伸次
前作のプラウドリーから少し後の時代です。2ストローク全盛の時代から、排ガス規制が厳しくなり、燃費効率や環境に配慮した4ストロークエンジンへと変遷していきました。そんな時代をイメージして書きました。
初夏のまだ薄暗い朝、新聞が配達される音がした。
門を開け、伸次は軽く柔軟体操を終え、イグニッションにキーを差し込む。
山までの30分ほどの距離を、寒さのせいで首を竦め、肩を上げて走った。その所為で、肩が凝り腰も少し痛い。
自動販売機で缶珈琲を飲んだ後、タイヤの暖気、路面の状態、エンジンの様子を確かめるために、ゆっくりと1ラップした。とは言っても100キロを越え速度警告灯が点滅する区間もある。
2時間ごとにバスがやって来る停留所がスタート地点で、牧場まで行ってUターンをして戻るのが1ラップである。始めの1.5キロぐらいは、高速コーナーで、あとは、中、低速コーナばかりで所々に短い直線が折り込まれている。
2ラップ目を終えて停留所まで下って来たとき、一夫が既に来ていた。伸次は、一夫にバイクを教わり、山につれて来られた。ライン取りの見本やちょっとした整備の仕方を、一から教えてもらった。そうこうする内にバイクにどんどんとのめり込んでいった。今では、伸次の方が一夫より速く、山でも5本の指に入る。とは言っても、ドングリの背比べで、それほど差があるわけではない。
「遅かったな」
伸次は、一夫の前でバイクを停めて言った。それには応えず一夫が、尋ねた。
「路面はどうだ。トリコロールのNSRは来てるのか」
「大丈夫だ。ユキはまだ見かけない。1ラップどうだ」
「ちょっと待て、珈琲が先だ」
伸次と一夫は、山に来ると、まず缶珈琲を飲み一服する。それが山での日課になっていて、他のライダー達もだいたい同じようにしている。ある意味、転倒しないための願掛けとも言える。
一夫は、ゆっくりとタバコに火をつけると、エンジンを掛けてタイヤに手をあてた。タイヤは、それほど温まっては、いなかったがハイグリップタイヤを履いているので問題ない。
タバコを空き缶の中に捨てた。ミラーに掛けられたヘルメットを被る。
「いくか」
「あぁ」
伸次は、頷くとUターンを決め、道路の左端をゆっくりと走り、一夫が追いつくまで速度を上げない。
停留所をスタートして、900メートル程の登りの直線を2速全回で走る。タコメーターは、1万1千を指す。そして緩い右コーナーをノーブレーキで一瞬だけバイクを傾ける。次の直線で再び、3速まで上げ、すかさず一段落としてフルブレーキングで左コーナーを抜ける。右、左、右、左とスラロームのようなコーナーをリズミカルに進んで行く。そこを抜けると、一番きついカーブナンバー25番のヘアピンカープへ差し掛かる。ここまでが高速コーナーである。伸次は、40キロまで速度を落とし、ハングオンで回る。バンクセンサーがこすれ、ゴムの解ける匂いがする。一夫は、伸次より僅かに速く、トリコロールカラーの泉のNSRより僅かに遅い。25番以降の低速、中速コーナーは、どのライダーも大差ない。つまり高速を速く走る者が、山を制するというわけだ。
1ラップを終えて二人が、スタート地点に戻って来たとき、2秒ほど差が付いていた。停留場付近には10数台のバイクが屯っている。その中にユキのKRがいた。ユキは伸次達を挑発するかのように、2度チャンバーから白煙を吐いてスタートして行った。すかさず一夫がUターンを決め後を追う。伸次もそれに続く。
右カーブを回った後の直線でのブレーキングで、一夫がユキに追いついた。伸次も一夫にしっかり付いてくる。
一夫が左高速コーナーでユキのイン側に潜り込む。ユキは一夫が明らかにオーバースピードだと思い、一瞬バイクを立ててフルブレーキングを掛ける。左高速カーブをリヤを滑らせながら、なんとか曲がり切った。次の右高速コーナに備えてバイクを起こそうとした瞬間、一夫の目の前に、一台の車が飛び込んで来た。一瞬の出来事。
対向車が右カーブを曲がりきれずに、センターラインを大きく越えてきたのだ。そして、一夫のバイクを下から掬うように衝突し、バイクが車のボンネットの上に乗り上げた。伸次の目の前は、飛び散ったラジエータ水とカウルの破片で辺りが一瞬、真っ白になる。遮二無二にフルブレーキを掛けバイクを停めた。
ユキは、対向車線を通り越し、ガードレール沿いに佇んでいた。伸次は、ユキの方へ駆け寄った。
二人で辺りを見回した時、一夫の赤いヘルメットが20メートルほど先に見える。頭部と胴体が異様に歪んでいる。左足が見当たらない。伸次は、”死んでいる”と思った。