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SCENE17 メイリン その2



 駄目だ。やっぱり駄目だよ、兄貴!

 あたしはイデとセージの賭け試合が行われている工場跡へとひた走る。肌にまとわりつくような、もったりとした空気を切って、息を乱しながら。

 あたしは、やっぱり嫌なんだよ。この島がなくなってしまうのは。


 この島に初めて足を踏み入れたのは、あたしがまたわずか八歳の頃。捨島は、そんな子供が生きていくには厳しすぎる環境だった。

 ずいぶんとひどい目にあったし、命の危険を感じたのは、一度や二度じゃない。

 でも、あたしたち兄妹は這い上がった。この島の中で、成功したとまではいかないけど、それでもある一定の生活レベルを保てるぐらいにはなった。

 楽しい思い出より、辛い記憶の方が多いのは確かだ。それでも、この捨島はあたしにとっては故郷みたいなものなんだ。

 路地裏に吊るされた洗濯物、いくつか電球の切れた看板、気難しいタバコ屋のバアさん、油臭い厨房、太った野良猫、黒ずんだ貸しビル、数少ない常連客……。

 もし、兄貴が葛木を撃ってしまったら、これらすべてがなくなってしまうかもしれないんだ。

 ……それは、嫌だ。

 一度は兄貴の言うことに納得もした。兄貴はあたしのためを思ってくれている。そのために裏稼業から足を洗いたがっていることも知ってる。だから、あたしは一度、兄貴の言葉に首を縦に振った。

「いいか、夜になったら前金の一千万を持って、港に行ってるんだ。『つくも丸』っていう漁船に話をつけてある。そこで待ってろ」

 今日の昼前、兄貴はそう言った。残りの報酬はどこで受け取るのかと聞いたけど、兄貴は答えず、やけに渋い顔をした。何かに迷っているように見えた。

 あたしは兄貴の言うとおりに、日が落ちると、必要最小限にまとめた荷物と、一千万の入った小ぶりなトランクを持って店を出た。

 港にはちゃんと「つくも丸」という小さな漁船と、船と同じように小柄なジイさんが待っていた。そのジイさんが「つくも丸」の船長で、兄貴とあたしを本土まで乗せてってくれる人物だというわけだ。

 そのままあたしはジイさんと、とりとめのない話をしながら兄貴を待っていた。けど、しばらくするとあたしはもうジイさんの話など耳に入らなくなった。不安が、あたしの身から溢れ出そうなほどに増していったからだ。

 やっぱり駄目だ。兄貴の言うことも、兄貴の思いも、充分すぎるほどに分かっている。それでも、やっぱりあたしは失くしたくない。

 この島での生活を。

 あたしは、ジイさんが止めるのも聞かずに走り出した。賭け試合をやっている工場跡へと。

 兄貴を止めなくちゃならない。前金の一千万なんかいらない。残りの報酬もいらない。契約不履行ということで反対に金を要求されてしまうかもしれないけど、それでもいい。

 馬鹿な真似をやめさせなくては――


 工場跡に着くと、いくつかある入り口のうち、東側の入り口から中へと入る。入り口のすぐ外では、自家発電機が唸っていたが、その音も一歩中へと入ると、観客たちの熱狂的な歓声に掻き消えた。

 人、人、人。どこを見ても人で溢れかえっている。人の群れに阻まれて、その先にあるであろうリングがまるで見えない。けれど、あたしが見たいのはリングじゃない。兄貴の姿だ。

 何処? 何処にいるの、兄貴。

 本当に兄貴はここにいるのだろうか? ここまで来てしまってから、そう思うのもなんだけど、葛木を暗殺するからといって、必ずここにいるとは限らない。もし兄貴が、葛木を暗殺する方法に遠距離からの狙撃を選んでいたとしたら、ここでいくら兄貴を探そうとも無駄なのだ。

 それでもあたしは人の壁を掻き分けて、工場跡の内部へと入り込んでいった。手には荷物を持ったままだったから、それはひどく難儀なことだったけど、それでもあたしは前へ進んだ。

 葛木を探すんだ。

 もし兄貴がここにいないのだとしても、葛木のそばにあたしがいれば、兄貴は引鉄を引くのをためらってくれるかもしれない。

 葛木は最前列だ。葛木ほどの有力者が最前列にいるだろうことは、あまり賭け試合に足を運ばないあたしでも知っていることだ。

「葛木!」

 あたしは叫ぶ。その声は、観客たちの轟きに消されてしまったけれど。

 もう少しで最前列。リングが見えてきた。イデとセージが拳を交わしている。ふたりとも真剣な表情だ。

 その二人を尻目に、あたしは葛木を探す。

「葛木ィ!」

 もう一度叫んだ。

 その瞬間、

 パンッ、という少し間の抜けた音が場に響いた。


 あれだけ騒がしかった工場内が、嘘だったみたいに静まり返る。リング上の二人も思わず戦うことを忘れたようだった。

 それは、銃声。

 遅かった。遅かったの……?

 あたしはへたりこみそうになる足を何とか動かした。そして最前列に出る。

「葛木!」

 三度目の叫びは、静かな会場によくこだました。

 荒い息を繰り返しながら、あたしは葛木の姿を見た。もう探すことをしなくても、この場にいる誰もが葛木に注目していたから、すぐに分かった。

 葛木はうつぶせに倒れていた。体の下から、じわりじわりと血液が広がっている。

「パパ!」

 リングのすぐ傍にいた女の子が、そう叫んで倒れる葛木へと取りついた。

 あたしは、視線を床の葛木から上げていく。葛木の足元に、奴が座っていただろう椅子がある。その背後に、銃を構えた――――――

 違う! 兄貴じゃない!

 髪を茶色に染め、鼻にピアスを開けた若者がそこにはいた。自分のしでかしたことに怯えているかのように、銃を構えたポーズのまま、ガタガタと震えている。

 なんてこと……!

 それをやったのが兄貴でなくても、葛木が死んでしまえば同じなんだ。

 葛木の死は、捨島の破滅。

 ああ、もう終わりだ―――――



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