聞えない声
眠ろうとしていたのだろうか? 眠りたかったのだろうか? それは定かではない。起きていたくなかったのだろう。
目を閉じているのに見える世界。輪郭ばかりがやたらと強く見える。白と黒の世界。
見たくない。消してやる。消したいんだ。よし消そう。
完全自殺マニュアル。思い出せ。そこにある。思い出せ……。
尾崎豊……。
アセトアミノフェン……風邪薬。
ガバと起き上って足元すら確かめず、あちらに当り、こちらに当って暗闇を歩いた。蛇口が不気味に鈍く光っていた。カラコロという軽い音。
アセトアミノフェン。白くてまあるい玉。つやつやと光って、優しく誘っていた。
水は生温かった。とても不味かった。餓鬼のように呑んでも、いっこうに満足感がなかった。そのくせ苦しくなる。
見えないはずの目が見えた。恍惚としてギラギラとしている。狂っている男の目だ。
カラリカラリと瓶はさらに軽い音を立てた。
――全部飲むんだ……飲まなきゃ駄目だ……――。
掌で白い球がまあるい顔で笑っていた。違う。狂った男の手が震えていただけだ。
喉を通る水が氷のように冷たかった。だが、不思議なほど美味かった。
――これでいい……楽になれる――。
「母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……さようなら…………」
まだ世界が見える。目を閉じているのに。消えてしまえ。消え失せろ。
無。
吐き気。黒い世界。立つこともままならない。明りのない地獄を這い、闇の中で一点の光を目指す。それが護美箱であるという虚しさよ。
再び無。
毛布が担架がわりになることを知った。部屋にできた轍のような獣道を運ばれる。
その風景を横になりながら見たのは初めてだった。たくさんの機械。赤いランプ。そこになかったものを見た。
頭を上げて左側を見た。
――ごめんなさい。迷惑をかけて……――。
何があっても忘れないだろう、ある女の顔がそこにあった。
――ごめんなさい。迷惑をかけて……――。
それまでとは異質の無は、そこから始まったのだった。
あの無はどこへいったのだろか? 時々こうしてやってくるあの無は。
何か言いたそうなのに何も言わないあの顔を、今日もまた見てしまったのだ。
その顔にはこう書いてあった――信じられない……――と。
~完~




