながめて一文字も記されていないことがわかると、無造作に封筒を開き始めた。
「あ、バカ、今開くな」
ガーモルはミイナの手を抑えつけようとした。すると封筒は、はずみでミイナの手を飛び出して宙を舞い、十メートルほど先のじゅうたんの上に落ち、中の便箋を吐き出した。
いつの間にかそのそばに五、六人の男子生徒の一団が立っていた。そのうちの一人が足元の便箋を拾い上げた。
「おや、ガーモル、こんなところで何をしているんだ」
マステールだった。彼は折りたたまれた便箋を開こうとした。
「返せ、マステール」
ガーモルの必死の形相を見て、マステールのにたにた顔が更に引きつった。ガーモルは便箋を取り戻そうとしたが、二人の間に、マステールと一緒にいた男子たちが割って入った。マステールはガーモルの手が届かないようにステップを踏みながら、大声で手紙を読み上げた。
「何々『君を初めて見た時僕の胸は君への受で一杯にはちきれそうだった。君が僕に笑顔を見せた時のことを僕は一生志れないだろう……』何だこれは。誤字が多くて意味がよくわからんが、もしかしてラブレターのつもりなのか」
ガーモルは、さっきゆで上がった鮹のような真っ赤な顔をして、便箋を取ろうともがいた。
「わははははははは、ラブレターか。わははははははは。おい、ガーモル、今どきラブレターなんて書くやつはいないぞ。わははははははは……」
マステールと一緒にいた男子たちも声をそろえて笑った。ガーモルは彼らの防御が緩んだ隙に、マステールの手から便箋を取り戻した。そして、同情を求めてミイナの方を振り返った。彼女は腹を抱えていた。
「ははははははは、ガーモル、面白い。ははははははは、もう最高、はははははは……」
ガーモルは唇を噛みしめて走り出した。響き渡る笑い声は、校舎を出てもなお耳について離れなかった。




