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第二路 希望を両手に

 連日雨模様とは何だったのか。今日も今日とて晴れ渡る空の下、僕はいつもより早く登校していた。

 また下着が落ちているのではないかという淡い期待を持っているわけではないことは、最初に言っておきたい。ただ昨日遅刻をしたのだから家を早く出るのは当然である。今朝は気温が低いためか頬に当たる風が柔らかく感じられて心地がいい。

 そんな爽やかな気分でいれば邪な気持ちなど湧いてこないもの。そもそも昨日だって善意で動いたわけだし下心なんて微塵もない、僕は正しい行動をしたのだから。

 丁字路に入るとそこは見慣れた光景だった。


「それはそうだろうね」


 わかりきったことだった。昨日の今日で下着が落ちているはずがないのだ、あんなことが二日続けてあってたまるものか。馬鹿馬鹿しいことだ、大体パンツを手に入れて意味なんてあるのだろうか。そんなことを考えている暇があったら彼女の一人でも作った方が建設的じゃないか。


(……彼女か)


 付き合いたいとかではないが、昨日の女の子はなんという名前なのだろう。控えめな印象だったし可憐……いやもっと儚いような名前のような気がする。霞とか菫とかそんな名前なのだろうか?お嬢様学校に通っていたようだしあの時のリアクションも……いやいや右手を動かしてはいけない。感触を思い出してはいけない。僕は下着に興奮するような変態ではないのだ、興味などまるでない。


「そう、変態じゃないんだ」


 しかし万が一落ちていた場合困る人がいるだろう。特にあの子の下着が変態の手に渡るのは許せないし、見ておくことは悪いことじゃない。丁字路にはあるミラーの陰や排水溝を除くが、当然何も落ちていない。でもそれが当たり前なのだ。

 立ち去ろうとして、一度振り返ってみる。当然何も落ちていない。

 もういいだろうと歩き出して一考、最後にもう一度だけ振り返る。ブラジャーしか落ちていない。


「それはそうだろうね」


 二日連続でそんなものが落ちているわけはないのだ。確かに近くのマンションでは洗濯物が風になびいている。下着のたぐいが落ちているのなら今日の方が相応しいのだが、そもそも毎回洗濯物が風で飛ぶわけはないのだ。守株待兔、二匹目のドジョウを待つことなんてないのだ。僕は自分の愚かさを呪いながら折り返して落ちているものを確認した。


「これはブ――」


 声が出なかった、昨日のパンツよりも卑猥な響きがしたからだ。さっきまで何か落ちてたか?落ちてなかったよな?ということは今落ちたということなのか?そんなことってあるのか?

 昨日の様に躊躇することなく、ブラ……を手に取った。


「あったかい」


 形とか手触りとか、そんなことより気になったのは温度だった。気温は涼しいくらいだし道路からも熱気は感じない。にもかかわらずこの……ブラはそれなりに温かいのだ。さっきまで着けた人が落としたのか?しかし今ここを誰かが通ったというのだろうか?

 多くの謎を抱えたまま、僕は……ブラを手に取った。昨日とは色が異なり白(正確にはオフホワイト)の下着ではあるものの、昨日と同じくフリルをのついた可愛らしいもの。だが昨日のように幼い女の子が着けているとは思えなかった。


「これって……大きいんじゃないか?」


 声に出して言うことか?とは思う。比較していいものかはわからないが、たぶん母親よりも大きいサイズのような気がする。そういえば昨日の子は結構……いやいや昨日会っただけの人をそんな目で見ていいはずがない。しかしあの子の趣味が昨日のパンツのようなフリル付きの下着であるならばこのサイズ感をとっても彼女のものである可能性が高い。

 前髪でよく見えなかったが隙間から除く瞳、整った顔立ちを思い出せば出すほどあの顔の下にこの……。サイズのことはわからないのだけれどFとかGとかそんな大きさじゃないのか?彼女の学校の制服のことはわからないから学年まではわからないが、一年であれ三年であれ高校生でこれはかなり大きいんじゃ……。

 悲しい性かただのフェチか悪魔のささやきか、またもや下着の匂いを嗅ごうとしてしまう。しかし悪魔は勤勉だった。例の予感、今度こそは危ないかもしれないという恐怖。


「今度こそおっさん物なのか……?」


 昨日のただ落ちている状況とは明らかに違う、誰かが意図的に置いたとしか思えないタイミング、悪意の遺棄、そもそもこれを持っていること自体が危険じゃないのか?

 誰が通ったわけでもないのに落ちてきたブラ……なんて、ドッキリみたいに誰かが遠くで見張ってるとかもしかしたら慰謝料を請求されるかもしれない!

 そう考えれば考えるほどこのブラ……は危ないものだ。手にしておくにはリスクが高すぎる。


(――でもあの娘、可愛かったなぁ)


 僕の脳内には何体の悪魔が存在するのか、もはや天使も悪魔を兼任していると思えるほどの悪魔供給率。この……ブラが昨日の少女のものである可能性が僅かでもあるだけで手が離せないのだ。一目ぼれだとでもいうのだろうか?そうだ冷静になれ、まだこの手を放すときじゃないだろ。


「昨日のことを思い出せ」


 そうだ、昨日だっておっさんに対してパンツが小さすぎるという完ぺきな理論で勝利したはずだ。だった簡単じゃないか!


「ふっ、やはりな」


 自分の胸にブラ……を当てて実際に装着してみようとするがどうやっても付けられない。長さが足りないのだ。それもそのはず、そもそも男の体格の方が大きくなるというのなら当然……ブラも大きいものでないと付けれないはず。なのに高校生の僕でさえ着けれないのだ、おっさんにできるはずが……。


(本当にそうか?何か見落としているものはないか……?)


 いや、この理屈は完ぺきなはずだ。昨日の娘でなくともおっさんである可能性はない。先ほど着けようとしてわかったのだけれど、この……ブラは結構小柄な人が着けている物らしく、ベルト(?)のような部分が全然届かなかった。そういえば昨日の女の子ははかなり小柄だったしやっぱりあの娘のものじゃ――。


「小柄かッッ!!!?」


 見落としていた!何故気が付かなかったのか!シンプルなことじゃないか!このブラ……を着けていたのが小柄なおっさんである可能性はまるで捨てきれないことに!

 いやいや、だとしてもこのブラ……はこの、えーっと胸を入れる部分がかなり大きいじゃないか。おっさんにこんなサイズ必要なのか?

 でもそういうフェチのおっさんかもしれない。

 フェチじゃしょうがない。


「あのっ……」


 僕の脳内が完全におっさんに支配されているとき、後ろから声をかけられた。同時に左袖を引かれる。

 とっさに振り向くと昨日の女の子だった。これは安心していいやつだ!

 女の子は昨日以上にオドオドしていて、特に胸のあたりを右腕でかばうような可愛い仕草をしていた。流石にその意味が解らないほど僕は鈍いわけではない。


「これ君が落としたのかな?」


 そういって昨日のようにブラジャーを差し出すが、昨日のように受け取ってくれない。他に何をすればいいのかわからずお互い固まっていると、少しだけ状況が飲み込めた。

 彼女の左手は相変わらず僕の袖をつかんだまま、右腕で自分の胸をかばっているので両腕が埋まってしまっているんだな。だから僕が差し出したブラジャーを取ることができないのだ。

 しかし僕だって緊張を解きほぐせるほどコミュニケーション能力が高いわけではない。だったらどうすればいいのか、彼女恥ずかしがっているのなら僕がとるべきは……。


「ほら、よそ見しておくからさ」


 目をそらしている間に取ってくれということだけだった。本当にこれが正解なのかはさっぱりわからないが、もうほかに思い付くことがなかった。そんな誠意が伝わったのかはたまた諦めたのか、女の子がブラジャーを取る。その時にブラ越しに指が触れ合って少しドキッとした。

 自分からよそ見するといったのに正面を向くのが不誠実なような気もしたけれど、彼女がどんな表情をしているのか、どんな仕草をするのかとかそんな気持ちが抑えられなかった。前を見れば彼女は深いお辞儀をしていて表情がうかがえない。しかし昨日よりも少し大きな声で。


「ありがとう」


 そう聞こえたのだ。少し低いが透明感のある心地よい声、好きな声。ゆっくりと頭を上げた少女は右腕で胸をかばったまま、最後に軽く会釈をしてから走り去るその姿が、僕の目に焼き付いていた。


――胸が揺れていた、昨日よりも激しく!


 僕は走り出した。向かう先は彼女とは逆の方向、いつもの通学路を全力でかけていく。この感動、走らずにはいられなかった。

 やはり自分はあの子が好きなのかもしれない、そのこと言葉を交わして指に触れて、あまつさえ下着……もう走るしかない!走るしかないのだ!

 フォームもペースもないがむしゃらなダッシュ、無様ではあったが青春のすがすがしさも感じる思春期故の暴走だった。走っている間、彼はいつ告白しようとか付き合ったらどこにデートに行こうかとかそんなことを考えていた。


 十数年間語られた伝説の『登校時間ギリギリで校門の前を素通りした馬鹿』とはコイツである。

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