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聞えない声

作者: イプシロン
掲載日:2014/07/03

 眠ろうとしていたのだろうか? 眠りたかったのだろうか? それは定かではない。起きていたくなかったのだろう。

 目を閉じているのに見える世界。輪郭ばかりがやたらと強く見える。白と黒の世界。

 見たくない。消してやる。消したいんだ。よし消そう。

 完全自殺マニュアル。思い出せ。そこにある。思い出せ……。


 尾崎豊……。

 アセトアミノフェン……風邪薬。


 ガバと起き上って足元すら確かめず、あちらに当り、こちらに当って暗闇を歩いた。蛇口が不気味に鈍く光っていた。カラコロという軽い音。


 アセトアミノフェン。白くてまあるい玉。つやつやと光って、優しく誘っていた。

 水は生温かった。とても不味かった。餓鬼のように呑んでも、いっこうに満足感がなかった。そのくせ苦しくなる。

 見えないはずの目が見えた。恍惚としてギラギラとしている。狂っている男の目だ。


 カラリカラリと瓶はさらに軽い音を立てた。

 ――全部飲むんだ……飲まなきゃ駄目だ……――。

 掌で白い球がまあるい顔で笑っていた。違う。狂った男の手が震えていただけだ。

 喉を通る水が氷のように冷たかった。だが、不思議なほど美味かった。


 ――これでいい……楽になれる――。

「母さん、ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……さようなら…………」

 まだ世界が見える。目を閉じているのに。消えてしまえ。消え失せろ。

 無。


 吐き気。黒い世界。立つこともままならない。明りのない地獄を這い、闇の中で一点の光を目指す。それが護美箱であるという虚しさよ。

 再び無。


 毛布が担架がわりになることを知った。部屋にできた轍のような獣道を運ばれる。

 その風景を横になりながら見たのは初めてだった。たくさんの機械。赤いランプ。そこになかったものを見た。


 頭を上げて左側を見た。

 ――ごめんなさい。迷惑をかけて……――。

 何があっても忘れないだろう、ある女の顔がそこにあった。

 ――ごめんなさい。迷惑をかけて……――。

 それまでとは異質の無は、そこから始まったのだった。


 あの無はどこへいったのだろか? 時々こうしてやってくるあの無は。

 何か言いたそうなのに何も言わないあの顔を、今日もまた見てしまったのだ。

 その顔にはこう書いてあった――信じられない……――と。


          ~完~

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