予後
「あの……食器は何処に片付ければ?」
「ああ、ありがとう。あとは私が片付けます」
谷町は食器が重ねられたトレーを鈴木武から受け取った。
取り調べが終わった後、鈴木武は病院から退院、と言うより脱走した大森医師が引き取り大森医院で治療を受けている。
「この後、先生の診察がありますので、それまで休んでいて下さい」
「先生が! 分かりました。待っています」
「はあ、大変だ」
病室に武を戻した谷町は食器を持って調理場に行き食器を洗いながら溜息を吐く。
昼の診療だけの小さな医院だと思っていたが、まさか夜勤があったとは。
小さいのに病室と調理場があったこと自体驚きでしかない。
勿論、患者が入院する事は今までに無かった。
だが患者である鈴木武が入って来たことで谷町も夜勤となった。
大森医師も居るため交代できるので仮眠もとれるがやはりキツい。
幸い手の掛かる患者でないし、夜勤が毎晩連続ではない。何より夜勤手当をキチンと出してくれるのが救いだった。
それ以上に谷町は大森医師のスタミナに驚かされている。
仮眠は最小限で殆ど病室を監視する隠しカメラで鈴木武を見ている。
谷町の担当時間でも見て観察しているので、先生の意欲には驚かされる。
それだけ治療に熱心な先生という事だろうか。
ただ、病室は固定式のベッドと小さなタンス以外は何も無い。持ち込める所持品も大森医師が厳重に検査した上で最小限しか持ち込めない。
何より外からしか掛けることの出来ない鍵や防弾仕様の二重ガラス、外には雨戸とやけに厳重な病室だ。
「何のために病室にあんな物が付いているのよ」
「脱走防止の為だ」
調理場に来た大森医師が谷町に答えた。
「せ、先生。どうして」
突然声を掛けられたのと、交通事故の傷が癒えておらず、包帯や絆創膏が生々しい。先日の血まみれ包帯男よりマシとはいえ、気圧される姿だ。
「朝食を食べに来たのと患者の様子を聞きたくて来た」
それでも大森は務めて柔らかな口調で話した。その態度に少しは谷町も落ち着きを取り戻し話し始めた。
「モニターで見ているでしょう」
「直接見た君から聞きたい」
「先生も診察しているのでは?」
「別の人の印象を聞いた方が良い場合もある。それに患者が人によって話すことを変えたり動きが変わることも多い。多角的に患者を診ることが精神科では必要だ」
「なるほど」
谷町は感心して答えた。傷だらけの笑顔は怖いが、患者のためを思う行動に谷町はより協力的になった。
「落ち着いていますよ。静かですし、大人しい。今朝は食器の片付けをしようとしてくれました」
「協力的か。本来は献身的な性格のようだね。今は多少、怯えているようだ。しかし栄養もとれて体力的にも精神的にも回復しつつあるようだ」
「はい。しかし、あんなに粗暴だったのにこれほど態度が変わるなんて。良家の、お坊ちゃんみたいです」
「警察の署長の息子だからな。実際その通りだよ。元々、よい子に育てられていたし、献身的、協調性のある性格のようだ。我が儘がそんなに強くは無さそうだ。それにグループに戻ろうとするような心理も無さそうだ」
マインドコントロールは、覚醒剤やギャンブルの依存症に近く一度絶っても数日で再び依存対象に戻ってしまうことがある。
過去にもカルト教団から脱出させ脱洗脳に成功しても数日で元の教団に戻ってしまった事例が多い。
そのため病室に鍵を掛けて脱走防止をしている。今回は犯行グループが逮捕されていることもあり心配は無いが念の為だ。
「犯罪グループのマインドコントロールは解けたようだ」
「しかし、本当にマインドコントロールされていたんですね」
精神病は診断が難しく、正確に病状を判断するには何ヶ月もかかると先生が言っていた。だから父親である署長が電話を掛けてきてマインドコントロールに掛かっている息子を助けてくれと言ったとき、この父親は妄想癖に掛かっていると谷町が思ったほどだ。
「先生の事も慕っていましたよ。この分なら治療は上手く行きそうですね」
「確かに良い傾向だが、油断は出来ない。依存の対象が私に変わっただけでマインドコントロールされやすい状況下に有る可能性が高い」
「はあ、そうなのですか。つまり、先生が犯行グループのリーダーの代わりのような存在に」
「ああ、今患者に命令すれば従うだろう。マインドコントロールは他者への依存だ。依存する相手の言う事は何でも聞く。今からは私の言う事を何でも聞くだろう」
脱洗脳の治療で問題となるのは、治療者へ患者が依存の対象を変えてしまっただけで治療者にマインドコントロールを受ける状態になる事だ。
治療者もそれを良い事に患者をマインドコントロール下に置き犯罪グループやカルト教団のように搾取することもある。
「彼を信者にして新興宗教でも立ち上げますか?」
「そうならないように君が監視するんだ。そんな状態の患者を治すのが私の仕事だ」
「しかし、どうして取調室ではあれほど暴力的になったのでしょう」
「余裕がなかったからな。ストレスが加わりすぎて余裕がなくなり暴れたんだ。余裕がなくなるとギスギスして暴力的になるからね。何より、自分の依存対象、幻想、妄想を維持するための防御反応だ。だが自発的に手伝うようになるとは良い傾向だ」
「そうですか?」
「ああ、自発的に手伝おうとしただろう。精神的にも体力的にも完全にダウンしていたら手伝おうという意欲も湧かないからね。良い傾向だ」
「良かったです。退院して直ぐに警察から引き取った甲斐がありましたね」
「ああ、それにマインドコントロールが解けた時が一番危険なんだ。下手をすれば自殺の可能性もあるからな」
「……え?」
自殺という言葉に谷町は凍り付いた。
「冗談ですよね」
「いや、自殺しやすいのはマインドコントロールが解けた時だ。騙されて、過酷な搾取が行われていても自分に都合の良い部分しか見ていない間、妄想の中にいる間は異常に傾いていても精神状態は安定している。だがマインドコントロールが解けた時、自分が騙されている事に気が付いてしまうと危険だ」
幸せだと信じていた過去の自分が騙されていた大間抜けだった事実を突きつけられ、絶望して命を絶つことは多い。
そのことを後悔し、嘆き、自殺に向かう人は多い。
「何でそんな事になるんですか」
「自己愛がいびつなんだよ。自分が特別だと思っているからだ」
「それがダメなんですか?」
「誰にでもある。だが大きすぎると、本当の自分以上に特別だと、他人より特別だと思い込んでしまう」
だがそれは錯覚に過ぎない。
多くの人は早々にそこで夢から覚めるが一部は自分を特別視したままだ。
だが自分の能力が急に大きくなることは希だ。
自分が特別でないとなれば他人が特別だと、特別な人間を作り出す。そして、その近くに居る自分も特別だと思い込むようになる。
「学校や塾で勉強が遅れていたようだからな。特に思春期だと成長も早いが他人との比較も始まる。他が進んでいく中、自分が遅れていると劣等感を抱き、その劣等感を拭うために自分を特別視する事が行われると自己愛が歪んで行く。そうしたときにマインドコントロールが行いやすくなる」
「そこを犯行グループのリーダーは突いたんですね」
「そうだが、それだけで成功する訳ではない」
「え?」
「おかしいと思わないか? ほんの数日、夕方から夜に出会っただけで洗脳出来るか?」
「薬とかを使ったのでは」
「確かに判断力を鈍らせるために薬を使う事はあるが、薬物検査の結果異常は無かった。薬を使って洗脳する必要は無い。人間の心理や食事睡眠情報の制限で達成できる」
「先生は取り調べの一時間で脱洗脳に成功しましたよ」
「それは下準備が出来て居たからだ。犯行グループは数日かかったとは言え、短時間で洗脳した。普通の人間相手には出来ない」
「どういう事でしょう」
「患者がマインドコントロールされやすい状況にあったか、マインドコントロール下にあって依存の対象をリーダーに変えただけ。彼が先日の対決で彼がリーダーから私に変わったようにね。今も彼はマインドコントロールされやすい状況にある」
実際、マインドコントロールされやすい状態が続いていると一度洗脳から解いてカルト教団から脱出されても違う教団に入信してしまうことがある。
「これを治すのが治療の目的だ」
「一寸待って下さい。それでは患者さんはグループに接触する前からマインドコントロールされていたと」
「あるいは近い状態か、掛かりやすい状態だった。マインドコントロールが成功するか、しないかは心理状態にも左右されるからね。彼が不安定な心理状態のままだと再びマインドコントロールされる可能性がある」
「一体誰がそんな事を」
「もうすぐ来るよ」
そう言った後、病院のインターホンを鳴らす音が聞こえた。