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『まーめいど』

作者: 早河素子

ちょっとグロテスクで気持ち悪い描写があるかも知れません。

ゼミに提出したものを書き直さずにそのままうp。

先生には「君、ラヴクラフト好きでしょ」と言われました。先生、ご慧眼!

ラヴクラフト聖誕祭楽しかったですう。

気が向いたら、書き直してどっかの賞に送ります。

後半の失速具合はともかくとして、アイデア自体は自分でも気に入ってるので。

 梯子を引き上げ、地下室につながる鉄扉を閉じ、カーペットを敷き直して机を元の位置に戻した。天井近くの壁に掛けられた丸時計は午前六時半を指している。起床は六時だった。面倒極まりない作業には違いないが、罪悪感に支えられた最初の数ヶ月が過ぎる頃には肉体が習慣として受け入れていた。

 台所で手早く洗い物を済ませる。まな板は水を良く切ってから窓際にぶら下げて干しておく。肉切り包丁は洗ってから錆びないようにしっかりとタオルで水滴を拭ってから仕舞う。ポリバケツだけは適当に水で流し、勝手口の土間に逆さにして置いた。

 肉塊から滴り、手に染み込んだ生臭さはいくら強くこすっても完全に落ちたと確信することを許さない。だから俺は強い香り付き石鹸を使っている。柑橘系の爽やかな匂いが生臭さを誤魔化してくれる。

 もう慣れたはずだが、無意識下にこびり付いてしまっているのだろう。ともすると俺は大学へ向かう満員電車の中で、手の臭いをそっと嗅いでいることに気がつく。もちろんうすく芳る甘酸っぱい匂いが俺の鼻腔を満たすだけだ。


 大学は二日前に入学式があり、授業はまだ始まっていないが、現在はサークルは新歓期間中で普段の大学よりもよっぽど雑多な活気に満ちている。

 とりあえず長机と椅子を運営から借りてきてサークル棟の奥まったところに並べた後、俺は笹原とやる気なく雑談に興じていた。ただでさえSF研などという益体もないサークルであるにつけて、人数もたった二人ときては友達作りのお遊びサークルにすらなりえず、いいポジションに陣取って宣伝など杯水車薪だということは分かり切っていたからだ。

「おい、刀禰。あの子、可愛くねえ?」

 そう言った笹原の指差す先には視線を泳がせた挙動不審な女。リボンタイ付きのブラウスにキュロットスカート、ショートボブの髪は如何にも大学デビューで染めて御座いという茶髪。

 俺は思わず眼鏡のずれを直した。新入生であることは容易に知れたが、どこか既視感がある。だが、その姿にはリフレインするおぼろな記憶と致命的な食い違いが生じているように思えた。

 気がつくと女は俺たちの前までやってきていた。どうせ冷やかしだろうとうろん気な視線を向けるだけの俺と違い、さっきまで俺と同程度にはやる気がなかった笹原が去年の学祭のときに二人ででっち上げた会誌を取り出して熱心に勧誘を始めている。

「わたし、SF研さんに入会します」

 笹原の口上を遮って女は言った。気味の悪いことに満面の笑みを浮かべている。

 SFといってもがちがちの科学小説とかばかりではなくてなどと言いながら俺の書いたラファティの解説のページを開いて口上をまくし立てていた笹原がぽかんという効果音が似つかわしいほど大口を開けて呆けていた。まさか本当に入会するとは思わなかったのだろう。連絡先だけでも聞き出して個人的に履修登録の相談にでも乗ってやりあわよくば程度の考えだったに違いない。

「先に言っとくが、うちのサークルはここにいる俺と笹原の二人だけだぞ。他に新入生が入る見込みもないし、サークルで仲良しこよしのキャンパスライフなんてものを想像しているんだったらやめといた方がいい」

 突き放すように言うと恨めしげな表情の笹原が、「だましてでも入れちまえばこっちのもんだろ。選り好みできる立場かよ。もったいないじゃんか」とその目で語っていた。

 笹原の言うことももっともだし、普段の俺ならそうして憚らなかっただろう。しかし、この女からは嫌な予感しかしない。

 にこにこと大学生らしからぬ小学生並みに無邪気な笑みを浮かべた女と目を合わせた時、俺は覗き込んでしまった深淵の深さに眩暈を覚えた。この奈落には覚えがあるように思え、しかもその感覚はけして単なるデジャビュではないと悟っていた。

「お久しぶりですね、キミフサ先輩。会いたかったです」

「なんだよ刀禰。お前の知り合いだったのか」

 それならそうと早く言え、と笹原が嘆息した。刀禰公房というどちらもかびの生えた姓と名の組合わせが俺だった。

「わたし、宵宮夢露です。まさか忘れるはずありませんよね?」

 忘れるはずがなかった。

 目の前の女と記憶の中の図書室でいつまでも本を読み続けている三つ編みでまとめた一本おさげを背に垂らした少女の姿が重なり合い、癒えかかっていた忌まわしい傷口からどろりと膿のような記憶がこぼれ出してきた。

 

 宵宮夢露などという酩酊したような名前を持つこの女は俺の高校時代の後輩だった。 

 当時、俺は一年からずっと図書委員を続けており、仕事も司書の先生の次くらい心得ていたから仲間に頼りにされていて(そこには多分に物好きをおだてて厄介ごとを押し付けようという意図もあったのだろうが)、自分のシフトに関係なく図書室に詰めていることが多かった。

 きっかけは良く覚えていないのだが、同じように授業以外の時間を下手をすれば図書委員の俺以上に図書室を根城にして過ごしていた宵宮と会話を交わすようになるのは必然の流れだったのかも知れない。もともと本好きなどという因果な人種は同族相手に薀蓄を垂れるを生きがいとしているような連中だ。うってつけの相手が目の前に居ながら無視し続けることが出来るはずもなかった。

 とは言え、俺と宵宮との関係は図書室という限定された領域におけるもので、会話の内容もそれに準じていた。つまり、互いの薦める本や読書の感想などに。

 宵宮は地味な女生徒だったが、よく見れば顔立ちは整っているし、読書の傾向もそう離れたものではなかったので会話もそれなりに弾んだ。

なにより後輩の女子から慕われているという事実だけで俺のささやかな虚栄心は十分に満たされていた。思えば俺もいい気になって思わせぶりな態度を取っていたような気がしなくもない。

「何読んでるんですか?」

「連城三紀彦、『少女』って短編集。サスペンスチックなミステリを集めてるんだけど、ひねりが効いてて面白い。ひと夏の肌って話なんてもうSFだぜ」

 別に俺は連城三紀彦を特にお気に入りの作家に定めているわけではないが、若い頃の母が好きだった影響で、引き継いだ著作が十数冊揃っている。

 中学生くらいの頃は本番を露骨に描写しているわけでもないのに妙に官能的な文章に惹かれて読んでいた。文章にしろ、画像、映像にしろ、どぎついものをそれなりに見慣れた今では連城三紀彦の文章に性的興奮を強く感じることもほとんどない。

 その代わり、話の筋やトリックに視点を移して読むようになった。エロチックな肢体の動きや男女の感情の機微の描写に溶け込んだ伏線や暗示を読み解くのは快感だ。分からないときも不思議と悔しさは感じない。

「特に好きなわけじゃないっていう割には熱っぽく語りますよね、先輩」

「文章の美しさや伏線の仕込み方に感心してるだけ。そう言うお前は珍しいもの読んでるな」

 宵宮が手にしていたのは和綴じの古文書だった。表紙の傷み方、小口からのぞく黄色を通り越して焦げ茶色に変色した頁を見ると相当古いものらしかった。

「興味あります?」

「ああ、見せてもらえるか?」

 不気味なほど邪気のないいつもの笑みを浮かべた宵宮から腐食が進んだ古文書を受け取る。

 題名は――

「忌譚? あとは、分からないな……」

 草書体、なのだろうが奇妙に歪み色褪せた文字。しかし連綿と続き流麗に見える、こうした文を狂草というのだろうか。

「そうです、けどよく読めましたね」

 小学生の頃の六年間だが、書道を習っていたことがある。俺は楷書でしか書いたことがなかったが、五十過ぎの中年の女の肩から先が独立した生命のようにうねり生み出す草書体には奇妙に見入ってしまった覚えがある。先生自身は子供がなかったらしいが子供好きだったようで、生徒たちが各自その日の課題を書き終えた後、彼女が作品を書く様子を仕事場で見せてもらうことがあった。

 装幀は古びてこそいるが、保存状態は良い。綿糸ではなく紙縒を使い、綴じ方は麻の葉綴じ。開いてみれば表紙の裏打ちは絹だ。随分と装飾が凝っている。

 しかし、平安時代のものというほど古くは見えない。恐らく江戸時代、木版印刷が隆盛した頃に作られたものではないだろうか。しかし、これは手書きで、流れるように書かれた達筆の文字は読むことを拒むようだ。しかも、頁によって書き手が違う。明らかに筆跡が異なるのだ。適当に開いた頁で初めに目についたのが畜生という単語なのが不快だった。

 閉じて小口を見れば、後ろの頁ほど紙が新しくなっているのが分かる。逆に先頭の頁ほど明らかに変色しており、奇妙なグラデーションを作り出している。

 宵宮は笑っているが、もしかしたらとんでもない価値のある稀覯本ということも考えられなくもない。なんとなく腰が引けてしまった俺は慎重に頁を閉じると夢露に返した。

「どうしたんだ、これ。もしかして、結構値が張るものか?」

「ふふ、そうかも知れませんね。うちは骨董屋なのです。これは商品を仕舞ってる蔵から持ってきたんです。ちょっと試してみたくて。すぐ返せばたぶんお爺ちゃんにばれたりしないと思うし」

 俺は宵宮の実家が骨董屋を営んでいるということを初めて知った。よく彼女が女子高生に似合わぬ懐古趣味の小物を使っているのは見ることがあったが、その趣味も家業由来のものと知れば納得出来なくもない。

 邪気のない笑みを浮かべて愛おしむように書を撫でる宵宮から目を逸らすように、窓枠に寄りかかってふと校庭を見下げる。校舎の西、西北、北の順に第一、第二、第三グラウンドが続いてある。カウンター内側の窓から見えるのは第三グラウンドだ。

 第一はサッカー、第二は野球、第三を使っているのは陸上部だった。図書室は四階だからちょこまかとグラウンドを走ったり投げたり跳ねたりする人影は親指ほどの大きさで微笑ましかった。ほとんど飛んでいるかのようにレーンを駆け、ハードルを歩道の縁石を越える気軽さで跨いで行く少女。百メートルを瞬く間に抜けた少女の肩をタイムを計っていた別の女生徒が叩いてタイムを告げる。小さくガッツポーズ。少女はこちらを見上げ、視線が合った。自慢気な笑みを浮かべて、俺にピースサインを送ってきた。

 時計の針はもう午後六時をとっくに回っていた。図書室で店番をしなければいない時間は本来午後五時までだ。図書室自体は自主勉強する生徒たちのために午後八時まで解放されているが、貸出業務は五時で終わる。俺と宵宮は司書室に引っ込んでいた司書の先生に報告をしてから図書室を出た。

 すでに昇降口にはジャージから制服に着替えた陸上少女、木静一伽がポケットに手を突っ込んで待っていた。男子連中は知らないやつも多いが、女子の制服のスカートというものにはきちんとポケットが付いている。プリーツのひだに巧妙に隠されたそいつをどうしても信じられなかった中学時代の俺は、一伽のポケットにいきなり手を突っ込んだことがある。当然のように俺は一伽に問答無用で殴られ鼻血を出したうえに、帰り道でもずっと罵られた。平手ではなく拳で顔面を殴るあたりも彼女らしかった。

 学年が違うと下駄箱も違う。俺は昇降口の手前で宵宮に別れを告げ、バッグを肩に掛け直した。

 俺と一伽の家は同じ住宅街にある。さばさばした性格で、悪く言えば直情径行とも言える一伽はアンゴラ山羊の角のようにひねくれた性格とも評される俺と何故か馬が合い、俺が住宅街に引っ越してきてから十年来の腐れ縁が続いている。阪急電鉄の車両の座席はモヘヤと呼ばれるアンゴラ山羊の毛織物を使っているらしいと聞くが、俺は阪急電鉄など利用したことがないから詳しいことは知らない。

「見てたか? わたしが走るところ」

「見てた見てた。しかし、お前は何を動力にしたらあんなスピードが出せるんだ。理解に苦しむ」

「それはわたしのこのカモシカのような脚を見ればわかるだろ」

一伽はスカートの裾を軽くつまみ、アスリートらしく発達した、しかし細く引き締まった大腿筋を見せた。

「お前の思い浮かべているのはニホンカモシカだろうが、あいつら瞳こそつぶらだが、脚はごつくて太いぞ」

「え、じゃあなんでカモシカのような脚なんて言うんだ?」

一伽はいつもの素っ頓狂にさえ聞こえる疑問の声を上げた。

「いいか、その形容で言われるカモシカは羚羊と書くんだ。ひつじへんの令に羊でレイヨウ。それをカモシカとも読むんだな。それで誤解が広がったわけだが、レイヨウはほとんど地上最速に近い動物でそれに相応のしなやかな脚を持ってる。しかし、どっちにしろ太いことに変わりはないけどな」

 ひゅんという風を切る音がして、一伽の脚が俺のふくらはぎに鞭のようにしなやかな一撃を見舞った。突然の衝撃に俺はアスファルトに膝を落としてしまった。

「そんな細かいことはどうでもいいんだ。わたしの脚は太くない。誤解が元だろうとなんだろうと世間でそう思われてればそれでいいじゃないか」

「何をする。痛いだろう。人の話を最後まで聞け」

 引き攣るような痛みを訴えるふくらはぎを軽く揉みほぐしながら、俺は顔をしかめて立ち上がった。

「カモシカのような脚じゃない、カモシカのような足という方が正しいかもな。この場合の足は足首から下の部分を指すらしい。だからもしお前が俺にそのカモシカのような足とやらを見せたかったらだな……」

 俺は一伽のくるぶしから下を指差して言った。

「そのソックスとスニーカーを脱いで見せるんだな」

「うるさいぞ、馬鹿、ボケ、カス、死ね」

 どすという鈍い音が俺の膝裏からした。

 一伽は短気で口が悪い。馬鹿、ボケ、カス、死ね、を代表として、うすのろ、くたばれ、と言った言葉と部分部分適宜入れ替えながらまくし立てて罵るので、相手は言い返すタイミングを失ってしまう。

 結局、俺はその後一言も反論できないまま、両脚の痛みに堪えながら帰宅するはめになった。


 雨が降っていた。室内でもそれと分かるほどに湿り気が漂う。朝は晴れていたのに、昼前には空には厚い雲が掛かり、土砂降りの雨と高空で鳴る雷、束の間覗く晴れ間でさえ、その後に来る曇天を予感させられ気が滅入った。

 図書室にはもう俺と夢露以外には誰もおらず、司書の先生は司書室に引っ込んでいた。いつもなら貸出業務の終了後も残っている勤勉な受験生たちも、わずかな晴れ間や降りが鈍くなった頃合いを見計らってさっさと帰宅してしまっていた。

 どうも今月の図書室の掃除当番はいい加減な奴らしく、丸められたプリントがごみ箱のふたを押し上げていた。仕方がないので、ごみ袋ごと取り出して口を縛ると代わりの袋をセットした。

「わたしが捨ててきます」

 夢露が縛られたごみ袋の口をつかんで言った。ごみ捨て場は校舎の外にある。図書室は三階だ。俺は女子を雨の日に外までごみ捨てに行かせることに抵抗を感じたが、まだ返却された書籍を元の棚に戻すという作業も残っていた。今日は美術部が借りていた大判の写真集を一度に返しに来たので少し面倒だ。ごみ袋一杯と言ってもしょせん紙ごみだし、むしろ楽だろうと思った。

「じゃあ、頼む。視聴覚棟に行く連絡口から出るといい。外履きサンダルが置いてあるし、ごみ捨て場まで近いから傘はなくてもたぶん平気だ」

「分かりました」

 唯一の直接廊下に繋がる出入り口であるカウンター前の引き戸が宵宮に開閉されるのを見届けてから、俺は自分の仕事に掛かった。

 文庫とそれ以外とに分別しながら、ぱらぱらと頁をめくり、汚れや破れをチェックし、目に付く損傷がある書籍は脇に除けておいて後で専用の補修テープで修理した。いちいち分類ラベルなど見なくても場所の見当はつくが、念のため書棚に戻す段階でチェックしていた。間違えることはほとんどなかった。

 写真集やアルバムはいちいち全頁を一度めくってから書棚に戻した。本当はこんなことはしなくても良いのだが、そこは本好きの因果なところだ。長く頁を閉じたままにしておくと印画紙の表面のゼラチン質がくっついて、剥がそうとすると表面が破けるようになってしまうのだ。そういう時は時間をかけて暖めて溶かしてやるのが一番だが、そんな暇はないから完全にくっついてしまっているものはとりあえず放置していた。

 半分ほど作業を終えたところで宵宮が戻ってきたので、残りの作業は倍以上の早さで終わった。宵宮が分類とチェックをし、俺が書棚へ戻す作業を担当した。

 図書室の鍵を返して昇降口まで降りると運の無いことに雨はちょうど本降りになっていた。だというのにいくら傘立てを探しても使い古した大振の黒い傘が見当たらなかった。どうやら誰かに持っていかれたらしかった。骨が一本折れ、開閉のばねが役立たずになっている古い傘だ。持ち去った生徒も故意に置き捨てられたものと当たりをつけたと考えられた。

 駅前まで行けばコンビニがあり、ビニール傘が買えた。問題はそこまで行く方法だが、どこかの誰かのように人様の傘を失敬するというのは論外だった。とすれば、方法は誰かの傘に入れてもらうのが手っ取り早い。かばんを頭上にかざして、外に走り出た。見上げたのは陸上部がミーティングをしている教室だった。窓からは明かりが漏れていた。終わるまでしばらく掛かると思われた。一伽がミーティングを終えて帰るまで待つというのはさすがに面倒だった。

「よければ一緒にどうですか? 公房先輩」

 宵宮が傘立てからえんじ色の細い傘を取り出して言った。もともと昏い色だが、宵宮のそれは魔女が持つ杖のようなそんな印象を与えた。

 少し迷ったが、どうせ駅までは数百メートルの距離だ。図書室の鍵は返してしまったし、今更戻るのも冷たく湿った廊下で何時来るとも知れない一伽を待つのも面倒だった。

「ありがたくそうさせてもらうことにする」

 宵宮の差し出した傘を受け取り、広げた。思ったより大きく、これなら二人でもさほど密着しなくて済みそうだった。宵宮は皮製のかばんを濡らさぬよう胸に抱きかかえ、俺が差す傘の下に入った。


 飲みかけのコーヒーが冷めることを心配した俺は司書の先生に言いつけられた用事を終えると心持ち早足で図書室に取って返した。図書準備室につながるカウンター裏の扉を除けば唯一の出入り口である引き戸の前まで来ると中から言い争うような声が聞こえた。昨日に引き続き、雨が降ってこそいないもののどんよりと曇った空のせいか図書室に生徒は少なかった。何があったのだろうか。

 急いで戸を開けるとカウンターに身を乗り上げるようにして一伽が宵宮に食って掛かっていた。一伽も一応場所はわきまえているのか声は控えめにしていたが、それでも事態に気づいた生徒たちは何事かと注視していた。

「おい、何やってるんだ一伽。ここは図書室だぞ。静かにしろよ」

 俺自身見当外れと思えるせりふだったが、他に思いつかなかった。

 罵られていた宵宮は例の古文書の読みかけの頁を開いたまま、何故自分が先輩に因縁を付けられているのか理解できないようだった。不思議そうな表情を浮かべるだけで焦った様子もない。

 俺は一伽を止めようと肩に手を掛けた。

 振り向いた一伽は俺を睨んでいた。

「そうか、お前はこいつの味方なんだな」

 一伽は宵宮を見て言った。

「馬鹿。死んでしまえ」

 信じていたものに裏切られたような心底悔しそうな表情を浮かべた一伽はカウンターを一度蹴りつけると振り返りもせずに出て行った。

 俺が何一つ理解できず呆然としている間に気まずい雰囲気を察した他の生徒たちもいつの間にか図書室を去っていた。

 衝撃で倒れたマグカップから流れ出したコーヒーが宵宮の古文書を汚し、床に垂れていた。

 とりあえず状況理解に努めようとした俺は当事者の一人である宵宮に話を聞いた。その話によると一伽が怒りを露にしていたのは昨日俺と宵宮が一緒に帰るところを見ていたかららしい。悪いことをしたわけでもないのに、俺は何故か後ろめたい気分になった。

 しかし、一伽も最初はあれほど怒っていたわけではなく、宵宮と会話している内に徐々に怒りのボルテージが上がっていったらしかった。その気持ちは理解できなくもない。俺は慣れているが、率直に言って宵宮はひどく察しが悪い。人の怒りというものにも鈍感で、怒っている相手に対して火に油を注ぐようなことを平気で言うのだった。

「……木静先輩、大変ですよ」

 宵宮が差し出したのは例の古文書だった。開かれた頁はほとんどコーヒーで濡れて読めなくなっていた。大変というのは値打ち物を汚してしまったから、弁償しろということなのかと思ったが、それは違うらしい。

「わたしもまだこの頁は読んでなかったので、内容は分かりません。乾かして読めば何か対処方法が分かるかも知れないので、一応この頁を差し上げますね」

 俺の理解が追いつく前に宵宮は古文書を器用に分解して、汚れた頁だけを抜き出した。途中の頁だけ抜き出すというのも和綴じであればこそ出来ることだ。わけも分からず俺は抜き取られた頁を受け取った。

「いいですか、公房先輩。これは一部の僧侶や陰陽師などある種の超常的な能力を持つ人々が代々、怪異譚を蒐集して作ったものなんです。いえ正確には、現在進行形で作っているものです。これは各々の時代の持ち主が自分の知る怪異を書き記して遺したものが、書かれた順に挿入されたバインダーのようなものなんです」

 まるで他人ごとのように淡々と宵宮はにわかには信じがたいことを話し続けた。

「新たな頁を書き加えるだけの力を持った主に買われるまでうちの蔵に仕舞われていたんです。何の力のない素人ならただ見たり読んだりする程度では何も起きません。でも、本自体やページを傷つけられたときに、ここに記された怪異が……忌まわしい物語が顕現するに相応しい舞台が揃ってしまったとしたら別です。たぶん、そんなことはあり得ないと思いますけど、もし起きるとしたらたぶん焦点は木静先輩になります」

 宵宮は嘘をついているようには見えなかったが、信じろというほうが無理な話だった。

「馬鹿馬鹿しい。お前にオカルトじみた趣味があるとは知らなかった。とりあえず一伽には謝っておくからお前も後で謝って関係修復しろよ。この頁は乾かして出来るだけ汚れを取ってから返す。それで勘弁してくれ」

 俺はこぼれたコーヒーとマグカップだけを片付けると他の仕事は宵宮に任せてバッグを掴んで急ぎ一伽を追いかけた。

「気をつけて下さい。声に出し……まない……いです……呪……結ばれ……」

後ろで宵宮が何か言っているようだったが、忠告とも説教とも知れないせりふを俺は聞き流していた。


 駆け足で階段を下りながら、宵宮から受け取った頁を手に持ったままであることに気がついた。コーヒーでぬれた和紙は今にも千切れそうだった。一旦足を止めて、バッグから適当なクリアファイルを取って中身を抜き、そこに入れた。ひとまず安心だろうと思った。

 それにしても派手にやったなと俺は思った。コーヒーの染みはほぼ満遍なく広がり、ほとんど文字は読めなかった。端に書かれた一行だけ辛うじて読めそうな部分があるという状態だった。

「畜……百頭……?」

 ほとんど聞こえないほど小さく擦り切れた声で読んだ。それとほぼ同時に手の中の頁がまるで凄まじい速度で時を刻むように乾き、ぼろぼろと劣化し、最後には埃となって崩れ落ちた。何かの手品か、これは? 最初から宵宮も一伽もぐるで俺を引っ掛けようとしてるんじゃないかと思った。

 そのとき、階下からひっと呑み込むような悲鳴が聞こえた。一伽の声だった。俺は数段飛ばしで階段を駆け下り、彼女に追いついた。

 一伽が左腕を抱えこむようにして廊下の隅にうずくまっていた。俺はゆっくり近づいて肩に手を掛けた。

「大丈夫か? いち――」

 突然立ち上がり、俺を腕を振り払った一伽は「見ないで!」と叫び、俺を突き飛ばしてかばんを引っつかむと自慢の健脚でよろけて呆然とする俺を残して走り去った。

一瞬の出来事だったが、俺には一伽の腕に何か魚のうろこのようなものが付いていたように見えた。

 我に返った俺は急いで追いかけたが、追いつくことは出来なかった。

 俺は後日改めて一伽に謝ろうとしたがそれはほとんど不可能だった。今までよくそうしていたように木静家を訪ねて、一伽に話があると言ったが応対に出た彼女の母に門前払いを食わされ、それどころか娘に何をしたのかと聞かれた。俺は少し喧嘩をしてしまったとだけ答えたが、一伽の母は納得していない様子だった。

 学校で一伽に話しかけようとしても、あからさまに避けられていた。練習を一度も休んだことがないと豪語していた陸上部も怪我を理由に休んでいると聞いた。

 怪我というのは何かよく分からなかったが、確かに一伽は包帯を巻いていた。最初は手、次は腕全体、脚、首などなど日を追うごとに一伽の露出した皮膚を覆う包帯の面積は増えていった。

頁が崩れ落ちたことから一部始終を宵宮に話したが、ますます我関せずという態度を取るだけで彼女はそれ以上何かをしてくれる気はなさそうだった。

 ただしきりに「わたしにはもうどうにも出来ません」という身も蓋もない答えだけが返ってきた。

 漠然とした正体の見えない不安に苛まれた俺は分かっている手がかりを使って、例の頁の内容を知ろうと考えた。それを知ることが何がしかの解決につながるかも知れなかった。

 百頭、という冒頭の一文に入っていた言葉で真っ先に思いついたのは百頭女という小説だった。著者は確かシュルレアリスムを代表するドイツ人芸術家マックス・エルンストだったように思う。だがしかし、宵宮の言うような怪しげな連中によって蒐集された怪異譚とはイメージの乖離がある気がした。接点が見つからなかった。だから恐らく違うのだ。それでも心のどこかに百頭という言葉が引っかかっていた。

 上の空で聞き流していた午後一の古文の授業、次回の課題として出されたのは、今昔物語集が出典の説話『老いを養ふ国』だった。日本の古典的な怪異譚に魅力を感じる性質の俺は、ネットでPDFファイルが無料で手に入る今昔物語集や宇治拾遺物語などの説話集は大なり小なり満遍なく目を通していた。

 もちろん、『老いを養ふ国』つまり『七十に餘る人を流遣他國國語』も例外ではない。『老いを養ふ国』は有名な昔話である姥捨て山の原型となったインドが舞台の説話だが、日本版と大筋は同じながら少々異なる点もあって面白い。

 土曜の夕方、課題である古文の翻訳をするつもりで、PDFファイルを印刷してホッチキスで留めたプリントの束を引っ張り出し、ぱらぱらとめくっていた。今昔物語集は三十一巻まであり、欠巻が八、十八、二十一の三巻あるから、全部で二十九の束だ。つっこんでおいたダンボールごとクローゼットから引っ張り出した。必要な部分だけを参照すればいいものを、いつもの悪い癖で―そもそも教科書に載っているのだから本当はわざわざ取り出す必要はなかった―本来の目的とは関係のない頁や巻ばかりのぞいている。

 一巻をめくり終えて二巻の目次を開いたとき、どこか既視感めいたものを覚えた。しかし、よく考えれば今昔物語集はどの巻も印刷したときに目を通している。既視感を覚えるのも当たり前というものだ。そう考えたのだが、どうもそれとは違う気がした。上手くは言えないが、もっと最近の記憶と重なる気がするのだ。

 俺はもう一度、目次に目を通した。


「畜……百頭……?」あのとき、コーヒーの染みに垣間見た文字列。


 畜生の具百頭魚の語?


 ちくしょうのひゃくのかしらをぐせるさかなのこと……


 電話が鳴っている。

 俺はわれに返り、かたわらでけたたましく振動する携帯電話を開いて通話ボタンを押した。

宵宮だった。

「何か用か?」と、言い知れない不安に慄いていた俺は、少々つっけんどんな物言いで聞いた。

「木静先輩からの手紙が下駄箱に入っていました。話があるから、土曜の夜八時、プールに来て欲しいって。手紙が入ってたのは昨日です。でも、どうしたものか迷っていて。とりあえず先輩に話そうと」

 土曜、つまり今日のことだ。咄嗟に時計を見る。今は七時ちょっと過ぎだが、学校までは自転車を飛ばして二十五分というところだ。まだ少し余裕はある。

「悪いが、付き合ってもらえるか?」

 考えなどなかった。しかし、この機会を逃せば、一伽と話すことは出来なくなってしまうようなそんな予感があった。

 わずかな沈黙ののち、宵宮が答えた。

「分かりました」

「更衣室の小屋の脇にフェンスの破れがある。そこから、中に入れるはずだ」

 確か宵宮の家の方が学校に近いはずだ。くれぐれも俺が到着するまで、待つように言って電話を切った。


 出掛けに「一伽ちゃんが昨日から家に帰ってないそうなんだけど、あんた何か知ってる?」と、母に聞かれたが無言で首を横に振った。

 七月の星々が不気味に脈打つリズムにのって自転車をこいだ。ちょうど月だけに雲がかかっていた。

 フェンスの破れ目のそばに、宵宮の自転車が停められていた。持ち主の姿はない。

 びちゃり

 水音。何かが、プールサイドに上がったような。

 何か柔らかくそれでいて芯のあるものが、硬く湿った地面に倒れてぶつかったような音が続いて聞こえた。

 ずるずると何かを引きずる音も。

 尖った針金の先端が手足に掻き傷をつけるのも気にせず急いでフェンスの破れ目を通り抜けた。

 休日だというのに制服姿の宵宮がプールサイドで尻餅をついていた。

 何かを避けるように腕を動かし、下半身を引きずって後退する、しようとする。

 あきらかに宵宮が望む方向とは逆に一定のテンポを持って引きずられていた。

 藻が繁殖し緑色に濁った水から何か太く長い腕のようなものが宵宮の脚まで伸び、巻きついていた。

それは大蛇だった。尾は昏い水面に飲み込まれている。あられもなくスカートのめくりあがった宵宮の太股にするするとらせん状に巻きつき締め上げる胴体の先には三角形の頭部と鋭く光る二つの眼。

気がつくと手にした木製のバットで蛇の胴体を殴りつけていた。

大蛇は宵宮の脚から離れたが、その太い胴体をひとうねりさせただけでバットは俺の手から弾きとばされ、転がって側溝に落ちた。

大蛇は特有の地面をする擦過音を立てながら後退した。

「何で俺が来るまで待たなかったんだ?」

「だって、あの本が本物の呪物なのか、だとして木静先輩はどうなったのか、気になったんです」

 俺はただ純粋な好奇心と野次馬根性のみを映す宵宮の瞳が怖くなった。こんな状況で恐怖に曇らず、ただじっと興味深げに観察する視線。

 水面がにわかに沸き立った。

 二十五メートルプールのそこかしこに顔を出す様々な禽獣の頭部。

 犬が、猫が、驢馬が、牛が、馬が、羊が、駱駝が、蛙が、蛇が、この世のものとは思われない奇妙なけだものが、百を越える、それぞれの鳴き声を一斉にあげた。

 総毛立つという言葉の意味を肌で感じ取った。

 宵宮もいつの間にか立ち上がっていた。

 汗ばんで震える指で、持参したプリントの束をめくり、目的の頁を開いた。

 脇から宵宮が覗き込んだ。


『畜生の具百頭魚の語』

今昔、天竺に佛、諸の比丘と共に梨越河の測を行き給ふ。其の河に人集て魚を捕る。※に一の魚を得たり。其の魚、駝驢・牛馬・※羊・犬等の百の畜生の頭を具せり。五百人して引くに其の魚、水を不出ず。其の時に河の邊に五百人有て牛を飼ふ、各牛を放て寄て此を引く。然れば千人、力を合せて引くに、魚、水を出る事を得たり。諸の人、此の事を恠むで競むて見る。佛、比丘と共に魚の所に行き給て、魚に問て宣はく、「汝は教へし母は何なる所にか有る」と。魚の云く、「无間地獄に堕せり」と。阿難、此れを見て、其の因縁を佛に問奉る。佛、阿難に告て宣はく、「昔、迦葉佛の時に婆羅門有りき、一の男を生ぜり、名をば迦り※利と云き。其の児、智恵明了にして聡明第一也。其の父死て後、母、児に問て云く、『汝ぢ智恵朗か也。世間に汝に勝たる者有や否や』と。児、荅て云く、『沙門は我に勝たり。我れ疑ふ事有らば行て沙門に問はむに、我が為に悦て令悟てむ。沙門、若し我に問ふ事有らば我れは荅ふる事不能じ』と。母の云く、『汝ぢ何ぞ其法をば不習ざるぞ』と。児の云く、『我れ其の法を習はヾ、沙門 と可成し。我れは此れ白衣也。白衣には不教ざる也』と。母の云く、『汝ぢ偽て沙門と成て其の法を習ひ得て後に家に可返し』と。児、母の教へに随て、比丘と成て沙門の許に行て法を問ひ習て悟り得て家に返ぬ。母、児に云く、『汝ぢ法を習ひ得たりや否 や』と。児の云 く、『未だ習ひ不畢らず』と。母の云く、『汝ぢ今より後、習ひ不得は、師を罵辱しめば勝るヽ事を得てむ』と。児、母の教に随て師の許に行て、罵のり辱めて云く、『汝ぢ、沙門、愚にて識り无し、頭は獸の如し』と云て去にき。其の罪に依て母は无間地獄に堕て苦を受る事无量し。子は今、魚の身を受て、百の畜生の頭を具せり」と。阿難、重て佛に言さく、「此の魚の身を脱るべしや」と。佛の宣はく、「此の賢劫の千佛の世に猶、此の魚の身を不脱れず。此の故に人、身・口・意を可慎し。あくく若 し人、※口を以て罵詈せば、語に随て其の報を可受し」と説給けりとなむ語り傳へたるとや。


「……過去七仏、釈迦牟尼仏の一つ前、迦葉仏の時代のことだ。バラモン階級のカピリという名の聡明な子供がいた。その子は虚栄心の強い母に言われるがまま、自分の師を罵り、辱めた。その咎で母は無間地獄に堕ち、子は百の禽獣の頭持つ巨大な怪魚となった。要約すれば、それだけの、口汚く罵ればその報いを受けるということを教える仏教説話に過ぎない」

 俺は震える声で宵宮に言った。

「だが、あの古文書に書かれていた話は恐らく、この説話と同じか、同類の起源を持つ話だろう。一伽はあのとき、俺とお前を罵り、古文書の丁度その話が記された頁にコーヒーをぶちまけた。宵宮、お前はあのとき、『声に出して読まないで下さい。危ないです。言霊によって呪が結ばれてしまうかも知れない』そう警告しようとしたんじゃないか?」

 宵宮は黙って頷いた。

「だけど、あのときの俺はお前の話を聞かなかった。俺は口に出して、あの頁を読み、頁は塵となって消えた。たぶん、そこに籠められていた霊力を使い果たしたんだ。そして代わりに、呪は結ばれ、怪異が顕現した。それがあの古文書の力なんだろう」

「じゃあ、やっぱりあれは本物だったってことですよね。わあ、すごい! 他の頁も同じような力を持ってるんですね、きっと」

 危機感のない黄色い声。

「帰れ。――さっさと一人で帰って、今日のことは全部忘れろ」

 俺は宵宮をフェンスの破れ目の方へ軽く突き飛ばし、戸惑った表情を浮かべたままの宵宮が去るまでにらみつけていた。

 けだものたちの頭部がたゆたう汚水の中に俺は一伽の顔を見つけていた。

 震える足を進めて、落ちるようにプールに入った。

 水しぶきに反応して、けだものたちが俺の身体に喰らいついてくるが、それらを両腕で押しのけながら、一伽を目指した。いや、正確にはこいつらも全て一伽の一部なのだった。俺はその正しい考えを頭から振り払った。

 彼女は泣いていた。水面下に隠れた首から下は繁殖した藻に隠されて見えない。首筋にはえらのような切れ目とまばらな鱗があった。

 俺は彼女の頭をかき抱き、あやまり続けた。

 身体は氷のように冷え切っていた。

 その夜、雲の切れ間から顔を出した月は、九十九のけだものと一人の人間が吼える声を聞いただろう。


 学校に、「水泳の授業をやれば、プールの水に毒物を混入する。水泳の授業を中止しろ」という脅迫状が届き、プールの付近で相次いでボヤ騒ぎがあったこともあり、その年の夏はプールを使った授業は全面的に中止となり、プールに蔓延る藻はさらに一年のあいだ一掃を免れて多いに繁殖した。脅迫状を送った犯人は結局特定されず、結局三年の夏も水泳の授業は大事をとって中止になり、プールを使った授業が再び開始されたのは俺が卒業した次の年のことだった。

 

 宵宮がサークルに入ってから、俺は部室に顔を出すことは少なくなった。宵宮にモーションをかける笹原の邪魔をしたくなかったし、彼女に関わることを本能が拒否していた。

 あの事件から俺は宵宮を避けるようになったが、幸いにも俺の命令を守って、あの出来事を宵宮が話題にしたことはいまだない。

 

 俺は苺ジャムをうすく塗ったトーストを口に咥えたまま、近所のスーパーで買った半解凍状態の牛肉塊一キロをチルドから取り出し、皿に載せもせず、常に解凍設定にしてある専用のレンジに突っ込んだ。ターンテーブルはもちろん内壁まで肉汁でべとべとだが、他の事には使わないから気にしない。アルミホイルをかぶせる手間を省くせいで端が煮えてしまうが、彼女らはそんなことは気にしていないのは分かっている。解凍が終わり、取り出した肉塊を肉切り包丁で手頃な大きさにぶった切ると、青いポリバケツに落とし込む。それを片手に持ち二枚目のトーストをむしゃむしゃやりながら地下室へ降りた。

 地下室の半分ほどを占める巨大な水槽に数個の肉塊を放りこんでやると無数にも思える様々な禽獣の頭が水面に飛び出し、争うように肉塊を喰らった。獅子、水牛、狒々、狼、鴉、蛇、ねじくれた角を持つ両生類めいた容貌のものなど中には名も知らぬ奇怪な生物も混じっている。

水槽の縁に掛けた梯子を登り、用心しながらけだものたちの頭が蠢く水槽の中を覗くと、ちょうど手を伸ばせば届く位置に美しい少女の頭が水面に黒髪を広げ、睡蓮のように咲いていた。

 あの時から手入れなどされていない髪は、それでも水を吸って絹のような光沢を持っていた。

 まるで「遅かったじゃないか! 何やってたんだ、ばか」とでも言うような不満げな表情を浮かべた少女の濡れた頭を優しく撫でてやると、途端に顔をラディッシュのように真っ赤にしてうつむいた。

 残しておいた手のひらほどの肉塊をそっと差し出すと彼女はぷいっと顔をそむけた。俺が困った顔をしていると「し、仕方ないな」というような表情で肉塊に口をつける。途中から我を忘れて肉を喰らっていた彼女も、俺の視線に気がつくと自分のはしたない様子が恥ずかしかったのかゆっくりとついばむような食べ方に変わる。

 毎朝の日課である餌やりを終えた俺は、肉汁でべたべたになった彼女の口の周りを拭ってやり、大学へ向かうため地下室を後にした。彼女は大人しく俺が手の甲で口の端を拭うにまかせ、それどころかほんのりと頬を染め、嬉しそうにしているようにも見えた。

 このぶんなら……彼女がその業から解放される日も近いのかも知れない。


しばらく、サイト見てなかったらホラー企画なんぞやってたけど出遅れました。

とはいえ、久しぶりにうp。小説は書いてるけど、ネットにあげることはとても少なくなった。

最近は関東のSFファンダムで暗躍中。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして(・∀・)♪ 読ませていただきました* とても面白かったです\(^O^)/ これからも更新頑張ってください(*^-^*)
2012/08/22 17:26 退会済み
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