なまえ
ф ──── ф ──── ф ────
「どこに行ってたの?」
気が付いた私に、准が惚けた顔で尋ねる。
いつの間にここに通されたのか、私達はしっくりとお尻に馴染むオーク調の椅子に腰掛け、運ばれてきた飲み物はどのグラスも水滴の結露を浮かせて、私が口を付けるのを待ちくたびれている。
女の子の、不思議そうに私を見つめる瞳……。
蝋燭の青い炎が揺れる度、テーブルクロスの薄紫が、その濃淡を自在に変化させて見せる。
二人の肩越しにはバーカウンターが設えられていて、時折女の人の笑い声が聞こえる。
背の高い鷲鼻のバーテンダーはきびきびと仕事をこなし、間接照明で浮かび上がる19世紀のリトグラフが、店の品格を引き立てている。
そしてあの心地良いカノンの調べは、たった今も四年前の煌めきそのままに、まるで時空を飛び越えて私達を祝福し続けている。
「君、それでよかった?」
モスコミュール………
覚えててくれたんだ。
「ねぇ准、わたしの名前…忘れたとか言わないよね?」
「忘れないよ」
私の両方の目を一つずつ確かめるように、優しく覗き込む准。
「…それに証拠だってあるんだから」
准があの時みたいに差し出す水色の大学ノートには、地球を中心にした惑星の軌道も、へんてこな太陽も描かれていない代わりに、今度は、毛筆で書かれた二文字の漢字が三つ、丁寧に並べられていた。
───── 由季
───── 志帆
───── 未由
准に寄りかかるようにして瞳を輝かせる女の子と不意に目が合う。
「これって…名前よね?」
「そう、この子のね…」
「クイズな訳?」
「違うよ、君に決めて欲しいんだ」
准が女の子に顔を近づけて小さな目配せをすると、
「せーのーでやるの!」
まだ舌足らずの声が、好奇心を抑揚に代えて言う。
「僕は決めてるし、この子も決めてる…でもそれは内緒なんだ」
准が促す「…ねっ?」の声に、女の子が身体を揺らして頷く。
なんか、さっきから私だけ置き去りにされてる…。
准……………
何言ってるの?
「勿論、君次第なんだ、この子はずっと君を待ってたんだ」
その三つの名前はどれも、私の“志由”の名前から一文字ずつ宛てがわれていて…。
──── えっ、まさか!
そうなの?
………この子
ここでずっと待ってくれてたの?
私の中に封印されてきた感情が“夢という現実”を使って、少しずつ少しずつ私を孤独の淵に追いやろうとしている。
心の中で助けて!って叫んでも…駄目?
神様…お願いだから、私をもう少しここに居させて!
───── ───── ─────
私達はまるで普通の親子みたいに、とりとめもない談笑を楽しんでいる。
浅い夢のような、未知の感覚に包まれた幸せな高揚感。
綺麗な音楽……
一秒でも長くこうして居たい……。
もうちょっと。
あと少しでいいから!
それでももう一人の醒めた私は、守り抜こうと決めていたタブーを侵そうとして、密かに言葉を選ぼうとさえしている。
─── 感情の矛盾に赤い舌を出して笑っても平気な、もう一人の私。