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アイ・ラブ・ライバル  作者: aziy
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 満開のサクラ並木の下を一人の少年が駆けて来る。

 真新しい紺のブレザーに身を包み、緑色のネクタイを真っ白なワイシャツの前で揺らしている。散髪したてなのだろう、黒い髪は耳の上とうなじできっちりと切り揃えられている。

 彼は足を止めた。あまり大きくない平屋の玄関ドアの前である。

「ガーモル君、学校行こ」

 少年は大声を出した。

 しばらくの沈黙。ドアの向こうからバタバタいう音。いきなり扉が開いて出て来たのは背が高く髪の長い少年だった。白いワイシャツを着ているが、下はトランクス一ちょうだ。

「ああ、トルメカ、悪りい。ちょっと待ってくれ」

 彼は扉を閉めずに奥へ入って行った。しばらくして

「じゃあ、行って来るぜ」と声がしたかと思うと、玄関から先程の少年が飛び出して来た。今度はブレザーとズボンと緑色のネクタイを身に付けていた。

 二人は並んで通りを歩き始めた。

「どーでもいいけどな、トルメカ」

 ロン毛の少年が言った。

「俺たちは今日から高校生なんだから『ガーモル君、学校行こ』ってのはやめようぜ。恥ずかしくて」

 トルメカと呼ばれた少年はいたずらっぽく微笑んだ。

「だって、幼稚園、小学校、中学校と、ずっとこうやって呼んできたんだよ。今さら変えるなんて何か照れ臭い」

「だめだ。明日からはやめてくれ」

「わかったよ。ガーモルがそう言うなら」

 トルメカはガーモルを見上げながら言った。トルメカの身長はガーモルの肩までしかないのだ。

 歩いているうちに、彼らと同じデザインの服を着た男子生徒や、紺のブレザーに緑色のリボンを首元で締め、緑色のチェックの入ったギャザースカートをはいた女子生徒が目につき始めた。ズボンの折り目やスカートのギャザーはどれもきっちりとアイロンがかかっている。ワイシャツの白さも目に眩しい。

 やがて彼らの前方に大きな門が見えてきた。生徒たちは門のアーチの下をくぐり抜けて中へ入って行く。ガーモルとトルメカは門の前に立ち止まってアーチを見上げた。

「聖レジーナ学園」

 アーチには古めかしい字体でそう書かれている。

「よく入れたもんだ」

 ガーモルが言った。

「他の高校は全部落ちたからな。もし聖レジーナがだめだったら、今頃父ちゃんに左官の修業をやらされてたんだろうな」

 トルメカはガーモルの顔を見上げた。

「よかったね。これでまた三年間ガーモルと一緒だ。僕嬉しいよ」

 ガーモルはトルメカのにこにこ顔に目をやった。気が弱くてうじうじした、トルメカのようなタイプの人間は、ガーモルはあまり好きではない。しかしトルメカは例外だ。彼のにこにこ顔を見ていると、なぜか憎めないのだ。

「あのなあ、トルメカ。俺、高校ではちゃんとクラブを続けるぜ。早朝練習もあるから一緒に学校に来られるとは限らねえ」

「うん、わかってる。でも僕、ガーモルと同じ学校に通える、っていうだけで満足なんだ」

 トルメカの瞳がきらきらと輝き始めた。まるで恋する乙女のように……。トルメカがこの目をする時だけは、いくらガーモルでも背筋が寒くなる。

 ガーモルは気を取り直してもう一度アーチを見上げてから、「いくぞ」と言って中へ入って行った。

「あ、待ってよ、ガーモル」

 トルメカは慌ててその後を追った。

 生徒たちの群れに混じって、二人は校内を進んで行く。

 ガーモルは辺りを見回した。建築業の父を持つ彼の目は自然と建物の方に向いてしまうのだ。建物はどれも築十年程度と、比較的新しい。建築様式の古風さが辛うじて学園らしい重厚さをかもし出しているように見える。

 生徒たちは講堂の入り口に吸い込まれて行く。講堂の入り口の横には「三百二十九年度聖レジーナ学園高等部第十二期入学式々場」と書かれた看板が立ててある。

 ガーモルとトルメカは入り口で係の者に、入学整理番号を告げるよう求められた。二人が告げると、係の者は座席番号カードを手渡した。

「A-三十五か。トルメカ、おまえは?」

「僕は……C-十一。たぶんこれがそのままクラス分けになってるんだよ」

 入り口か講堂の中を見渡すと、何百人もの生徒たちが三つのかたまりに分かれて、背中をこちらに向けて座り、式の開始を待っている。

「俺あっちだから」

 ガーモルは右のかたまりを指差した。

「うん、またあとでね」

 トルメカは左の方へ歩いて行った。

「ええと」

 ガーモルは右のかたまりに歩み寄った。よく見ると生徒たちは、横に長い木製の机の前に座っている。一つの机に対し席が七、八人ぶんほど割り当てられていて、そんな机が数十列、演壇から入り口の方へずらっと並んでいるのである。席の七割ほどがすでに着席者によって占められている。

 入り口に近い座席は保護者や関係者用に割り当てられており、それより前方には在校生席、ガーモルたち新入生用の席は演壇に近いところにあった。Aと書かれた立札が立っている。

「三十五、三十五っと」

 ガーモルは、右の机の列のさらに右側にある通行用スペースを通って前方へ歩を進めならがら、机の端に貼り付けられている小さな座席番号札を頼りに自分の席の割り当てられている机を探した。

「あった」

 「三十三〜四十」という番号を目に止め、そう呟いた。

 その机にも、もうすでに五人の生徒が着席済みだった。ガーモルの席である三十五番は中程にあるため、そこへたどり着くためには、着席済みの生徒三人に一旦立ち上がってもらわなければならない。

「ちょっくらごめんよ」

 ガーモルがそう声をかけると、手前の二人の男子生徒は事務的かつ速やかにに立ち上がってくれた。

 その時、ガーモルは、彼らの座っていた座席の座面が後ろに跳ね上がったことに気づいた。座面が跳ね上がるのは劇場の座席によくある仕組みだが、劇場と違い、ここでは座席の前には机があり、さらに前の座席の背もたれが机と一体なっている。座面も、クッションなどない木製の板にすぎない。劇場というよりむしろ、教会で見られるタイプの座席に近いかもしれない。

 とはいえ、これらの机や座席は当然、外から持ち運んで置かれているのではなく、この講堂に作りつけられているものである。この建物が体育館兼用でないことは明らかだった。先日まで通っていた公立中学校のように、普段は体育館として使っている建物に式典の時だけ仮の椅子を並べるのとは違う。ガーモルは改めて、ちょっぴり格式の高い学校に合格できた奇跡を噛み締めていた。

 もっとも、学校の経営者が、たかが生徒のために十分な居住性を講堂に保証してくれるほど、世の中甘くはない。後ろの座席との間隔はお世辞にも広いとは言い難い。そのため、自分の席へ向かおうとするガーモルは、いま立ち上がってくれた生徒とほとんど体が擦れ合うようにして通りすぎることを余儀なくされていた。

 困難はそれだけではなかった。彼が座るはずの席の、隣りの席では女子生徒がどっかと陣取っていて、ガーモルの進路を遮っているばかりか、ガーモルが近づいてきていることにも気づかず、背を向けて後ろの女子とぺちゃくちゃ話をしていたのである。

「ちょっとごめん」

 ガーモルは立ち上がってくれた男子生徒の体と机の間の狭いスペースをすり抜けながら、その女子の背中に声をかけた。

 しかし、気づいたのは後ろの席の眼鏡の女子だった。

「ほら、ミイナ、どいて、って言ってるよ」

「えっ」

 背を向けていた女子はガーモルの方を振り返った。透き通るような白い肌がガーモルの目に焼きつく。

「あ、ごめん」

 その女子は立ち上がり、座板をはねて、尻を精一杯後ろの机に張り付けた。ガーモルも可能な限り彼女と間隔をとるようにしながらその前を通り過ぎた。それでも彼女のスカートと彼のズボンが擦れ合う。

 ガーモルは自分の席の座板を下ろし腰かけた。顔は前方に向けたまま、いま擦れ違った隣の女子の方へ、眼球だけを動かしてちらっと目をやった。彼女はすでに腰かけていて、さっきと同じように後ろの女子と話をしていた。ガーモルの視線に気づいて、咎められたと感じたのか、

「じゃ、またあとで」

 と言って、前を向き直った。

 本来なら、このような狭苦しい状況で気を利かせることもできないその女子生徒に、もっと腹を立ててもおかしくはない性格のガーモルだが、この時はさほど腹は立たなかった。心の中で、俺も少しは大人になったか、などと呟いて苦笑いした。

 ガーモルは辺りを見回した。ほとんどの生徒が黙ってうつ向いている。隣の女子のように会話をしているものは極めて少ない。まだ知り合いもいないはずだから、それが自然の姿である。

 そこでまた、隣りの女子が気になり始めた。ガーモルは今度は視線さえ正面に固定したまま、視界の右隅に映るぼやけた映像に神経を集中した。彼女も黙って前を向いているようだ。

 その時、講堂の後ろの方からざわめく声が聞こえてきた。ガーモルは振り返った。一人の男子生徒が講堂の入り口に姿を現した。

 ガーモルの背後で誰かが「あれがベチューン家の御曹司よ」と囁くのが聞こえた。

 その男子生徒は講堂内の大多数の生徒が注視する中を、悠然と歩いて来て、ガーモルの近くを通り過ぎた。背は少し多角スリムな体つきをしている。注目を浴びることを楽しんでいるかのように、不敵なうす笑いを浮かべている。一番前の席の傍らに立ち止まり、左端に座る生徒に言った。

「君、すまないね。僕の席は三番目なんだ。悪いが、どいてくれないか」

 変声期を過ぎた男子にしては高い声だ。しかしその口調は威厳に満ちていた。

 声をかけられた生徒とその隣りの生徒が慌てて立ち上がろうとした時、

「お坊っちゃま」と後ろの方でしわがれた声がしたので、ガーモルは再び振り返った。背広に蝶ネクタイを締めた妙に低姿勢の老人が、足早にやって来て例の男子生徒のすぐ前に立った。生徒のほうはうんざりした表情で老人を睨んだ。

「爺。こんなところまで来ることはないだろう。他の保護者と一緒に講堂の後ろで待っていてくれればいい」

「しかしお坊っちゃま、このような粗末な椅子に腰掛けるのはさぞお辛いでしょう。そう思ってクッションをお持ちしただけでございます」

「爺、お父さまも言っていただろう。僕はもう高校生なんだから、自分のことは自分でやる。爺は余計なことをしなくてもい。さあ、あっちへ行ってくれ」

「はい……」

 老人はすごすごと後ろの方へ歩いて行った。

 その生徒が席に着くのを待っていたかのように、入学式の開始を告げる鐘が鳴った。





 このような形式ばったセレモニーほど退屈なものはない。ガーモルは式の間、あくびをこらえるのに必死だった。しかも校長の話がまた一段と退屈だった。ガーモルは遂に退屈に耐えることにさえ飽きてしまい、一部の真面目生徒の真似をして、その話に耳を傾けてみた。

「……というわけで、このエルバイン王国の首都たるアルテーラに亡き理事長が当学園を設立してわずか十余年、すでに数多くの優秀な卒業性がエルバイン王宮をはじめ各方面で活躍しています。君たちにとっては誇るべき先輩です。それら先輩の残していたものを引き継ぎ、さらにそれを大きなものにしてゆくよう、これから三年間、日々学業にスポーツに励んでもらいたい……」

 ガーモルはまた沸き上がるあくびを噛み殺した。涙が目から溢れそうになる。顔を上げると、一番前に座っているさっきの男子生徒が目に止まった。背筋を伸ばして微動だにしない。

 その時、急に隣りの女子生徒がうつ向いて口に手をあてた。彼女はしばらく身をこわばらせたかと思うと、目から涙をこぼした。あくびを我慢しきれなかったようだ。

 ガーモルはつい、顔を彼女の方へ向けてしまった。先ほどから、ちらちらその女子の方を伺ってはいた。だが、視界の正面で彼女の顔をはっきり捉えたのはこの時が初めてだった。少しつり上がった、あくびのせいで涙目になっている目。やや大きな口。色白の頬。鼻は高くないが、こじんまりと美しい形をしている。

「た、退屈だな」

 ガーモルは思わず小声でそう声をかける。

 すると、彼女もその涙目をガーモルの方へ向けてきた。

「そうだね」

 彼女のつり上がった目尻は、微笑みによって幾分押し下げられた。

 瞬間、ガーモルの中で何かが弾けた。ガーモルは胸の高鳴りを止めることができなかった。

 不思議な輝きを持つその笑顔は彼の頭を完全に占領してしまった。





 その後入学式がどのように進んだのか全く記憶にない。

 気がついたら閉会が宣言されていた。





「皆さん、注目してください」

 前方から声がしたのでガーモルは目を上げた。見ると、演壇と座席最前列の間にあるスペースに、黒いマントのようなものを羽織り、小さな眼鏡を鼻の上にちょこんとのせた、色白の男の人が立っている。

「はじめまして。私はA組の担任をやらせていただくことになった、ノベル・ウォルコクスです」

 声のトーンは高いのにあまり響きのない、弱くこもったような声だ。

「これから皆さんを教室に案内します。私の後ろについて来て下さい」

 生徒たちは立ち上がって、ぞろぞろと彼の後に続いて講堂を出た。

 さっきガーモルの隣に座っていた娘こは眼鏡の女子と何事か囁き合いながら歩いている。

 見ると、校庭では二、三年生たちがクラブの練習を始めている。ルリアットボール部とバーカスト部が校庭のほとんどを占領している。トルネス部は校庭の端に三面ほどとられたコートの上で、ラケットの素振りをしている。

 学園の敷地を外と隔てている塀にそって満開のサクラの木が並んでいる。エルバイン王国特産のこの花は春に学校が始まるこの国の人々にとって新入学、新学年の象徴と見なされている。

 いつの間にか、他のクラスの生徒は校舎に入ってしまったようだ。ガーモルたちを先導するウォルコックス先生はなお奥の方へと進んでゆき、学園の敷地の一番北端に建つ平屋の前でやっと足を止めた。

「ここが一年A組の教室です」

 ガーモルをはじめA組の一同はア然としてその建物を見上げた。どう見ても掘っ立て小屋としか思えない。朽ちた材木とトタン板の隙間から中が透けて見える。風が吹けば倒れてしまいそうだ。いままで見てきた他の校舎はどれも二階建てで、レンガやモルタルで造られていたのに。

 ウォルコックス先生は鍵を取り出し、扉を開いて中に入った。生徒たちもそれに従った。外見は粗末だったが、中は一層ひどかった。どの机にもほこりがたまり、ほとんど壊れかけている。

「これは何ということだ」

 ガーモルの横で一人の男子生徒が呟いた。入学式の時注目を浴びていたあいつだ。確かベチューン家の御曹司とか言っていた。

「お父さまに頼んで別の教室に移させてもらおう」

 彼はぶつぶつと一人言を言っている。

「すっごいほこり。あーん、ブレザーが真っ白」

 そう言ったのは講堂でガーモルの隣りに座っていた彼女だ。ミイナと呼ばれていたはず。

「ねえアンナ、ほこり払って」

 と眼鏡のをかけた娘こに言った。その娘はパンパンとブレザーをはたいたが、舞い上がったほこりが再びブレザーの上に積もる。

「すごい教室ね」

 アンナと呼ばれた眼鏡の娘は言った。入学式の時ミイナの後ろに座っていた女子だ。

「他のクラスはもっとちゃんとした校舎に入って行ったわよね。どうしてうちのクラスだけこんな待遇なのかしら」

 ミイナが答えた。

「もしかしてA組って入学試験の成績が悪い生徒を集めた特別学級なんじゃない?」

 ウォルコックス先生はほこりにむせながら窓を開いた。

「とりあえず窓を全部開けて下さい。こんなひどい環境では……ごほごほ」

 生徒たちは窓を開け放ったが、ほこりは容易には教室から出て行こうとはしなかった。

「変ですね。前にこの教室を使ったクラスが掃除を怠ったのでしょうか。とにかく、まず掃除をしましょう」

 ウォルコクス先生は教室の一番後ろにある掃除道具入れを指差した。生徒が自ら教室や学校の施設を掃除するのがエルバイン王国の学校の風習なのだ。そのための掃除道具が各教室に備え付けてある。

 生徒の一人が掃除道具入れを開けると、中にはほうきもちり取りもなかった。代わりに鼠が三匹飛び出して来た。

「きゃーっ」

 女子生徒たちが金切り声を上げて逃げ回った。一部の男子生徒が何とか教室の外へ追い出そうとしたが、すばしっこくてうまくいかない。

 一匹がアンナの足元を駆けずり回った。

「きゃーっ。どうにかして」

 彼女はそばにいたベチューン家御曹司に助けを求めたが、彼は及び腰で鼠の周りをうろうろするだけだった。

 ガーモルは鼠を彼女から引き離そうと、蹴るふりをして威嚇した。するとその鼠はミイナの足元へ逃げていった。彼女は右足を繰り出した。

「えい」

 かけ声と同時に革靴の先で鼠を蹴っ飛ばした。鼠の体は宙を舞い、扉の開け放たれた入り口の外へと消えていった。

「お見事」

 思わずガーモルの口から賞賛の言葉が漏れた。アンナも

「ミイナ、すごい」

 と言って驚きの目をミイナに向けた。

「いぇい」

 ミイナは右手でVサインを作ってアンナとガーモルに向けた。その得意げな表情を見ていると、またガーモルの心がときめいた。

「おまえ豪快なやつだな。他の女子はみんな怖がっているのに」

「えっ」

 ミイナは少し怪訝そうな顔をしたがすぐに笑顔に戻った。

「どう、あたし、Eリーグの選手になれる?」

「間違いねえ。得点王だって夢じゃねえよ」

「へへっ、じゃあ、あたしヴェルティックスに入ろうかな。カーズとツートップを組むっのはどう?」

「あそこは選手層が厚いからな。他のチームの方が活躍できそうだぜ」

「でも地方のチームからスカウトされたらどうしよう。あたしアルテーラを離れたくない」

「こらこら、本気で悩むな」

「ああっ、せっかく冗談につき合ってあげたのに」

 ミイナは少しすねた表情を作った。子供っぽさのなかにほんの一滴だけ大人びた恥じらいを注いだような表情だった。

 その時、教室の前の扉が開いて、中年の女性が顔を出した。

「何やってるんですか」

 逃げ回る鼠に大騒ぎしていた生徒たちは一瞬動きを止めてその女性を見やった。ウォルコックス先生も不思議そうな顔をしていた。

「おや、ハノーヴル先生。うちは教室があまりに汚いもので……。B組はどうなんですか」

「ウォルコックス先生。一年A組の教室は新しい南校舎ですよ。うちの隣りが妙に静かだからまさかと思って見に来たんです。この仮設校舎は去年の夏から使っていないのです。見ておかしいと思わなかったんですか」

「ああ、そうだったんですか。どおりで……」

 ウォルコックス先生は後ろ頭を掻きながら生徒の方を振り向いた。全生徒は彼に白い目を向けていた。





 一年A組の本当の教室はまだ作られて間もないピカピカの校舎の中にあった。

「いやあ、面目ない」

 ウォルコックス先生は新品の椅子に腰掛けている生徒たちの前に立って、また後ろ頭を掻いている。

「去年まで一年生の教室は北の校舎にあったんですが……。ははは、いやそれにしてもこの教室は立派だなあ」

 生徒たちはなおも白い目で彼を睨んでいる。

「とりあえず、自己紹介といきましょう。私は、さっきも言いましたが、ノベル・ウォルコックスです。魔法学の担当です。担任をするのは初めてなもので、慣れないうちは不都合な点もあるかと思いますが、精一杯努力したいと思いますので御指導、御鞭撻のほどを……」

 動揺しているせいか、先生は校長か教頭にでも話す口調になっている。

「何か頼りなさそうな先生だね」

 ミイナは小声でガーモルに言った。暫定的に、生徒は前から出席名簿順に座っているため、入学式と同様ガーモルの隣りがミイナなのだ。

「では自己紹介を始めて下さい」

 先生は少し教師らしさを取り戻し、一番前の左端に座っている生徒に目で合図した。ファミリーネームがたまたまAで始まっているというだけの理由で一番に自己紹介をさせられる羽目になったその生徒はたどたどしく名前と出身中学を述べた。次の生徒は少し心の準備ができていたため、一人目よりはましだった。

「では次」

 三番目の生徒はゆっくりと立ち上がり、胸を張って見下すような目つきで生徒たちを見渡した。

「僕の名はマステール・グラウノウィッツ・フォン・ベチューン。ノースキャップ学園中等部の出身だ」

 静かだった教室が少しざわめいた。

 ノースキャップ学園と言えば名門中の名門、超エリートだけが通う学校だ。確か幼児部からエスカーレーター式に大学まで行けるはず。なぜこっちの学園に移ったのだろう。ガーモルは心の中でいぶかった。

「僕のうちはロックレスト通りにある。いつでも遊びに来てくれたまえ」

 マステール・ベチューンは着席した。ミイナがガーモルに囁いた。

「ロックレスト通りってあの高級住宅街でしょ?どの家にもプールとか球技コートとかあるんだって。さすがベチューンよね」

「いつでも遊びに来いったって、あの地区に一般人が足を踏み入れるのは勇気がいるぞ」

「きっと一般人は彼の眼中にないのよ。このクラスにも結構お金持ちとか上流階級の子がいるみたいだから」

 ということはミイナはそれほど裕福な家の出ではないということか。左官屋の息子にすぎないガーモルはますますミイナに共感を覚えた。

 二人が話しているうちに、すでに大部分の生徒が自己紹介を終えていた。

「では次」

 ウォルコックス先生に指差されて、ミイナは慌てて立ち上がった。

「えっと、私はミイナ・ストレール。グリムス通りのエッセル中学校の出身です。趣味とか特にないけど……そうね、面白いことが好きです。よろしくお願いします」

 グリムス通り?うちの近くではないか。ガーモルは心の中で喜んでいるつもりだったが、知らず知らずのうちに顔に現れていた。

「次。そこのにやにやしている君」

 ウォルコックス先生はガーモルを指差した。

「は、はい」

 ガーモルが出し抜けに立ち上がるのを生徒たちは不思議そうな表情で見つめた。

「えー、僕はガーモル・タウメルです。ヘーゼル中学校の出身です。よろしくお願いします」と、セリフの棒読みのような口調で言って、席に着いた。

「ちぇっ『にやにやしている君』はないだろうが。何なんだ、あの先公は」

「でもガーモル、あんた本当ににやにやしてたよ。何が面白かったの」

 やった。ミイナにガーモルと呼んでもらえた。

「お前の顔」

「あたしの顔?ははぁ、さてはあたしがあんまり美人なもんだから、エッチなことでも考えてたんでしょ」

「自分で美人って言うかぁ」

「あっ、そこで素すに戻らないで。もう一押し冗談が欲しかったな」

 変な女……。ガーモルはそう思ったが、彼女に対する興味は衰えるどころか、逆に増していった。

 ほとんど静かな教室で、ガーモルとミイナだけが雑音を発していた。先生と他の生徒が咎めるような視線を送ってきたので、二人はそれ以上話をしなかった。

 自己紹介が終わると、ウォルコックス先生は明日以降の予定を告げ、解散を宣した。生徒たちは先生にさよならを言って、三々五々教室を出て行った。

 ガーモルが教室を出ると、トルメカが廊下で待っていた。

「ガーモル、一緒に帰ろ」

「トルメカ。わざわざ待っていてくれたのか」

 ガーモルのクラスは他の二クラスより終わるのが大分遅くなってしまったようだ。隣りの教室もその隣りもしーんと静まり返っている。

「ガーモル、何か嬉しそうだね。どうしたの」

「えっ?いや、ちょっとな」

 教室の扉が開いて、中からミイナとアンナが出て来た。ガーモルが振り返ると、ミイナは小さく手を振った。

「じゃあね、ガーモル」

「お、おう」

 ミイナとアンナは歩き去った。ガーモルがその後ろ姿をぼーっと眺めているのを、トルメカは不思議そうに見つめていた。





「じゃあ、また明日」

 ガーモルの家の前でトルメカは別れを告げて去って行った。

 ガーモルは玄関の扉を開いた。ガーモルの家の中はひと部屋になっている。約八メートル四方のその部屋の一角がカーテンで仕切られていて、中でカリカリと紙にペン先を押し付ける音がする。

「なんだ、コクィル。いたのか」

 ガーモルがそこに向かって声をかけると、カーテンが開いて女の子が姿を現した。体は机に正対すしたまま首だけを彼に向けている。

「何言ってるの、お兄ちゃん。始業式は明日なんだから当たり前でしょ。お兄ちゃんだって去年まで中学生だったくせに、忘れちゃったの?」

 彼女の顔のつくりはガーモルとよく似ている。今は男女差が多少あるが、おそらく二、三年前までは一卵性双生児のようにそっくりだったに違いない。

「そうだっけ」

 ガーモルは首を傾げた。

「にしたって、春休みなんだからどっか遊びに行くとか、しないのか?」

「春休みだって宿題はあるんだし、それにあたし来年は高校受験なのよ。遊んでばかりもいられないでしょ」

「そうか。おまえも来年は高校生か」

「歳が一つしか違わないんだから当然じゃない。何か今日のお兄ちゃん、変。さっきから気持ちの悪いうすら笑い浮かべてるし。一体どうしたの」

「えっ?いや、何でもねえよ」

「ははあ、さては同じクラスにかわいい女の子がいたんで喜んでるんでしょ」

 ガーモルは生まれて初めて図星を差されるという気分を味わった。

「そ、そんなんじゃねえよ」

「だめよ、お兄ちゃんは全部顔に出るんだから。でもお兄ちゃんの高校、聖レジーナって良家の子女が多いって言うじゃない。向こうが上流階級の令嬢だったら、お兄ちゃんには高嶺の花ね」

「残念でした。彼女は一般庶民だ」

「あっ、やっぱりかわいい娘こに目をつけたのね」

「なんだ、鎌をかけただけだったのか。ちぇっ、余計なことを言っちまった」

「そっか。じゃあその人があたしのお姉さんになるわけね」

「気が早ぇえって。今日初めて会って二、三回口を聞いただけなんだぜ」

「会ったその日に話ができれば上出来よ。ねえ、うまく行ったらあたしに紹介してね」

「だから気が早ぇえって」

 そう言いながらも、ガーモルは一層にやにや顔になっていた。しかしこれ以上冷やかされてはたまらない。それにせっかく勉強している妹を邪魔するのも悪い。

 ガーモルは私服に着替え、食卓にのっているパンを二つ三つ口にねじ込んで、家を出た。

 ガーモルの家はエルバイン王国の首都アルテーラの、いわゆる下町にある。彼の家から南へ歩くとちょっとした大通りがあり、沿道はサクラが満開である。

 その下を、今一台の馬車が走り去って行った。下町にしては立派な造りの馬車。あれは確かトルメカののお父さんの馬車だ。大方往診に行くところなのだろう。

 ガーモルの右手に工場こうばなどが広がる地区が見えてきた。聞こえるのは鍛冶屋の鎚音、風車や水車の力を借りて糸を紡ぎ、布を織る音だ。さらにその向こうに波止場がある。ここからでも何張(はり)か船の帆が見える。

 ミイナの通っていた中学校のあるグリムス通りはここから波止場へ伸びる道だ。ミイナの家も当然あの地区にあることになる。波止場の近くはガーモルでさえ、幼い頃立ち入りを厳禁されていたほど柄の悪い地区なのだ。ミイナの家族ってどんな人達なんだろう……。

 やがて左手に比較的大きい頑丈な造りの二階屋が見えてきた。結局ここへ来てしまったか、と呟きながら、ガーモルはその前に立って呼び鈴を鳴らした。

 しばらく沈黙が続いた。ガーモルは扉の上を見やった。「クルプス診療所」と書かれた看板。扉の横のプレートには「診察時間 八時~十二時 十七時~二十時」とある。

 扉が急に開いて、出て来たのはトルメカの母だった。

「あらガーモル君。いらっしゃい。トルメカならいつものように地下にいるわよ」そう言って微笑んだ。彼女はかなりの美人で、体型も信じられないぐらいスリムだ。

 彼女はガーモルを中へ案内した。ガーモルは小さい時からよくここへ遊びに来ていたが、トルメカの母はいつも優しい笑顔で迎えてくれる。

 しかし悪戯したりしたガーモルやトルメカを叱る時にはとても厳しく、ガーモルを我が子トルメカと分け隔てなく辛辣な口調で咎め立てるのだった。それさえなければ申し分ないのに……。ガーモルはそう思っていた。が、今考えると、彼女は母親のいないガーモルのためにわざと母親らしく振る舞ってくれたのかもしれない。

 ともあれ、トルメカは良い母親を持って幸せだ。ガーモルはちょっぴりトルメカが羨ましいと思った。

「トルメカ、ガーモル君が遊びに来たわよ」

 母親は地下室の扉を叩いた。扉が開いてトルメカのにこにこ顔が現れた。

「ガーモル、遊びに来てくれたの?」

「ああ、ヒマだったからな」

「嬉しいな。ねえ、ガーモル、お昼御飯は?」

「パンを少しかじったが」

「そんなのじゃ足りないでしょ。お母さん、ガーモルの分ある?」

「ええ、たっぷりと作っておいたから。でもまだ出来るまで少し時間がかかるわよ」

「じゃあ、早く作って。僕たちここで待っているから」

「はいはい、わかりました。もうガーモル君が来ると途端に元気になるんだから」

 母親は階段を登っていった。

 二人は地下室の奥へ入った。ガーモルは何度もこの部屋に入ったことがある。但し五年前までこの部屋の主はトルメカの祖父だった。壁際にはびっしりと本が並んでいる。ガーモルが訪ねると、トルメカの祖父はいつもこの部屋で読書をしていた――五年前に亡くなるまで。

「また本を読んでいたのか」

 ガーモルは、机の上に開いたままの書物がランプの灯ひに照らし出されているのを見つけて言った。

「ちっとは外に出ろよ。そんな青白い顔じゃあ、女にもてないぜ」

「でも、ここには面白い本がたくさんあるんだ。いくら読んでも読み足りないよ」

「だけどよ、毎日それだけ読んでんだ、もうそろそろこの部屋の本全部読み終えちまうんじゃねえのか」

「とんでもない。まだ半分程だよ。それより、これ見てよ。この本の、このページ」

「なになに『伝説のトートメ国は果たしてどこにあったのか』か。おまえ歴史が好きなんだな」

「ねえ、ガーモルはどう思う?古都アルクィエムの近くにあったっていう説と、ずっと西のユフデクサン州北部にあったっていう説があるけど」

「俺にそんなこと言われてもわかるかよ。俺が知っているのは、ヘネコだったかハニコだったかというみこさんがトートメ国を治めていたっていうことぐらいだ」

「ヒニコだよ。なんでもすごい魔力を持っていたんだって。現代魔法学では考えられないような魔法がトートメ国にはあったんだ」

「まさか空を飛んだとか言うんじゃないだろうな」

「そこまでは。でも人の心を操ったり、不治の病を直す魔法が使えたってここに書いてあるよ」

「人の心を読む魔法なら今でも使える人がいるだろう」

「上流階級の人の中にはね。うんと小さい時から死ぬほど厳しい訓練を受ければ使えるようになるらしいけど。でもそれは人の心を読む魔法であって、今僕が言ったのは人の心を操る魔法だよ」

「しかし人の心を読んだりして面白いのかぁ?上流階級の奴らの考えていることはよくわからん」

「まあ、人の心を読む方は犯罪捜査に役立つからいいけど。でも、人の心を操る魔法なんてちょっと危険だね。悪い奴らがそんな魔法を発見したりしたら……」

「俺たちはみんな奴隷にされちまうってわけか。そりゃやべえな。そんな魔法は二度と見つからねえ方がいい」

「こんな魔法も書いてあるよ。性転換の魔法」

「性転換?男が女になったり、女が男になったりするってことか?一体何のために使うんだ?」

「普段は女性特有の病気を直すために使ったんだって。それ以外には、戦で男が皆殺しにされた時、残された女のうちの何人かが男になって子孫を残したとか」

「けっ。この平和なご時勢にそんな魔法があって喜ぶのは、おかま連中ぐらいだ」

「だけど、そんな魔法があったなら使ってみたいな。僕女になってみたい……」

 トルメカはガーモルを、少女のようなきらきら輝く瞳で見つめた。ガーモルは心底ぞっとした。まさかとは思うが、トルメカにはそんな趣味があるのだろうか。そう言えば、トルメカが女の話をするのを聞いたことがない。

「まあ、なんだ、夢物語もいいが、明日から本格的に学校が始まるんだから、高校生らしく、びしっとしないとな」

 ガーモルは話を反らすため適当なことを言った。

「ははは、ガーモルの口からそんな言葉が出るとはね」

「おい、どういう意味だ?俺がまともなこと言っちゃいけねえのか」

「ごめん、わるかったよ。そんなに怖い顔しないで」

「ちぇっ」

 その時、扉の向こうでトルメカの母の呼ぶ声がした。

「あっ、お昼御飯できたみたいだよ」

「よし、行くか」

 二人はランプの灯をおとし、地下室をあとにした。


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