婚約破棄の断罪式、その前に三分で真犯人を指します
シャンデリアの光が降り注ぐ、王都学院の夜会ホール。軽やかなワルツが終わり、拍手と共に静かな熱気が満ちるその瞬間、すべての音楽がぴたりと止んだ。
ざわめきがさざ波のように広がる。何事かと視線がさまよう中、舞台の中央に立つ婚約者のアラン王子が、氷のように冷たい声で私の名を呼んだ。
「アリア・グレイフィールド」
向けられたのは、恋人へ送る甘い眼差しではない。罪人を断罪する、鋭い光。
私は背筋を伸ばし、ゆっくりと人々の間を抜けて舞台へと歩みを進める。伯爵令嬢として、そして王子の婚約者として、常に注目を浴びる立場には慣れていた。けれど、今一身に受けているのは、好奇と非難が混じった、刺すような視線だった。
「君を、私への誹謗中傷を記した手紙の差出人として、この場で断罪する」
舞台の隅では、庇護されるように立つ可憐な少女、リリアンが青い顔で唇を噛んでいる。彼女は最近、平民でありながら特待生として学院に入ってきた“優等生ヒロイン”。そして、その隣には、この夜会のすべてを取り仕切る式典委員長が、公爵家の姪にふさわしい威厳と共に、厳しい表情で成り行きを見守っていた。
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アラン王子が白い手袋に包まれた手で、一枚の手紙を高く掲げた。
「これが証拠だ」
それは、上品な花柄が縁を飾る便箋。封をする赤い蝋には、王家と私の家門の紋章が並んで押されている。けれど、ふわりと漂ってきたのは、夜会のために貴賓室で焚かれるジャスミンの香り。私が普段使う薔薇の香りではなかった。
王子が手紙の内容を読み上げる。言葉は短く、しかし悪辣だった。王子の政策を愚かと罵り、その品性を貶める言葉が、静まり返ったホールに響き渡る。
観客は息を呑み、私への非難を色濃くしていく。けれど、私の目は、王子が持つその“証拠”に釘付けになっていた。
おかしい。違和感が三つもある。
誰の目にも、はっきりと“見える”形で。
一つ目は、封蝋の“向き”。
紋章を押し付ければ、溶けた蝋は紋様の外側へ均等に広がるはず。なのに、この封蝋は、まるで左利きの人が無理やり右手で押したかのように、紋章の跡が斜めに歪み、蝋が不自然な方向に擦れている。
二つ目は、紙の“三つ折りの幅ズレ”。
手紙はごく一般的な三つ折り。けれど、よく見ると三つの面の幅が均等ではない。上の折り返しが少し狭く、真ん中が広い。このアンバランスな比率、どこかで見た覚えがある。……そうだ、今夜配られた舞曲プログラム。分厚い冊子の、最初の三曲ぶんのページの厚みと、この幅の比率が一致している。
そして三つ目は、花模様の“花びらの接触点”。
便箋の縁を飾る小さな花。一番上の折り目には、ちょうど花びらが二枚だけ重なっている。そして、二番目の折り目には、五枚の花びらを持つ花がぴったりと触れていた。あまりにも都合が良すぎる偶然。
これは、ただの手紙じゃない。仕掛けられた、解かれるための“暗号”だ。
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「殿下」
静かで、けれどよく通る声で、私は呼びかけた。会場のすべての視線が、再び私に集中する。
「わたくしに、三分だけお時間をくださいませ」
私は舞台の装飾として置かれていた大きな砂時計を指さす。金色の枠に収められた、美しい工芸品だ。
「この砂が落ちきる前に、この手紙を書いた真犯人の“名前”を、この場で指し示してみせます」
宣言に、ホールは大きくどよめいた。無謀な足掻きだと嘲笑う者、わずかな期待を寄せる者。アラン王子は一瞬ためらったが、やがて静かに頷いた。
係の者が、砂時計をゆっくりとひっくり返す。サラサラと、金色の砂が落ち始めた。
私は、先ほど見つけた三つの違和感を、一つずつ指し示しながら語り始める。思考を言葉に変える速度は、砂が落ちる速さよりも速く。
「まず、この不揃いな折り目の幅。これは、今宵の舞曲プログラムの曲順に対応しています。第一曲、第二曲、第三曲……と、手紙の行を読む順番を示しているのです」
私は、手紙の本文に視線を走らせる。
「次に、この花模様の接触点。折り目に触れる花びらの数が、アルファベットの順番を示唆しています。第一の折り目に触れる二枚の花びらは“B”、あるいは“L”。第二の折り目の五枚は“E”か“R”。そして、最後の折り目には三枚の花びら。“C”か“N”……」
まだ絞りきれない。けれど、最後の手がかりが答えをくれる。
「そして、この不自然な封蝋の向き。この歪な擦れが指し示す方向こそ、どの行の頭文字を拾うべきかの最終的な指示。この向きに従い、先ほどの曲順で行頭の文字を拾っていくと……」
私の指が、宙に文字をなぞる。
「導き出されるイニシャルは、ただ一つ」
私は顔を上げ、舞台の隅で小さく震える少女を、まっすぐに見つめた。
「“L・R・N”。——リリアン嬢。あなたのイニシャルですね」
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時が止まったかのような静寂の後、爆発的なざわめきがホールを揺らした。すべての視線が、ナイフのようにリリアンに突き刺さる。
彼女は血の気を失い、か細い声で「ちが……」と呟きながら、ふるふると首を横に振った。その瞳には、絶望と恐怖が浮かんでいる。
王子も、式典委員長も、信じられないといった表情で彼女を見ていた。まさか、あの健気な少女が、こんな手の込んだことをするはずがない、とでも言いたげに。
けれど、私の心には、すっきりとした達成感の代わりに、冷たい霧が立ち込めていた。
(……綺麗すぎる)
あまりにも、答えが綺麗にハマりすぎている。まるで、誰かが「このパズルを、どうぞこう解いてください」と、ご丁寧にヒントを並べてくれたみたいだ。真の悪意は、もっと狡猾で、もっと見えにくい場所に隠れているものなのに。
リリアンの怯えきった顔を見て、私は確信する。彼女は犯人ではない。彼女もまた、この悪意ある舞台に立たされた、もう一人の被害者なのだ。
砂時計の砂は、まだ三分の一ほどしか落ちていない。
私は、再びゆっくりと口を開いた。その声は、先ほどよりも強く、静かな確信に満ちていた。
「——お待ちください、皆様。このまま彼女を裁くのは、早計に過ぎます」
ざわめきが、ぴたりと止む。
訝しげな王子の視線を受けながら、私は微笑んだ。本当の謎解きは、ここから始まるのだと告げるように。
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「早計、ですって? アリア、君は自ら答えを示したはずだ」
アラン王子が訝しげに眉をひそめる。その隣で、式典委員長が冷ややかに口を挟んだ。
「そうよ。これ以上、哀れなリリアン嬢をいたぶるのはおやめなさい。潔く罪を認めるべきでは?」
私はその言葉を無視し、舞台の袖に控えていた係の者へ声をかけた。
「今宵の舞曲プログラムを、こちらへ」
すぐに差し出された冊子を受け取り、私はそれを高く掲げる。
「皆様がお持ちのプログラムと、私が今持っているもの。実は、これらは版が違います。こちらは、数日前に変更が加えられた“最終版”」
私は続けて、リリアンに向き直った。
「リリアン嬢。あなたが持っているプログラムは、もちろんこの最終版ですね?」
彼女はこくりと頷く。当然だ。一般の学生に配られるのは、すべて最終版なのだから。
「ですが、この手紙の暗号が参照している曲順は、古い“旧版”のものです」
会場が再びざわめく。
「旧版と最終版では、第二曲と第三曲が入れ替わっています。もし最終版の曲順で解読すれば、イニシャルは意味をなさなくなる。つまり、犯人は旧版のプログラムを見て、この暗号を作ったのです」
私はゆっくりと、式典委員長へと視線を移した。
「そして、その旧版プログラムは、変更が決まった時点ですべて回収・破棄されたはず。ただ一人、その管理責任者を除いては。……ねえ、式典委員長?」
委員長の顔から、すっと血の気が引いた。
「誰でも入手できるはずの手がかりが、実はごく限られた人物しか持てない品だった。おかしいとは思いませんこと?」
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私は畳みかけるように、手紙へと指を戻した。
「次に、この封蝋の香り。夜会用のジャスミンですが、これは賓客をもてなす貴賓の間でのみ用意される特別な品。一般の学生が立ち入れる場所ではありません」
リリアンは特待生だ。貴族の慣習にも、夜会の裏側にも詳しいはずがない。そんな彼女が、どうやってこの香りを手に入れるというのか。
「そして、決定的なのがこの封蝋の擦れです。先ほどは『左利きの人が無理に右手で押したよう』と申しましたが、より正確に言えば、これは左手で押印した癖そのもの。リリアン嬢、失礼ですが、あなたの利き手は?」
「……み、右です」
か細い声が答える。これで、彼女がこの封蝋を押した可能性は消えた。
「そう。つまりこの手紙は、“リリアン嬢が犯人であるかのように見せかけるため”に、実に巧妙に作り込まれたものなのです。設計者は、別にいます」
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私は最後の手がかり、便箋そのものを指し示した。
「この花柄の便箋。学院の紋章が透かしで入っていますが、これは購買部では売られていません。今回の夜会のために用意された、式典用の非売品。もちろん、管理しているのは……」
もう言うまでもない。観客の視線が、自然と一点に集まっていく。
式典委員長。彼女の顔は、もはや怒りとも焦りともつかない複雑な色に染まっていた。
「花びらの接触点をイニシャルにするなど、あまりに派手で、気づかれやすい暗号だと思いませんか? まるで、『さあ、ここがヒントですよ』と教えているかのよう。そう、この“リリアンを指し示す暗号”は、私たちを欺くための誘導用の餌だったのです」
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砂時計の砂は、まだ半分も残っている。私は息を吸い、この茶番を終わらせるための言葉を紡いだ。
「よって、私はここに、先ほどのリリアン犯人説を、自ら撤回いたします」
ホールが、三度目の衝撃に揺れる。リリアンが驚きに目を見開いた。
「最初の暗号は、“作り物の正解”でした。真犯人は、私たちにその見栄えのいい結論を選ばせ、すべての罪をリリアン嬢に押し付けようとしたのです」
私は、舞台の中央から一歩踏み出し、震える式典委員長をまっすぐに見据えた。
「あなたですね。この卑劣な罠を設計した、真の犯人は」
「なっ……何を馬鹿なことを!」
委員長が金切り声を上げた。
「私にはアリバイがあるわ! その手紙が置かれたとされる時刻、私は舞台の上で音楽隊に指示を出していた! ちょうど、音楽の転調があった、あの重要な瞬間にね!」
完璧なアリバイ。誰もがそう思っただろう。
けれど、私は微笑んだ。それこそが、彼女が自ら掘った墓穴なのだから。
「ええ、存じております。だからこそ、その時刻が、動かぬ証拠となるのです」
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「皆様、音楽隊の譜面をご覧ください」
私の言葉に、楽団員たちが戸惑いながらも譜面台を客席へ向ける。
「そして、アラン殿下。あなたのその袖口の刺繍、見せていただけますか?」
王子は黙って、金の刺繍が施された袖を差し出した。そこには、小さな鷲の紋様が縫い取られている。
「殿下は、重要な転調の際に、指揮者へ袖口の紋様を指でなぞる合図を送ります。それは、拍のズレを修正するための、ごく内密なシグナル。そして、その合図を受けた指揮者は、転調の小節に“×印”を書き込む手筈になっている」
譜面には、確かに小さな×印があった。
「この合図は、舞台の裏手、つまり委員長がいた位置からしか見えません。そして、この手紙に残された微かな折り癖……これは、ただの折り目ではない。この×印が付けられた、ほんの数秒の“拍がズレた時間”に、急いで封筒に入れられたことでついた、特殊な癖なのです」
つまり、封が押された瞬間が、ほぼ正確に逆算できる。
「舞台の上にいたあなたが、その同時刻に、別の場所で手紙に封をすることなど不可能。さあ、どう説明なさいますか?」
委員長は顔を真っ青にし、しどろもどろに叫んだ。
「し、知らないわ! きっと、控えの者が勝手に……!」
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「控えの者、ですか」
私は待っていましたとばかりに、その言葉を拾った。
「ならば、その方に渡したであろう指示書を見せていただけますか? ああ、ご心配なく。現物がなくとも、筆跡鑑定はできますので」
私は懐から一枚の招待状を取り出す。それは、以前委員長から受け取ったものだった。
「あなたには、独特の癖がおありです。招待状を送る際、封蝋を必ず中央から1mmほど左に傾けて押す。おそらく、ご自身の美学なのでしょう。そして、問題の手紙の封蝋も、寸分違わず同じ位置に傾いている」
偶然の癖ではない。何度も繰り返された、作為の癖。それは、指紋と同じくらい確かな、個人の署名だ。
「この癖は、あなた自身にしか再現できません。控えの者には真似できない。あなたは、自分の手でこの罠を完成させたのです」
舞台の空気は、完全に逆転した。
もはや、ここは私の断罪式ではない。真犯人を裁くための、新たな舞台へと姿を変えたのだ。
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もはや、式典委員長に逃げ場はなかった。けれど、私は彼女を大声で糾弾するつもりはなかった。嘘とは、外側から壊すより、内側から崩させた方がずっと静かで、確実なのだから。
私は、まるで世間話でもするかのように、やさしい声で問いかけた。
「一つ、お聞かせください。あなたが『控えの者』に渡したという、その旧版のプログラム。一体、いつ、どこで、誰に渡したのですか?」
単純な質問。けれど、それは彼女の嘘の根幹を揺さぶる一撃だった。存在しない受け渡しを、具体的に語ることなどできるはずがない。委員長は唇をわななかせ、言葉に詰まる。
私は、さらに続けた。彼女の執務室の光景を思い浮かべながら。
「そういえば、この花柄の便箋、一枚だけ角がほんの少し欠けていますね。まるで、鋭い角に引っ掛けたかのように。……あなたの机、確か美しい彫刻が施された黒檀でしたわね。その机の角の形と、この欠けの形、驚くほどよく似ていると思いませんこと?」
視覚的な証拠。観客の何人かが、息を呑むのが分かった。
そして、最後の一押し。私は彼女の左手に、そっと視線を落とす。
「そして、その美しい左手。今も、貴賓室のジャスミンの香りが、ほのかに残っていらっしゃいます。……手紙に封を押した、最後の証」
もう、言葉は必要なかった。
式典委員長は、張り詰めていた糸が切れたように、がくりと膝から崩れ落ちた。それは、激情の自白ではなく、プライドが砕け散った音だった。彼女は、自らの言葉で矛盾を認め、自らの嘘に絡め取られて、静かに敗北したのだ。
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衛兵が静かに委員長を連れていくと、ホールには呆然とした空気が残った。
私は、まだ舞台の隅で立ち尽くしているリリアンの元へ歩み寄る。彼女の小さな手は、氷のように冷たかった。
「大丈夫。もう、終わりましたから」
その手をそっと握ると、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「アリア様……!」
「あなたも、この茶番に巻き込まれた被害者です。何も気にする必要はありませんわ」
私の背後から、静かな声がかけられた。アラン王子だった。その瞳には、もう断罪の冷たさはない。
「見事だった、アリア」
「殿下こそ。あの袖の合図、わたくしに“時刻”のヒントをくださるためだったのでしょう?」
彼は小さく笑みを浮かべた。
「舞台を整えたのは君だ。私は、君が最後まで踊りきれると信じていただけだ」
その言葉は、どんな甘い愛の囁きよりも、私の心に温かく響いた。
ふと周りを見渡せば、先ほどまで私を悪役令嬢と罵っていた令嬢たちが、気まずそうに顔を伏せている。その小さな光景が、この事件の何よりの締めくくりに思えた。
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その時、カタン、と小さな音がした。
視線を向ければ、舞台の砂時計が、最後のひと粒を落としきって、静かに役目を終えていた。
しん、と静まり返ったホールに、誰からともなく拍手が起こる。それは一人、また一人と伝染し、やがて嵐のような喝采となって、私を包み込んだ。
私はその音を聞きながら、そっと呟く。
「三分あれば、嘘はほどける。——あとは、真実を置くだけ」
夜会の音楽が、再び優雅に流れ始めた。まるで、何もなかったかのように。
けれど、この舞台で何が起きたのかは、ここにいる誰もが決して忘れないだろう。




