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続 ファインダーの向こう側 (鏡の中の蕎麦屋)

作者: お針箱

時分時じぶんどきを避けたので、客は親田オヤダひとりだけだった。


オヤダは無類の蕎麦好きで、注文はいつも「辛味大根」と決めている。

「辛味大根」は、すりおろしてから数分経ったとびきり辛いやつが好きだ。


蕎麦屋のおやじはそれを知っていて、いつも気持ち多めにつけてくれる。

その心づかいが嬉しい。

今日は、他に客がいないこともあって「おろし」 も大盛りだ。


いつものように辛さを十分堪能し、店を出た。

入口脇の濡れ縁に腰を下ろし、辛味の余韻に浸りながら一服した。

店の前が駐車場になっていて、脇にさるすべりの木が一本植わっている。

今の季節は、ピンクの花が満開だ。


「辛味大根、お好きなんですね。」


いつの間に座ったのかオヤダの隣から、いきなり若い男が話しかけてきた。

ひどく痩せていて、蒼白い顔色をしている。まるで、寝起きの二日酔いだ。

しかも夏だというのに、黒い革手袋を嵌めている。


「えっ? あぁ。」 オヤダは曖昧に答えた。


「スコブル辛い辛味大根、食べたいと思いませんか?

いまあなたが食べたおろしより、もっと旨いおろしを食わせる店があるんです。」


いきなり話しかけてきて、こんなことを言うなんて、変なヤツだ。

とは思ったが、辛味大根と聞いてやはり興味がわいた。


「そんな店があるんですか?」


「ええ、ただ・・・。」


ただ、何だというんだ。


「十回 が限度かな。いや、十回通ったヒトはいないかもしれない。」


やっぱりコイツ頭がおかしい。


「通う回数限定 なんて蕎麦屋、あるわけないでしょう。」


「それが、本当にあるんです。」


「いったい、どこにあるっていうんです?」


「鏡の中です。」


これは、妙なヤツを相手にしてしまったものだ。

こんなヤツに付き合っている暇はない。

オヤダは黙って自分のクルマに向かって歩き出した。

その背中を 男の声だけが追いかけてきた。


「合わせ鏡をつくって、その鏡の間に座っていてごらんなさい。 午前2時に店が開く。」



その日、女房はお泊り同窓会 とやらで留守だった。

夜になっても一向に涼しくならず、寝苦しい。

オヤダは、午前1時を過ぎても寝付けずにいた。

昼間、あの変な男が言った言葉が気になっていた。


「合わせ鏡」 か。 ばかばかしい。


しかし、女房が留守というのはチャンスかもしれない。

どうせ眠れないのだから、遊びのつもりで試してみるか。

時刻は、まもなく午前2時。


寝室の隅に古ぼけた姿見が置いてある。

古道具屋、いわゆるリサイクルショップで最近買ったものだ。

何か特別に 姿見 が必要だったわけではない。

ただ無垢のクルミ材でできた木枠の、やわらかく温かい色合いに心ひかれ買ってしまった。


木枠の裏側には右下に、ナイフか何かで小さく「正」と彫ってある。

前の持ち主の名前か、くらいに思っていた。

が、いまこうしてあらためてよく見ると、

「正」の下の横棒がない。 なぜ、今まで気付かなかったのだろう。

最後の一画がないとなると、その意味するところは、「四」か。


四年 ? 四回 ? 四本 ?  


何か曰くありげで、益々この姿見が気に入った。


この姿見を引きずってきて、女房の鏡台の前に据えた。

合わせ鏡は、簡単にできた。


2枚の鏡の間に座ると左右に、定年を半年後に控えた、

萎みかけたパジャマ姿の男が映っていた。

その萎みかけた姿が、これでもかと無数に連なり、

だんだん遠くなり、だんだん小さくなっていく。


こんな姿を女房がみたら、きっと言うだろう。 

「バカみたい!」


本当にバカみたいだ。自分でもそう思う。


午前2時。 

何も起こらない。 当たり前だ。

さっさと鏡を片付けよう。そう思って、立ち上がろうとしたその時、

鏡の中の景色が突然、変わった。


左の姿見にも、右の鏡台にも、蕎麦屋の入口で藍染ののれんがゆらゆらと風に揺れている。

何十、何百、何千 ・・・ と。


店が 開いた。



どっちの蕎麦屋に入ればいいんだ。

よく見ると、姿見の中の蕎麦屋には 「商い中」 の札が懸かっている。


しかし、どうやって入ればいいんだ。

恐る恐る、姿見に両手を差し出した。 次の瞬間、

うぁっ!

鏡の中に引きづり込まれた。


上がり框の床板が、素足の裏にひんやりと心地よい。


姿見の蕎麦屋に入ってしまった。



「いらっしゃい。」


右手の厨房から 主人 とおぼしき若い小柄な男が顔を出した。

白い和帽子とエプロンを付けている。

造作が顔の下半分にまとまっていて、福助人形に似ている。


「辛味大根そば ですね。」 福助が言った。

「あ、はい、それ、お願いします。」 オヤダは慌てて答えた。


入口に近い席を選んで座った。

和室二部屋をぶち抜いて客間にした、小さな蕎麦屋だ。BGM は、 ない。  静かだ。

厨房から、かすかに聞こえてくる音は、大根をおろす音か。


「スコブル辛い辛味大根」 が出てくるのだろうか。


「お待たせしました。」


福助が 「辛味大根そば」 の膳を持ってきた。

黒い小鉢に、真っ白い 「おろし」 がふっくら盛ってある。


福助の手が膳から離れるのももどかしく、オヤダは箸をとった。


まず、細身の蕎麦を2本とって、口に含んでみる。 甘い香りを感じる旨い蕎麦だ。

汁を少し猪口に注ぎ、なめてみる。

江戸前の辛つゆだが、角がとれている。 しっかり寝かせてある汁だ。


いよいよ 「おろし」。


箸の先でちょいっとつまんで口に含むと、最初は甘く、一拍おいてツンと辛味が襲ってくる。

もう一口含む。

舌の奥で小さな爆竹が鳴っている。 爆竹の煙が鼻腔に這い上がり、 目の奥に忍び込む。

咳ともくしゃみともつかない息が飛び出し、むせた。


後はただ、我を忘れて箸を動かした。


丁寧に一口ずつ おろし をつまんでは蕎麦にのせ手繰ってはまた おろし をつまむ。

つけ汁はほんの少しでいい。 額に汗がにじんでくる。


旨い。 こんなに辛くて旨い 辛味大根 は初めてだ。

「やみつきになる味」 ってやつだ。


「おろし」 を盛った小鉢はきれいに空になった。


あの若い男の口ぶりでは、この 「おろし」 目当てに 通い詰めている客がいるらしい。

しかし、十回が限度とは、どういうことか。

同じ客には、十食までしか食わせない、というのだろうか。

あの福助、かなりの 偏屈 に違いない。


さて、勘定を払う段になってようやく気付いた。

財布を持ってくるのを忘れた。 しかもパジャマのままだ。


オヤダが言い訳を考えていると、福助が口を開いた。

「右にしますか、左にしますか?」


意味が解らず、キョトンとしているオヤダの前に、福助が右手を差し出した。

その手には、小振りの斧が 握られていた。


斧? そば切り包丁ならまだ分かるが、なぜ斧なんだ。


「お代をいただきます。」

福助は、左手でオヤダの腕をつかもうとした。


ようやく我に返ったオヤダは、店から飛び出した。

はだしのまま、やみくもに走った。

こんなに本気で走ったのは、小学校の運動会以来だ。


「辛味大根の代償が、片腕だなんて。そんな、バカげたことがあるもんかっ。

右腕だろうが、左腕だろうが、切り落とされてたまるかっ。」


福助は意外に足が速かった。 二人の差は、どんどん縮まっていく。

そして、オヤダの右肩に、何かが触れた。



気がつくと、オヤダは、寝室の畳の上に倒れこんでいた。

右肩に乗っていたのは、姿見だった。

時計の針は、2時1分を指している。

たった1分足らずの間のできごとだったのか?


夢だ。夢に違いない。

見知らぬ男の言葉を真に受けて、変ないたずらをしたから、悪い夢を見たんだ。


オヤダは急いで鏡を片付けると、横になって固く目を閉じた。

心臓がまだドキドキしていた。


足の裏に、さるすべりのピンクの花がつぶれて貼りついていた。




その日からしばらくは、あんなに好きだった 「辛味大根」 を食べる気にならなかった。

馴染みの蕎麦屋からも足が遠のいた。


夏が過ぎ、秋になった。

あの晩の記憶も薄れたある日、オヤダは 久しぶりに 「辛味大根」 を食べた。


「旨い。 やっぱり、辛味大根は、旨い。」


いつものように帰りがけ、入口脇の濡れ縁に腰掛け、一服した。

さるすべりの花は、とうに散ってしまった。


「そういえば、変な男に声をかけられたのもここだったなぁ。」


ふと、あの「おろし」の味を思い出そうとしている自分に気づき、

慌てて その思いを煙草の火と一緒にもみ消した。


「いかがでしたか?」 例の手袋男だった。


「あっ、あんた。」


「スコブル辛い辛味大根、食べたんでしょ?」


なんだか癪に障るので、オヤダは返事をしなかった。


「あのおろし、もう一度、食べてみたいと思いませんか?」


「冗談じゃないっ! あんな恐ろしい思いは もう二度とごめんだ。」


しまった、と思ったが後の祭り。


「ほうら、やっぱり食べたんじゃないですか。 合わせ鏡の辛味大根。」


いまいましげに、オヤダは言い返した。


「そう言うあんたは、食ったことがあるのかい。」


それには答えず、男は黙って手袋を脱ぎ始めた。


手袋を外した男の右手にも、左手にも

小指と薬指がなかった。

右手の二本、左手の二本、合わせて 四本。



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