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入学式から十日経った。一年A組ではくじ引きで一学期の座席が決められたのだが、その結果、ガーモルはベチューン家の御曹司マステールの隣りということになっていた。
マステールには、いわく言い難い、近寄り辛い雰囲気があった。しかし何日かすると、主に女子が彼に話しかけるようになっていた。なるほど、マステールのルックスは良い方だし、少しやさ男風なところが女子には却って魅力に感じられるのだろうが、それ以上に彼の地位と財力に引かれる部分も大きいのではないか。
「僕は王立アルテーラ大学を受験することになるだろう」
昼休み、マステールは女子の一群を前にして語った。
「そして将来はエルバイン王国の高級官僚を目指すつもりだ」
女子の一人が言った。
「ええっ?お父さまの会社を継ぐんじゃないの?ベチューン財閥を率いるかのカウド・ベチューンの一人息子なら、何もしなくても次期社長の椅子が約束されているものだと思ったわ」
「会社の方は従弟が継ぐだろう。僕は会社の経営よりももっと大きなことがしたい。エルバイン王国をこの手で動かす、という夢がある。今まで誰もやったことのないやり方で問題を解決し、国王陛下を助け、国家を運営するんだ。お爺さまやお父さまの敷いたレールの上をただ走るだけというのは、僕の性に合わない」
マステールを取り巻いている女子たちは、その演説を聞いて瞳を輝かせた。
「でもマステール君、アルテーラ大学に入るのも超難しいけど、高級官僚の試験ってそれよりももっとすごいんでしょ?確か魔法の実技もあるんじゃなかったかしら」
女子の一人がそう言うと、別の女子が答えた。
「そうよ。大学で魔法を専攻した人にさえできないような高度な試験なんだって。うちの叔父さん、三回受けたけど、結局魔法実技がだめで受からなかったって言ってた。ねえ、マステール君は魔法が得意なの?」
「得意と言うほどではないが、小さい頃から家庭教師について勉強してるからね。まあ、こんな程度だ」
マステールはぶつぶつと呪文を唱えた。すると、机の上に置かれていた教科書が十センチも浮き上がった。
「すごい」
女子たちは驚きと憧れの混じった声を上げた。皆うっとりとマステールを見つめている。マステールの浮かべる微笑みは自分に対してのみ向けられていると信じているかのようだ。
「ちぇっ、やってらんねーぜ」
ガーモルの背後で声がした。後ろの席に座っているアクルだ。今のところこのクラスでガーモルの話し相手と言えば、彼ぐらいしかいない。
「ベチューン家の御曹司かなんだか知らねえが、ちょっと魔法が使えるぐらいで自慢しやがって」
ガーモルは振り返った。がっしりとした体格の上に乗った角刈り頭の浅黒い顔に向かって言った。
「まあな。中学までノースキャップ学園にいたようなお坊っちゃまだからな。ああいうのが上流階級の話し方なんだろうさ」
「にしたって、もう少しなんとかならねえのかよ。あの人を見下したような態度。それだけでもむかつくのに、見ろよ、相手が女だと別人みてえにうやうやしくなりやがる。なんて野郎だ」
見るとマステールは一人の女子の手を取り、手相かなにかを見ている。ガーモルは再びアクルの方へ振り返った。
「おまえ、マステールのことが気に入らねえのか」
「このクラスの男であいつのことを気に入るやつがいると思うか」
「……多くはないだろうな」
「とにかくむかつくんだよ。あいつも、それにうちの担任もな」
「おまえ、何をイライラしてるんだ?カルシウム不足じゃねえのか。牛乳でも飲めよ」
「俺牛乳は嫌いなんだ」
いきなり、扉が開いて、教室にウォルコックス先生が入って来た。
「おや、騒がしいですね。皆さん、もうお昼休みは終わりですよ。いつまで話してるんですか」
あれ?ガーモルはいぶかった。いつ始業の鐘が鳴ったのだろう。
生徒たちは釈然としない様子で席に戻ろうとしている。
「先生」
ガーモルは思い切って疑問をぶつけてみた。
「まだ昼休み終わってないんじゃないですか。鐘も鳴ってないし、隣りのクラスも校庭も騒がしいし」
「いいえ、鐘ならさっき……はて、鳴ったかな。どうだったっけ。そう言えばまだのような気も……」
まさにその時、鐘が鳴った。生徒たちは苦笑いするしかなかった。彼の大ボケは今に始まったことではない。
「これは申し訳ない。私の勘違いだったようです」
先生はいつものように後ろ頭を掻きながら謝った。
「たぶん、魔法学教室の時計が進んでいたのでしょう。今日は昼休み、職員の打ち合わせがなかったので、わたしは魔法学教室にいたんですよ」
誰も言い訳なんか聞きたくないって。ガーモルは心の中で呟いた。しかし、あの退屈極まりない魔法学の授業が少しでも短くなるのは良いことだ。
「先生、魔法学教室で何をしてたんですか」
ガーモルは更に授業を短くしようと、雑談を引き伸ばしにかかった。
「え?ええ。まあ、ちょっとしたことです」
「ちょっとしたこと?何なんですか」
「はあ、その……」
「怪しいな。先生、もしかして、こっそりエッチな本でも見てたんじゃないんですか」
「へ?」
先生は明らかに動揺した様子を見せた。クラス全体がざわめいた。
「ち、違います。私はいい歳をした大人ですよ。もうそういうことは卒業しました」
ガーモルの後ろでアクルが声を上げた。
「卒業して、今はどんなことやってるんだろうな」
ガーモルは負けじと言った。
「奥さんで十分満足してますってか」
この発言は一部の男子生徒にうけた。意味のわからなかった少数の女子はきょとんとしている。マステールはさげずむような一瞥をガーモルに投げかけた。困った顔をしているのはウォルコックス先生だ。
「残念ながら、私はまだ結婚していません。それに、魔法学教室ではある書類を作っていただけです。さあさあ、雑談はこれくらいにしましょう。教科書を開いてください。ええと、このクラスは十ページからでしたね……」
ガーモルの努力にもかかわらず、授業はすぐ始まってしまった。
ウォルコックス先生はぐにゃぐにゃした文字を板書し始めた。
魔法学の授業では、一学期から二学期にかけて古代エルバイン語が教えられる。魔法書を読むのに必要だからだ。
普通の生徒は、高校三年間魔法を勉強しても、髪の毛一本を三ミリほど動かせるようになる程度にすぎない。本格的に魔法を使いこなそうとしたら、小さいころから訓練を受けて魔力を高めないといけない。ガーモルの友人、トルメカは医者の息子なので、もの心ついた時から訓練をうけている。特に、病気や怪我の治療に使う白魔法はかなりの水準だ。しかし、さっき見た限りでは、マステールの魔力はそれ以上だった。官僚を目指すだけのことはある。
ガーモルはマステールを横目で見た。一心不乱にノートをとっている。あれだけ魔法ができるのだから、古代魔法など小さい時に修得したろうに。
更にずっと向こうの窓際に座っているミイナに目をやった。彼女はノートをとってはいるが、何となく上の空だった。時々窓の外を見たりしている。
春の陽ざしを受けて、彼女の茶色い髪と白い肌が輝いている。
席が遠くに離れてしまった以上、彼女に気軽に話しかけるのは難しい。わざわざ彼女の席に出向いて話ができるほど親しくもない。彼女と話すきっかけはないものだろうか……。
「では、小テストをやります」
ウォルコックス先生が言った。生徒の発する不平不満の声が教室中を覆い尽くした。
「私がせっかく昼休みをつぶして作ったテストなのですから、遠慮せずに受けてください」
先生は紙の束を最前列の机の上に置いた。紙が順に後ろの席へと送られて行き、一番後ろの生徒にまでゆき渡ると、先生は
「じゃあ、始めて下さい」と言った。
紙には古代文字が十個ガリ版で印刷されていた。一番上には「発音を現代文字で記せ」とある。
ガーモルはほとんどわからなかった。しかし、大半の生徒は五分と経たないうちに手を止めていた。
「もういいですか?じゃあ、答え合わせをします」
ウォルコックス先生は、近くの生徒同士テスト用紙を交換するように命じた。ガーモルはアクルと交換しようとしたが、すでに彼の机の上には他の生徒のテスト用紙があった。辺りを見回すと、まだ交換していないのはガーモルとマステールだけだった。
「ガーモル、交換してくれないか」
マステールにそう言われて、ガーモルは黙って紙を差し出した。ガーモルは妙な気分だった。挨拶を交わしたことのない相手にいきなり名前を呼ばれたからだ。
ウォルコックス先生は黒板に古代文字を書いては、その発音を読み上げた。
すべてが読み上げられた時、ガーモルの手元にあるテスト用紙には、赤インクで十個の丸が描かれていた。ガーモルは紙をマステールに手渡した。
「お前の解答、完璧だ。さすがだな」
マステールもガーモルに用紙を返した。
「君の解答も別の意味で完璧だ」
ガーモルがその紙を見ると十個の×印がつけられていた。目を上げると、マステールのにやにや顔が目に入った。
ガーモルは些かむかついていた。別の意味で完璧だと?もう少し別の言い方があるだろうが。しかし口には出さず、マステールから目を反らした。すると、ミイナの姿が目に止まった。
彼女は隣の男子生徒に微笑みかけていた。たぶんテスト用紙を交換した相手なのだろう。小太りで色白で眼鏡をかけている。秀才タイプと言うより、勉強もスポーツもだめそうな男だ。
どうしてあんな奴に笑顔を見せるんだ。ガーモルは納得がいかなかった。ミイナが入学式の時ガーモルに見せたあの笑顔は、特別な笑顔だとばかり思っていた。誰にでも見せる笑顔ではないと思っていた。しかし今見ると、同じ笑顔を、隣の鈍重男だけでなく、まわりの生徒みんなに振りまいている。
ガーモルは更に気を悪くして前を向き直ろうとした。その時、またマステールのにやけた顔が目に映った。
ガーモルが神経質そうに貧乏ゆすりを始めたのに気づいて、後ろのアクルが囁いた。
「何イライラしてんだ?牛乳でも飲めよ」
放課後、ガーモルとトルメカは肩を並べて校門を出た。
今日のガーモルは機嫌が悪い。そう感じ取ったトルメカは、慎重に言葉を選びながら、ガーモルに話しかけた。
「ねえ、ガーモル、入るクラブは決めたの」
「え?あ、ああ、まだ決めてねえ」
「そう。でもガーモルは運動神経いいから、どの部に入ってもレギュラー間違いなしだね」
「そんな甘いもんじゃねえ。ここの部はどれもレベルが高いんだ。この学校のクラブに入りたくてわざわざ遠くの町から通って来るような奴もいるんだからな。
ところでお前はどうするんだ。クラブに入るのか」
「ううん、僕は塾があるから」
「塾は部活の後にでも行けばいいだろう」
「学習塾だけでなく、魔法の塾もあるんだ」
「そうなのか。おまえは将来医者になって病院を継ぐんだもんな。医科大学をうけるんだろう?」
「うん。ガーモルはどうするつもり?進学?就職?」
「三年も先のこと、わかるかよ。卒業できるかどうか、いや進級できるかどうかさえ怪しいのに」
ガーモルは珍しく弱気だ。やはり学校で何か嫌なことがあったのだろう。トルメカはガーモルの表情を横目でうかがいながら、そう思っていた。
くうん、くうん。
どこからか動物の声がしたので、トルメカは辺りを見回した。道端に白い小犬がうずくまっている。トルメカはそのそばにしゃがんで、小犬の顔を覗きこんだ。おびえたような表情だった。
「どうした、トルメカ」
ガーモルもトルメカの横にかがみ込んで小犬を見た。
「おい、怪我してるじゃねえか」
ガーモルは小犬の前足を指差した。幅一センチほどの裂け目から赤い血が流れ出している。
「ほんとだ。ねえ、ガーモル、ちょっとおさえてて」
ガーモルは言われるままに、犬の体を動けないようにした。トルメカはぶつぶつと呪文を唱えた。犬の傷口に向けて手をかざすと、手のひらから白い光が発生して傷口を包み込んだ。光が消えた時には、傷口はふさがっており、血も止まっていた。
ガーモルは手を犬から放した。
「ほら、もう大丈夫だよ」
トルメカが言うと、小犬は嬉しそうに尻尾を振った。
いつのまにか、二人のすぐそばに十歳ぐらいの男の子が立っていた。何か言いたそうに、犬とトルメカの顔を見比べている。
「この犬こ、君ん家ちの?」
トルメカが尋ねると、男の子は黙ってうなずいた。
「そう。この犬こね、怪我してたんだよ。魔法で止血しておいたけど、まだ治ったわけじゃないから、ちゃんと消毒したほうがいいよ。あと一回ぐらい白魔法をあてれば早く完治すると思うけど……。そうだ、ちょっと待っててね」
トルメカは鞄からカードを一枚取り出した。
「何だそりゃ」
ガーモルが尋ねた。
「『魔法カード』だよ。知らないの?じゃあ、見ててね」
トルメカは左手にカードを持って口の中で呪文を呟いた。そして右手をカードにかざすと、手のひらから出た白い光がカードの中へ吸い込まれていった。
「今、カードの中に治癒魔法をを封じたんだ。これを使えば誰でも魔法がかけられる」
「そんな便利なものがあるのか」
「一枚のカードには一回分の魔法しか封じることができないし、一回使うと灰になって消えてしまうけどね」
トルメカはカードを男の子に手渡した。
「使い方、わかるかい?このカードを傷口の方に向けて念を送るんだ。そしたら白い光が出てきて、傷口の治療ができるからね。お父さんかお母さんにやってもらうといい。今すぐはだめだよ。まださっきかけた魔法の効果が残っているから。三日ぐらい経ったらこれを使うんだ。わかったね」
男の子はうなずいて、小さな声で「ありがとう」と言って去って行った。
再び歩き始めたガーモルは、感心した様子でトルメカに話しかけた。
「へえ。『魔法カード』か。そんな便利なものがあるなんて全然知らなかったな」
「当然だよ。まだ発売されたばかりだもの」
「なんだ。そうなのか」
「うん。でも早くもブームの兆しがあるんだって。新聞に載ってた」
「俺のまわりでは見かけないけどな」
「たぶん、これからだよ。今僕の持っているのは何も入っていないカードだけど、予め色々な魔法が封じられたものも売り出されるそうだから」
「じゃあ、おまえの父さん、商売上がったりだな。治癒魔法のカードが出回ったら誰も病院に来なくなる」
「難病や大怪我を治すような高度な魔法は普通のカードには入りきらないんじゃないかな。それに、そんなカードが売りに出されたとしても、ものすごく値段が高くなると思う」
「そう言ゃあ、そうか……。おい、一枚見せてくれよ」
トルメカは鞄からカードを取り出して、ガーモルに渡した。
「なんだ。どうってことのない、ただの紙きれにしか見えねえが……。ん?何、『製造、発売元、ベチューン・エンタープライズ』だって?」
「そうだよ。魔法カードの売れ行きが好調で、またベチューン社の株価が上がったって言うけど。確かガーモルのクラスにはベチューン家の跡取り息子がいるんだよね……。どうしたの?ガーモル」
ガーモルはマステール・ベチューンのにやけた顔を思い出すと、また嫌な気持ちになった。
「何でもねえよ」と言いながら、しかめっ面を空に向け、長い髪を掻き上げた。
その日の夕食時、父と妹と共に食卓を囲んでいるときにさえ、ガーモルの気は晴れていなかった。ガーモルは、うじうじといつまでも悩むような人間は嫌いだし、自分自身そのような性格ではないと思っている。しかし、今日に限っては、いつまで経ってもマステールのにやにや顔とミイナの晴れやかな笑顔が頭から離れなかった。
そんなことはおかまいなしに、彼の父はいつもの調子で酒杯を次々干している。何杯目かの杯をテーブルの上に置いた時、赤銅色の顔をテカらせながらガーモル睨んだ。
「おい、ガーモル、高校はどうだ。勉強についていけそうか」
「まあな」
「何度も言うが、うちにゃおまえを四年も五年も学校に通わせる金はねえぞ。落第したら、即左官の修業だからな」
「わかってるよ」
「父ちゃんはな、中学校もろくに行かなかったから、後になって苦労したんだ。だからおまえたちはできるだけちゃんと学校に行かせてやりてえ。そのために毎日汗水垂らして一生懸命稼いでやってるんだからな。父ちゃんが頑張ってるぶん、おまえたちも頑張らねえとだめなんだぞ。何事も手を抜いちゃいけねえってことだ。やるとなったらとことんまでやる。勉強でも、左官の仕事でも、だ。少しでも手を抜いてうまく行かなかったからって、後になって言い訳したって、誰も聞いちゃくれねえ。何も休み時間まで勉強しろとは言わねが、授業時間は一分だってムダにすんじゃねえぞ……」
ガーモルは余計に気が滅入ってきた。この内容の演説はもう百回も聞かされているだろう。彼の父は酒が入ると同じことを何度でも言う癖がある。
妹のコクィルはガーモルにウィンクして見せた。兄と同じことを感じている、と言う意味なのだろう。コクィルは父親の演説が一段落したのを見計らって、話題を変えようとした。
「そう言えば、父さん、今度の仕事は上流階級のお屋敷なんだって?」
「あ?ああ、そうだ。ロックレスト通りにある社長さんの家だ」
「さぞかし立派なお家うちなんでしょうね」
「立派も何も、広い敷地の中に三つも四つも建物があって、プールがあって庭園が幾つもあって……ってな調子だから、昨日でも昼休みの後、迷子になっちまって仕事場に戻って来れねえ奴がいたりして、作業が遅れて困ってるんだ。次の日曜日は、休みなしだな」
「へえ、すごい。プールがあって庭園があって……か。夢のような話だわ。どんな人が住んでるのかしら」
「何て言ったっけな。有名な会社の社長さんなんだけどな。思い出せねえ。……そう言やあ、夕方になると立派な馬車が屋敷に戻って来て、ガーモルぐらいの歳の子が降りて来るんだよな。ありゃ確かガーモルと同じ制服だったと思うんだが。今日なんて女の子を二、三人連れて降りて来たぜ。やっぱりもてるんだろうな、社長令息ともなりゃ……」
「お兄ちゃんの学校って上流階級の人、多いんだってね。あたしも聖レジーナをうけようかな。上流階級の男の子と知り合ってうまく行けば玉の輿に乗れるかも」
「やめとけ。上流階級ったって、それなりに苦労はあるんだ。おまえは普通の奴と結婚して普通に幸せになってくれりゃいい。余計な苦労をする必要はねえ。……そうそう、思い出した。ベチューンだ。あのベチューン財閥の社長の家だ。そうだった。どうしてこんな有名な会社が思い出せなかったんだ……。おい、ガーモル、もう食わねえのか」
「ごちそうさま」
ガーモルは一番聞きたくない名をまた聞いてしまって不機嫌の極みに達していた。席を立って、食卓から五歩ほどしか離れていない自分のベッドに横になり、壁の方を向いた。父親と妹はその様子を不思議そうに見守っていた。
日曜日、ガーモルが目を覚ました時、太陽は南の空高くにあった。昨日久々に中学時代の友人と会い、夜遅くまで騒いでいたからだ。
ガーモルの友人の中で高校に行ったのは、トルメカを除けば一人だけ、それも遠くの町の産業高校である。他の三人はすでに働いている。高校に入学できなかったのはそれぞれの家庭の金銭的な事情もあるが、成績と素行の悪さが内申書の評価を下げていたことも大きな理由だった。彼らとたいして変わらない成績、素行だったガーモルが聖レジーナにうかったのは、ほとんど奇跡と言って良い。
ヘーゼル中学校の問題児五人組が一同に会するのは一ヶ月ぶりだ。入学できなかった三人は卒業式の翌日から働きに出てしまったためだ。ようやく昨日、五人のスケジュールが合った。
彼らは久々の再会を喜んだ。しかし話しているうちに、ガーモルは何となく、働いている三人との間にギャップを感じ始めた。どちらかと言うとあまり仲の良くない産業高校の友人と話している時間が長かった。それでもガーモルは十分楽しむことができた。お蔭で、ここ数日続いていた心のもやは消えてなくなった。
ガーモルは起き上がり、鼻歌混じりで普段着に着替え、顔を洗い、パンをかじった。部屋の一角を覆うカーテンの中から、カリカリとペンの音がしている。最近コクィルはよく勉強しているな、感心、感心。ガーモルは「良いお兄さん」ぶりを装いながら、カーテンに歩み寄った。
「コクィル、勉強ははかどっているかな」言い終わらないうちにカーテンを開いた。
「きゃっ、お兄ちゃん」
慌てた様子で、コクィルはノートを閉じた。
「もう。カーテンを開く前に声をかけてよ。着替えてるかも知れないでしょ」
コクィルは兄そっくりの目で睨んだ。
「ペンの音がしてたじゃねえか。勉強しているところを見られたら都合が悪いのかよ」
「ここはあたしのプライベートな空間なんだからね。プライバシーは守って」
「ははあ、おまえ、俺に見られて困るようなものを書いてたんだな。何だ?ラブレターか?」
「違うってば」
コクィルは体でノートを覆い隠そうとした。その拍子に手があたって、ノートは机の外に弾き飛ばされた。
「あっ」
コクィルが慌ててももう遅かった。すでにガーモルが拾い上げていた。
「これは……交換日記?」
「お兄ちゃん、お願い、返して」
「しかも相手は男……。そうか、そういうことだったのか」
ガーモルはこれ以上下品にはできない、というほどのにたにた笑いを浮かべた。
「あーん、返して」
「ほらよ、返してやる。そうか、おまえもついに彼氏ができたのか」
「そんなんじゃないって」
「じゃあ、俺の弟になるんだな」
「そんな関係じゃないってば」
「今度紹介しろよ。『ふつつかな妹ですがよろしくお願いします』って言ってやるからよ」
「もう、意地悪」
コクィルは口を尖らせてそっぽを向いた。
ガーモルは妹の机から離れようとして、さっき気になったことを思い出した。
「そう言やあ、父ちゃんはどこに行ったんだ。競馬か」
「父ちゃ……父さんなら今日は仕事。この間言ってたでしょ。ベチューン邸の作業が遅れてるって。だから今日は休日出勤なの。あたし早く起きてお弁当作ってあげたんだから」
「そうか、そいつぁ大変だったな。しかし……」
ガーモルは食卓の上に置いてある風呂敷包みを指差した。
「あれはどう見ても、父ちゃんの弁当箱だと思うが」
「あっ。父さん忘れて行ったんだ」
「バカなおやじだ。夕方にゃ腹すかしてぶっ倒れちまうんじゃねえのか」
「ねえ、持って行ってあげようよ。せっかく作ったんだし、お腹すかしてかわいそうだし」
「俺も行くのか」
「だって、あたし一人じゃ心細いもん。ロックレスト通りでしょ。何か、あそこって一般庶民は入り辛いのよ。だから一緒に行こ。お兄ちゃん、今ヒマでしょ」
ガーモルは断る理由が思いつかず、結局連れ出されてしまった。
乗り合い馬車でめずアルテーラ中心部に行き、そこで山の手へ向かう馬車に乗り換える。太陽が真南を通り過ぎた頃、馬車はロックレスト通りに着いた。
山の手に入った辺りから、すでに周囲の家々はガーモルの家の数倍の大きさになっていたが、兄妹が馬車から降りた時に目に映ったものは、家と呼ぶにはあまりに大きすぎた。聖レジーナ学園の校舎とそう変わらない規模のものもある。
さらにロックレスト通りを上へと登って行くと、むしろ建物が見あたらなくなった。敷地が広くて、建物が通りから離れた、ずっと奥の方にあるためであろう。
しばらく通りを歩いているうちに、左手に「ベチューン」と彫られた大理石のプレートが見えてきた。巨大な門の脇にある小窓に用向きを告げると、門衛が通用口を開いた。門衛のおじさんは親切な人で、門番の仕事を同僚に任せ、ガーモルたちを改築中の屋敷へと案内してくれた。たっぷり五分は歩いただろう、やがて壁の半分だけがモルタルで覆われた建物が目に入った。
ガーモルの父は木で組まれた足場の上で、一心不乱にこてを操って、モルタルを塗りつけている。
「父さーん」
コクィルが声をかけると、父は振り向き、表情を変えずに足場を降りて来た。
「父さん、これ、お弁当。忘れてたでしょ」
「わざわざ持って来てくれたのか。すまねえ」
父は少しだけ頬を緩めた。そして壁の方を振り返って、足場の上にいる二人の職人に声をかけた。
「おい、おまえら、俺はちょっと飯を食うからな。ちゃんとやっとくんだぞ。今日中にこの壁を仕上げちまわねえと納期までに間に合わねえんだからな」
「へい、親方」
父は積み上げられたセメントの袋の上に腰を下ろし、弁当を開いて食べ始めた。
「忙しそうね」
コクィルが言った。
「ああ、まあ、いつものことだ。これくらいはな」
ガーモルは父の横顔を見つめていた。酒の入っていない父は、それほどお喋りではない。それに今は仕事のことで頭が一杯なのだろう。ほとんど味わうことなく、黙々と弁当を口に運び、あっという間に食べ終わった。コクィルは水筒の茶をカップに注いで父に差し出した。
「ああ、すまねえ」
父はつま揚子で奥歯をつつきながら言った。
「今日はちっと遅くなりそうだ。おまえたち、夕メシは外で食え。ほら、夕メシ代だ」
父は紙幣を一枚ガーモルに手渡した。
「ああ、わかったよ。じゃあ、俺たち帰るから」
「ああ」
「父ちゃん、お仕事頑張ってね」
コクィルは、二、三年前までそうしていたように、つい父を「父ちゃん」と呼んでしまった。
ガーモルとコクィルが歩きだそうとした時、背後で声がした。
「おい、ここの責任者は誰だ」
「へえ、私ですが」
父が慌てて立ち上がり駆けて行った先に立っていたのは、マステールだった。
「あの窓枠の下の部分は角ばったデザインにしてくれと言っただろう。どうしてあんな形に仕上げた」
「へえ、これからやり直すところでさあ」
「そうか、ならいいんだ……。おや、そこに立っているのはガーモルじゃないか。君がなぜここにいる」
「俺は父ちゃんに弁当を届けに来ただけだ」
「この人が君の父上なのか」
マステールはさっきとはうって変わってうやうやしい態度で左官屋の親方に言った。
「これは失礼しました。僕はガーモル君のクラスメートでマステールと言います。ガーモル君にはいつもお世話になっています」
「と、とんでもねえ。うちの息子こそお坊っちゃんに迷惑ばかりかけてるんじゃねえですか」
「いやいや、いつもガーモル君にはよくしてもらっています。そうだろう、ガーモル。……ところで、ガーモル、そちらのレディーはどなただい」
ガーモルはマステールの視線の先にいるのが、凡そレディーという言葉にふさわしくない、自分の妹だとわかって苦笑した。
「こいつは俺の妹だ」
しかし、当のコクィルの方は、何かに取りつかれたように、じっとマステールを見つめている。
「どうした、コクィル」
「え?あ、えっと、私、あの、コクィルと言います。は、はじめまして」
マステールは例のうすら笑いのような表情でコクィルを眺めている。
「そうか、ガーモルの妹か。こんな清楚で品の良さそうなレディーがガーモルの妹さんとは驚いたな……。これは失敬、別にガーモルが粗野だとか下品だとか言ってるわけではないんだ。ただ妹さんがあまりにもお美しいのでそれを強調して言っただけだ。そうだ、君たち、これから僕の部屋でお茶でも飲まないか。僕は夕方から魔法のレッスンがあるが、それまでの間、些か暇があるんだ。どうだね、御一緒してもらえるかい?」
マステールはコクィルの方だけを見てそう言った。ガーモルはマステールの顔を睨みつけた。
「いや、遠慮しとく。俺たちは俺たちなりに忙しいんだ。おまえのヒマつぶしにつき合っちゃいられねえ。おい、コクィル、帰るぞ」
「えっ、でも……」
コクィルはマステールから目を離さない。
「帰るったら、帰るんだ。じゃあな、父ちゃん」
ガーモルはコクィルの腕を引っぱった。
「マステールさん、さようなら。お父さん、私帰るから」
コクィルはそう言って、しぶしぶ歩き出した。名残惜しそうにマステールの方を何度も振り返りながら、去って行った。




