SCENE19 撫子 その4
嘘。嘘でしょう? パパ、どうして倒れているの?
わたしはただ、倒れて動かなくなってしまったパパの傍らで、そう呟くことしか出来なかった。それが言葉になっていたのかどうかも良く分からない。
信じられないくらい血が流れていた。それらはへたり込んだわたしの足を容赦なく汚していく。
震えが止まらなかった。ガチガチとかみ合わない歯が音を立てている。
何故? どうして? パパ――――――!
「撫子!」
我に返ると、セージがわたしの肩をつかんで揺さぶっているところだった。
「セ……、セージ……」
「しっかりしろ。葛木はまだ死んでない」
「死んで……ない?」
だって、こんなに血が流れているのに? ピクリとも動かないのに?
「救急車はまだか? それからヘリの手配! 急げ!」
珍しくムコーダがそう怒鳴り、指示を下している。そしてわたしと目線を合わせるようにしゃがんでから言う。
「まだわずかですが脈があります。ヘリで本土の病院へ運べば、助かる可能性は充分あるでしょう。ですからお嬢さまもしっかりして下さい」
「で、でも……」
わたしは言いよどむ。セージはそんなわたしの肩をもう一度揺さぶってきた。
「いいか。お前がここでぼうっとしてても、何の解決にもならないんだ。お前が今、真っ先にやらなきゃならないことは、ここから逃げ出すことだ」
「逃げ……だす?」
「そうだ。おい、ヘリポートはどこだ?」
セージはわたしに肯いてみせてから、ムコーダへ質問する。
「ヘリポートは旦那様のお屋敷にございますが、今はそこまで旦那様を運んでいる余裕はありません。ですから、この先の空き地に来るよう指示しました」
「聞いたか? そこに行け」
セージがわたしの腕をひっぱって、立たせようとする。わたしは足に力が入らず、すぐに崩れ落ちてしまいそうだったけど、それでも何とか立ち上がった。
「葛木と一緒にヘリで島を出ろ。そしてもう二度とここへ戻ってくるな」
わたしはセージの指示に、何度も首を縦に振ってみせた。
「こんな状況だ。どさくさに紛れて、お前の婚約話も流れちまうことだろうよ。もう、俺もお役御免だろう?」
わたしよりだいぶ高い位置にあるセージの顔を、見上げる。
「セージは? セージはどうするの?」
「俺はなんとでもなる。お前は自分のことだけ考えていればいい」
「でも……!」
突然、ぐい、とわたしの髪が後ろからひっぱられ、わたしは思わず悲鳴を上げてしまう。振り返って見てみると、見知らぬ男がわたしの髪をわしづかみにしていた。「何?」と思う暇もなく、セージが見知らぬ男の顔面に拳をめり込ませていく。
「調子に乗って、好き勝手やりやがる。お前も巻き込まれないうちに早く逃げろ!」
「う、うん……!」
ムコーダともう一人の秘書がパパの体を持ち上げる。セージは前に立って、逃げ道をふさぐ者をなぎ倒していった。
めちゃくちゃだった。そこここで殴り合いが繰り広げられ、女の人の中には服をはがされている者もいた。わたしは恐ろしくなって、己の肩を抱いて、前を行くセージの後を追った。
工場跡の出口まで行くと、セージは踵を返してまた中へと戻ろうとした。
「セージ! どこへ……?」
「俺のことはいい。早く逃げろ」
「でもセージ……」
「俺はまだやることがある。もう一人、面倒な奴をここから引っ張り出さなきゃならない」
「そんな……、無茶よ……!」
わたしがそう言うと、セージはふっ、と表情を緩めた。
笑っ……た。
あの仏頂面の固まりみたいな男が、笑った。ほんのわずかだけど、間違いなく笑ったのだ。
「心配はいらない。どうせ、もう二度と会うこともないんだ。心配するだけ無駄だろう?」
セージはそのまま「さよなら」の一言もなく、わたしたちから離れて行った。
「二度と……?」
そうだ。もともとセージは、わたしのわがままに付き合わされただけ。このままわたしの婚約話がうやむやになってしまえば、もうセージはわたしと一緒にいる理由などない。理由がなくなれば、捨島の喧嘩屋と本土で育ったわたしとの間に、接点がなくなる。
でも――――
「そんなの許さない!」
人ごみに消えようとしていたセージの背中に向かって、わたしは叫んだ。
「あなたもちゃんと、ここから逃げ出して! そしてわたしに無事な姿を見せに来なさい! でないと、許さないから!」
聞こえたかどうかは分からない。彼は振り向きもしなかったから。
でも、このまま別れてしまうのは、何となく許せなかった。心配するだけ無駄だという、彼の言葉も許せなかった。
無駄なことでも、せずにはいられないことだってある。
そうよ! わたしはセージが心配。そして彼ともう二度と会えなくなるなんて嫌。
そんなこと、認めない。
「行くわよ、ムコーダ!」
わたしは工場跡に、きっぱりと背を向けた。
セージの言うとおり、何が何でも逃げ出してやろうじゃないか。そしてパパの命も救うんだ。
自分が無事でなければ、彼の無事も確認出来ないから。
だから、逃げる。逃げ延びるのだ。




