貧乏女子大生、空腹すぎて都市伝説を捕食する
グゥゥゥゥ……。
深夜二時。東京の片隅にある築四十年の木造アパートの一室で、地獄の釜が開くような音が響いた。それは悪霊の呻き声ではない。女子大生、稲葉泊里の腹の虫である。
「……限界だ」
泊里は天井のシミを見つめながら呟いた。
彼女の胃袋はブラックホールだ。食べても食べても満たされない業を背負っている。それなのに、今の彼女の財布の中身は三百円。これではブラックホールに投げ込む塵芥さえ買えない。
文芸部の活動費、教科書代、そして何より食費。
普通のバイトでは追いつかない。もっと、こう、短時間で高額な、あぶく銭が必要なのだ。
彼女はスマホの画面をスワイプした。SNSの裏垢で流れてきた、怪しげな求人広告。
『急募!【都市伝説倶楽部】調査アシスタント。日給三万円(手渡し)。経験不問。ただし、常識を捨てられる者に限る』
怪しい。あまりにも怪しい。
昨今、普通なら「臓器を持っていかれる」と警戒する案件だ。トー横キッズやインフルエンサーがカンボジアに送られた話は記憶に新しい。
だが、泊里の脳裏には、三万円分の焼肉、寿司、ラーメンの映像が走馬灯のように駆け巡った。
「……常識なら、しかし食欲の前では無力ぅ」
彼女は迷わず「応募する」のボタンを押した。
それが、彼女とあの男――天神やしろとの、奇妙な日々の始まりだった。
◆
指定された住所は、世田谷区の外れにある「天神コーポ」というボロアパートだった。
外壁は蔦に覆われ、郵便受けはガムテープで補修されている。まさに都市伝説が生まれそうな佇まいだ。
泊里は202号室のチャイムを鳴らした。
「……入れ。鍵は開いている」
インターホン越しに、低く、落ち着いた男の声が響く。
ガチャリ、とドアを開ける。
部屋の中は、薄暗かった。
遮光カーテンが閉め切られ、部屋の四隅には盛り塩ならぬ「盛り砂糖」が置かれている(砂糖の袋が散乱している)。壁一面には「口裂け女の逃走ルート」「人面犬の目撃地点」などが赤い糸で繋がれた古地図が貼られ、まるで刑事ドラマの捜査本部のようだ。
その中心にある革張りのソファ(所々破れている)に、一人の男が脚を組んで座っていた。
黒のタートルネックに、ヨレヨレのトレンチコート。無精髭を生やした彫りの深い顔立ち。手には分厚い洋書を持ち、部屋の中でサングラスをかけている。
「ようこそ、真実の境界線へ。……待っていたよ、アレクサンダーくん」
男は本を閉じ、サングラスを指で押し上げた。
カッコつけているが、足元は健康サンダルだ。
「稲葉です。あの、ここ靴脱ぐんですか?」
「土足で構わない。この部屋は既に『結界』の内側だ。常識的なマナーなど、霊的磁場の前では無意味だからね」
男は立ち上がり、大げさな仕草で手を広げた。
「我が名は天神やしろ。この世の闇に葬られた都市伝説を『採集』し、ファイリングすることを生業とする者だ」
「生業って、儲かるんですか?」
「金?フッ……愚問だな。真実の探求に値段はつけられない。……まあ、家賃収入が主な収入源だが」
「大家さんなんですね」
泊里は部屋を見渡した。
本棚にはオカルト雑誌と民俗学の専門書がびっしり。机の上には怪しげな護符や、通販で買ったとおぼしき「ダウジングロッド」が散乱している。
「単刀直入に言おう。今回、君に依頼したいのは『花子さん』の捕獲だ」
「捕獲?」
「そうだ。近年、都市伝説はネットの海を漂い、急速な進化を遂げている。もはや『トイレにいる幽霊』ではない。彼女は人々の恐怖を統べる、絶対的な『女王』へと変貌した」
やしろは机の引き出しから、一枚の写真を取り出した。
心霊写真のようだが、トイレの個室に赤い光が写っているだけだ。
「これが先日、私が命がけで撮影した『ネオ・ハナコ』の影だ。……美しいだろう?」
「ただの赤ランプに見えますけど」
「君にはそう見えるか。だが、私には聞こえるのだよ。彼女の冷徹な支配の足音が……」
やしろは陶酔したように天井を仰いだ。
この人、面倒くさいタイプだ。泊里は直感した。
「で、三万円もらえるなら何でもいいです。具体的に何をすれば?」
「これを持ってくれ」
やしろが渡してきたのは、重厚な金属製のケースに入った物体だった。
開けると、中には「業務用の掃除機」が入っていた。ただし、ホースの先端にはお札が何枚も貼られ、数珠がぐるぐると巻き付けられている。
「これは?」
「『バキューム・エクソシスト初号機』だ。ダイソンの吸引力とお祓いの霊力を融合させた、対・都市伝説用決戦兵器だ」
「……掃除機ですよね?」
「兵器だ。君はこれを背負い、花子さんが現れた瞬間にスイッチを入れる係だ。私は後方から、その様子をビデオカメラで記録しつつ、詩的な実況解説を行う」
「つまり私は囮兼、掃除係ですか」
「人聞きが悪いな。『パートナー』と呼んでくれたまえ」
泊里はため息をついた。だが、背に腹は代えられない。三万円があれば、駅前の焼肉食べ放題に十回行ける。
「わかりました。行きましょう、オーナー」
「フッ……オーナーはやめてくれ。『プロフェッサー』と呼べ」
「はいオーナー」
「うぉい!」
◆
深夜一時。二人は廃校となった「旧・赤塚小学校」の前に立っていた。
錆びついた校門、割れた窓ガラス。湿った風が肌を撫でる。
「……感じる」
やしろがトレンチコートの襟を立て、険しい顔で校舎を睨んだ。
「この濃密な湿度……。霊たちが歓迎の宴を開いているようだ」
「雨上がりだからじゃないですか?」
「君はロマンがないな。……行くぞ」
二人は校舎内へ侵入した。
カビ臭い廊下を歩く。やしろは懐中電灯で足元を照らしながら、一歩進むごとに何かをメモ帳に書き留めている。「廊下のシミ、人の顔に見える(要検証)」「ラップ音、二回確認(恐らく配管ではない)」などとブツブツ言っている。
泊里は背負った掃除機の重さに辟易していた。そして何より、空腹だった。さっきから廊下の壁のシミが霜降り肉に見え始めている。
「ここだ」
三階の女子トイレ。
ドアのない入り口からは、深い闇が覗いている。
ここだけ、明らかに空気が違った。肌にまとわりつくような、冷たく、そしてどこか高貴な気配。
「……稲葉くん。プランBだ」
「プランAは何だったんですか」
「私が先陣を切る予定だったが、この瘴気は予想以上だ。私の繊細な霊感がショートする恐れがある」
やしろはビデオカメラを構え、一歩下がった。
「君が先に行け。私はここから、君の勇姿を後世に残す」
「ビビってるだけですよね」
泊里は呆れながら、トイレの中へと足を踏み入れた。
一番手前、開いている。
二番目、開いている。
三番目――閉まっている。
赤い落書きだらけの個室。
泊里は掃除機のノズルを構えた。
(さっさと終わらせて、牛丼特盛……いや、特盛二杯……)
コン、コン、コン。
乾いたノックの音が響く。
「花子さん、遊びましょ」
一瞬の静寂。
――キィィィィ……。
ゆっくりと、重々しくドアが開いた。
そこには、異様な光景が広がっていた。
ただの薄汚れた個室のはずなのに、そこだけ空間が歪み、まるで宮殿のような深紅のカーペットと、黄金の玉座(便器)が見える。
そして、その玉座に足を組んで座る、一人の少女がいた。
おかっぱ頭に、赤い吊りスカート。ここまでは普通の花子さんだ。
だが、その瞳は氷のように冷たく、見下すような光を宿していた。
「……無礼者が。誰の許可を得て、わたくしの聖域をノックしているのですか?」
少女――花子さんは、手にした扇子(なぜかトイレットペーパー製ではない)で口元を隠し、冷ややかな視線を泊里に向けた。
「身の程を知りなさい、下等生物。……不愉快ですわ」
その瞬間、トイレ全体の空気が凍りついた。
圧倒的なプレッシャー。
それは恐怖というより、「格の違い」を見せつけられるような精神的重圧だった。
「す、凄い……!」
後方でやしろが震えている。
「あれこそネオ・ハナコ……!『怪異の女王』クラスだ!あの見下すような視線、ゾクゾクするほどエレガントだぁ!」
「喜んでないで助けてくださいよ!」
泊里が叫ぶと、花子さんはフッと鼻で笑った。
「助け?無駄ですわ。貴方たちがここから生きて帰れる確率は、わたくしの計算ではゼロに等しい。恐怖に歪む顔を見せなさい。それが、わたくしへの唯一の貢物です」
花子さんが指をパチンと鳴らすと、個室の壁から無数の黒い手が伸び、泊里の退路を塞いだ。
「さあ、跪きなさい。そして、己の無力さを嘆きながら、わたくしの養分となりなさい」
完璧なまでの支配。
普通の人間なら、この高圧的な態度と超常現象の前にひれ伏していただろう。
だが、泊里は違った。
グゥゥゥゥ……。
泊里の腹の虫が、女王の嘲笑を遮るように鳴り響いた。
「……え?」
花子さんの優雅な眉がピクリと動いた。
「な、何ですの今の音は。……まさか、この神聖な場で空腹を訴えるなど、品性下劣にも程がありますわよ」
「……ねえ、オーナー」
泊里は花子さんの言葉を無視し、後ろのやしろに話しかけた。
その目は、獲物を狙う獣のようにギラギラと輝いている。
「あいつ、すごく……美味しそうに見えませんか?」
「は?」
やしろと花子さんの声が重なった。
「見てください、あのツヤツヤした赤いスカート。まるで最高級のイチゴ飴……いや、ザクロのジュレみたいだ」
「なっ、何を……」
花子さんがたじろぐ。泊里は一歩踏み出した。
「それに、あの透き通るような白い肌。あれはきっと、極上の求肥だわ。中にはきっと、甘いあんこが詰まってる」
泊里の脳内で、ネオ・ハナコという「恐怖の女王」は、「最高級和菓子セット」へと変換されていた。
空腹ってのは、理性を普通に踏み潰してくる。マジで。
彼女にとって、目の前の存在は「怪異」ではなく「カロリー」だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!貴方、わたくしを何だと思っていますの!?わたくしはトイレの支配者、第三個室の絶対君主ですわよ!?」
花子さんの余裕が崩れた。計算外だ。彼女の勝利の方程式に、「捕食対象として見られる」というパターンなんて存在しなかった。そりゃそうだ。
「あ、あっちへお行きなさい!不潔!野蛮!わたくしに触れていいのは選ばれた人間だけ……」
「いただきます!!」
泊里が飛びかかった。
背負っていた掃除機を投げ捨て、素手で花子さんの「概念」へと掴みかかる。
「きゃあああああ!離しなさい!えっち!すけべ!へんたい!わたくしのスカートは特注品……ギャアア!」
ガブッ!!
泊里の歯が、花子さんの霊体に突き刺さった。
「んんっ!……思ってたより上品な味!イチゴじゃない、これは高級ラズベリーの風味!」
「痛い!痛いですわ!物理的には効かないはずなのに、精神的ダメージが甚大ですわ!……というか減ってますわ私の霊子が!」
花子さんはパニックに陥った。
彼女の武器である「知的な支配」も「高圧的な態度」も、空腹の野獣の前では無力だった。
「わ、わたくしを誰だと思って……ヒィッ!二口目!?野蛮人!けだもの!義務教育の敗北ですわーッ!」
花子さんは涙目になりながら、トイレのタンクの中へ逃げ込もうとする。
だが、泊里は逃がさない。
「逃げるな。食べ残しはマナー違反だ」
「マナー違反は貴方ですわよーッ!!」
泊里はタンクに頭を突っ込み、花子さんの足を掴んで引きずり出した。
そして、まるで高級フレンチを堪能するように、怪異を「コース料理」として平らげていく。
後方でカメラを回していたやしろは、口をあんぐりと開けていた。
「……信じられん。彼女は、霊的ヒエラルキーの頂点に立つ女王を、ただの『甘味』として認識し、概念ごと消化しているのか……?こ、これが新人類の力……!」
十分後。
そこには、満足げに手を合わせる泊里と、完全に消滅した花子さんの残滓(キラキラした金粉のようなもの)だけがあった。
「ごちそうさまでした。……ちょっと上品すぎて、食べ応えが足りなかったかな」
泊里はペロリと唇を舐めた。
「……君は、何者だ?」
やしろが恐る恐る近づいてくる。
泊里はケロッとして答えた。
「女子大生です。……さあオーナー、仕事は終わりましたよ。焼肉です。これはデザートにしかなりませんでしたから」
◆
朝日が昇る頃、二人は駅前の焼肉屋にいた。
網の上では、上カルビが景気のいい音を立てている。
「……ふむ。君の胃袋は異次元に繋がっているのかもしれないな」
やしろはトレンチコートを脱ぎ、メモ帳に必死に何かを書き込んでいた。「被験者イナバ、怪異を捕食。味は高級ラズベリー」などと書かれている。
「異次元じゃありません。失礼です。ぷんぷん」
泊里は白飯をかき込みながら言った。
「しかし、驚いたよ。君のような逸材が埋もれていたとは。……これなら、『テケテケ』の高速移動も、『人面犬』の噛みつきも、君なら完食できるかもしれん」
「食べ物扱いしないでください。……でおいくらですか?」
泊里が手を出すと、やしろは封筒を差し出した。
三万円。
そして、もう一封。
「これは契約金だ。君を『都市伝説倶楽部』の特別顧問兼、美食ハンターとして正式にスカウトしたい」
「美食じゃありません」
「次は『口裂け女』だ。彼女のポマード漬けの髪が、君の舌に合うか検証したい」
泊里は肉を飲み込み、封筒の中身を確認した。厚い。五万円はある。これがあれば、来週発売の期間限定パフェが全種類買える。
彼女はため息をつき、新しい肉を網に乗せた。
「……条件があります」
「なんだね?」
「次は口直しのシャーベットを持参します。あと、掃除機はもう背負いませんからね」
「フッ……交渉成立だ、パートナー」
やしろは満足げにサングラスをかけ直した(店内なのに)。
稲葉泊里の奇妙なバイト生活は、どうやらもう少し続きそうである。都市伝説が尽きるか、彼女の胃袋が満たされるか。
勝負の行方は、まだ誰にも分からない。




