シェリー
届かない海がまだ寝息を立てる中、わたしは目を覚ました。淡い空は少しずつ色付いてきていた。この角度にわたしの大好きな太陽が現れるにはもう少しかかるだろう。最近すっかり早起きになってしまった。新鮮な潮の匂いが漂ってくる気がした。ふと水面を見て、昨日の夕飯を戻しそうになった。同僚は未だ、馬鹿のように口を開けて寝ていたが、わたしはわざと体をよじり、少し大きな波を立ててみた。波は陸地へ力強く進み、同僚の一人の顔で弾けた。
シュタインは起きなかった。彼はみんなからそう呼ばれていた。シュタイン自身、自分の名前を気に入っているみたいだが、その理由は外人みたいだからというお粗末なものだった。もちろん、シュタインはそんなに歯切れの良い答えを寄越したわけではなかった。しきりに『人』を繰り返しながら肉厚で不器用な手で空の方を指していた。発音は悪く、耳に死んだ魚を入れられたみたいだった。『糸』、『干支』……Hの音が上手く出せなかった。わたしは彼がフランス人ではないのかと思ったくらいだ。『シュタイン』はドイツの名前だし、ありえないことだけど。結局シュタインがそれ程言葉を知っているはずはないという結論に至って、わたしは『人』と翻訳した。天才か馬鹿かでいうと、やっぱり馬鹿だろう。
突然後方から水飛沫がわたしに襲いかかり、寝相の悪い誰かが転げ落ちたのかと思った。脇腹あたりをくすぐる手……。わたしは不快だった。年中無休で発情しているところが、人間くさい。わたしは出てきた顔を引っぱたいた。
「やめてよケン、何時だと思ってるの?」
「わかりません、六時? ぼくは、好きです」
「何が?」
「君、です」
中学生のカップルが、ケンの名前の書かれた掲示をみて、「英語の教科書みたい」と言っていたのには思わず笑ってしまった。シュタインよりかは幾分マシだった。一応のお話はできるから。シュタインが発情狂じゃなくて本当に良かったと思う。お話のできない狂人を止められる自信はなかった。濃紺の雲が光を孕み始めた。どこからともなく舞い込んだ潮風がケンの目を細めた。
「ケン、わたしが何歳か知ってる? あなたの二倍は生きてるわ。そんなの無理なの。わたしの言ってることがわかる? 毎日こうじゃない。昨日のことくらいちゃんと覚えておいたら」
「ひどい、です」
「ごめんね、でもこうあるべきなの。人間の慣習もそうでしょ? いつか素敵な人が見つかるわ……」
こんなことを自分で言っているのが悲しくなった。水の鏡は少し血走った目と目尻の皺を映していた。わたしにはどうしようもない。ケンは沈んでいった。まさか死んでしまうなんてことはないだろう。それほど頭が回るとは思えないし、同じようなやりとりは日常茶飯事だった。彼にはどうも記憶がないらしい。毎日が新しいなんて羨ましい。わたしは何度も同じ陽が昇り、沈むところを見るしかなかった。
ともあれ、ケンもわたしも、そして馬鹿なシュタインも死ぬことはできなかった。どんなに狂人ぶって頭をぶつけてみても、彼らが心配そうな眼差しで駆け寄り、保護してくれる。結局死に損なってしまう。治るまで治療……治ったら復帰。ボクサーみたいだった。
いつの間にかシュタインがお気に入りの寝室――といっても日除けのついたすべすべの陸地の角、いつもご飯が出るところなのだけれど――からいなくなり、わたしの下で優雅な痩身を揺らめかせていた。もう少し頭があればよかったのに、とわたしは何度も思った。
わたしは都落した。宙に投げ出された体が水平になった時のことを今でも良く覚えている。一瞬、辺りが激しい閃光に満ちた。最後の跳躍を収めるカメラの光だったのかもしれない。わたしはイルカのような美しい弧を描いた。ケンに記憶力をあげてしまいたいくらいだった。わたしは誤って足を硬いコンクリートにぶつけたがために、上手く跳べなくなってしまった。一軍落ち。野球選手のほうが的確だったかな。
「今日は、何の、魚、です」
「サカナ、サカナ」
「なるほど、サケ、ですね」
「君たちは海を見たことある?」
「おもしろい、ですね。海なら、ここに、あります」
「ねえ、ケン、自由になるには何が必要だと思う?」
「……サカナ」
今日初めての潜水を披露したシュタインは陸地で寝そべっていた。仰向けで露な腹部はアルビノのように白かった。わたしは無駄に良いスタイルに腹が立った。朝日に肌が瑞々しく輝く。つまらない嫉妬を感じながらも、彼が一度も『母』を見ないまま、艶やかな体躯が時に蝕まれるのはいたたまれなかった。人工授精で産まれた彼にとってはここが限りなく広い海だった。
ケンは、魚の種類だけには詳しく、本当の海を知っているに違いなかった。少なくとも詳しかったのは間違いない。お得意の記憶力の欠落かと侮っていたが、馬鹿になってわざと忘れようとしているのかとさえ思える節があった。例えばわたしがシャチの話をした時のこと。魚雷のように飛んできたかと思うと、わたしのすぐ傍にいた子供がいなくなって、わたしは夢中で探した。岩陰、浮氷の下、わたしの口の中……。結局最初から子供なんていなかったのだと信じた。そんな話をすると、いつもなら「シャチは、何、魚、ですか」なんて惚けた返答をするはずのケンは身を震わせたのだった。季節は夏。その時だけは、短い手で抱きしめてあげた。
「言葉じゃないのかな」
「館内の皆様に御案内致します。間もなく十二時半より、アザラシ水槽に向かった高台にてイルカショーを開催致します。四頭のかわいいイルカたちが繰り出すジャンプや、華麗なボール捌き、そして愛くるしい仕草は当館のイチオシであり続けてきました。四頭のイルカは果たして心をひとつにできるのでしょうか? 皆様の応援が大きなパワーになるはずです! 今回は彼らからの盛大なプレゼントも! イルカたち、そしてトレーナー一同皆様の御参加を心待ちにしております。次回の開催は十四時半となっておりますので、お気をつけ下さい。本日は御来場誠にありがとうございます」
シュタインは彼らが持ってきた青いバケツを見て盛りのついた猫みたいだ。目がきらきらしていた。今にも立ち上がりそうだった。彼がこうなるのに、魚は必要ではなかった。青バケツが条件反射の引き金になっていた。さっきまで水中でしつこく纏わりついていたくせに、青バケツに目ざとく、陸地へ駆け寄るケンの背中に一撃を食らわせた。ケンは短く唸り、眩しく微笑んだ。
「ぼくと、やりたい、のですか」
「バカ、今日こそ自由になるのよ。目にものみせてやるんだから」
いつもの男の声が聞こえてくる。小型マイクを使っても快活な声。青と黒の制服。いかにも海を思わせる色調。わたしは耳を塞ぎたかったが、あいにく手が届かなかった。首をおもいきり片方へ曲げてやっと方耳だけ蓋ができる。しかし、そんな奇妙な姿で登場したら、すぐに病気と疑われてしまう。だいいち、方耳だけではあまり効果がない。最も良いのは、潜ってしまうことだった。それは無理なお願い。落胆した顔を見るのは嫌なお人好しだもの。
「――シュタインはまだ五歳の子供。だから少し落ち着きがないんです。いつも泳ぎ回って、疲れてお昼寝してるんだよ。ヒゲはぴんと張っていて、硬くてちょっと痛い。これが小さい頃の写真です。見えるかな? 見えないお友達は後で見にきてね。ケンは十歳、メタボ気味。シュタインといつも魚の争いをしているんだ。おとなげないんです。ただいまダイエット中。太ってるのを気にしてるから、みんなあまりいじめないでね。最後はシェリー! 当園のアイド――」
わたしは最近眩暈を覚えるようになっていた。目を閉じ、音が引くのを待った。シュタインとケンはタイトな防水服を着た女の近くで待機していた。従順なものだ。ケンが女に欲情することはなかった。いつだったか聞いた時には、「何か、ちがう」らしかった。わたしは安心したと同時に少し失望した。……わたしはシェリーで、もちろん待機していた。
「――最後に大切なことを言っておかないと。アザラシたちはあんな風に見えても、とってもデリケートな生き物なんだ。これだけのお友達が集まってるだけでも、びっくりしちゃうかもしれない。今回は特別、みんなにアザラシと触れ合ってもらおうと思ってるんだけど、一度に大勢で触ったり、いきなり大声を出したりすると、臆病な彼らは帰ってしまう。お兄さんはぜひみんなに触ってもらいたいから、ひとりずつ、交代でお願いしますね。それではお兄さんに続いて呼んでみよう――」
観客を遮る高い塀は陸地で途切れていた。その裂け目からわたしたちは、三人が入るには少し窮屈な半円の舞台へ入場するのだ。入場とは反対の場所に同じような裂け目が陸地に繋がっており、出口専用になっていた。ケンは毎回のように入口から退場し、笑い草になっていた。
シュタインの名前が呼ばれたのに、ケンが先を行こうとした。もちろん止められる。怖い顔をした女――わたしには女がどんな表情なのかわからなかったが――はかわいらしいのだろうか? 彼らはこうした順番には厳しかった。シュタインは逃げるように出て行った。控えめな歓声が聞こえた。水面に落ちる小雨のような拍手が聞こえた。わたしはケンに耳打ちした。
「いつも通り、従ってるふりをするの。それで少し喋ってみるのよ。何でもいいわ、ケンの好きな魚でも」
「魚、もらえなく、なる、の、では」
「……臆病者ね、ほんとに男なの? それなら、わたしのあとに続いて喋ってごらん。初めは小さい声でね。わたしたちは耳がいいし、少し離れてたくらいなら、聞こえると思う」
「君は、なぜ、そんなことを、する、の、ですか」
「海にはたくさん魚がいるのよ。ねえ、ほんとは知ってるんでしょう、ケン? 魚は泳いでいるのよ。動くの、彼らも。わかる? バケツが海じゃないの」
ケンは名前を覚えられなかった。辛うじて自分の名前だけは認識できているらしい。これは生理的欲望に基づいていたから納得がいく。もしかしたらケンは『ケン』を魚だと勘違いしているかもしれなかった。とにかく、まだ子供のシュタインはさておき、ケンがわたしの名前を覚えないのはとても良いことだった。シェリーなんて呼ばれた日には鳥肌ものだ。
案の定、大盛況というわけではなかった。わたしたちは特に芸をできるわけでもないから、当然と言えばそれまでだ。ただ食べるだけの存在。死んだ魚を食べるだけの存在。子供を連れた親たちがビデオカメラでわたしたちを写していた。親は子供がわたしたちと写るよう仕向けていた。子供は少し高くなった舞台にくらいつき、早くわたしたちが食べる姿を見たいらしい。快活な男が注意を促していた。どうして彼らは食べる姿が好きなのだろう? わたしは一度だけ、人間が食べる動画を観たことがある。もしかすると、それきりだったのかもしれない。しかし、わたしたちが食べるのを好き好んで見に来るくらいだから、あながち間違いでもないだろう。
「こら、ケン。お兄さんは何て言った? シュタインのご飯を盗らないの! こういうときに限ってジャンプするんだから、全く。次はケンの番だから寝転がって!」
あやすような話し方だった。男が手を下に下すとケンは思わず立ち上がっていた体を硬いコンクリートにつけた。ケンの近くにいた子供たちは我先にと、物憂げなケンを触っていた。親は劇的な瞬間をカメラに収めるのに必死だった。
イルカの跳躍が遠く見えた。高台の座席は人で黒々していた。とりわけ強い光に照らされているようだった。良い潮風が吹くのだろう。わたしたちを笑うかのように高く跳ぶ流線型。空高く釣られたボールが尾鰭に打たれた。美しかった。輪をくぐり抜けたとき、歓声がどっと押し寄せてきた。わたしは、せめて方耳だけでも塞ごうとしたが、男はわたしに向かっても手を下にしていた。イルカは次々と飛沫をあげながら、太陽の衣を跳ね飛ばした。
わざと同じ時間帯にしたとしか思えなかった。人気のないアトラクションの撤退。確かにわたしたちはあんな風に跳べないかもしれない。ボール遊びが関の山かもしれない。だからってあんまりだ。もし、ショーが中止されたら? もし、わたしたちが本当にケンの『海』しか感じられなくなったら? わたしたちはどこへ行くの?
わたしは立ち上がっていた。高く掲げられた男の手から魚がぶら下がっていた。男がわたしの鼻にもう片方の手を当てるとわたしは動けなかった。魚が近づいてきた。香りが漂う。子供たちは声援を送っている。あるいは馬鹿にしているのだろうか? 激しい耳鳴りだ。死が滑らかにわたしの胃へ落ちていく。彼らはとても嬉しそうだった。わたしを求めてくる時のケンにそっくりの目だった。男が手を下にし、再びわたしはうつ伏せになると、一巡して今度はシュタインが良い姿勢をしている。
無数の手が伸びてきた。男の説明を聞いてなかったのだろうか? 攻撃は腹部だけにとどまらず、顔にまで及んだ。中には最近元気のなくなってきたひげを少し引っ張る子供もいた。一息ついた頃に恐る恐る一本の手が伸びてきた。わたしはたちまち不快を感じた。あまりの粘着性……。おどおどした少年は隣の『触れ合い広場』で蛸を触ってきたに違いない。その手を洗わずにわたしへ寄越したのだ。無神経だった。肌に湿疹が吹き出しそうだ。粘性は瞬く間にわたしを包むように思えた。『触れ合い広場』出口には水道が用意されていて、手洗いを促す注意書きがされているはずだ。字が読めないのだろうか? 話も通じないのだろうか? 彼らは同胞の粘液がついても平然としていられるのだろうか?
「手くらい洗ってよ」
少年の丸い目は、次第にシュタインの肌のような潤いを帯び始めた。彼は気合の入った中腰でビデオカメラを構える父へ飛びついた。
その夜、入館客が帰り、遠くの海鳴りのみが闇を占める頃、彼らは担架でわたしを運び出した。とうとう自由になれるのだと、安全ベルトが巻きついてなかったら小躍りしているところだった。結局ケンは、聞こえていたにもかかわらず、わたしの後に続かなかった。永遠と食べ続け、いつも通り入場口から出ていった。そしてたしなめられるのがお決まり。臆病風に吹かれたのだ。わたしがプールから揚げられる時、何故かみな悲しい目をしていた。シュタインとケンには申し訳なかったが、わたしは努力の結晶をふいにすることはできなかった。てきぱきと歩く足だけが見えた。空にはきっと星たちが瞬いていることだろう。
着いた先は治療室だった。この部屋だけは匂いが違うのだ。暫くして足の数が増えた。わたしは誰が来たのか確かめようと縛られた体を起こし、上方を見た。一人はスーツを着ているみたいで、もう一人は季節はずれの短パンだった。短パンの方は脚が長いらしく、わたしを運んだ彼らより遥かに腰の位置が高い。大きな海の目が覗きこんだ。
「本当に喋ったんですかね?」
「ええ、間違いありませんよ! アザラシを触っていた少年が確かにそう言ってました。『手くらい洗いなさいよ』だったかな。確かそんな感じです」
「ちょっと信じがたいな。だって少年でしょう? 嘘かもしれない。目立ちたかったとか。ね、先生」
今度はスーツの誰かから声が聞こえ始めた。背中を氷水より冷たい手が撫で、肉が発作を起こした。
「どうですか、喋れますか? 君は少年に何ていったのかな? もう一度話してくれたら……そうだ、魚をプレゼントしよう。それもありったけの。ほら、喋れるんでしょう?」
二人の男はわざわざやって来て、自由へのお膳立てをしてくれた。すぐそこだった。わたしはナンセンスな会話をするケンとシュタインへ密かに別れを告げた。彼らは永遠に過去の魚の話で盛り上がるだろう。そして新しい朝を迎え続ける。わたしには無理だった。彼らの幸せはわたしには受け入れがたいものだった。わたしはこの機会を逃さなかった。
「……死人に鞭打つみたい」