母乳で目を洗う話
2017年4月5日、86歳で逝去された詩人、大岡信さんを偲んで。
1998年2月の朝日新聞紙上「折々のうた」でのエピソード。
執筆者の大岡信は「目へ乳をさす引越の中」という江戸時代の付句を、引っ越しで忙しい母親が誤って赤子の口ではなく目に母乳を注したと解釈したのに対し、読者から「目に入ったゴミを取るため」といった電話や手紙が200件以上寄せられたという。
かつて小澤征爾がカラヤン追悼コンサートでベルリン・フィルを相手に「悲愴」の壮演をくりひろげたあと、コンサートマスターと言葉を交わしながら人差し指を天に向けて立てていたのを、中継で解説していた奥田佳道が「小澤さんがあなたがたの演奏はナンバーワンだと讃えています」とコメントしていたのを思い出すが、こういった識者の堂々たる勘違いを眼前にすると、筆が滑るのを気にするあまり創作がはかどらなくなるのが馬鹿馬鹿しくなる。
加能作次郎の「乳の匂ひ」(1940年)という短編の中にも、おじの妾で子供を産んだばかりの女と一緒に歩いていた若き作次郎が、目に入ったゴミを母乳で取ってもらう場面がある。
そういえば、大岡信は自作の詩においても、艶っぽさからは縁遠かった。