SCENE1 セージ
異常と正常の境目は、どこにあるのだろうか。
時々、そういった考えに捕らわれることがある。例えば、飯を食っている時であったり、ランニングの途中であったり、夜明けのまどろみの中であったり。時と場所を選ばず、その考えは突如として訪れてくる。
唯一、決まって訪れるのが、賭け試合を目前に控えたこの時だ。この時だけは必ずといっていいほどに、そのことばかりを考える。
本日の会場は、ビルとビルに挟まれた薄暗い路地裏だ。俺のすぐ後ろにロープが張られ、俺の十メートルぐらい先にも同じようにしてロープが張られていた。その内側がリングとなる。幅は三メートルほどだろうか、路地裏としては広いが、試合会場としてはとても狭い。
ロープのすぐ外側に置かれた古ぼけたラジカセから、耳を壊すほどの大音量で、尖った音楽が排出されていた。聞くところによると、今流行りの曲であるそうだが、そういったものに興味のない俺にとってはただの騒音でしかない。ただ、腹の底に響くようなベースの音だけは、ちょっとだけ心地よく感じる。その音楽に煽られるように、観客たちのボルテージも徐々に徐々に増していく。
会場が狭いから、観客たちも場所取りに必死だ。ロープの外側では群がった輩が押し合いへし合いを繰り広げている。両側のビルの二階や三階や屋上から、今にも落ちてきそうなほどに身を乗り出している奴らもいた。
「捨島」と呼ばれるこの人工島に生息する者たちが一番熱狂するのが、この賭け試合だった。「賭け」と言うからには当然金を賭ける。そして「試合」というのは、ごくごく単純な力と力のぶつかり合い。簡単に言えば喧嘩のことだ。
ルールは二つだけ。「武器の使用は禁止」ということと、「立てなくなった方が負け」。これだけだ。
単純だからこそ、人々は熱狂する。あれだけやかましかった音楽も、ギャラリーの怒号と歓声と声援と悲鳴に押し込まれてしまいそうだ。
観客たちは、異常なまでに興奮していた。
そう、「異常」だ。あの考えが頭をよぎる。
観客たちが異常なら、それを冷めた目で眺めている俺は「正常」なのだろうか。
いや、この状況において、一人だけ冷めたままでいる俺の方が本当は「異常」なのかもしれない。ならば観客たちは「正常」だということになる。
俺はこうして軽い混乱に陥っていく。混乱しているのに、頭は妙に冴えていく。試合開始が近づくにつれ、頭のてっぺんから足の指先まで、ひとつひとつの細胞が目覚めていく感じ。この感覚がたまらなく好きだ。俺が喧嘩屋をやめられない理由のひとつがこれだった。
「おい、セージ!」
ロープのすぐ外側にいるイデが俺の耳元で怒鳴った。イデは長身痩躯なその身を、リングの内側にいる俺へと精一杯伸ばしている。そうでもしなければ、声が届かないのだ。
イデは俺のマネージメントをしている男だ。いわゆる相棒ってやつだ。ガラが悪くて口も悪いが、金勘定だけはしっかりしているので重宝している。
「あいつ、来てるぜ」
イデは鋭い視線を反対側のロープ、その外側にいる男へと向けていた。イデの視線の先にいるのは初老の紳士。だがその男が、品の良い紳士という外ヅラの下に、黒く渦巻いた恐ろしいものを抱えていることをこの島の誰もが知っていた。
紳士の名は葛木。この賭け試合の元締めをしている。賭け試合だけじゃない。賭けマージャン、バカラ、闘犬、ルーレット……。この島の賭け事という賭け事の根元にこの男は存在する。さらに言うなら、この男はこの捨島の頂点に立つ人間でもあった。この島では誰も葛木に逆らわないし、逆らおうとも思わない。この男の存在があってはじめて、この捨島が成り立っていることを皆分かっているのだ。
捨島についても、ちょっと説明しておこうか。
この東京湾に浮かぶ人工島は、もともと第四工業区域と呼ばれていた。
昔、日本が好景気に沸いていたときに作られた島だ。
工業区域と言うだけあって、そこここに工場が建てられ、そこに勤める者やその家族たちが家を並べ、それなりに栄えていたらしい。だがそれも昔の話。
やがて訪れた不況の波に、日本全土は呑み込まれてしまった。第四工業区域は特にその被害が酷く、その波に押しつぶされてしまったと言ってもいい。あれだけ栄えていた工場は閉鎖が相次ぎ、それに伴って家々からは人が消えていった。瞬く間にこの島は寂れてしまったのだ。
それからしばらくして、第四工業区域には、また人がちらほらと住み着くようになっていった。以前のような工場関係者ではない。新たな住人は、表通りを堂々と歩けないような人種ばかりであった。気がつけばこの島は、東京で一番の、いや日本でも一番の犯罪区域となっていた。
島の外の人間は、この島のことをいつしか「捨島」と呼ぶようになり、自分たちの住む世界とは違うところなのだという認識を持ち始めていた。また島の人間も、島の外の日本を「本土」と呼び、自ら境界線を引いた。
こうして捨島は出来上がった。
葛木はこの薄汚れた島の中で、珍しいぐらいに公正な人物であった。奴が取り仕切るギャンブルにイカサマは一切ない。それでも葛木が巨万の富を得ることが出来ているのは、ただ奴の経営手腕が冴えているからに過ぎない。奴ならば本土でまっとうな商売をしても、今と同じような財産を築くことが出来るだろう。そのぐらい、葛木は公正なのだ。
だからといって、奴を甘く見るような馬鹿はそうそういない。葛木は公正な男だが、自分に対して不逞を働く者には容赦しない。奴に逆らって秘密裏に消された者は数知れず、なのだという。こういうところが、奴もまたこの捨島の住人なのだと思い知らされるところだ。
葛木はこの島で行われるすべての賭け試合を取り仕切っている。だが自ら試合会場に赴くことはあまりない。イデがわざわざ葛木の存在を知らせてきたのにも、そういった理由があった。横目でイデの顔を見やると、案の定、その表情は崩れきっていた。
試合を見に来たお大尽は、その試合の勝者に祝い金を出すのが、この捨島での慣わしだ。葛木は誰しもが認める富豪だから、もしこの試合に俺が勝てば、俺たちの懐に入る祝い金もかなりの額になるのは簡単に予想がつく。イデの顔が緩むのも無理はない。
「喜ぶのは早いぞ。勝たなけりゃ祝い金はもらえないんだからな」
「何で? お前が負けるワケないじゃん」
さも当然のごとくイデは言う。信頼してもらえるのはありがたいことだが、そういうのを油断というのだ。
「だって見てみろよ、アイツ」
俺のそういった心持ちが伝わったのか、イデは反対側のロープに寄りかかるようにして立つ、対戦相手の男を指差した。
「典型的な筋肉バカってカンジじゃん。無駄な筋肉つきすぎだし、さっきから歩くの見てたけど足さばきも悪そうだし、典型的な猪突猛進型だとオレは見たね」
イデの言うとおり、相手の男は筋骨隆々といった風の大男だった。見るからに動きは重そうだ。筋肉は重いから、つけ過ぎると自らの動きを制限してしまうことになる。さらにイデの言によれば、相手の弱点は足。上半身の筋肉を鍛えることに執心するあまり、下半身がおろそかになってしまった、と言ったところか。イデの観察眼は確かだから、これは間違いないだろう。
イデを相棒にするメリットは、金勘定の他にこの観察眼もあった。一目見るだけで相手の弱点を見抜いてしまう。これは類まれなる才能だと言えるだろう。イデのアドバイスが間違っていたことは、今のところ一度としてない。そのおかげか、俺は賭け試合では未だに負け知らずだった。
「時間だ」
イデは短くそう言うと、金色に染めた髪を揺らして身を引いた。
相手の男はロープから身を離し、リングの中央へと歩み寄ってくる。相手の男の名は何と言ったか。対戦が決まった時にイデの口から聞いたはずだったが、忘れてしまった。
レフェリーに促され、俺もまたリングの中央へと足を動かす。「セージ! 秒殺、秒殺!」と叫ぶイデの声が、ギャラリーの歓声に混じって背中を叩いた。
相手の男は、人でも殺せそうな目つきで俺を睨みつけている。試合直前に、リングの中央でお互いに顔を寄せ、睨み合いをするのが、賭け試合の慣例であったが、俺はほとんどそういうことをしない。今日もまた然りだ。俺は睨みつけてくる相手の男を一目見て、すぐに顔をそらした。脂ぎった男の顔など至近距離から見るもんじゃない。相手の男は、俺が気おされているとでも思ったのか、鼻で笑った。
こちらを見くびるなら、とことん見くびるがいい。睨み合いをしようがしまいが、勝つのは結局強い者。それが真理だ。
俺と相手の男はリング中央から離れた。数歩の距離を置いてまた向き合う。それを確認したレフェリーが一声をあげ、戦いの火蓋は切って落とされる。
「ファイト!」
同時にゴングが鳴り響いた。ギャラリーの歓声がさらに熱を帯びる。
俺は軽くステップを踏むようにして右へ移動した。
イデの見立てによると、相手の男は「猪突猛進型」。真っ先に攻撃を仕掛けてくるだろう。そして体の左側を前に出し、右側を引いたファイティングポーズを見る限り、奴は右利きだ。弱点である足での攻撃を最初の一撃に持ってくるとは考えにくい。ならば来るのは左ジャブからの右ストレート。
当たりだ。牽制するかのように二度左ジャブを出した後、奴の右拳がうなりをあげて俺の左肩をかすめていく。見るからに重そうなパンチだが、やはり動きは速くない。俺はそのまま奴の背後へと回る。すれ違いざまに脛へと軽い蹴りを入れておいた。すると相手は思いの外、バランスを崩した。
まさかこれしきの蹴りでバランスを崩すとは。少しだけ意外に思いながらも、俺は相手のうなじのあたりに裏拳を叩き込んだ。相手はそれをまともに食らい、吹っ飛ぶようにダウンした。まだゴングが鳴って十秒と経たない。
「しょぼい試合してんじゃねーぞ、コラー!」
最前列のイデが倒れた男に罵声を浴びせかける。セコンドが相手を野次るのも作戦のひとつだが、イデの場合、作戦でも何でもなく口汚い言葉がポンポンと出てくる。これが地なのだ。
「いくらなんでも弱すぎんだろ、この×××野郎が!」
イデの罵りの言葉に煽られ、ギャラリーが一斉にブーイングを始める。相手の男はそれらに負けじと立ち上がった。そしてまた俺へと突進してくる。
イデの見立ては、またまた大当たりだった。典型的な猪突猛進型。考えも何もあったもんじゃない。ただ勢いに任せて重いけれども遅いパンチを繰り出してくる。俺はさっきと同じようにそれを避け、そしてまたさっきと同じように脛へと軽い蹴りをお見舞いした。この男には学習能力というものが備わっていないらしい。
またもやぐらついた相手の喉元を、俺は右手で引っつかむ。そのまま勢い良くビルの壁へと男を叩きつけた。男は後頭部を壁にぶつけて低くうめく。その隙に俺は、相手の男から距離を取り、反対側の壁を背にして立った。
「野郎!」
男は怒鳴りながら突っかかってくる。今度は思い出したかのような足での攻撃だ。だがやはりパンチに比べて威力はなさそうだ。軸足への体重の乗せ方が良くない。俺はその蹴りを相手の右側へ回り込んでかわし、すかさず奴の腹に右拳を叩き込む。そして続けざまに左拳を男の顔面へと突き出した。
俺の拳は見事なまでに男の鼻っ柱をへし折り、男は鼻血を飛び散らせながら、仰向けに倒れていった。
レフェリーが倒れた男の顔の上で、手をひらひらと振る。それから頬を軽く叩く。倒れた男は無反応だ。完全に意識を飛ばしてしまっている。俺は嘆息した。
カンカンカンッ、とゴングが鳴る。試合終了だ。ギャラリーはより一層歓声を高め、手を叩いた。
イデが意味不明な叫び声を上げ、ロープをヒラリと跳び越えて、リング内へと入り込んでくる。観客たちもまたリング内へとなだれ込んできた。
「報奨金アンド祝い金ゲット~! ッシャア! よーし、今夜はガンガン飲むぞ!」
「おい、酒は……」
「セージ! こんな時に飲まずにいつ飲むのかね!」
盛り上がるイデに呼応して、観客たちまでもが同意の歓声を上げる。しかしイデはそんな観客たちの反応を見て目の色を変え、
「オイ待て! 誰も奢りだとは言ってねぇからな! 自分で飲む分は自分でキッチリ払え!」
観客たちに、もみくちゃにされながらも、イデはそう主張する。周り中から不満の声が上がったが、イデはお構いなしだ。
今夜はろくに眠れそうにないな。
俺はもう一度、嘆息した。
こうして捨島の夜はふけていく。夜の帳は、この島では効果がない。