対峙
署長に呼ばれた精神科医の大森医師が警察署に来る途中、交通事故に遭ったという連絡が入り刑事である松田と大森医師の看護師である谷町は呆然とした。
「……脇見運転でもしていたのか」
「いいえ、認知症の運転手が信号無視して突っ込んできたそうです」
「大丈夫なのか?」
「相手が何度もバックしては前に突っ込んできたので……。全身打撲に頭部出血、左腕裂傷を負って現在、病院に搬送中だそうです」
「……どうするんだよ」
結構な重傷に松田は尋ねた。
「治療を受け終わったら来るのでそれまで指示通りに対応してくれとの事です」
「何日かかるんだよ」
全身打撲に出血なんて二、三日の入院が必要じゃないのか、それまで取調室に彼を拘束しておけるのだろうか。松田は不安になった。
「あの、先生は這ってでも何とかして行くから、それまでに準備を整えておいてくれということです」
「準備って何を?」
「これまで通り、質問を行って休ませない、食事は最小限に、睡眠も取らせません」
大森医師の指示は兎に角、休ませない、回復させないことだ。また時間を知らせてはならない。取調室の窓は板で塞いで太陽の光を通さず、時計も置き時計どころか腕時計や携帯も覗き見られるので持ち込みを禁止された。
その環境で質問攻めを続けるように言われていた。
「おい、対象が黙り始めたぞ」
取調室にいた藤田が伝えた。質問しても答えなくなってきた。
「質問攻めにしろと言っても相手が黙っているんじゃ効果が無いぞ」
「なら私が怒らせますか」
そう言って松田は取調室に入り再び尋問した。だが、幾ら話しかけてもなじっても興味ないように黙ったままだった。
「だめだ、完全にこちらを無視している」
隣室で見ていた藤田が呟いた。松田の方が攻めあぐねて落ち込んでいる。何より自分の予想が外れて相手が意外と頑固である事を示されて戸惑っている。
「済みません。黙り込んでしまいました」
最後には攻めあぐね取調室から出てきた。
「あの、私にやらせて貰えないでしょうか?」
恐る恐る谷町が尋ねてきた。
「え、いや、しかし」
一般人に尋問を許すのは警官である藤田にとって気が引けるものだ。
正式な取り調べでは無いので一般人が入っても問題は無い。状況を無視すれば二人が話すのは一般人が会話しているだけと強弁できるので、それは良い。
しかし振り込め詐欺グループの一員に間違いない人物に直接会わせるのは、躊躇いがある。
「だ、大丈夫です。相手を激昂させるだけですし。いざとなったら松田さんに助けて貰えますし」
「しかし」
それでも藤田は躊躇った。松田は若いが柔道の腕は良く、未成年の一人くらい抑えるのは簡単だ。だが万が一ということもある。
一般人に怪我をさせる訳にはいかない。何より一般人に尋問が出来るとは思えない。
「大丈夫です。何とかなります」
そう言って谷町はカバンを開くと中からスーツやハイヒール、化粧ケースをとりだし始めた。
「一寸着替えるので、出て行って貰えませんか」
「え、ええ」
谷町の言葉に藤田と松田は隣室から出て行った。中から服と乙女の柔肌がこすれる音が響くが何とか自制する。
それらの音が聞こえなくなった後、暫くしてから扉が開き、中から谷町が出てくる。その姿に松田と藤田は驚きで目を見開いた。
武が黙り込んでから暫くして、再び取調室に入ってくる人物がいた。
それまでの若い刑事や中年の刑事ではなく、若いメガネをかけた険のある長身の女性だった。
ハイヒールをカツカツと鳴らし武の前にやって来て見下ろす。
「初めまして鈴木武さん。私は検察庁の方から来ました谷涼華です。あなたの件を担当します」
そう言うと有無を言わせずに一方的に話し始めた。
「あなたは先日、銀行から他人名義の口座から一〇〇万円を引き出しましたね」
「……」
「出したんですね」
「……そうだよ」
「振り込め詐欺グループの口座ということを知っていたんですか?」
「仲間から引き出してくれと言われたんだよ」
「そう、グループの一員という事ね」
「ああ」
「何百万もの金をお年寄りから盗み出した金なのに」
「別に良いだろう金持ちなんだから」
「なけなしの老後の資金を手放した人もいるのよ。二〇〇〇万円はあなたにとって大金でも人によって今後十年間の生活費になる人もいる。それを失ったら生活できないのよ。金を持っているからと言って盗んでも良い事にはならないのよ」
次々にまくし立てる。
「それが良いことなの」
「当たり前だろう。その金は世の中の為に使うんだから」
「飲食店での飲み食いが? 一軒で十数万も使っている上、未成年で飲酒もしているわね」
「金は派手に使う方が良いだろう。酒も飲まれる為に生まれたんだから飲んだ方が良いだろう」
そんな事も分からないのか、と言いたい表情で武は谷に応えた。
「結局、自分たちの為に使っているだけじゃないの」
「俺たちが引き出して使った金は社会に還元されるんだよ。そして社会を回り回って経済を動かす。世の中はそういうものだろう」
「金を盗み出された人達はどうするの」
「いいだろうが年金があるんだから」
「色々な理由で貰えない人もいるし、十分でない人も多いの。貴方たちからお金を盗まれた人達の中には確実に困っている、いえ生活が破綻している人もいるの。貴方たちが行った詐欺によって。少しでもこの人達を助ける為に力を貸して。何よりも貴方、武さんを助ける為にも協力して」
「うるせえ!」
武は激昂して立ち上がり谷に襲いかかろうとした。
だが、隣にいた松田によって机に叩き付けられて抑え込まれ、最悪の事態は防がれた。
「一度下がりましょう」
松田が谷町に提案して取調室から出て行く。
武は松田に代わり藤田に抑えられても谷町を睨み続けるが、谷町は顔色一つ変えず取調室から出て行った。
「いや、冷や冷やものでしたよ。しかし、凄いですね暴れても表情一つ変えずに出て行くんですから……」
そこで松田は絶句した。
「……どうしたんです」
取調室の前で腰を抜かして座り込んだ谷町に声を掛けた。
「腰が抜けましたー……怖かったー……」
取調室の敏腕美人検察官バリの表情と態度、オーラは消えて弱々しい駄目っ子看護師に逆戻りしていた。
「……どうして取調室では堂々としていたんだよ」
あまりの変わり様に松田は素で、言葉を飾る余裕も無く尋ねた。
「演技をしていると思えば怖くないんですうー。役者の中にはヤクザみたいに怖い人もいましたけど演技だから安心出来たんですうー。扉を出て本物だと思い出したら怖くなっちゃったんですうーー」
「演技って……あんた看護師だろ、役者じゃ無いだろう」
「昔女優を目指して劇団に居たんですよ。けど、端役ばかりで全然売れなくて夜のバイトで食いつないでいたんです。どうしようかと思っていたら夜のバイトに来ていた看護師さんに誘われて看護学校に通って看護師の資格を取ったんです」
「ああ、なるほど。でもどうして大森先生の病院に?」
「最初は、大病院に居たんですけど夜勤がキツくて。日勤の小さな医院に移ったら収入が低かったんで給料の良い大森先生の元に行ったんです」
看護師と言っても年収はピンキリだ。高額なのは夜勤の手当てが加算されるからであって、日勤のみだと安い。そのため日勤だけ、日中しか開かない小規模医院の看護師は副業に夜のバイトに出て行く者もいるそうだ。
そして、夜のバイトは年齢を重ねると続ける事が出来ないため、看護学校に入る人もいる。
どちらもある種の客商売であり、コミュニケーション技術が活かせるという利点があって互換性があるため相互に人が行き交っている。
お水に入る看護師もいれば、お水出身の看護師もいるという面白い二つの業界だ。
「尋ねていったら即採用でしたよ。劇団出身で女優志望で演技が出来るから、と言われたんですけど。こんなことに使われるとは思いませんでした」
「けど大した者だよ。検察官と言っても誰も疑わないよ」
「え? 私検察官だと名乗っていませんよ?」
「いや、検察庁から来たと言っただろう」
「ええ、霞ヶ関のある方角から歩いてきて警察署に入ったのは確かです。多少の誤差はありますけど、間違っていません」
「そうかい」
あっけらかんと応える谷町の屁理屈に松田は呆れた。堂々と偽名を名乗っておきながら検察官ではないと言いきる図太い神経だ。劇団やスカウトは余程見る目が無かったとしか言いようが無い。
同時に感心もした。
確かに女検察官の演技が出来る看護師など彼女以外いないだろう。
しかし、どうしてそんな事をさせる必要があるのか松田には理解出来なかった。
そのとき警察署の放送がなった。
『谷町さん、松田刑事、直ちに玄関に来て下さい!』
珍しく焦った声が流れた事に松田は疑問に思った。
「きっと先生が来たんですね」
「それで、あんなに焦るかな」
「先生は大柄で威圧感がありますからね。婦警さんを怖がらせてしまいましたかね」
そう言って谷町は玄関に向かったが松田の疑問は晴れなかった。放送係とはいえ時に犯人と向き合うことになるし普段から武道で鍛錬している婦警が焦ったり、怯えたりするだろうか。
「先生、待っていましたよ……って、ぎゃあああああ、なんですかあああああ、それはああああああっ」
谷町の狼狽に大げさと思った松田だったが、後ろから初めて見る大森医師の姿を見ると目を見開いて絶句し、二歩後ずさった。