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夜のスピカ

作者: 桜蕊

「サラ」

 病院の先生は窘めるように私を見た。

「ごめんなさい。ぼーっとしてました」

 私は思わず、口を手で覆い、困ったように微笑んで、謝ってみせた。

「記憶は、まだ戻らないのかい?」

「ええ」

 苦笑いを浮かべ、私は先生と月に一度の面会をしている。

 白いテーブルには、熱い紅茶とコーヒーが並べられ、お皿に数枚だけ置かれたバニラクッキーに手を伸ばす。

「おいしい。私、きっと甘いものが好きだったと思うの。先生は昔の私のこと、ご存じなんでしょう? お話いただけないの?」

 先生は困った表情をして、自分もクッキーに手を伸ばす。

「君は甘いものより、本が好きだったよ」

「本?」

 思わず、聞き返すと先生は少しだけ、切なそうに目を細めてから話し出した。

「うーんと昔の古書ばかり読んでいた。君は、恋を知る人だったから」

「何かしら、恋って」

 ストレートティーにブランデーを入れ、私はそのまま口を付けた。こうして飲むのが好きだった。お酒の風味に紅茶が程よく香り、溶ける角砂糖を見ていると不意に指が傷んだ気がした。

「指、まだ痛むのかい」

 先生は包帯の巻かれた私の指を気にする。

 どうやら指の先を切断する大怪我をおってしまったようだけど、医療が発達した現代では、問題なく治る程度のけがだった。

「ええ。切れてしまったって聞いたけど。治るみたいでよかったわ。先生のおかげです。それよりも恋ってなんですか? それは何かの物語なのかしら」

 先生は少し苦い顔をして「似たようなものだよ」とごまかして教えてくれなかった。

 窓の外で大きな雷が鳴っているのが見えた。大粒の雨が空から落ちてきたのをきっかけに、外は土砂降りの雨になる。

「先生、私。雨を見ると思いだすことがあるんです」

 先生は黙って私を見ているだけだった。

「ねぇ、先生。私、本当はなんの病気でここにいるんですか?」

 窓の外を見れば、蔦に覆われたこの施設の外壁が見える。雨が入り込むのも構わず、窓を開ける。

「サラ。座りなさい」

「先生、私。思い出すんです。知らない誰かのこと」

「サラ」

 少しだけ声を荒げた先生に、私はひるまず窓のそばに立ち、告げた。

「教えてください、先生。私は誰なの?」

 空の雲が裂けるように、光が漏れ出して差し込んだ光が照らした、彼の顔を思い出す。苦しそうに微笑んだ表情には曇っていて、幸福など微塵も感じない。死んでしまいそうな罪悪を抱え、壊れてしまいそうだった。

 触れなければよかった。少しでも、触れてしまわなければよかった。

 そうすれば、何もかもなかったことにして、終わりにできたかもしれないのに。そっと触れた彼の瞼と私の指は腐り堕ちた。

 お互いわかっていてそうした。

 これが「赤い糸症候群」の病状だと知っていたのに。記憶の断片が脳裏をよぎった瞬間、私は麻酔を打たれた。これでまた、何も思い出せない。


 目が覚めると、仕事を紹介された。記憶のない私を雇ってくれる病院での仕事だった。仕事内容は、ある患者の身の回りの世話をすること。

 その患者には一日三度、薬を服用させ、きっちりと食事も三度食べさせることを約束させられた。

 そして、決して彼を死なせるなとも。

 どういうことか聞いてみると、彼は何度か自殺未遂を繰り返しているそうだ。そのたびに看護師や監視員にとめられ、事なきを得ている。

「なんで、死にたがるんですか」

 私は仕事を教わる際の指導係に聞いたことがある。

「あなた、死にたいと思ったことがある?」

「ありません」

「なら、きっとわからないわ。そういうものでしょう?」

 私は黙るしかなかった。

 順路を教えられた大きなサナトリウムは、蔦で覆われた古びた施設だった。それなのに庭は整えられ、様々な花が咲き乱れていた。

「あ、ガーベラ」

 思わず、口にしてしまい指導係の足を止めてしまう。

「ごめんなさい。知っている花だったから」

「ガーベラね。花言葉知ってる?」

 指導係の女性は、その細く長い指でガーベラに触れる。

「赤は限りなき挑戦、白は純潔、黄色は究極の愛、そしてオレンジは冒険心、ピンクは燃える神秘の愛」

 私はその華奢な女性が花言葉に詳しいことに驚き、「すごい、お詳しいんですね」と言葉にした。

「あなたが看護する患者が詳しいのよ。おしゃべりなの、彼」

 そういわれて、私は彼に会うのが少しだけ楽しみになった。花に詳しい男性なんてあまり出会ったことがなかった気がした。記憶がないので、よく覚えていないけれど。

 暗い色の雲から、しとしと降る雨が辛気臭い。雨の湿った匂いはどことなく塩素の匂いに似ていて、目を細めて眺めていた。


 初めての対面は、雨の日だった。病室に案内され、自己紹介してと促されるまま、顔も見ず頭を下げた。

「はじめまして。今日から看護させていただきます。サ……」

 名前を告げようとしてふと、言葉が詰まった。

 彼のつまらなそうな流し目に魅入られた。まつげが影を落とし、薄明かりに照らされた肌は陶器のように、白い。

 作り物のような白磁の肌。それに相反するような真っ黒な瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。

 綺麗な顔立ちをしている。まるで精巧に作られた人形のように無機質に見え、少し不気味に思った。

 作り物のような美しい見目も相まって、ぞっと恐ろしくなり言葉を失っていた。

「よろしく、看護師さん。あなたは雨は好き?」

 何の意図かわからず、私は思うままを告げる。

「雨は、悲しくなるから嫌いです」

 彼は少し興味を持ったように、私に顔を向けると無表情のまま「僕もそうだよ」いった。


 彼には口癖があった。

「人を愛さなければよかった」

 それはまるで自身に言い聞かせるような、窘める言葉で。何故か、当人でもない私までもが心を痛ませるような物言いだった。

 彼はその言葉を口にするたび、そっと左目に触れる。涙が零れ落ちるはずのない義眼から、見えない涙があふれている。まるで氷の瞳が熱に触れて溶けているふうに見えるのだ。

 幻覚なのかと目をこすり、ためらいを覚え、確かめるように触れたくなる。

 彼の感情は奇異でしかなかった。この現代において感情は差別の対象として見られるからだ。感情というのは、進化した人間には不要なものだと切り捨てられる。

 誰かを憎むことは不効率だ。愛することで憎しみは生まれ、また憎むことで争いは生まれる。だからこそ、人は感情を禁じ、ただ生活を繰り返すことのみが推奨されるようになった。

 戦争はなくなり、世界は平和になり。ただ笑い声だけが消えた。 だから、彼の感情はあまりにも物珍しく、甘美で羨ましい、甘い飴のようだった。

 その涙の一滴でも奪い取り飲み干してしまえば、感情が伝染して私にも芽生えるだろうか、その重々しくも惹かれてやまない感情が。

 感情を失くし、機械が子供を産むこの時代に、人を愛する欲求に妙に惹かれるのは、どうしたことか。

 彼の感情の波動に揺らされて、この胸が痛む感覚が感情だとでもいうのだろうか。震える手を伸ばして彼にハンカチを差し出す。彼はその手を払いのけると、その左目を優しく包むように隠した。

 かつて愛した人が唯一、触れた片目は腐り落ちた。それは誰もが知る赤い糸症候群の病状であった。

 赤い糸で結ばれたもの同士が触れ合うと、触れた部分から毒が回り腐る。

 それでも彼らは腐ることを知りながら、一度だけ触れ合った。それに何の意味があるのか、私にはわからない。わからないから、知りたくなる。

 彼は愛さなければよかったというけれど、とても愛おしそうに触れるその手が、その嘘を重ねる唇が、かすかに震え潤んでゆっくりと閉ざす瞼の動きが。

 一つ一つが心に訴えてくるのだ。

「僕らはね、進化した生き物なんだよ。交配を必要としない。機械で生まれ続ける。だからもう、誰かを愛する必要なんてないんだ。でも、だからこそ、神様は恋を罰することにしたんだ」

 ぽつり呟いた彼の言葉が種になって、沈黙という花を咲かす。じわじわと根を張り、否定の言葉を奪い続ける。

 張りつめる空気感。

 聞こえるはずのない、糸を強く引いたときに放つ鈍い音が、空気を通じて伝わる緊張。

 彼のあまりに思い詰めた表情から、何か言わなければという焦りが先行するのに、何度も浮かぶのは、否定と肯定の二択。

 けれどきっとそのどちらもふさわしい言葉ではないのだろう。何を言っても言葉は刃になり、彼を容易く壊してしまう。それほどまでに彼は危うくガラス細工のように繊細で、指先で軽く触れるだけで欠けてしまう脆いもの。

 だから、何も言えない。

 どこか空ろな彼が、虚しさを多分に含んだその口調で、恋が罰だというのなら、劣化した心の結果だというなら。

 それを否定も肯定もできない私は、自分の劣りをいつまでも認められない。言いたいことがあるのに 口をつぐみ続けるしかないだろう。

 本当は憧れている。私は恋をなくした世界で恋をし、互いに触れ合えば腐り落ちると知りながら触れ合った彼らを、本当に美しいと思わずにはいられなかったのだ。

「その人を愛していたんだね」

「違う!」

 その胸が張り裂けそうな悲痛さで叫ぶ声は、どうしたことか、ひどく悲しい肯定でしかない。

「嘘だよ。だったらなんでそんなに……」

 ――そんなに悲しそうなのか?

 でも、言えなかった。口にしたら最後、私は自分の自覚した恋を失ってしまう気がして怖かった。

 体の一部が破損した彼が言う後悔の話は、あまりに残酷で愛おしかった。恋の存在しないこの世界でそれが、どれほど神聖で痛々しくて愛おしいのか、それを求める私もまた、劣化した人間なのだろうか。

 愛おしさがいつか自らを食い殺してくれるのを、彼は待っている。

 赤い糸症候群はまだ何も解明されていない未知の病だ。感染性なのか。それとも遺伝的な病なのか。だからこそこのサナトリウムで死ぬまで隔離される。

 彼は彼女にあうことはできないだろう。死に至ることを知りながら、それでも彼は「彼女に会いたい」など言わないくせに、静かに閉ざす瞼、悲痛に揺れる声、言葉の端々が矛盾して、全部の言葉が裏表反対だと伝えてくるのだ。

 彼から染み出す全てから「会いたい」「恋しい」が染み出ていた。 

 私は本を読むのが好きだった。それもうんと昔の古書を読むのが。感情表現が乏しくなった今の時代において、鮮やかにもとれるほど感情豊かに描かれた古書の人々は私の目には物珍しく映った。

 私は感化されやすいのだろう。その色鮮やかな感情が、まるで自分のもののように感じる。怒りも喜びも、一つ一つを噛みしめるように味わった。感化されているだけ、自分のものではない。けれど、神経が広がっていくようだった。

 だから、このサナトリウムでの仕事を請け負った。赤い糸症候群の名は、古文書に載っている神様と人間の恋の物語が元になっているらしい。

 その物語は私を夢中にさせた。古書を読んでは、繰り返しその美しく苦しい感情に思いをはせる。恋に夢中になるのは、私の遺伝子にも恋が染みついているせいなのかもしれない。

 私は恋をしてみたかった。

 そんな時だった。サナトリウムで彼の看護の担当になったのは。彼も古書を読み、感情に興味を持っていた。

彼と話すのは楽しかった。非現実的なものが形をもって、現実になっていくみたいにいつも心臓が高鳴る。もっともっと話していたくなる。けれど、彼は彼女の話だけは口を閉ざす。

「僕らそんなに表情に出さないじゃない? これは嫌だ、あれは嫌だ。そういうの言葉にするけど、ほぼ無表情な僕らは、眉を吊り上げることも、目を細めることも、口を開いて烈火のごとく、まくし立てることもしない。それら全部、古書の感情。僕らが失った過去の産物なんだ」

 彼は開いていた古書をなぞりながら言う。

「時には感情は誰かを傷つけて、涙という雫を瞳からこぼすそうなんだが、僕はそれを見たことがないんだ。それは綺麗なんだろうか? 血を濾して作られるとても透明な液体だとは伝えられているけど、そんなの見たことがない。今じゃ、赤子だって流すことはない。憧れるじゃないか。そういうの。まるで今の僕らは無機物のようだから」

 彼のその横顔は、いつも寂しそうでまるで古書の中の登場人物を恋い焦がれているようだった。

「過去に憧れたって仕方ないのはわかっている。今を見据えて生きればいい。今だって誇れるものはたくさんある。例えば、豊かになった生活、戦争をしない社会、科学で交配しなくても機械で子供はできるし、これからだってたくさん発展する。宇宙の秘密だって暴かれる日も遠くない。だから――、だから」

 彼は矢継ぎ早に現代の素晴らしい技術について語ってみせる。けれど彼は目を細めて作り笑いをしているだけなのだ。それがあまりにも淡く空気に交じって溶けてしまいそうで。

今の時代、表情なんて作る人はいないから、余計にひきつけられた。

 雪解けの氷柱から零れ落ちる雫のように、だんだんと彼を溶かして消していくようだ。

「ねぇ、どうして過去の遺物なんていうの? 私は憧れる。感情っていうものに。感情が高ぶれば流れる涙にも、怒った時の表情にも。私の顔はつまらないの。いつも同じ、変わらないまま、彫刻みたい。本の通りに筋肉を使って笑おうとして見ても、顔が引きつって上手くできない。ねぇ、お願い。私と一緒に感情の練習をしてみましょう?」

 その提案は私にだけ有意義なものだった。

 彼は感情の一つを知っているのだ。誰かに恋をする気持ち、誰かを求める心、そして失うことの悲しみを。

 そしてそれに苦しみ逃れられないまま生きているのだ。それならば、きっと悲しいだろう。感情をなぞるように表情を作るなんて、苦しみ以外の何物でもないのに。

 残酷に彼を傷つけても、知りたかったのだ。

 静かに移り行く光と影を、目線で追う。窓の外の日時計は正確に時間を刻んでいく。

彼はそれを呆然と見つめては少しだけ笑うのだ。

 そして我に返ったように、薄暗くしびれるような重さをもって、その目の光を閉ざしていく。

 その奥に眠る深い悲しみが、震えがとまらないほどに怖いのに。それでも、私には彼が眩しくうらやましいのだ。

 表情の動かし方、視線の動かし方、言葉を交わすときの手振り、一つ一つさえ、まねて、なぞって、模倣していくうちに、私はそれを知ることができた気がした。

 流し目にして視線が絡まないように、彼は目を合わせることを嫌がる。それすら、彼の心を知るきっかけになるのではないかと、心が揺れるのだ。

 嫉妬が混じる羨望が胸の裏側をあぶる。私もその鮮やかな感情に触れて知りたいのだ。

「そんなことしてなんになるの?」

「人が退化したか、それとも感情をなくすことが本当に進化なのか。身をもって感じたいの」

 彼は無表情のまま、私の手を握った。

 その手はひんやりとして、私の熱ぼったい手の甲を冷やす。

「君は恋愛ごっこがしたいのか?」

「……私は、知りたいだけ。個人的な知的好奇心かもしれない」

彼の時折見せる酷く壊れそうな表情を見るたび、好奇心はかき立てられるのだ。

「知りたいと思うなら、君も赤い糸症候群を発症すればいい。そうやって二度と外の世界へと遮断されればいい。そうしたら僕の気持ちがわかる」

「……」

 言葉にしようとして口を紡ぐ。彼は知らない。ここの看護師はもうすでにこの施設から生涯出ることが許されないことを。

 けれど、何故だか口にしてはいけない気がした。

「赤い糸症候群の発症に前兆ってあったの? よかったら教えて」

「前兆なんてない。ただ彼女に会っただけだ。恋というには彼女は特別美人でもなかったけれど、それでも彼女の笑顔を見たら――。……いや、その話はいいたくない」

 彼は背中を向け、その頼りない肩を震わすばかりだ。

「言いたくないなら、言わなくていいよ」

 そういうのが精いっぱいだったのに、彼はゆっくりと深呼吸をして語りだした。

「でも、君には聞いてほしい。僕らの話を」

 彼が私に向ける罪悪感に満ちた目が気になっていた。いたずらをしているのをひた隠しにする子どものような落ち着きのなさ、不安さを表すように何度も唇に触れるしぐさをして、体の大きな子供のような彼は話し出す。

 赤い糸症候群のお話。


 彼は駆け出しの小説家だったそうだ。彼の作品には古書で見聞きした、恋愛を取り入れていて、美しい恋の描写や、登場人物の心理描写などが物珍しく情熱的で、たびたび雑誌の取材に乗るほど、期待の新鋭だったらしい。

 彼自身、恋愛に対して強い興味を抱いていた。彼もまた私と同じように、古書の文章を何度も指でなぞり、恋というものに憧れを持ち、夢に描いていた。

 美しい恋の描写はその憧れが強くなればなるほどに、真に迫り人々は彼の物語に感化されるようになっていった。

 その頃からだろうか、感化され恋に恋焦がれる彼の読者が、赤い糸症候群にかかりだしたのは。

 恋というものは不思議なもので、視線が合っただけで発症するものもいれば、長い時間をかけてゆっくりと病に侵されるものもいる。

 複数のパターン、全く共通点のないかに見受けられた患者たちの、唯一の共通点が彼の小説の読者だったこと。

 彼らは小説に感化されていた。

 ただそれだけで全身から震えが走り、触れずにはいられない衝動に突き動かされ、触れたが最後、死に至る。

 甘美な恋物語のようで、その遺体はあまりにも残酷だった。

 彼の物語と赤い糸症候群にはなんの科学的な因果関係も立証されなかったが、彼の小説は次第に嫌煙され、禁書のように扱われるようになった。

 彼はそれでも恋を求めた。書き綴るうち、自分でもその恋を味わいたくなったのだ。彼は幼い頃から疑問だったのだ。愛のない世界のことを。

 機械にあやされ、食事を与えられ、まるで家畜のように飼育される環境に、恐怖を覚えていた。

 でも一人だけ違う存在がいた。それが彼の世話をしていたアンドロイドB15。

 大事に抱えられ、あやされ、しつけられ、B15は古書の読み聞かせを毎日のようにし、ぎこちなく表情を作り、愛のあるそぶりを向ける風変わりなアンドロイド。

 そんなB15に彼は親のような感情を抱いていた。美しい金糸の髪、柔い表情、まるで自分を宝物のように扱い、愛そうとするそのしぐさに、彼は次第にB15を愛称で呼び、その藍色の目に見つめられるたび、自分でも表情の真似事を繰り返すようになった。

 けれど、それがいけなかったのだろう。発育に悪影響ではないかと議論がなされ、B15が壊れた機械

が運ばれる「天国」と名付けられた施設に輸送されることとなった。

 当然、複雑な気持ちはあるものの、彼はそれを自然に表情で表すことができなかった。それがB15に対するひどい裏切りのような気がして。罪悪感ばかりが芽生えて「ごめんなさい」と謝ることしかできずに、俯いていた。

 B15はただぎこちなく笑い、「私はあなたに会えて幸せだよ」と口にする。

「ビーがそう思うのは、回路にそう組み込まれているからでしょ」

 拗ねるべきではなかった。彼に会うのはもうこれっきりかもしれない。それなのに、冷たく突き放すことしか言えない彼はうつむくことしかできなかった。

「だったら、回路に感謝しなくては。あなたを育てられて幸せだった。それだけは嘘にならない。ねぇ、最後に僕の一部を渡すから。だから、きっとずっと、忘れないでね」

 泣けない自分に、この悲しい気持ちを伝えられない自分に心底、失望した。そういう彼の目はどこか痛そうに腫れている。赤く目を腫らして痛みが走るのか優しく押さえつけるようなしぐさを取る。

 彼は続ける。

 古書を何度も読み聞かされて育ったせいかもしれない。だから、悲しみという感情が当たり前に自分にもあるのだと思い込んでいたせいかもしれない。

 けれど、この胸を刺すような痛みと、濁って何を考えているかわからなくなるほどの混乱を、正しく理解したいと願い、そうやって理解しようと愛や恋の小説を書き、自分で感情を反芻するように手を伸ばした結果が「赤い糸症候群」だ。

 この病を生み出し、遺体を目の当たりにしてもなお、自分はまだこんなにも感情を知りたいと願うことに、心底失望した。

 彼はこんな事態を招いてなお、B15が死んだことを悲しいと気づけなかったのだ。

 B15のレンズを彼はいまだに持っている。育ててもらったアンドロイドの一部を子供に持たせ、生育のお守りにするというしきたりが残っている。

 その当時の彼は何度もB15のレンズを眺めていたそうだ。美しい藍色の目。それは人間の義眼に似て精巧で美しいビロードのような球体だ。

「ビー。お前はちゃんと天国に行けたのかな」

 ビーと離れて十五年がたって、ふいに彼は自分の生まれ育った育児施設にぶらりと立ち寄った。

外から見える育児施設には目麗しい精巧な作りのアンドロイドやガイノイドたちが慌ただしく担当の赤子たちの世話をしている。

 B15はよく天国の話をした。私たちアンドロイドは故障すると天国という施設に行き、また部品を取り換えられて、生まれ変わる。それを輪廻転生システムというらしい。

「だからもし私が壊れても、またユウに会えるよ」

 そういっていた。暗い藍色の瞳は優しく微笑むように目を細めた。

「なあに、その顔」

 彼が聞くと、B15はいつもその不格好な表情のまま告げる。

「あなたが幸せになるためのおまじないをかけているんだよ」と。

 なぜだか、瞳が燃えるように熱をもって、喉に痛みを走らせる。風邪でも引いたのかと、その場に立ち尽くしていると、一人の女性が彼を呼び止めた。

「その目……。B15の……?」

 ビロードの美しい眼球が、瞬きをするようにきらめいて見せた。

 雲が灰色に染まり、雨が降り出しそうな鈍い音を立てる。静かに走り寄る足音に振り返ると、栗色の髪を揺れるのが目に入る。

 緩いウェーブがかかった髪を振り乱して、彼女は息を整えようと呼吸をする。

 ささやかに膨らんだ胸が上下するのを見て、思わず心配で声をかけそうになったけれど、苦しそうに細められた目は切れ長で細く、滴の乗りそうな長いまつ毛が印象的で、思わず息をのんだ。

 彼女の柔和な雰囲気が妙にすとんと腑に落ちる感覚、見つからないジグソーパズルのピースを見つけた時の安堵と喜びに満ちた不思議な感覚。

 彼女の手には同じように藍色の瞳が握られていた。

「……あなたもB15に育てられたのですか?」

 おそるおそる声をかけた彼は、自分のその声の震えに驚く。けれど、その女性は気にも留めていないように、首を何度も縦に振って頷いた。

「……あなたも?」

「ええ。そうです。B15が輪廻転生システムを施される際に、目の部品をもらったんです……」

 そういって目線を下げた時にふいに気づく。

「えっ? なんですか、その顔」

 女性はB15と同じように、目を細めて不格好な表情を作っていた。

「あなたが幸せになるためのおまじない……。B15に習いませんでしたか?」

 女性はそういうと不格好に笑い、B15の思い出を語り始めた。

 彼女は優しい声をしているのか、耳なじみがよく透き通るようで、歌うように話す。楽しそうな雰囲気にのまれて、いつの間にか彼自身も、優しく楽しい気持ちになれたそうだ。

 B15はおっちょこちょいでどこか抜けていたことを、彼女との会話で思い出す度、寂寞にも似た感情が疼き痛むようだった。

 それに気づくたび、彼女は不格好に笑って見せる。

 彼は彼女が優しい人だと気づくのにそう時間はかからなかった。

 思いやり、とでもいうのだろうか。雨が降っていたら彼女は迷わず傘を差しだして、何の他意もなく貸し出せる人だと思う。

 自分が濡れるのもまた一興とでも言わんばかりに、悲観することがない。明るい性格で、優しさにためらいがない。偽善だと罵られても、「そうかも、ごめんね」とさらりとかわしてしまう、度量さえ感じる。

 幸せな人生を送ってきたのだろうと、ひがみたくなるほどに、彼女からは後ろ暗いものは感じなかった。

 いつも誰かを知らぬ間に救い、いつの間にか去っていく野分のような騒々しさを持った太陽。そんなイメージを今でも持っている。そしておしゃべりだそうだ。

B15は彼女がケガをした時、あのおまじないを教えたこと。B15はアンドロイドだけど他の誰よりも一緒にいて幸せだったことを、聞いてもないのに話し出す。

 よくもまぁ、出会ったばかりで口の回るものだと彼は呆れてはいたが、彼女のおしゃべりな口を見ているうちに、いつの間にか変な欲を抱く。

 触れたいと。

 それを思った瞬間、仄暗い後ろめたさで胸が充満し、彼はぼんやり自制する頭でうっかりとそのことを口にした。

「僕は、ビーが天国に行く時、混乱して心がざわついて、視界が白くぼやけるように感じたんだ。もやもやして行かないでと縋りつきたくなった。そんなことをしたってビーは連れていかれるのに」

 彼女は静かに淡々と告げる彼の肩を優しく抱きしめる。その腕から伝わる体温が彼には痛いほどに衝撃的で、心を打つものだった。

「悲しかったんだね」

 その言葉ではっとする。そうか、僕は悲しかったのかと。

 知らない感情が理解の追い付かないまま芽生えていて「寂しい」や「悲しい」を見落としては、芽生えた感情から目をそらしていた。

「うん……。うん、そうだ。きっと、そうだった」

 彼は独り言のように何度も呟いて、ふいに思った。

「こんな時、古書のように泣けるのなら、僕はこの気持ちを少しは整理できたのかな?」

 そういった瞬間、彼女は殊の外、上手に笑顔を作りいった。

「それなら、私と一緒に感情の練習をしてみましょう」

「練習?」

「そう、練習よ。笑顔を作って泣いて怒って。そういう感情の練習」

 その時の彼女の笑顔が忘れられない。花より美しく、水面のように透明でよどみがない。一瞬で心を奪い、信頼させるとても完璧な笑顔だった。

 彼はその彼女の笑顔に釘付けになり、魅入られた。美しい唇の輪郭、色めきだすような頬の赤さ、彼女の細める瞳の色まで、目を奪われてとりこになった。その表情の色とでもいうのか、ぱっと世界を照らす彼女の明るさが、彼の心を奪ったのだ。

 それから彼らは一緒の時間を過ごすようになった。

「ねぇ、ユウ。あなたは花を見て何を思う?」

「花? 花粉が少し、苦手……」

「それだけ?」

 彼女は少し拗ねたように顔をしかめてみる。

「変な顔」

「もう! 表情の練習でしょう!」

 彼女は天真爛漫で、明るい性格をし、そばにいるだけで気持ちを明るくしてくれる人だったという。

「私は、色鮮やかなのにすぐ枯れてしまうのが、少し寂しいの」

「ドライフラワーにしたら?」

「もう、情緒がない人ね」

 そんなおかしな会話ばかりしていた。

 けれど、彼はその次の日には彼女に花束を渡した。ガーベラの色鮮やかな様々な色が並んだ花束。カスミソウが周りに添えられ、白と赤、黄色にとピンクにオレンジ。彼女は目を輝かせた。

「枯れたら、またプレゼントする」

 ぶっきらぼうに言い放つ彼を笑って、彼女は初めて泣きそうな顔をしてお礼を言ったそうだ。

「ありがとう」と。

穏やかで夢のような時間を過ごした。

 恋人のようにふるまい、同じものを見て同じ感覚を味わった。けれど、その時さえ彼らが触れ合うことは一度だってなかった。お互いに気づいていたのだと思う。

 自分たちはあの病にかかっていると。

 彼はここまでの話をすると、ふいに目頭を押さえてうつむいた。

「涙がどうして血を濾した液体なのか分かった気がする」

 とっさに彼の顔を覗き込んだが、彼は泣いてなどいなかった。表情さえなかった。けれど、ああ、きっとそうだ。これは悲しいときの表情。

 心の奥底で眠る、あふれては滴り落ちる感情の洪水。

 私は後ろめたくなった。おこがましいほどに、それが純粋できれいなものに感じるのに、その感情を浴びてから、罪悪感の方が大きくなった。

 その日は雨が降っていたそうだ。雷雨で、互いがずぶ濡れになり、そんな自分たちを見て馬鹿みたいに笑っていた。

「あのね、ユウ。私、雨好きなの」

「どうして? こんなに濡れるのに」

 彼女はおどけた表情をしてスカートを絞る。ちらりと見えた足に、途端に罪悪感を抱き、彼を目を背けた。

「ね、ユウ。真似事をしたいの」

「もうしてる」

 違う、わかっている。それでも彼には確信をつく言葉が言えなかった。

 髪が濡れた彼女は小さく震えていて、それは決して寒さからだけではないことを、気づいていたのに、何も言えなかった。

「ね、ユウ。今ならまだ大丈夫。きっと触れてもまだ、大丈夫だから」

 彼女がそっと頬に触れた。冷たく冷え切った手のひらが、頬を包む感触が心地よく思わず、そのわずかで生ぬるい体温に溶けそうになる。

 人に触れたのはいつぶりだったか思い出す。いいや、あれは人ではなかった。けれど、彼は思わず、彼女の手を取っていた。

 目線があい、涙があふれた。ああ、ずっとこうしたかったのだと、初めて彼らは気づいた。

「本当はずっと、私。寂しかったの」

 彼は何も言わず、彼女を抱きしめた。

「僕も、この世界が嫌いだった」

 性行為をしたことは一度もない。この世界でも止められてはいなかった。欲の発散としての性交を止めるものは誰一人いなかった。

 誰しもが、発散として行うものだった。それ以上の意味を持たせるものはいなかったのだ。

 初めて触れた肌の感触は涙が出るほど冷たい。

「雨で冷えたね」

「うん」

 彼女は泣きそうな顔で彼の頬に触れる。

「どうしてかな」

「うん?」

見つめあった目の奥に、心が見えた気がした。

「誰かとこんなにも関わった気がするのは、どうしてかな」

 悲しく微笑みあい、唇を重ねる。なめらかな唇の感触が心地よかった。撫でるように頬に唇を滑らせ、首筋を噛んで見せる。

 彼女は少しだけ痛みで、しかめっ面になって同じように噛みついた。そしてまた微笑んで、体中にキスをした。

「……っ」

 出そうになる言葉を思わず飲み込んで、彼女の奥に自身をねじ込んだ。

「いいよっ、言わなくても」

 彼女は泣いていた。きっとわかっていたんだと思う。言葉にしてはいけないと。わかっているけど、彼は何も言えないことが悲しかった。

 彼女を抱いているときに、何度も何度も彼女の肌を、髪を、唇を、味わった。もうこれが最後かもしれない。

 もう二度と彼女に触れることができないかもしれない。

 どうしてそれがこんなに悲しいのか、こんなに心が締め付けられてしまうのか。何もわからない。

「お願い、何もわからなくしてっ」

 息も絶え絶えな彼女の、その言葉に自身も何もわからないふりをし続けた。気づいてはいけないことだ。

 理解してはもう触れられなくなることだ。

「ごめん」

 けれど彼はもう限界だった。

「ごめん。愛してる」

 そういった瞬間、目を見開いて彼女は泣いた。本当はその言葉がずっとほしかったのだと、彼女は彼の涙する瞼に触れた瞬間、指が腐り堕ちた。

「それ以来、彼女とは引き離された」

 ここまで話した彼は、切なさで歪んだ表情を、抑え込むように、その大きな手のひらで隠し涙した。

「愛さなければよかった。そうすれば、彼女が傷つくことなんてなかったんだ」

 自らも片目を失っていながら、彼女のことばかりを気にやる。ここまで愛された彼女は幸せなんだろう。けれど、それは同時にひざを折り嘆いても、愛しくて泣いても、逢瀬の叶わない恋。

不幸の何物でもない恋愛なのだろう。

「……ごめんなさい。聞かなければよかったね」

 口を抑え震える情けない肩が、ここまで大きな体の彼を頼りなく見せる。感情の波を味わって、私は後悔しかなかった。

「出会わなければよかったね、彼女と」

 私は顔をぐしゃぐしゃにして笑った。その刹那、彼は声を上げて「違う」と叫んだ。

「サラ、違うよ。僕は、本当は! 後悔してない。してないんだ」

 そういって掴まれた腕に力を込められて、思わず顔をしかめる。

「ごめ、……ごめん。でも、違うんだ。全部、全部思い出した。僕が愛してしまったから。真似事をしたいなんて思ったから」

 その瞬間、何かが私に突き刺さった。

 横腹を見ると、小さな小型の注射器が服越しに刺さっていて、私はそのまま意識を手放した。

 意識が遠のく中、ぼんやりと聞こえる声だけに耳を傾けている。

「サラはまた赤い糸症候群を発症したか?」

「今の状態では何も。検査機関に回しましょう」

「ユウ、お前どうしてこんな余計なことを。また記憶を抹消されたいのか」

「治験は自由意志のはずだ! どうしてここまでのことをされなければならない」

 彼の声を認識した瞬間、どうでもいいことが頭をよぎる。彼の名前。看護担当なのに私は知らなかった。

 初めて知った。どうして私は彼の名前を知らなかったのだろう。

「それがこの病をこの時代に生み出したお前の罰だ」


 深い深い夢の中で、ひどく生々しい夢を見た。

「B15、ねぇどうしたの?」

 B15にトイレに連れられて下着を脱がされる。

 下着には血がべったりとついていて、思わず息をのむ。

「血……? なんで、私……病気なの?」

「サラ、よく聞いて。病気じゃない、体のことこっそり調べたんだ。あなたは初潮を迎えている。二世代前ならまだしも、この時代の人間がこんなこと……。サラ、このこと誰にも言っちゃいけないよ」

 後ろめたいことなのかと思って、恥ずかしくて服の裾を握った。

「あなたはもしかしたら、また誰かを愛することで新しい命を生み出すことができる、きっかけになるかもしれない」

 そういって優しく目を細めるB15に私は思わず抱き着く。

「誰か愛する人と大事な存在を産んで、失ったはずの当たり前の生活を手に入れられるんだよ」

 わけがわからないB15の言葉を何度も繰り返して、わかろうとする。けど、やっぱりわからない。

「B15がいればいい。ずっと一緒がいいよ」

 私がB15に向けていたのは、執着だった。子供は時折、アンドロイドに執着を見せ疑似親子としての関係を築く場合が多いとされる。

 きっと私もそうなんだろう。でも疑似でもよかった。私にとってB15はお父さんだった。

「いいかい、サラ。大丈夫。大丈夫だよ。私はたとえ消えたってあなたと一緒にいる。だから、もし私が消えても、あなたは幸せになるんだ。誰かと一緒に笑っているんだ」

 目を覚ますと、病室のベッドにいた。ぽたぽたと落ちる冷たい点滴が体に入り、ほてった体をさましていく。

「わ、私は?」

 ゆっくりと起きようとすると、白衣を着た先生が書類を抱えて私に近づいてきた。

「サラ、君は思い出したのかい?」

 先生がそう言った瞬間、なんの見当もつかない私は「なに……を?」と素っ頓狂な声をだしてしまった。

「そう……ですか」

 先生はそういって窓を少し開けた。窓の外から金木犀の匂いがして、急に心が締め付けられるように痛くなった。頭がくらくらするような甘い匂いの花。

「サラ、外が恋しいですか?」

 無表情のまま、先生はジッポライターを回し、タバコに火をつけた。金具が回る音とタバコが燃えるクシャッとした音が聞こえて、それさえも外を彷彿とさせる。

「センチメンタルなこと聞くんですね」

「君の話を聞くと、懐古的っていうのかな……。少し思い出すことがあってね。僕には両親がいたんだ。世界最後の子孫を残せる人間……だったのかもね。ただの実験で、性交をして生み出された僕には生殖能力はなかったけれど、たった一人を愛したことがあったんだ」

 ふぅっと白い煙を窓の外に吐いて、先生は空を眺める。その視線の先のものを先生は何も見ていない気がした。

「先生?」

 先生は振り返って少し困ったように眉をひそめた。

「君の感情表現、うつってしまったかな」

 私は小さく俯く先生の視線をずっと追っていた。

「昔、教えてもらったんです。罪悪感をある人間は視線を下に向け、嘘をついている時は視線を右上に動かすって」

 先生はタバコをまたふぅっと窓の外に吐き出す。銀縁の眼鏡が少し照って、思わず目を細める。

「話を戻しますが、先生は誰かを愛したことがあるんですか?」

 そういって話をかけた時に眼鏡の奥の目が悲しげに細められた。

「優しいよね。サラは」

「困ることなんでしょう。先生は意味もなく嘘をつかないので」

 真摯な視線を向けたつもりなのに、先生はうつむいたまま罪悪感に染まったようなため息をついて、口を開く。

「B15は私が作った」

 その瞬間、先ほどの夢を思い出した。

「B15……?」

 どうして私の記憶に彼の、ユウの飼育アンドロイドであるB15が出てきたんだろう。いや、そもそもどうして私は夢のアンドロイドがB15だと確信しているのだろう。けれど、どうしようもなく私は彼を知っていた。

 感触も温かい人工皮膚の熱も、不格好に笑ったふりをしたり、感情を教えてくれて、古書を読み聞かせしてくれたのも、あの優しい声色も全部、私は知っていたのだ。

「うっ……ぐっえっ」

 私は吐いた。こんなこと初めてで、先生は私に走り寄って素早く安静剤を注射する。

「……脳に負荷がかかったんだ。大丈夫、これですぐよくなる。すまない……。罪悪感からこんなことを話そうとして。君が、君が彼の見つけた大事な存在であることを知っていて。助けることができないなんて、すまない……。すまない」

 息を整えつつ、口を拭う。

「大丈夫……です。話、お聞きします。でも、その前に口ゆすいできます……」

胃液の酸っぱい匂いが気持ち悪くて、フラフラの足取りで私は近くの洗面所に向かう。うす暗い廊下に出ると、埃っぽい空気に少し気持ち悪さが沸き立って、少しかがんだ。

どうしてだろう。なぜだか懐かしい気持ちになる。

子供の頃はよく風邪をひいて吐いていた。その度、背中をさすってくれたのは、B15だった。少しずつ頭の中を整理していく。

あの時、ユウはまるで私を赤い糸症候群の相手だとでもいう口ぶりだった。そして研究員が口にした治験という言葉。

私は、ユウの、あの話の彼女だというのか。記憶を改変され、治験のためにモルモットにされているとでもいうのか。それを自覚した瞬間、震えが来た。

そんなことって在りうるのだろうか。人権もないそんな治験、治験ですらない。これではモルモットと一緒。死んでも構わない存在だと見くびられ、何の他意もなく実験に使われているだけだ。

そう考えるだけで私は怖くてそのまま、座り込んだ。初めて絶望を知った気がした。これは人質だ。互いを人質に取られ互いを見捨てなければ、逃げて人間としての生活をすることも叶わない。

そして決して、互いを見捨てられないと知った上での、実験なのだと。

彼が「愛さなければよかった」と言った意味を、理解もしたくないのにわかってしまった。


 B15は感情をインプットしたアンドロイドだったという。

 先生は幼い頃から、ぼんやりと感情というものがあったらしい。けれど物心ついた頃から、それが異常なことだと気づき始めた。両親は自分の表情を見て嘆き、軟禁し監視を付けた。

 自分が当たり前にあるものを否定されること。自分の当たり前を畏怖の対象として見られる恐怖。叫びだしたい感情を一つ一つ殺しては、外に出ることを望み、両親の願う健全さを演じていた。

「サラは人間とロボットを差別するかい?」

 先生は初めて感情を見せた。ひどく暗い陰りを見せるその目が、恐ろしくてたじろいだ。

「先生……私はB15が好きでした。誰よりも……好ましく思っていました」

「……そうかい。あのね。ロボットは人間を模して造られている。脳の作り、電子信号を流す回路、だから僕はB15を作った。一人でいたくなかった。感情のある自分と同じ存在にそばにいてほしかった。でも……、それだけじゃ、足らなくなった。もっと同じ人間がたくさんいてほしい。僕を一人の世界で死なせないでほしい。……そう、願ってしまったんだ」

 そういった瞬間、先生が涙を流した。

「……うそ、先生。それ」

 涙を流す存在を見たのは初めて、私は思わず先生に駆け寄る。

「サラ。君は私の業が作った感情のある異端分子だ」

 先生は見たことのない初めての、人の感情を見せた。そのあまりに心に訴えてくる強い刺激に、頭が白くかすんでショックで死にそうだった。

「サラ、君は共感性が強い。だからこそ、B15 を君の担当にさせた。僕はね、寂しかったんだよ。一人だけ違う劣化した生き物であることが」

 鰥寡孤独という廃れた言葉が脳裏に浮かぶ。老いて妻のないものを「鰥」老いて夫のないものを寡という。身寄りもなく、寂しいさまをそう呼ぶらしい。

 けれど、先生はこの言葉にすら当てはまらない。生まれたことからの絶対的な差、それは現在でも蔓延る差別の対象にもなる。いや、それ以上に隔離対象にすらなりうるのだ。

「先生は、感情があることを誰かに知られたことはないんですか?」

「僕は感情を表に出さなかったから両親以外は知らない」

 先生から発せられる優しい声と対照的に、表情はひどいものだった。飛び散ったガラスで肌を切ったような、刺々しい悲しみを私は処理しきれない。

 次第に息が上手くできなくなる。

「君は本当に優しい子だね。でも気にしなくていいんだ。感化されなくていい。今すぐ忘れさせてあげよう。優しい夢を見れるように薬を打ってあげよう。だから……だから」

 先生は透明なしずくをしわしわの顔から何度も流す。

「どうして、先生は悲しいんですか? どうして私はこんなに苦しいんですか……?」

 息も絶え絶えになったのに、こんなに苦しいのに、それでも知りたいと思うこの感情が私はわからなかった。

「教えてよ、先生。感情はどうしてあるの?」

 そういった瞬間、先生は顔を抑えるように声をあげて泣いた。

「誰かの……、誰かの心を知るためにあるんだよ。こんなに、重くて辛くて悲しいのに。それでも知りたい、わかりたい。そして愛してあげたいって思うためにあるんだよ」

 そう泣きじゃくりながら、声をふり絞る先生を私は抱きしめた。

「B……15が、いつもこうしてくれた。先生は、本当はこうしてほしかったんでしょう? 誰かに優しくしてほしかったんでしょう? 私もなの。私も、ずっと優しくしてほしかった」

「君は僕を恨んでいないのかい? こんなふうに世界から隔離されてしまう要因を作った僕を、君が必死になって知ろうとしたことが毒にしかならなかったのに。僕を……許してくれるというのか?」

 私は何も言わないまま先生を強く抱きしめた。

 知りたがったのは私、わかりあいたいと願ったのも、まぎれもなく私。

 鈍く光る鋭利さをもって心をズタズタに切り裂く感情が、憎くて憎くて仕方なかったのに、私は初めて人と関わった気がした。


 隔離されてからしばらくたって、また彼に会うこととなった。それは前のような触れられる距離ではなく、ガラス越しの罪人同士が向き合うような形で。

 コンクリートの壁とこちらからは見ることの叶わないマジックミラーの狭い空間に、ゆらゆら揺れる照明の明かりに虫がその身を寄せる。

 光が彼の顔照らして、少しだけ青ざめたその唇の色が心配になった。

 彼は気まずそうにのぞき込む私から視線をそらし、わなないたその頼りない体を押さえつけるように口を固く閉ざしている。

「……私、特別美人じゃないらしいね」

 そう無感情に話すと、彼は思わず私の方に顔を上げた。その情けない表情を見て私は思わず噴き出した。

「……冗談だよ」

 先生と話してから少しずつ私に感情が芽生えていった。先生が言った私の共感性の強さのせいなのか、もともと私にも感情の種があったのかはわからない。

「綺麗に笑えるようになったでしょう?」

 言葉をひらりと落ちる枯葉のように放つ。言葉がどうして言の葉なのか、懸命に手を伸ばしてつかみ取ろうとしなければ、きっと枯葉のように地につき、腐りゆくものだから。

「ねぇ、話してよ。お話、しようよ」

 そう優しい声色で話しかけ続けた。

「サラ、ねぇ……、サラ」

 震える声が鼓膜をくすぐる。どうしてか、情けない彼の頬にその綺麗な眼に触れたくなった。頬を撫でて抱きしめてあやすこともできない私は、消え入りそうな声で返事しかできない。

「ごめん……、ごめん」

 少しだけ顔を上げて、懺悔するように指を組んで鼻をすすりながら彼は言う。何度も何度も、一つ一つの言葉をかみしめながら。私を見る。縋るような目が潤んで鬱々としているのに、強く光って魅入られる。

「出会わなければよかったなんて……思っていないよ……」

 はっとした。彼は、私がなんの意図もせず言った言葉をずっと悔やんでいたというのか。そんなことでこんな悲しい声を上げて謝るというのか。

 詰まりそうな声で答える。

「怒ってないよ。怒ってないから……、ねぇ。ユウ……名前を、呼んで」

 そういった彼がゆっくりと、私の名前を呼ぶ。

「サラ……」

 優しい声に泣きそうになる。流したこともない涙が簡単に流れそうになる。

「ユウ、ねぇ、この気持ちを私は知らないの。ねぇ……教えてよ」

 そういうとユウはそっと阻まれたガラスに手を付けた。私はそっとユウの手と合わせるようにガラスに手をつける。

 じんわりと冷たいガラスから熱が伝わる。

「サラ……」

 それは小さな声だった。

 彼の目の義眼をそっと見る。藍色の瞳、綺麗な目。そしてガラスに映った私の瞳を見た。藍色の瞳、私たちはお揃いだったのだ。

 B15から与えられた目を大事にその体に宿して。

「サラ」

「なに?」

彼は静かに笑って見せた。

「あなたが幸せになるおまじない」

 見たこともない優しい表情で、はにかんで優しくガラス越しに額を付けて、「君を愛せてよかった」と呟いた。

 そう言い、うつむいたわずかな瞬間、彼は舌を噛み切って死んだ。

 あたりに悲鳴が飛び交い、血を吐く彼を見ることしかできなかった。何が起こったかすらわからない。

 彼は笑いながら、言葉も告げられなくなった口を何度も動かしている。

 知っている。わかっている。その言葉はずっとほしかったものだ。

「私も、私も!」

 泣きながら透明な隔たりを叩く。血がにじむほど強く強く、何度も何度も繰り返し叩く。

「死なないで。お願い! お願い」

 チアノーゼが出て色の変わる彼が、もう長く生きることはないことを悟っていた。それでも何度も叫んだ。

「愛している」と。

 声にもならない叫び声だった。

 時間が経てば彼は運ばれて行き、それっきり彼を見ることはなかった。ようやく彼を失ったことで、私はこの治験から逃げることができた。

 愚かなその行為は私を外の世界に出すためなのか、この治験から逃がすためなのかわからない。わからないまま、私は先生によって呼ばれた警察に保護された。

 しばらく、私はこことは違う施設で生活することになり、そこで初めて妊娠が確認された。膨らむお腹に愛おしさを感じる。

「君を愛せてよかった」

 その言葉が頭を反芻している。

もっと早く「あなたを愛せてよかった」と。そう、いえばよかった。そうすれば、私たちはこんなに苦しまずに済んだかもしれない。

残されたこの子だけが私の命だ。

「泣き虫なママでごめんなさい」

 咳き込むほどに、涙は溢れてこんなに苦しいのに、悲しいのに、それだけに飽き足らず、悲しくて寂しくて叫んでいた。体が壊れてしまうほどの号哭。

 この研究施設は以前から倫理に反することをしていると、監査が入っていたそうだ。記憶を改変された間に私たちに何をさせたか、子供を見れば明白だった。それは人権を揺るがす大きな問題になっている。

 感情が本当に不必要なのか、機械がなければ生まれることすらできない私たちが、本当に秀でた生物なのか。

 問いかけが押さえつけていた感情の爆発を呼び、それは次第に大きな時代の変革になっていくだろう。争いの火種になるか、再び幸せを手にするか。それは誰しもわからない。けれど、わからないながら繋がっていくのだ。

 不満不平、心で感情を感じる当たり前の反応を、差別としてきたこの世界に。

 感情が争いを産むのではないことを、喜びも悲しみも必要だから感じるのだということを。

 誰もが否定したものを再び受け入れるには、多大な時間を要し、時にぶつかり、時に戸惑い、時に苦しみを産むだろう。

 けれど、失いたくないものがあるのだ。苦しんでも悲しんでも、それさえを愛する人がいるのだ。

 透明な水は再び、感情という色を得て、どう変わっていくのだろう。

「あなたが生まれる世界が、優しい世界だといいなぁ」

 私はお腹の赤子に微笑んで見せる。

「あなたが幸せになるおまじないをかけてあげる」

 私は優しく微笑んでから、子守唄を歌った。まだ見ぬ我が子へ。今はたくさん眠って大きく育つように願いを込めながら。

 この先何度も、彼に言えなかった言葉をこの子に告げるだろう。

「愛している」と。


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