白い牡丹が見ている
新型コロナウイルスがきっかけで「命」について考えることが増えました。数々の著名人の死。母親の心臓の手術。ショッキングなニュースに考えるきっかけがたくさんありました。考えることで特に答えを出すわけではありません。ずっと遠い存在だと思っていた「死」という存在が、急に身近に迫ってしまった以上、向き合うしかなかったのです。私は「生」と「死」に意識を向け、空想を広げました。そしてそれを物語として表現することにしました。私は自分にこう問いかけることから書き始めました。
「あなたの大切な人が明日死ぬとして、自分の寿命をその人に分けられるとした場合、どうしますか?分け与えますか?与えませんか?与えるのであれば、何年あげますか?」
自分が死ぬのは怖い、でも大切な人を失うのも怖い。それは当然のことです。この物語の主人公は、他者に自分の寿命を分け与えることができます。様々な理由で、主人公は特定の人に寿命を渡します。命の尊さに触れながら、同時に命という繊細すぎるものに苦しみます。
この物語を通じて、自分と大切な人の命や、これからの自分と大切な人たちの、人生の限られた時間について考えるきっかけになれば幸いです。。
どうかこの物語が、少しでもあなたの心に何か語りかけることができるのであれば本望です。
0.命を捧げる
嵐の夜だった。呼吸もしていない、泣き声も何も聞こえない沈黙の胎児が取り出された。母親は三浦郁美。予定日よりも数日早かったので、家族は誰も病院にいない。
「先生!やはり呼吸をしていません。すぐに別の治療室に移しましょう。」
医師はなるべく冷静を保ちながら独り言のように意識が朦朧とする郁美に話しかけた。
「現在母体もお子さんもとても危険な状態です。このままでは、母子ともにに命を落としてしまいます。お子さんは別の治療室へ移動します。全力を尽くしますが、私はまずは三浦さんの安全確保を優先します。」
郁美は力が入らず震えた手で医師の白衣の裾を掴んだ。
「先生・・・一瞬でいいから、我が子の手を握らせて・・お願い。」
医師は郁美が口を開いたことにギョッとしながらも、郁美に胎児の手を触れさせた。郁美は力を振り絞って小声で唱えた。
「命燃やして救うに後悔なし。汝に我の命、全てを渡したまえ。」
「三浦さん?今何て・・・」
よく聞き取れなかった医師が尋ねると、郁美の子どもを別部屋に連れて行こうとした看護師が声を荒げた。
「先生!新生児の呼吸が戻りました!」
すると子どもは生命力のみなぎる声で泣き始めた。
「なんと・・・よかったですね、三浦さ・・」
医師が振り返った時にはすでに郁美の呼吸と心臓は止まっていた。
「この一瞬で何が起こったんだ・・」
医師は頭を抱えてこう嘆き、呆然と胎児に視線を戻した。郁美の静かな死体に、胎児の大きな鳴き声と窓からの雨風の音が降り注いでいた。
1.亡き母からの伝言
「咲良ー!ガリガリ君買って帰ろう!」
「葵ってば。終礼が終わって走ってきたでしょう。」
「だってお腹空いたし、早く帰りたいんだもーん。」
三浦葵。高校2年生。三浦郁美の残した子だ。葵という名前は、父親が名付けたそうだ。心身ともに健康に育った葵は、成績も優秀で、大学は指定校推薦確実といわれるほどだった。葵には親友の咲良がいて、中学からの同級生である。高校に入ってクラスが別々になってしまったが、家が近いので部活がない日は毎日一緒に帰るのが日課だった。
「来週から進路指導が始まるんだって。葵は成績いいから、指定校推薦狙うんでしょ?いいなー。私は欠席が多いから、そもそも推薦なんて狙えないや。」
下校中、咲良は困り笑顔でそう切り出した。
「じゃあ咲良は行きたい学部あんの?」
「まあ、行きたいとこなんてないんだけどね。将来何になりたいかも分からない。葵は夢あるの?」
葵はガリガリ君をシャリシャリと噛みながら答えた。
「私は看護学部かな。看護師になりたい。お母さんが、私を産んだ時死んじゃったから、お母さんも子どもも、どっちも助けてあげられるスーパー看護師になるんだ!」
「医者じゃなくて?」
「うん、なんか幼少期から看護師さんに憧れてたんだよね。あと医学部の学費払うお金なんてないしさ。」
葵はニカっと白い歯を浮かべながら答えた。
「夢があっていいなぁ。私も考えてみなきゃなぁ。あ、じゃあ私ここでバス待つから。
明日ね!」
そう言って2人は別れた。葵の家は清澄白河にあり、高校から歩いてすぐだった。葵はガリガリ君を食べ終え、残った棒を持ちながら家へ入った。
「お父さん、ただいまー!」
部屋から何も音が聞こえてこない。父、ヒロシは外出しているようだった。「決めた進路のこと言いたかったのに、お父さんいないのかぁ。」と独り言をもらしながらソファに座ってテレビをつけた。たいして面白い番組もなく、録画した番組も全部見てしまったので退屈になり、ソファに寝そべった。
視線の先に、仏壇横の引き出しになにか白い紙のようなものが挟まっていた。葵はむくりと起き上がり、何も悪気もなくその紙を手に取った。それは、亡き母・郁美から父・ヒロシに当てた手紙だった。
「もしやラブレター?」
葵は少し恥ずかしくもなりながら興奮しながら便箋取り出して開いた。
「ヒロシさんへ。この手紙は、誰にも見られないように、隠しておいてください。私のこの能力ですが、もしかしたら生まれてくる子にも能力は受け継がれているかもしれません。私も母から受け継がれたものでした。私は、成人した際に母にこの能力のことを知らされましたが、我が子には知ってほしくないのです。あなたとの子どもだから、きっと、心優しい子で、自分の命を人に分けて自らを苦しませることになってしまうかもしれないからです。だから我が子には知らせないように育てていきましょう。でも、もし万が一、私が先に死んで、あなたと我が子に何かあったらと思い、能力のことをここに記しておきます。この能力は、とてもシンプルです。下記条件によって発動することができます。
一、対象となる人間の体の一部に触れていること
二、触れながら、『命燃やして救うに後悔なし。汝に我の命、XX(期間)を渡したまえ』と唱える
そうすることによって、自分の寿命を、自分で指定した分だけ、対象者に与えることができます。ただし、対象者は、人間に限ります。すでに死亡した人間には使えません。自分の寿命以上の期間を指定した場合、それは自分の全ての寿命を与えることを意図します。自分の寿命を知ることはできません。
お分かりのとおり、この能力には能力者へのリスクが非常に大きく、指定した年月によっては自らを死に至らしめる凶器となります。なのでこの能力は私の代で封印したいと思っています。家族円満に、心穏やかに暮らし、最後自然寿命を迎え、人生を終えましょう。これからの生活を心から楽しみにしています。郁美」
最後まで読んでしまった葵は、手が震えていた。
「なん・・なの・・・この能力って・・・私にもこんな能力があるの?」
手から力が抜け、便箋を床に落とした瞬間、帰宅したヒロシがリビングに入って声を荒げた。
「お前・・まさか!読んだのか?この手紙、全部読んだのか?!」
ヒロシは青ざめて葵に近づき、葵の両肩を揺さぶる。
「お父さん・・どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「この能力を知ったところで、何も変わらないだろう。いいか葵、この能力は生涯絶対に使わないと約束してくれ。これが郁美と私の願いだ。お前には郁美が残した寿命を・・・あ。」ヒロシは「しまった」と小声で嘆いた。葵は何か勘付いた顔で問い立てた。
「もしかして、お母さんが、この能力を私に使ったってこと?難産とは聞いていたけど、もしかしてお母さんは自分の命との引き換えに私のことを産んだの?」
ヒロシは汗を流しながら黙っていた。葵が催促をすると、やっと口を開いた。
「そうだ・・・だから母さんの命を、最後まで生きてやってくれ。」
ヒロシの肩は小刻みに震えていた。葵は今まで味わったことのない感情に見舞われたが、ぐっと拳を握って、相変わらずの大きな声で言った。
「お父さん!私看護師になるよ!特殊能力なんて使わなくても、スーパー看護師になって、スーパーお医者さんとタッグを組んで患者を救っちゃうんだから!!」
ヒロシは大きく目を見開いた。最初は驚いた表情だったが、徐々に表情がほぐれていった。
「それは素晴らしいことだね。ちなみに、父さんがなんで葵と名付けたか知っているか?葵という花は、太陽に向かって咲くんだそうだ。だから太陽に照らされながら、素直に、力強く育ってほしいと思ってつけたんだ。その通りに育ってくれたようで、私は誇らしいよ。」
ヒロシは笑顔でそう言った。葵は自分の名前の由来を初めて聞いて、少し恥ずかしくなって
こう茶化した。
「お父さん、お腹空いたー。今日の晩ご飯はなにー?」
「おお、もうこんな時間か。準備するから手伝ってくれ。」
「はーい!ご飯ご飯ー!」
2人は笑顔で台所へと向かっていった。
2.咲良の余命
葵は希望通り、指定校推薦で都内の大学の看護学部に合格し、進学した。大学でも相変わらず成績優秀で、教授に可愛がられていた。一方咲良は、高校3年生の秋頃から学校を休みがちになり、出席日数ギリギリだったが無事卒業し、都内の女子大の家政学部に進学したが、あまり大学へは行っていないようだった。咲良は体調を崩しがちになり、大学に進学してから月に1回会えるか会えないかのような感じだった。それでも咲良の体調が比較的良い日は、咲良の方から葵を遊びに誘うようになっていた。葵には彼氏もできた。同じ大学の同級生で、同じ写真サークルの彼氏で、名前は中村裕也といった。背はあまり高くないが、小顔で目がぱっちりとしており、性格もおっとりしているからか年上の先輩から人気だった。葵も負けておらず、サバサバした明るい性格と端正なスッキリとした顔立ちで大学に入学してから急にモテ出した。葵はサークルの先輩から何度か告白されたが、全て断っていった。そんな葵が裕也と付き合うきっかけになったのは咲良だった。たまたま葵と裕也が帰り道一緒に歩いているところを咲良が発見し、「お似合いカップルじゃん!」と2人の前で興奮しながら言ったのだ。その時は葵も裕也も恥ずかしくなって、「いや付き合ってないし!」と否定したが、そのことがきっかけで2人はお互いを意識するようになり、それが周りにも伝わったのか周りの冷やかしもあって付き合うことになったのだった。
大学3年生の5月、葵は裕也と写真を撮りに行くところだった。写真サークルに所属しているといえど、10人程度しかいない小さなサークルだ。それでも代表の菅田道雄は、フォトコンテストに入選するほどの実力者で、カメラ初心者の葵にも優しく教えてくれていた。
「そういえば葵はなんで写真サークルに入ったの?一眼触るのも初めてだったよね?」
葵と一緒に歩きながら裕也は前を向いたまま葵に話しかけた。
「うーん、花を撮りたくて。お父さんが花や植物が好きで小さい頃からお花がいっぱいのお庭で育ったんだ。だからお花の美しさを写真で表現したくて。」
「ふうん、特にどんな花がすきなの?ひまわりとか、薔薇とか・・」
「牡丹、かなぁ。白い色の牡丹。なんかぼてっとした大きな身をつけて力強く咲いている花が好きなんだよね。特に白い牡丹て本当に綺麗だよ。」
「へえ。」
裕也は愛おしそうに葵の方に視線を送った。普段しっかり者の葵が好きなものやことを話すときだけ無邪気な少女のようになるのが、ただただ可愛いと思っているようだった。
2人は新宿御苑へ向かい、薔薇園をそれぞれ思いのまま撮影し、芝生に寝そべった。5月、外で過ごすのがとても気持ち良い気候だった。葵は太陽の下で寝そべったり、食事をするのがこの上なく好きだった。2人並んで芝生に寝そべり、しばらくぼーっとしたのち、裕也の方に目を向けた。裕也は仰向けで目を閉じていた。風がふくと、長い前髪がさらっと横に流れて、高い鼻がより引き立った。葵はドキッとして急いで目を逸らし、手持ち無沙汰になったのかカメラを持ちだして、撮った写真を見ながら裕也に話しかけた。
「ねえみてよ、この薔薇!めっちゃきれいに撮れたっしょ。」
葵は目を輝かせながら裕也にカメラの画面を見せた。
「うーん、全体的にもうちょっと彩度を下げ・・いや、そんなことじゃないよな。綺麗だし、なんだか葵らしいよ。」
カメラに関しては裕也の方が知見があったが、それは2人とも分かりきっていたことだったので裕也は途中で言うのをやめて、ニコッと微笑んだ。裕也は普段ぱっちりした目が笑う時だけ細くなる。葵はその笑顔を見るのが好きだったし、葵のことをよく理解してくれてくれている大切な人であった。
「ねえ葵。」
「ん?」
「好きだよ。」
葵は心臓がキュッとした。
「どしたの急に。」
裕也は真剣な表情でこう言った。
「いなくなってからじゃ、好きと伝えられないからね。葵が俺の目の前にいてくれるうちは、好きって言いたくて。」
言い終わったときにはもういつもの笑顔に戻っていた。葵はまだドキドキが止まらなかった。裕也の真意はよく分からなかったが、あまり掘り下げる余裕もなく、「へへっ」と笑っておいた。
夕方日が暮れたので、2人は新宿御苑前駅から電車に乗った。乗り換えの大手町駅で乗り換えのとことで2人は別れた。1人になり、スマホに目をやると咲良からメッセージがきていた。
「今日、一瞬話せる?大丈夫なら清澄白河駅に向かうね。」
特に予定もなかったので、清澄白河駅で咲良と待ち合わせすることになった。咲良はいつもかわいい絵文字でいっぱいの文章を送ってくるのに、今日は絵文字は1つもなく、無機質な印象だった。それでも葵は「そんな時もあるか」と特に気にせず、好きな邦ロックを聴きながら半蔵門線に乗り換え、最寄り駅である清澄白河駅へ向かった。
駅の改札へ着くと、咲良が申し訳なさそうな笑顔でこちらに向かって手を振った。元々華奢であまり血色のない咲良だったが、今日は少し様子がおかしかった。
「咲良?この1ヶ月で随分と痩せたんじゃない?」
「葵・・・どうしよう。」
咲良はポロポロ涙を流し始めた。ちょうど通勤ラッシュの時間帯だったので仕事終わりの会社員たちが咲良のことをギョッとした顔で見つめている。
「とりあえず咲良、清澄公園のベンチで話そう。」
2人は無言で公園まで行き、ベンチへ腰を下ろした。犬の散歩をする人、キャッチボールやバスケットボールでドリブルをする少年がいて少し騒がしかったが、これくらいノイズがあった方が咲良は話しやすそうだった。
「葵、私、あと半年くらいしか生きられないんだって。」
「・・え?」
「白血病だって・・高校の時、休んじゃってたのもこの病気のせい・・」
葵は言葉を失った。ただただ虚弱体質で普通の人より体力がない人なのかと思い込んでいたことを全力で後悔した。それでよく看護師になるといったもんだ・・葵は思考がぐるぐる回って整理できないでいたが、咲良は肩を震わせながら続けた。
「日に日に体調が悪くなって、なんだか嫌な予感がしてたんだ。私、きっと良い状態じゃないんだって。分かってた。でも、病院に行くのが怖くって。大きな病気にかかってて、なんか大病を患ってて、絶望で生きる意味を失うくらいなら、自分も知らずに、誰にも知られずに、さっと死にたいなって。だから必死に健康診断もサボって逃げていたんだけど、親に無理やり連れて行かれちゃった。嫌な予感どおりになっちゃった。葵、おばあちゃんになっても、一緒にガリガリ君食べようって夢、叶えられないみたい。私、先に死ぬから。」
「どうして・・どうしてそんなことを言うの・・」
表情がこわばる葵に、咲良は涙を流しながら「ごめんね」と謝る。何をいっているんだ、辛いのは咲良の方だ。なのに、なんで咲良が謝るのか。葵は自分が情けなくて、血がにじむほど強く下唇を噛んだ。結局何も言えないまま咲良は「そろそろ行くね」と葵を残し、去っていた。今にも折れてしまいそうな足と、少しパサついた髪の毛を揺らしながら歩く咲良の後ろ姿を葵はぼーっと見ていた。
葵は家に帰ると、ベッドの上で寝そべった。虚無感を覚えながら天井を見ていた。一筋の涙が頬をつたった。さっき裕也が言った言葉を漠然と思い出しながらぼーっとしていた。
「生きてるうちに、好きと言いたい、か・・・。死んじゃったら、直接本人には言えなくなるからってこと・・?」
その時、葵の脳裏に、ふと郁美の特殊能力のことがよぎった。結構前のことだったが、今でも鮮明に覚えている。自分の寿命を、自分で指定しただけ相手に受け渡すことができる能力。葵はバッとベッドから起き上がった。
「発動の仕方は分かっている。お母さんの手紙に書いてことを唱えればいいんだ。私にもその能力が備わっていたのなら、もしかしたら咲良を救えるかもしれない。」
葵の目からは光が戻った。しかし、父親のヒロシと特殊能力は使わないと約束していたことも同時に思い出した。しかも、自分の寿命を削ることになるのだ。
「私があとどれくらい生きるのかも分からないし、寿命を受け渡すって、どれくらいあげたらいいんだ?余命あと半年ってことは・・うーん・・」
葵は夕食中も咲良と特殊能力のことを考えていた。ヒロシが葵に話しかけても上の空だった。ヒロシは変に思ったのか、声を荒げた。
「おい、葵!お前どうしたんだ?」
葵は意識を取り戻したような顔をして、「ごめん」と答えた。
「大学で何かあったのか?顔色あまり良くないぞ。」
「ううん、変わりないよ。なんか昨日あまり眠れなくてね。暑くなってくると、寝つきが悪くなっちゃうなー、なんて。」
目が泳いでおり、今回は声も裏返っていた。葵は嘘が下手である。それはヒロシもよくわかっていた。ヒロシは何か言いたげだったが、何もいわず、黙々と食事を進めた。葵は夕食後、裕也や他のクラスメイトとオンラインゲームで対戦をするのが日課だったが、今日は咲良のことで頭がいっぱいだった。
「私は咲良を少しでも救いたい。死んじゃダメだよ、咲良・・」
そんなことを念じ、気づいたら部屋の明かりもつけたまま眠りに落ちていた。
咲良はあれから近くの病院に入院しているようだった。弱っていくところを見せたくない咲良は、他の人からのお見舞いを断っていた。しかし葵は早く咲良と会いたかった。葵は、心に決めたのだ。咲良に、もっと長生きしてもらいたいから、自分に能力があるのであれば、それを咲良にだけ使うと決めていた。
「ねぇ咲良、明日会いにいってもいいかな。1回くらいお見舞い、いいでしょ?」
親ですらもお見舞いに来ないでと言っていると聞いていたので、葵も断られるのではないかとビクビクしていたが、親友である葵だからなのか、寿命が刻刻と迫っているのを自覚して人恋しくなったのか、「ありがとう」とすんなり受け入れた。
翌日、授業は3限だけで終わりだったのでまだ3時前だ。放課後サークルには顔を出さずに、咲良が入院するお茶の水にある大学病院へ急いだ。いざ大学病院を前にすると、足がすくむというか、少し緊張してしまう。町のお医者さんとは訳が違ったし、葵の通う大学よりもはるかに規模が大きかったので圧倒されていた。咲良の病棟は、正面入口から遠くて、途中迷いながら、やっと到着した。この角を曲がれば咲良の病室だ。葵はごくりと唾液を飲み、出来るだけ高い声で咲良のいる個室部屋へ入っていた。
「さっくら〜えへへ〜来ちゃった 。」
咲良はギョッとした顔をした。
「葵、どうしたのいつもと違くない?なんか様子が変だけど。」
葵はなるべく平常心を保ち、なるべく元気に振る舞うことで必死だった。
「えー普通だよー?そんなことより、立派な個室だねぇ。」
寿命を人に渡すことがあるなんて、考えたことすらなかった。お母さんからもらった自分の命が短くなること。咲良を助けたいこと。いろんな気持ちが複雑に絡み合って、葵は自分で自分のよく分からない感情を抑えるのに手一杯だった。咲良は、葵から何か悟ったのか、穏やかな笑顔でこう言った。
「葵。来てくれてありがとう。こうやって葵と会えるのは、あと何回なのかな。」
「咲良は、私にとってなくてはならない存在なんだよ。だから、生きてほしい。」
咲良の笑顔は一瞬にして涙顔に変わった。
「葵・・私、生きたい・・生きたいよ・・。葵ともっと楽しい時間を過ごしたい。行きたいところもいっぱいある。あの時に戻りたいよ。」
「うん、大丈夫、大丈夫だから。」
「でも、私死ぬんだよ?あと半年も経たずして。全然大丈夫じゃないよ。」
咲良は葵の手をギュッと握りしめて、大きな丸い目から大粒の涙を流して声を上げて泣いた。葵も咲良の手を握り返して、一緒に泣いた。
一体どれくらい泣いていたのだろう。気づいたら真っ赤な夕陽が窓から射し込んできた。咲良は泣き疲れたのか、すっと眠ってしまった。葵は思った。
「今だ。今しかない。」
葵は咲良の少しこけた頬に優しく手を置いた。
「命燃やして救うに後悔なし。汝に我の命、5年を渡したまえ。」
これで、成功したのだろうか。
咲良は変わった様子がなかった。一方葵自身も何も変わった感じはしなかったが、少し経つと一気に力が抜けて、咲良のベッドにもたれかかって一緒に寝てしまった。
葵がふと目を覚ました。「いかん、私が眠ってしまった」と急ながら顔を上げるとベッドに咲良がいない。
「咲良?!」
葵が叫ぶと、後ろから気配がした。
「葵、おはよん。」
後ろを振り替えると、咲良が真っ直ぐ立っていた。スッキリした面持ちで万遍の笑みを浮かべていた。
「なんか、葵が来てくれてからめちゃめちゃ身体が軽いんだけど。これが友情パワーってやつ?あーおなかすいたー!パンケーキか激辛ラーメン食べたいー!」
葵はいつもの元気な咲良を見て、涙を浮かべながら笑った。
「なにそれ、超極端!両方食べに行くしかない!」
咲良も少し目頭を熱くしながらこう言った。
「葵・・・来てくれてありがとう。」
咲良は葵の特殊能力のことは知らない。しかし、何かを悟った目で葵のことをまっすぐと見てお礼を言った。
「私は何もしていないよ。咲良が頑張ったから、咲良の身体も良くなったんだよ。元気になって、本当によかった。これからもずっと一緒だよ。早く退院して、咲良の大好きな葉山の海でも行こう。」
葵は咲良の手を取ってぎゅっと握りしめた。2人とも目には涙を浮かべて微笑み合った。
3.初めての患者
葵は成績優秀で看護学部を卒業、東京中央区にある大学病院から内定をもらい、就職した。4月に入社し、最初はオリエンテーションや院内研修が中心であったが、8月から実際に患者を受け持つことになった。そのうちの1人に、癌と闘う老人がいた。膵臓癌で治療を受けていたが、その後他の箇所にも癌が転移していることが発覚して闘病していた。その老人の名は、大原喜一郎。葵が大原さんを担当したのは、重度の癌の中、追い討ちをかけるように肺炎を引き起こしていた時のことだった。大原さんの肌は日に日に黄色く変色し、目にも黄疸が見受けられる。視点もあまり定まらないようだった。そんな大原さんが衰弱していく姿を見るのは一人間として苦しいものであったが、葵は仕事は仕事と割り切るようにしていた。
「大原さん、お身体拭きますね。」
葵が病室に入っていくと、今日は特に機嫌が悪いようだった。
「タイミングってもんがわからんのかい。わしは今昼寝をしようと思っていたんだ。それに、こんな小娘に身体なんて拭かれたくないわい。」
「まあそんなこと言わずに・・」
葵は困り顔ながらも笑顔を浮かべながらなるべく眈々と仕事をこなしていた。喜一郎は自分の父親・ヒロシに少しだけ似ていたが、特に喜一郎に対して、特別な感情はなかったし、複数いる患者の1人にしかすぎなかった。
ある日、喜一郎の家族が院長に呼び出され、何か話をしているようだった。その後、深刻な面持ちで家族がロビーの椅子に腰掛けていた。特に何も話をせず、茫然と座っているようだった。葵は気になったので、先輩看護師である美由紀に「何があったのでしょう?」と聞いた。
「大原さんのことよ。院長から手術の提案をしたみたい。腫瘍を取り除く手術をすることで少し良くなるかもしれないって。でも、成功の可能性は高くないんですって。体力も落ちているし、最近は意識も薄くなってきているでしょう?だから、手術するかしないか、本人と家族で話し合ってくださいって、伝えたみたい。」
「成功の可能性が高くないって・・・上手くいかなかったらどうなるのです?」
葵は心配そうな面持ちで聞いた。
「新人にはそんなことまで答えなきゃいけないの?容態が悪化するか、もっと悪くなってしまうかもしれない。あ、ナースコールが入ったわ。三浦さんも仕事に戻って。」
美由紀はそう言ってナースステーションをそそくさと出て行った。葵は大原さんのいる病室に行くのが少し億劫になった。大原さんの苦しむ姿を見たくなかったし、家族の茫然した姿も見ているのが辛かった。葵が大原さんの病室の前を通りかかった時、大原さんが家族と話し合っているのが耳に入った。大原さんの娘と思われる女性2人と、どちらかの娘の旦那さんであろう男性1人が病室にいた。
「わしは手術なんて受けたくない。しかももう終末医療の段階なんだろ?もうこんな苦しい思いしたくないし、そもそも手術にも莫大な費用がかかる。そんな金あったら孫に残してやってくれ。」
「お父さん、どうしてそんなこというの?お父さんの身体が少しでも良くなるのであれば私はその可能性を信じたい。お父さんの命はお金に変えられないんだよ?手術、受けてほしいよ・・」
娘・由紀と由香は大原さんの手をぎゅっと握って目に涙を浮かべた。
「ふん。何度言ってもわしの考えは変わらんぞ。そもそも手術して成功しなかったら、それこそ金の無駄だし、わしの寿命も短くなるだけだわい。こんなんじゃ成仏できんわ。」
今日の大原さんはやけに饒舌だった。普段堅物であまり言葉数も多くない大原さんが、今日はやたらと娘さんたちに食ってかかっている。葵はなんだかそれが大原さんの本心じゃないように思って、バレない程度に首を傾げた。
長い議論の末、意気消沈しながら娘たちは帰っていった。葵が点滴を取り替えに大原さんの病室に入ると、大原さんはぼーっと天井を見て考え事をしているようだった。
「何かありましたか?」
「なんでもないわい。」
「優しい娘さんたちでしたね。素敵な娘さん2人もいて、幸せですね。」
「だからこそな、これ以上心配かけたくないのだよ。」
「どういうことです?」
「わしはもう長くない。それは娘たちも分かっているはずだ。だからな、たとえ手術が成功したとてしも、わしはあとどれくらい生きられる?たいして長くないだろう。それに手術は金がかかるし、わしが長く生きたって、毎日病院に来てもらう負担を娘には背負わせたくないのだよ・・・死んだ嫁もいるからな、早く楽になって会いに行ってやらんと・・」
大原さんは心の葛藤をそのまま素直に言葉に出しているようだった。
「大原さん、ご娘さんたちは、大原さんに1日でも長く生きてほしいと思っているはずです。お金の心配とか、手術がどうなるかなんて、そんなこと考えていないんじゃないかと思いました。あとは、大原さんご自身が、どうしたいのかじゃないですか?あ、言いすぎました。すみません。」
葵は焦って口を無理矢理閉じた。大原さんはしばらく黙って声を唸らせた。
「ふん、出しゃばりおって。小娘に何がわかる。」
葵は患者に対して自分の個人的な意見を伝えてしまったことをひどく反省した。葵は看護師という職業についている。患者の治療に対して患者自身に口出しなんてしてはいけないし、ましては家族に加担なんてご法度だ。葵は研修で学んだばかりのことができていなくて自分を責めていた。でもなぜか、大原さんには手術を受けてほしかった。少しでも長く生きてほしかったのだ。なぜそこまで強く思うのかは、葵本人にもよくわからなかった。
10月。朝晩冷え込む日が増えてきた。葵がいつも通り、採血をしに大原さんの病室に行くと、呼吸を苦しそうにしてうずくまっている大原さんがいた。
「大原さん!大丈夫ですか!今先生を呼びますから!」
大原さんは葵の腕を引っ張ってこう言った。
「最期に・・娘たちに、会いたい・・本当はもっと生きたい。娘たちとの時間を・・少しでもいいから・・・」
その腕はとても黄色く変色し、骨と皮だけの華奢な腕だった。葵は涙ぐんでこう言った。
「はい・・娘さんにも連絡します。」
葵はすぐに由紀と由香に電話をした。由紀は職場がすぐ近くなのですぐに病院に行くと言っていた。
「心拍数が著しく低下している!このままでは・・」
院長が声を荒げた。葵は、大原さんが危篤だとすぐに分かった。大原さんは呼吸をするのがやっとで、目もほぼ開いておらず、言葉も話せない。葵は、どうしても最期に娘2人に立ち会ってほしかった。なんなら、手術もして最善を尽くしてほしかった。でも、もう間に合わないかもしれない・・・
葵は大原さんのベッドの後ろに回り込み、爪先を軽く触れた。
「命燃やして救うに後悔なし。汝に我の命、1ヶ月を渡したまえ。」
大原さん、生きて、頑張って・・!葵はギュッと目をつむって唱えた。
「おや、呼吸が戻ってきたぞ。脈も正常だ!なんということだ。」
院長は目を見開いて声を張った。その時ちょうど、由紀が病室に到着した。
「お父さん!!!」
叫びながら大原さんに近付くと、大原さんは一瞬驚いた表情で硬直したが、その後すぐに親指を立ててグッドサインを出して、ニカっと笑ってこう言った。
「わしはまだ死なないからな。」
由紀は泣きながら大原さんの手をギュッと握って笑った。
「もー!心配したんだからね!良かった・・」
その時の大原さんの表情はとても晴れやかで、少しばかり黄疸も薄くなったように見えた。
「これで寿命が1ヶ月伸びたんだ。もしかしたらこの1ヶ月以内に、手術をして成功したら、大原さんはもっと長く生きられるかもしれない。」
葵は希望に満ち溢れた表情でこう考えていた。
「この状況で持ち直すのは、ご本人の生きたいという意思表明だったんでしょう。」
院長は家族に向かって少し安堵した表情でこう言った。
「もう、お父さんたら。先生、本当にありがとうございます。」
「いえいえ、僕は何もしていませんよ。大原さんの生命力に他なりません。」
やがて由香も病院に到着して3人は楽しそうに病室でおしゃべりを楽しんでいた。葵はその光景がとても愛おしく思えた。「最期を娘2人に見送ってほしい」という要望に応えるために1ヶ月の寿命を受け渡したが、大原さんならもっともっと長く生きるのではないか、葵はそう思った。
「三浦ちゃん、わし、手術を受けるんだ。1週間後。」
大原さんは、身体を拭きに来た葵に突然話しかけた。あれから大原さんはとても元気で、機嫌も良いようだった。葵のことを「三浦ちゃん」と呼ぶようにもなっていたのを葵は嬉しく思っていた。
「受けるって決めたのですね!きっと娘さんたちも喜んでると思います。」
「こうなったら1秒でも長く、人生全うしようと思ってな。この前は一瞬三途の川を見たもんだから、生きてるってことがこんなに素晴らしいとは思わなかったよ。ありがとう。三浦ちゃん。いつもご苦労様な。」
「そんな・・」
葵は涙が出てしまってグズっとしたら大原さんはガハハと笑った。
「泣いたらあかんよ、仕事中だろ?これだから新米は。」
「もう、分かってます。」
葵はプイッとした演技をしながらも内心とても温かい気持ちで溢れていた。看護師の仕事は自分に合っているのだと心から思った。
しかし1ヶ月後、大原さんは息を引き取った。葵が1ヶ月命を伸ばしてからちょうど1ヶ月後だった。手術は成功したし、術後の経過も良好だったのに、急に容体が急変。誰もいない時に大原さんはぷつんと最期を迎えてしまった。最初に発見したのは、先輩看護師の美由紀だった。
「先生、大原さんが!」
その一声で葵はドクッとした。足が震えた。唇も震えた。手もうまく動かせなかった。まさかと思って病室を恐る恐るのぞくと、そこには院長と美由紀がいた。美由紀も大原さんの突然の死に驚いたらしく、足が少しだけ震えていた。
「お亡くなりの報告をします。至急ご家族へ連絡してください。」
その後、由紀と由香は息を切らしながら病室に向かった。
「なんでなの。昨日まで元気だったじゃない!こんなの嘘でしょう!」
2人は大原さんにしがみついてわっと泣いた。
葵もいたたまれなくなり、その場を退いた。頭の中で思考がぐるぐる回って追いつかない。
「1ヶ月の延命って、本当に1ヶ月しか生きられないってことなの?私が1ヶ月って言ったから、ちょうど1ヶ月後に死んだの?それとも偶然だったの?何が起きたの・・」
少し過呼吸になっていた葵を美由紀が見つけ、仮眠室で横になるよう指示を出した。葵の呼吸が落ち着いた時には、大原さんの遺体はすでに病院の霊安室に運ばれていた。死因は、心不全とさせた。葵はこっそりと霊安室に入り、大原さんの顔を覗き込んだ。ただ眠っているようだった。1ヶ月前の危篤のときよりははるかに状態は良いし、今にも目を開いて「三浦ちゃん!」って言いそうな表情をしていた。葵は3分ほどぼーっと遺体の前に立ちすくんだ。
葵が病室に戻ると、由紀と由香が葵の方に駆け寄ってきた。
「父を担当してくれていた三浦さんですよね?いつも父は三浦さんの話をしてました。三浦ちゃんがね、って、とても楽しそうに。日々成長していく三浦さんを見守りながら応援してみたいです。三浦さんの存在が、父の生きる活力となっていたんだと思います。今回は突然の事態で父の最期に立ち会うことはできなかったことは残念ですが、三浦さんには、感謝しています。」
由紀は涙ぐみながらも、葵に対して深く頭を下げた。葵も目頭を熱くさせていった。
「とんでもないです。私なんてまだ未熟者で、大原さんには毎日ご迷惑をおかけするばかりで・・・なにもしていないです、本当に。でも、本当にお悔やみ申し上げます。」
葵は話しながら涙がポロポロと流れてしまった。患者の前、しかも遺族の前で泣くなんて、看護師失格だ。葵は感情を抑えようとすればするほど涙がこぼれてしまってどうしようもなかった。
「父のことで泣いてくれる人がいるなんて、父も幸せよ・・」
うすく微笑み合いながら泣いている3人を美由紀は傍から見ており、呆れながらため息をついた。
「まったく、三浦さんは患者に対して感情が入りすぎ。ね?先生だってそう思うでしょう?」
「そうだね。でも初めて担当した患者だったから、今回は大目にみてあげようよ。僕も研修医の時に人の死に立ち会った時、自責の念でかなり落ち込んだよ。うーん、でも、今回の件は妙だったな。」
「妙というと・・?」
「手術は成功したし、死亡する当日の直前まで容体は安定していたんだ。なぜ急死したのか説明しがたい。そもそも、1ヶ月前、なぜ何もしていないのに突然持ち直したのかも不可解なんだよな。」
「確かに、黄疸も引いていきましたしね。」
「こんな事例今までになった。人間の身体というのは、科学だけでは説明がつかないこともあるんだなぁ。ははは。」
葵は業務を終え、家に戻った。夜はもう11時を回っていた。葵は疲れ果てて玄関の前に倒れ込んだ。どこかの漫画で、玄関の前で寝てしまう描写に対して「そんなことあるかい」と思っていたが、今になってその人物の気持ちが分かる。家に入った瞬間、安心するのか急に力が抜けてしまいリビングまで辿り着けないのである。ただ、玄関は冷えていたので暖房をつけてリビングのソファに仰向けになった。葵はあれから大原さんのことをずっと考えていた。
「とっさに1ヶ月って言っちゃったけど、例えば1年でも良かったんじゃないか?長ければ長いほど、家族も喜んだと思うし、なんで私は1ヶ月にしたんだろう。咲良には、5年渡したのに。咲良にも、もっと渡せばよかった?いや、でも自分の寿命があと何年あるかわからないし、自分の命を引き換えにというわけにはいかない。そもそも、大原さんに寿命を渡さない方が良かったのではないか?だって、1ヶ月前の時はギリギリ由紀さんが病室にいたし、あのまま息を引き取っていたらその後誰にも気づかれずに死ぬことなんてなかったじゃないか・・」
葵はなんだか目が回ってきた。腕時計を見ると、もう夜の2時を回っていた。明日の朝も早い。
「お風呂入って寝なきゃ・・」
葵はフラフラしながら洗面所へ向かっていった。
4.隣人のSOS
年も明けて3月になった。少しずつ日も伸び始め、日中は暖かい日が続いた。葵も看護師になってから1年近くたち、やっと仕事に慣れてきたところだった。収入も安定してきたので、病院の近くにある中央区の1Kマンションに一人暮らしを始めた。家賃9万円にしては狭い部屋だったが、病院までタクシーで10分足らずで行けるし、実家の清澄白河にも電車で10分のところなので満足していた。周りからは「シティガール」なんて呼ばれていたが、葵の一番の目的は本当に疲れた時に、家にいち早く帰れる場所が必要だったのである。多忙の日々が続いていたためか、最近ひどく疲れやすかったので移動時間に費やすよりはその分睡眠を取りたかったし、家で横たわりながら好きなバンドの音楽も聞きたかった。葵の住むマンションは単身者が多いものの、2LDKの部屋もあり、夫婦2人暮らしや、子どものいる3人家族など様々な人がいた。葵の隣の部屋も2LDKの部屋で、40代くらいの夫婦が住んでいた。ご夫人の名は、有馬澄子。手足が細く長く、スラっとしていて、鼻筋もスッと通った美しい夫人だった。一見クールに見えるが、話し方はゆっくりで、少しおっとりとした一面もあった。いつもタイトなワンピースにヒールのパンプスを履いていて、マンション内では一際目立つ存在だった。隣人ということもあって葵とはよくエレベーターが一緒になることも多く、葵を見かけると澄子さんの方から話しかけてくれた。澄子さんはとても優しい聡明な人だったので、葵は澄子さんのことを憧れの存在として慕っていた。
葵は、仕事帰りにスーパーでお弁当を買って帰るのが日課だった。ヘトヘトになって帰るので、さすがに帰ってから料理をする気にはならなかった。キッチンのコンロは物置きと化してるし、グリルは引き出し代わりになっていてガラクタが詰まっているのは誰にも言えない。父親も頻繁に料理をする人ではなかったので、スーパーで惣菜や弁当を買うのが葵にとって当たり前となっていた。今日もお弁当を買って帰ることにした。マンションのオートロックを開けると、エレベーター待ちの澄子さんの姿があった。澄子さんは葵にすぐに気がついた。
「あら葵ちゃん、こんばんは。お仕事お疲れ様ね。」
「こんばんは。ありがとうございます。澄子さんも、こんな時間にお帰りですか?」
「今日は旦那が出張で帰ってこないから、お友達と遊びに行っちゃったの。そしたらこんな時間。あ、旦那には内緒よ。」
澄子は無邪気に微笑んだ。葵は旦那さんと会ったことがなかった。最近出張が多いようで、旦那さんがいない日は澄子さんは少し上機嫌なように見えた。
葵は部屋に入るなり、いつものようにお弁当を温めながらテレビをつけた。バラエティ番組をつけているが内容は全く頭に入ってこない。葵はぼーっとしながらレンジの前でお弁当が温まるのを待っていた。その時、スマホがなった。裕也からのメッセージだった。
「最近忙しそうだけど、元気してる?週末空いてたら買い物にでもいこうぜ。」
葵は忙しさのあまり最近メッセージの数も減っていた。大学生の頃は毎日のように会っていたのに、そういえば2週間も会えていなかったことに気づいた。葵は少し焦って返信をした。
「空いてる!土曜日ならちょうど休みだからお買い物行きたい!」
「やったー!じゃあ、土曜日にな!」
1分も経たないうちに裕也から返信が来た。あまりの返信の速さに葵はクスッと笑った。
翌日の夜、澄子さんがら葵の部屋を訪ねてきた。澄子さんが来たのは初めてだった。
「葵ちゃん、こんばんは。突然ごめんなさいね。カレー作ったのだけど、作りすぎちゃったから、食べてくれる?」
澄子はカレーを大きなタッパーに入れて差し出した。ざっと見ても4人前くらいありそうな量だった。
「え、こんなに。いいんですか?」
「うん、うち2人家族なのにカレーはいつも作りすぎちゃうのよね。良かったら食べてね。」
澄子さんの言葉には少し力がないような感じがしたが、葵はカレーに気を取られてあまり気にしなかった。
2日後も、澄子さんは葵の部屋にやってきた。葵はドアをあけるなりギョッとした。澄子さんの目の下には、色濃いクマがあり、鎖骨下にはアザのようなものがあった。
「澄子さん、大丈夫ですか?そのアザ・・」
「あっ。これはね、ちょっと階段踏み外しちゃって。ドジよねぇ、私ってば。ねえ、そんなことより、今日も切り干し大根作りすぎちゃったからもらってくれないかしら。」
「そんな・・先日もカレーいただいたばかりですし。申し訳ないです。」
「カレー、美味しくなかった?」
「いえ、とても美味しかったです。ですが・・」
「それなら、これも食べてみて。お口に合うかわからないけど」
澄子さんは切り干し大根の入ったタッパーをぐいと葵の手に押し付けて出ていった。葵は不自然には思ったが、澄子さんはいつも高いピンヒールを履いているし、確かに階段から転んで鎖骨にぶつかったらあのようなアザができるのも想像できたため、あまり気にしなかった。
その翌日、金曜日の夜だった。今日もインターフォンがなり、見ると澄子さんだった。ドアを開けるといつもとは全く違った澄子さんがいた。
「葵ちゃん、いつも押し付けがましくてごめんね。今日は、ポテトサラダを作ったの。食べてくれる?」
澄子さんの顔は殴られたように膨れ上がり、唇を真っ青に腫らしていた。
「どうしたんですか!澄子さん!!!」
「あ、、ほんとに、なんもないのよ。この前階段から転んだって言ったでしょ?その傷が腫れちゃったのと、最近転びがちでね。でも、食事は作れるし、なんなら作りすぎちゃうくらい、元気だから。」
「澄子さん、いつもお食事をくださるのはありがたいのですが、いただいてばかりも申し訳ないですし、私も自分の食事くらいは、自分で用意できますので・・」
「いいじゃない!いつもスーパーで買ってるのでしょう?だったらもらってよ!」
そう言い放って、澄子さんはそそくさと帰って行った。明らかに転んだとは思える感じではなかった。なにか人から殴られたような…目もなんだか焦点が定まっていないような感じだった。葵はさすがに不審に思ったが、澄子さんはあまりにも「なにもない」と言い張るので、警察を呼んだりして事を荒らげるのもしないほうが良いと思い、何もできないでいた。
「ねえ裕也、最近隣の部屋の奥さんがおかずを持ってきてくれるの。」
「なにそれ、最高じゃん!葵料理しないし、ありがたいじゃん。」
「それはそうなんだけど・・最近様子が変なんだ。クマとかすごいし、なんかアザだらけで。でも本人は転んだだけの一点張りなの。」
「それとおかずを持ってきてくれるのは何か関係があるのかな。」
「わからない。でもすごい量のおかずをくれるの。それも今週だけで3回も。もらってばかりも申し訳ないし、奥さんのことも何だか心配で・・」
買い物を一通り済ませた葵と裕也はカフェでひと休みしていたところだった。裕也はコーヒーをすすって少し沈黙して、口を開いた。
「でもさ、みんなそれぞれ事情があるんだからあまり深追いしない方がいいんじゃないか?
他にアザがつくような行動をどこかで見たわけじゃないんだろ?」
「うん。そうだけど・・」
「じゃあ本当にどこかで転んだだけかもよ。少し様子見たらいいんじゃないかな。」
裕也は隣にいた葵ではなく、真っ直ぐ前を見て答えた。葵は裕也の横顔を見ながら「ありがとう」とだけ言った。その時飲んだキャラメルラテは何だか苦くて、葵は全部飲みきれず店を後にした。
「それよりさぁ、スニーカーってなんでいくつあっても満足しないんだろうな!ロマンが詰まってるよなぁ。」
裕也は自分が買ったスニーカーの入った袋を見ながら目を輝かせて言った。裕也はいろんな物の収集癖がある。スニーカーもそうだし、カメラやレンズ、あと謎のスキンケアグッズも家にぎっしりとあった。好きなものに関しては少年のように真っ直ぐな裕也が、葵は好きだったし、愛おしかった。裕也に話してよかった。気になることは自分だけでため込まず、人に話すことって大事だ。葵はそう思うと、少しずつ肩の力が抜けてくのが分かった。
自体が明らかになったのは、裕也と会った土曜日の翌日夜22時頃のことだった。
「お前、俺をバカにしてんのか!」
男性の罵声が澄子さんの部屋から聞こえてきた。その後バッドのようなもので澄子さんを殴るような音が鈍く響き渡った。
「この男性は旦那さん?やっぱり、アザは転んだんじゃない、旦那さんからのDVだったんだ!」
気を動転させた葵は、靴下のまま部屋を飛び出し、隣の澄子さんの部屋のインターフォンを押した。
ピンポーン・・・
音が響き渡ると同時に怒鳴り声はやんだが、インターフォンの応答はない。
「澄子さん!葵です!今日は、私からおすそわけ持ってきました!!!開けてください!!」葵は震えながら、大きな声を上げ、ドンドンとドアを叩いた。
ガチャ。
澄子さんはドアを開けた。涙を浮かべていた。唇が擦り切れたようで、血が滲んでいた。澄子さんは、不格好な笑顔で言う。
「あら、葵ちゃん。葵ちゃんからおすそわけなんて。嬉しいわぁ。」
「澄子さん……だいじょ…」
葵の震える声を遮るように、旦那と思われる大柄の男も出てきた。
「もう夜遅いんだよ、大きな声を出さないでくれるか?・・おや、君が葵ちゃんか。いつも澄子から聞いてるよ。看護師のお仕事頑張ってるんだって?すごく思いやりがあって良い子だから、応援したいんだって、澄子がいつも言ってるよ。いつも澄子がお世話になってるねぇ。」
男は、いかにも人が良さそうな佇まいで、ニッコリとして優しく話しかけた。葵には逆にそれがとても不気味に見えた。
「あ・・大きな声を出してすみません。部屋から怒鳴り声が聞こえたもので。どうされたのかと思いまして・・」
葵は声を震わせた。男はくっくっくと笑った。
「怒鳴り声?ああ、今澄子と一緒にアクション映画を観ていてね。その音が漏れてしまったようだね。すまない。音には気をつけるよ。さあ、今日はもう遅いから、これで失礼させていただくよ。あ、おすそわけ、持っていないようだけど?」
「あ・・明日、また来ます。」
男は無気味な笑みを浮かべてから真顔なった瞬間にドアを強引に閉めた。閉める瞬間、澄子の瞼から涙が光っていたのが見えた。
「警察に連絡しようか・・まずは、明日澄子さんと2人で話そう。」
葵は悩んだ末そう決心し、翌日澄子さんの部屋を訪ねた。昼間にはさすがに男はいないだろうと思ってインターホンを鳴らすと、男が応答した。
「おや、葵ちゃんじゃないか。どうしたんだい、こんな真昼間に。」
「澄子さんと、話がしたいのです。」
男は一瞬黙ったが、その後ニヤリとして答えた。
「澄子なら、今寝ているよ。あまり体調がよくないようでね。しばらくそっとしてやってくれないか。」
葵は悔しかったが、従うしかなかった。ここで揉み合いになってもこの大男には勝てるわけないし、明らかに葵が不利な状況なのは葵も自覚していた。葵はその日の夜、裕也を家に呼んだ。もし夜また不審な音がしたら裕也と一緒に乗り込む作戦だった。しかし、その日は何も起こらなかった。
「葵の気にしすぎじゃないか?もうあの2人は夫婦生活も長いんだろう?特にお金にも苦労しているわけじゃなさそうだし、今更暴力なんて考えづらくないか?しかも、あんな綺麗な奥さんでさー。」
裕也は他人事のようにベラベラ喋り出した。葵は裕也の発言が無責任な気がしたし、同時に澄子さんのことを女性として褒めていたことが少し気に入らなかった。
「お?もしかして嫉妬してるの?」
「ち・・違うもん!」
「葵は可愛いなぁ。ほら、こっちおいで。」
「もう。」
完全に裕也のペースに持っていかれるのである。でも確かに、気にしすぎなのかもしれない、葵は自分にそう言い聞かせ、裕也と一緒に狭いシングルベッドで眠りについた。
あの日以来、男の罵声や殴る音は一切聞こえてこなくなった。
「私の聞き間違いだったのか。いや、そんなことない。確かに澄子さんの部屋からだった。映画の音じゃなくて、澄子さんの声に聞こえた・・」
葵はモヤモヤとした感情が残っていた。いずれにせよ、なんとかして澄子さんから事情を聞きたかった。しかし、あれから澄子さんとは一回も会っていない。インターフォンを鳴らしても誰も出ないことが何度かあった。たまに澄子さんの家から生活音が聞こえていたのに、最近は何も音がしない。もしかしたら、2人は隣の部屋にいないのかもしれない・・それくらい静かだった。
それから1週間が経った。葵がスーパーでハンバーグ弁当を買って家路につくと、澄子さんがいた。澄子さんはタートルネックの長袖リブニットに、スキニージーンズを履いていて肌を全く見せていなかったが、表情は少し明るかった。
「澄子さん!お久しぶりです。」
「あら、葵ちゃん。ご無沙汰ね。今日もお仕事お疲れ様ね。」
葵はすぐにでもこの前のことを根掘り葉掘り聞きたかったが、聞くに聞けなかった。
「いえ・・澄子さん、最近お会いしてなかったですがお元気でしたか。」
「ちょっとね、旦那と旅行に行ったのよ。妙高の方に。有名な旅館があってね。毎年この時期に行ってるのよ。」
澄子さんは葵と目を合わせずに言った。
「よろしければ今度晩ご飯一緒に食べませんか。」
葵は考える間もなく言葉にしていた。余計なお誘いなのは分かっていた。でも澄子さんのことが気になっていたし、もしかしたらこの前のこと話してくれるかもしれない、と思った故の誘いだった。しかし澄子さんは表情を曇らせた。
「晩ご飯はね、旦那と2人で食べるって決まってるのよ。ごめんなさいね。また機会があれば、ぜひ。ではこれで失礼するわね。」
澄子さんは家と反対方向へと歩き出した。葵はそそくさと歩く澄子さんの後ろ姿を眺めていた。元々細身だったが、更に痩せてスキニージーンズも少しだけゆるくなっているような感じがした。
5月某日。外で食事をするのに気持ちが良い季節になった。今日は特に予定があるわけでは無かったが、洗濯物も溜まっていたし、最近掃除も出来ていなかったので、有給を取って家事をしながらゆっくり過ごすことにしていた。葵の住む12階建てのマンションには屋上があり、暖かくなったら屋上でランチしようと葵は待ち焦がれていた。今日は幸いにも爽やかな晴天の日だったので、葵は珍しく自分でサンドイッチを作ることにした。サンドイッチ用のパンを購入し、ハムとチーズ、チョコレートチューブなど好きに買って、葵特製のサンドイッチを作った。可愛いうさぎ柄のお弁当箱に入れ、足を弾ませながら屋上に向かった。屋上のドアを開けると、爽やかな風が舞い込んできた。
「んんー、気持ち良い!」
葵は声に出して風を浴び、どこに腰掛けようか屋上を見渡すと、右奥の角に澄子さんの姿があった。澄子さんは、柵に登って下を見つめていた。
「澄子さん!!!!飛び降りちゃだめ!!!」
葵は咄嗟に叫んだ。
「あら、葵ちゃん。ごめんねぇ。こんなところ見られたくなかった。おすそわけ、食べてくれて嬉しかった。それだけでいい・・それだけで・・・」
澄子さんはそのあと何か小声で言いながら、笑顔と涙を浮かべ、飛び降りようとしていた。
「澄子さん!!!」
葵は全速力で澄子さんの元に駆け寄った。
「待てよ、もしかしたら、特殊能力を使えば澄子さんは死なないかもしれない。1日でも伸ばして、澄子さんの心が変われば、自殺を未然に防いで、澄子さんはもっと生きれるかもしれない!!!間に合え!!!」
葵はなんとか澄子さんの足に触れ、即座に唱えた。同時に澄子さんは飛び降りた。
「命燃やして救うに後悔なし。汝に我の命、1日を渡したまえ。」
……
間に合った・・のか?恐る恐る、屋上から地面を見下ろした。すると、澄子さんはキョトンとした顔で地面にペタンと座り込んでいる。葵は「やった!」と心の中で叫び、すぐにエレベーターに乗り、澄子さんのところに駆けつけた。
「澄子さん!大丈夫でしたか?!」
しかし澄子さんは、肩を震わせて、瞳孔を大きく開いてこう言った。
「なんで・・なんで・・なんで死んでないのよ、私!」
「え・・?」
「ねぇ・・なんで、死ねないの?!12階から飛び降りたのよ?!なんで私生きてるの!!?」
澄子さんはまるで人格が変わったように叫び出した。通行人がこちらをジロジロと見ている。葵は驚いて言葉が何も出てこなかった。人は死ぬ直前、やっぱり死にたくないって後悔するものだと、なにかのの本で読んだことがあった。でも、澄子さんは違ったようだ。顔を真っ赤にしながら、コンクリートに拳をガンガンと打ち付け「生」を全力で否定してる。「なんで・・なんで・・」と手の甲に爪を食い込ませながら、血を流しながら我を失っているようだった。
「葵ちゃん、私に何かした?」
ふと澄子さんはじろりと葵のことを睨んだ。
「・・しておりません。」
葵は俯きながら答えた。澄子は再び視線を床に落とし、叫んだ。
「もう私の近くにこないで!私に関わらないで!邪魔なのよ!」
澄子さんの一言で、葵はいても立ってもいられなくなり、駆け出して離れていった。葵はひたすらに悲しかった。同時に、自分への怒りが込み上げて来た。自分の良心に従って、良かれと思ってやったことが裏目に出てしまったのだ。
翌日、澄子さんは再び同じ場所から飛び降りて、死んだ。
「1日の延命で、気を改めて、もっと長く生きてくれるかもしれない。」
そんな都合の良い考えなど、しなければよかった。むしろ、1日伸ばしたせいで、澄子さんには、2回命を絶つ行為をさせてしまった。2度も、本当に辛い行為をさせてしまった。そもそも、澄子さんにアザができた時から、警察を呼んで、早期解決すればこうならなかったのかもしれない。澄子さんを無理やり連れ出して真相を確かめたら、澄子さんを死にたいなんて考えに至らせなかったもしれない。私は、何をしているのだろう。私のこんな特殊能力で、どう人を救えるというのだろう。
葵は死にきれなかった澄子さんと同じように手の甲を爪で掻きむしって、血が流れるのを呆然と見ていた。
5.少年を救いたい
8月。うだるような暑さが続く日々だった。葵は救命救急科に異動になった。救命救急は他の病棟よりも迅速さが必要とされる一方で、何も手を尽くせない場合も大いにあった。救急車で運ばれど、病院に到着した時には死亡、というケースがここ数日相次ぎ、葵は緊張感のある毎日を過ごしていた。救命救急科に異動になってから夜勤が続き、土日も出勤が多く、裕也とはすれ違いが続き、別れた。それでも葵は別れを引きずる余裕もなく、ただひたすら仕事に打ちひしがれていた。
9月某日。熱中症患者が減り始めた時のこと。ある少年が救命救急病棟に運ばれて来た。
「心肺停止!意識不明。すぐに集中治療室へ!!」
救命救急医の荒げた声にすぐさま反応し、少年へと駆け寄った葵は、少年を見るなり言葉を失った。少年には、顔が、なかった。すなわち、顔面が潰れてしまっていて、顔を構成する要素が崩壊しており、どこが目で、どこが鼻かも判断つかない状態の重傷だった。
「トラックに跳ねられた後、バイクに顔面を引かれたんだって・・」
「むごいわぁ・・」
他の看護師が他人事のように話しており、葵はその言葉がうっとうしくて仕方なかった。
葵が集中治療室まで走っている運んでる最中に他の看護師が叫んだ。
「先生!もうご家族の方が到着されました。」
葵はギョッとした。幸にも不幸にも、少年の母親は、すぐ近くの薬局で薬剤師をしている人だった。
「こんな変わり果てた姿を見せるのは気の毒だろうに・・」
「会わせずにもう集中治療室に入ったということにしたらどうかしら。」
看護師がまたヒソヒソと話し始めた。やけに他人行儀な他の看護師たちに苛立ちながらも、確かに母親が今の息子の姿を見たら失神してしまうほどだろうと葵も思った。それに、この少年の助かる可能性は低い。この子の姿に絶望し、この子の死にさらに絶望することになる・・。葵は再び少年の顔を見た。何度見てももう顔と認識できるような状態ではなかった。
「酷すぎる。この子になんの罪はないのに・・。どうか、助かってください!」
葵が心の中で叫びながら集中治療室の目の前までついたところで1人の女性の叫び声が聞こえた。
「和也!和也は無事なのですか!!」
100mくらい先にいたが、少年の母親だとすぐに分かった。母親が涙を含ませながら少年の方に駆け寄った。
「ああ・・・だめ。みちゃだめ・・ああ・・神様・・・」
葵はまぶたを思い切り強く閉じ、少年の足首にそっと手を添えた。
「我の寿命を与えるのに後悔せん。この少年に寿命を1年与えよ。」
葵はどうしても母親に今の少年の姿を見られたくなかった。気がついた時にはもう唱えていた。
・・・・・
「ちょ、見てくれ!!!顔が!!!?」
担架の上の少年の顔がふわーっと、回復していく様に医師と看護師は思わず目を見開いた。ただれた肌は修復を始め、陥没した鼻は少しだけもとに戻っていった。心肺停止だった少年は、少しずつ、呼吸を吹き返し、心臓も弱くではあるが脈を打ち始めた。
「何が起こってるのですか・・?」
「わからない・・何だこれは・・」
集中治療室の入り口の前で茫然としてる医師と看護師に母親が少年にたどり着く。
「先生!!!和也は、和也は無事なのですか!!」
「え、あ、はい。先ほどまで心肺停止していたのですが、なんとか持ち直してくれたようです。」
「良かった・・・」
「とはいえまだ呼吸も血圧も弱いので予断は許されません。多数骨折もしています。これから、集中治療室に入りますので、お待ち下さい。」
「分かりました。でも、生きててよかった。神様、和也が無事でありますように。」
「お母様、和也くんは、まだ生きることができます。」
葵は少年の母親に近づき、こう話していた。葵は言った後「何を言っているんだ私は」と顔をしからめ、さっと母親のもとを去った。突然葵が近寄ってそんなことを言うものだから母親は困惑した表情を浮かべて立ちすくみながらこう言った。
「・・ありがとう。よろしくお願いします。」
葵の言葉通り、少年の手術は成功した。しばらくは車椅子だが、今のところすぐに命に関わる状態ではないようだった。長時間にわたる手術中、母親はずっと病院で寝ずに待っていたようで、クマを浮かべていたが、一命を取り留めたことを耳にして、ぱっと明るい表情に戻った。
「ありがとうございます。先生と、あの看護師さんのおかげだわ・・。ありがとうございます・・・」
少年の母親は葵に目配せをして医師の前で頭を深々と下げた。
その夜、夜勤の看護師の中で少年の件が噂になっていた。中でも救命救急科の看護師長の西川茜は葵を疑っていた。
「ねぇ、明らかに変だったわよね?」
「突然少年の顔が回復し出したんでしょ?何、怪奇現象?」
看護師たちが怪訝な顔でコソコソと話していたところ、口を開いたのは葵の先輩看護師で
、一番近い存在の美由紀だった。
「私、三浦さんが後ろを向いてブツブツ言い出したのを聞いたんです。寿命がどうだとか、なんか唱えるような感じでした・・」
すると西川茜は何かを思い出したようにやや興奮気味で言った。
「そういえばさ、順久堂病院に入院していた白血病の子いたじゃない?私、前そこに勤めていて、当時あの子の担当やってたのよ。あの子、三浦さんの親友だったんだって。余命最長半年で、どんどん体重も落ちてて、1人で歩けないくらい悪化した時があったんだけど三浦さんがお見舞いに来た日、あの子ピンピンしだしたって。」
美由紀は恐る恐るこう聞いた。
「その時三浦さんなんか唱えてましたか・・?」
「そこまでは分からない。覚えていない。当時は友情パワーだねなんて言って終わってたけど、どう考えてもおかしかった。三浦さん、何か人の命を左右できる何かがあるんじゃないの?」
それを聞いて美由紀と同い年の副看護師長が笑いながら言った。
「やだ、そんなこと出来たら人間じゃないわよ。そんなファンタジーあるわけないでしょ。」
「いや、でも、なんかある気がするのよね・・明らかにおかしいし。」
この晩は患者からのコールも少なく、ナースステーションはこの話題で打ち切りだった。葵はその日休みだったので、疑われ始めていることなど知る由もなかった。
5ヶ月後、無事少年は退院日を迎えた。しばらくは車椅子生活だが、意識ははっきりとしているし、しばらくは自宅療養の許可が降りたのだ。朝10時に母親が息子の和也を迎えに来た。病室には葵もいた。母親は少し考えてから葵の顔をじっと見た。
「三浦さん、でしたよね?」
「え、はい。この度はご退院おめでとうございます。」
「集中治療室に入った後に、息子のこと、助かるって励ましてくれたの三浦さんでしたよね。病院から電話来た時は、正直もうダメだと思ったんだけど、あなたの一言に救われたわ。今日息子が無事退院できるなんて。最後まで諦めないことって大事ね。どうもありがとう。」
母親は深々と頭を下げて、葵にお礼を言って少年と一緒に帰って行った。葵は、少年とその家族がまた元の生活に戻れることを切に願っていたし、少年の母親から心からのお礼をされ、嬉しかった。何よりも母親にあの息子の顔面は見せられなかったし、母親の方が先にショック死してしまいそうだったので、勢いで1年延命したのだった。なぜ1年と言ったのかは覚えていない。1年もあれば顔面の傷はここまで酷くならないだろうと経験上、咄嗟に判断したのかもしれない。
2月。今年は暖冬で、東京に雪はまだ降っていない。暖冬と言っても夜勤のときの出社は寒くてきついし、夜勤明けの早朝も、葵は身体を冷やしながら帰っていた。そんな中葵が退勤したあと、ナースステーションではあの話題が再び挙がっていた。
「三浦さんの件なんだけど。」
看護師長の西川茜が副看護師長の岡本直子に対して持ちかけた。
「あなたまだ気にしてんの?」
直子はこの話題をすっかりと忘れていたようで、呆れながら答えた。西川茜はムッとしながら続けた。
「見てよこの記事。」
差し出したのは古いオカルト系雑誌だった。
「何このオカルト雑誌!あんたそんな趣味あったっけ?そもそもこれかなり古い雑誌じゃない。どこから見つけて来たのよ。」
岡本直子は気味悪そうに答えた。
「まぁこの記事見てみてって。」
それは、葵の母親・郁美の記事だった。
「タイトルが、瀕死の新生児に余命を全部与える、って?何これ。」
「お腹の中の子、お産の際にはほぼ死んでいたんだって。そしたら、母親が、何かぶつぶつと唱えたんだって。」
「唱えたって?」
「何て唱えたかは明確に書いていないんだけど、余命を全部あげる、みたいなことを言っていたみたいよ。」
「でも、それが三浦さんとなんの関係があるの?」
「この母親の名前見てよ。」
「三浦郁美・・え、三浦さんのお母さんってこと?」
「だと思う。三浦さん、お母さんいないって言ってたし。それでね、私、この三浦家について調べてみたら、先祖代々自分の寿命を分け与える特殊能力がある家系らしい。」
「ちょっと待って。私には、何がなんだか・・」
「ようは、三浦さんが自分の寿命をいくらかあの少年にあげたのよ。じゃないとあんなふうに顔面が見る見る回復なんてしていかないもの。これをあの子の能力以外どう説明つくっていうの?きっと白血病のお友達も三浦さんが延命したとしか思えない。全部、繋がるの・・」
「あんた、よくそこまで調べたね。これは・・すごいことになった・・・」
6.迷いと葛藤
「おはようございます。」
葵がいつもの様に出勤すると、明らかに周囲の様子がおかしい。誰も葵と目を合わせようとしないし、ヒソヒソ話がそこらじゅうから聞こえる。葵は何が起きているのかまだ分からなかった。
「三浦さん、おはよう。ちょっといい?」
先輩の美由紀が分が悪そうに葵に話しかけた。
「なんかいつもと様子が違くないですか?なんかありました?昨晩幽霊でも出たとか。」
葵は良い状況じゃないのは分かっている反面、重い空気が嫌だったので冗談を交えて言ったが、それに対して美由紀は少しイラッとした表情で言った。
「この前の交通事故の少年を、助けたのって三浦さんなの?」
葵は一瞬背筋が凍ったが、なるべく冷静を装って答えた。
「なんのことです?私はただ、運ばれてきたときそばに居ただけですけど。」
「だってあんな状態で運ばれてきて、誰もが絶対に助からないと確信してたじゃん。なのに、突然姿かたちも留めてない顔面が、回復して・・あんなの普通じゃありえないよ!」
美由紀は感情的に声を荒げた。葵はやっと状況が理解できた。どうやら私の特殊能力について気づかれてしまったようだと容易に分かった。ここで変に否定しても疑われ続け、周囲からも変な目で見られるだけだと思った。
「私だって、最初は助からないと思いましたよ。思ったけど、でも、あんな状態を家族がみたら、どう思うか考えると、つらくて・・」
「つらくて?それで?三浦さんがなんかしたの?何か呪文のようなものを唱えるとか?!それであの子を回復させたの?!」
美由紀は目を真っ赤にさせて葵のことを刺すように見ている。なぜ呪文のことまで知っているのか、美由紀さんおよびこの病院の人々はどこまで知っているのかは分からない。でも、葵が何かを唱えて患者を延命させたというところまでは知られているらしい。
「呪文って・・・なんのことでしょう・・」
「私、聞こえたのよ。あの少年に対して、何かぶつぶつ言ってたわよね?全て辻褄が合うのよ。どういうことは説明して!」
問い詰められた葵は言葉に詰まった。特殊能力のことを話してしまったら、認めてしまったらもうこの病院にはいられないだろう。葵はどうしたらいいか分からずその場から走って逃げ出した。
「ちょっと!三浦さん?!」
葵は全力で院内の階段を駆け上がり、息を荒らげながら屋上まで行き着いた。美由紀が追いかけてくるかも知れない。葵は思考がぐちゃぐちゃになりながら屋上でうずくまっていた。「どうか誰も来ないでください。1人にしてください。」
葵はしゃがみこんで顔を伏せながら心の中でこう祈っていた。祈った甲斐あってか10分経過しても誰も屋上には来なかった。葵は一息ついた。
「逃げて来ちゃったものの、どうやって戻ろうか。もう帰ってしまおうか・・」
しばらく悩んでいたが、いかんせん葵の現場は救命救急科。人数はパツパツなため、帰るわけにはいかなかった。葵はなるべく平然を装いながら現場に戻った。相変わらず噂話が聞こえる。視線が痛い。まだ看護師たちは興奮しているようで、いろんな言葉が飛び交い混沌とした空気がずっと流れていた。それを見た院長が、葵を呼び出した。
「今日はもう帰りなさい。数日もすれば、状況は落ち着くから。また後日、説明してくれればいいから。帰って休んでて大丈夫。」
この言葉を待っていた。葵は表情が一気に緩んだ。
「ありがとうございます・・ご迷惑おかけしますがお先に失礼いたします。」
葵はそそくさと現場を後にした。まだ心臓がドキドキしている。葵は、気を紛らわせようと、バッグからスマホを取り出した。何かゲームアプリでも開こうとしたが、メールやソーシャルメディアで数え切れないほどのメッセージの通知が画面をいっぱいにしていた。葵は無気味に思いながらも通知の内容を見ると、葵は言葉を失った。
「え・・・?」
メッセージの内容は、葵の想像を遥かに超えていた。
「医師から余命3ヶ月と告げられました。命を分けていただけますか。」
「祖父が危篤なんです。一刻も争うほどです。今すぐに、一日でもいいので葵さんの命をください。」
「産まれてくる予定の我が子が息をしていません。助けていただけますか。たとえ数日でも、元気に泣く我が子を見たいんです。お願いします。」
「11年間大切に育ててきた愛犬に腫瘍が見つかりました。私の命の糧なんです。どうか、お恵みをお願いします。」
・・・・
このような「命を分けてください」と嘆願されるメッセージに、スクロールが追いつかない。葵は顔面を蒼白された。それだけではない。拡散されればされるほど、悪意のあるメッセージも比例して増えていった。
「交通事故の少年の件、知りました。どうして救われる命と救われない命があるんですか。不平等じゃないですか。」
「あなたは、命に優先順位をつけている悪魔ですね。」
「利己的に延命を施して、あなたは何がしたいのですか。」
「一周回って人殺し。」
葵は足がすくんで、立てなくなっていた。膝がカタカタと震える。身体に力が入らない。きっとネットニュースとかになっているのだろう。ネット拡散の速さは音速のようだった。葵は指を震わせながら通知オフの設定をして、メッセージの通知を遮断したが、アイコンに通知件数が表示され、瞬く間に増えているのが見えた。葵はスマホの電源をオフにして、家に帰るなりベッドの中に潜り込んだ。
翌日、一睡もできなかった葵がフラフラしながら出勤すると、病院前には取材班が相次いでやってきた。気づけば病院前は車でいっぱいになっていた。パシャパシャと鳴るフラッシュの音と光でその場は埋め尽くされた。
「三浦葵さんの能力の真相を教えてくれますか!」
「超能力で少年を救ったって本当ですか?」
「生死を彷徨う人がごまんといるなかで、どうして少年だけを助けたのですか?他に助けた人はいるんですか?」
目を輝かせながら、記者たちはまくし立てるように問いかけている。院長は困り顔で、記者たちへ引き取るようお願いしている。葵は呆然と、病院から少し離れた場所で立ちすくんでいた。衝動的に助けたいと思って使用した特殊能力。誰にも気づかれやしないと思っていたが、それがこんな自体を引き起こすなんて、葵は夢にも思わなかった。そんな時、「人殺し」というメッセージが葵の頭の中に浮上して来た。
「人殺し・・私が?人命を差別しているって・・私はただ、この人に生きてほしいと強く思っただけなのに・・私は、どうすればよかったの・・」
気づいたら葵は気を失っており、病院のベッドで汗だくになりながら目を開いた。目の前には院長の姿があった。院長は眉毛をへの字にしながら哀れんだ顔で葵を見つめてこう言った。
「大変だったね、三浦さん。君はまだ若いのに、抱えるものが大きすぎた。」
葵の目からは一筋の涙が流れ落ちていた。院長の言葉が心に強く刺さった。
「数々の命を救ってきて、また、数々の命の終わりを見てきた院長なら、理解してくれるんだ・・」
葵はそう思い、院長になら本当のことを話してもいいと思った。いや、むしろ話してしまって楽になりたいと思った。院長は少し目から表情を消しながら続けた。
「三浦さん、君に特殊能力が本当にあるのかは分からない。でも、この前の交通事故の少年の命を伸ばしたのは三浦さんなんでしょう?」
「・・はい。」
「やっぱりそうなのか。君のお母さんのことも、当時立ち会った医師から聞いたよ。知り合いでさ。これでやっと繋がった。本当に、大変だったね。自分の命を人に捧げるなんて、普通、できないよ。三浦さんは心の優しい看護師だね。もう、この能力は、使わなくていいよ。いいんだけど…」
やけに流暢に話し続けた院長が突然どもった。葵はやや違和感を覚えた。
「三浦さんの特殊能力のことは、メディアも含め、誰にも言わない。疑われた少年のことも、僕が治療して治ったということにする。噂話をする病院関係者には僕からキツく注意するよ。」
葵は安堵の表情で「ありがとうございます」と伝えた。
「ただ、1つだけ、最後にお願いがある。聞いてくれるかい。」
院長は下を向きながら、強い視線で目だけ葵に向けた。
「お願いですか・・?」
葵は恐る恐る聞くと、院長は唇を少し震えさせながら言った。
「3日後、今までで最も困難な手術があるんだ。成功率は極めて低い。だがその分、成功したら大きな実績になる。僕は、なんとしてでも、実績が欲しい。成功したことにさせてでも・・」
「・・・」
葵はすぐに院長の意図を理解した。葵の特殊能力を院長は望んでいるんだ。葵の目からは、光が消えていった。
「三浦さん、お願いだ。君の寿命をくれないか。1年だけでいい。1年もあれば、術後も容態が安定する。お互いwin-winだろう。協力してくれるかい。」
返す言葉がない。ここで断ったら、きっと情報は漏洩され、私はこの場所から追放されるだそう。ただでさえ自分が原因で院長にも病院にも迷惑がかかっているのだ。院長からしたら、特殊能力を使わない葵などもう邪魔者でしかないのだろう。葵が下を向いていると、院長は急かすように言った。
「あの少年にも1年くらい与えたんだろう?君はまだ若い。まだ寿命は長いだろう。それとも私の患者には1年も寿命を与えられないというのか?知らない少年には寿命をあげられるのに?もしや私の功績に泥を塗るというのか?」
「・・ちょっと、帰って考えたいです・・」
葵が小動物のようにあまりにも震えるのでさすがの院長もぎょっとして眉をひそめた。
「すまない。ぜひ、前向きな意見を待っている。明日、出勤した時に答えを聞かせてくれ。」
院長は分が悪そうに、視線を逸らして長い前髪をかき上げながら言った。
翌日、葵は病院に出勤しなかった。布団から出られない。震えが止まらない。スマホの電源はオフにしたのに、通知音が頭から離れない。無限になりやまない通知音。助けを求める人からのメッセージ。誹謗中傷。人殺しというメッセージ。脳裏に焼き付いて離れない。
「お母さん・・私、どうしたらいい・・」
葵は布団から1歩も出ずに、3日間過ごした。3日間も無断欠勤している。それでも葵は病院に行く気になれなかったし、申し訳ないという気持ちよりも怖いという気持ちが上回っていた。しかし、3日間、さすがに何も食べないと身の危険を感じたのか、布団からのっそり重たい体を上げた。今日は、院長の手術の日だ。今頃、困難な手術をしているのだろう。それまでに何百件という着信がきていたのだろう。スマホを1回も見ていないし、そもそも電源を切ってるから知ったこっちゃないけれど。ぼーっとベッドの上で天井を眺めていると、インターフォンが鳴り響き、ビクッとする。インターフォンの電源を切り忘れたことを後悔し、電源を切りにモニターを恐る恐る覗くと、父・ヒロシの姿があった。
「お、お父さん?!」
ヒロシは近くに住んでいるものの、仕事が忙しくて会うのは正月くらいだった。葵は急いでドアを開けた。
「お前、住民票、実家のままやろ。」
久しぶりに会った第一声はこれかい、とも思ったが、心配してきてくれたのだろう。
「あ。そうだった。まぁ近いし、わざわざ住民票移すのもめんどいなーって思って。」
「俺の家に毎日いろんな人が押しかけて、お前のこと好きなように言われて、撒くのが大変だったんだぞ。」
「あ・・」
まさか実家まで特定されて、こんな自体になってるとは思わなかった。住民票は病院に提出していたので、きっと誰かがバラしたのだろう。いずれにせよ、自分のせいでお父さんにまで迷惑をかけてまい、葵はうろたえた。
「ごめんなさい。お父さん・・」
精神が不安定だからか、葵はヒロシの前で号泣してしまった。ヒロシも目に涙を溜めていた。
「辛かったろう。お前は、昔から、自分を犠牲にしてでも人を助けたいと本気で思ってた子どもだったからな。真面目で、優しすぎるんだよな。もう看護師なんて務まらんだろう。もっと自分を大事にせい。」
ヒロシは葵の肩に両手を置いた。葵は、幼少期以来初めて父親の胸で泣いた。泣き止むまで、ヒロシは葵の頭を撫でてくれた。
「お母さんもいなくて、苦労ばっかかけたな。でも、お前は立派に成長して、俺は父親として誇りに思ってるよ。」
葵は暫くしゃっくりをしながらしくしく泣いていたが、やっと泣き止むと、ヒロシは鞄から一通の手紙を取り出した。
「そういえばな、手紙、届いてたぞ。誹謗中傷だったら渡さないつもりだったから開けて読んでしまった。すまない。たしか、この前の、葵が助けたと話題になった少年の母親じゃないか?」
「きっと助けたなんて思われてないよ・・むしろネットニュースにでもされて迷惑としか思ってないよ・・」
「まぁ読んでみたらいい。」
葵は息を呑みながら既に封が開いてある封筒から便箋を取り出して読み始めた。
「看護師の三浦さんへーこの度は、息子の和也の件でご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。私は、和也の母親です。三浦さんに、御礼とお詫びをしたくお手紙を書きました。住所は、院長先生から聞いてしまいました。勝手にご自宅に送り付けてごめんなさい。息子が事故にあった時、助かる可能性は低いから覚悟しておけと気を動転させた旦那から連絡がありました。姿を見てショックを受けないでくれ、行くなら覚悟して行くように、と言われました。正直恐怖よりも息子が心配ですぐに病院に向かいました。幸いにもすぐ近くの病院でしたので、集中治療室に運ばれる直前に息子に会うことができました。私は、覚悟していました。息子がどんな姿になっていようと、ちゃんと最期まで母親でいたいと思っていました。しかし、病院に着くと、この上ない恐怖で足がすくんでしまいました。恥ずかしいですね。それでも生きている息子を最後一目見ようと、目を細めながら覗き込みました。確かに重傷ではありましたが、すぐに息子と特定できるほどの状態でした。医師さんと看護師さんが目を丸くして動揺していたお姿が今も忘れられません。奇跡です、そう言われて息子はなんとか退院することができました。それからすぐにこの奇跡は、三浦さんが起こしてくれたことだと耳にしました。最初は何が起きていたのか、よく分かりませんでした。ですが、退院する時に三浦さんに挨拶した時の三浦さんのお顔を拝見するに、やはり三浦さんが助けてくれたのだと、今では確信しています。息子は半身不随で動くことはできませんが、頑張って生きようとしています。笑ってもくれます。自分の寿命を犠牲にして、見ず知らずの子どもを守ろうとしてくれた三浦さん。こんなことは到底できるものではありません。三浦さんの優しさ、慈悲深さに心打たれます。なんて素敵な人なのか。本当にありがとう。にも関わらず、このような事態になってしまいました。和也がきっかけなのですよね。心配で病院に問い合わせたところ、三浦さんはもう何日も出勤されてないと聞きました。結果、三浦さんを追い詰めることになってしまい申し訳ありません。ですが、私は何が起きても三浦さんの味方です。三浦さんは人生で一番の恩人です。最愛の息子を助けてくれてありがとう。生きさせてくれてありがとう。一日でも、長く和也といれることに、幸せを噛み締めています。三浦さんに、心から感謝します。私が言うのも失礼ですが、三浦さん、どうか、三浦さんご自身のことも大切になさってください。三浦さんは、私と和也にとっても大切な存在なのですから。三浦さん、どうかお元気で。そして本当にありがとうございます。たくさんの愛をこめて。加賀屋里香」
読み終わる頃には、便箋が涙でふやけてしまうほどになっていた。インクはもうすでに滲んでいる。
「ほら、言ったろ。お前は人を救ったんだ。もっと自分の行いに誇りを持ちなさい。」
「お父さん・・私、うっ、うう・・」
葵は言葉を話せないほど声を上げて泣いた。
「もう、無理しなさんな。お前は十分頑張った。もう能力を使わないで済む環境で暮らして、少し休みなさい。大事な娘に、もう辛い思いをさせたくないから。」
父親は葵を強く抱きしめて、一緒に涙した。
7.リスタート
あの騒動は、テレビなどマスメディアに取り上げられることはなかった。ネットでは大きく拡散したものの、炎が消化されるのも速かった。科学的根拠がなかったし、決定的な証拠も掴めなかったのでテレビでは取り扱える内容ではなかったのかもしれない。それに、葵の母親のことも、嘘かマコトか分からないネタを集めたエンタメオカルト雑誌だったので、説得性はなかったようだ。なので葵の特殊能力を知る人は病院関係者と、ネットニュース関連を目にした人に限られた。それでも葵の心には深い傷が残っていた。あの騒動から1ヶ月が経ったが、まだ誹謗中傷の言葉や院長の言葉が頭の中で何度も再生されるし、少なくとも絶対にあの病院には戻りたくなかった。葵は病院に退職届を提出し、逃げるように病院を退職した。その後すぐに奈良県桜井市に移住することに決めた。神々が宿る山、三輪山が近くにあり、葵にとって、心清らかになる気分になる町だった。葵のアパートは桜井駅から徒歩20分くらいの家賃4万円の部屋だった。狭くて古かったが、ここはなんのしがらみもなく、心地よかった。ちなみになぜ桜井市に決めたかというと、知り合いが誰もいない場所が良かったということと、もともと神社やお寺など神聖な場所が好きだったのでここに決めたのだった。葵は看護師時代の貯金を切り崩し、足りない分は三輪駅の近くにあるカフェでアルバイトをしながら暮らしていた。経済的には決して余裕はなかったけれども、この町には葵の過去を知る者はいない。葵にとって、まさに第二の人生のスタートだった。
ある日、いつものようにカフェへバイトに行くと、男性が1人、座ってコーヒーを飲みながら読書をしていた。近くでは見かけない男性だった。また、この辺りではあまりいないタイプのファッションに葵は目を引いた。その男性は、おそらく身長は180cmくらいで、まくったシャツから見える腕の筋肉を見る限り、結構鍛えているような体型だった。髪の毛は染めていないようだがうっすら茶色で、少しうねりがあった。前髪は長く重く、目にかかるくらいで、時折目にかかった前髪を手でどけていた。この時間帯の客はその男性1人だったので、葵は見て見ぬふりをしながらそっと男性を観察していた。その時、男性は「すみません」と声をかけた。
「コーヒーおかわりお願いします。ブラックで。」
駆けつけた葵をまっすぐ見つめた。その瞳はとても色浅くて、透けたような色だった。水晶のように何でも透けてお見通しのように見えて、葵は赤面してそそくさとキッチンに向かった。コーヒーのおかわりを持ってくると、男性はにっこりと微笑んでこう言った。
「新人さんなの?」
まさか話しかけてくると思わなかったので葵はどもりながら答えた。
「あ、はい。最近引っ越してきたんです。東京から。」
「東京?!僕もだよ。出身は奈良だけど、新卒で東京。で、また奈良」
「え、私もです!いつから奈良に戻ってきたのですか?」
「半年くらい前かな。会社の転勤でね。本社が京都だから仕方ないよね。でも僕は奈良が好きだからこの辺りに住んでるんだ。」
葵は驚いた。東京出身の人に会ったことにも驚いたけれども、何よりもこんなに話しやすい人がいることに驚いていた。考えてみれば、同じくらいの年齢の男性とちゃんと話したのはすごく久しぶりな気がする。葵はなんだか浮かれ気分になった。
「じゃあまた明日ね。」
男性はコーヒーのおかわりを飲み干すとお代をテーブルに置くなりそう言って帰っていった。葵はその夜、家に帰っても彼のことで頭がいっぱいだった。どうして彼のことをこんなに気になっているのかはわからない。同じ東京出身だからかもしれない。優しく声かけてくれたからかもしれない。外見が葵好みだったかもしれない・・
「やだ、もう。1回しか会っていないお客さんのことをそんな目で見るなんて!」
葵は家で独り言を漏らして眠りについた。
翌日葵は浮き足立たせながら出勤した。すでに男性は昨日と同じ席にいた。葵に気づくと、男性は葵に微笑んだ。
「おはよう。朝から行動的な日曜日は気分がいいね。」
今日はタブレットでニュースを読んでいるようだった。
「名前なんていうの?」
男性は、エプロンを巻いてホールに出てきた葵に聞いた。
「あ、葵です。三浦葵。」
「葵ちゃんね。僕は、タカシ。大垣タカシ。よろしく。」
葵とのやりとりをキッチンで聞いていた店長の芳美がちょっかいを出した。
「タカシくん、もしかして葵ちゃんナンパしてるんか?」
するとタカシは満面の笑みを浮かべて答えた。
「はい。今日シフト終わったらランチに誘うつもりですが、いいですよね?芳美おばさん。」
「こら!おばさんて呼ぶなっていったやんか!葵ちゃん、嫌だったら断ってもいいんだからね?」
葵は2人のやりとりに葵は思わず声を上げて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだった。タカシは葵の方を見つめていた。葵の回答を待っている表情だった。
「いいですよ。今日は、13時に終わります。」
「やった、じゃあ13時まで待ってるよ。」
「4時間もいるなら、コーヒー3杯くらい飲んでくれないと割りに合わないよ!」
店長の芳美は嬉しそうにおちょくった。店長もタカシのことを気に入ってるようだった。
葵のシフト勤務が終わり、2人は一緒に店を後にした。桜井駅まで一緒に移動して、タカシのおすすめだというイタリアンレストランに入った。
「ここの生パスタおすすめなんだよね。好きなだけ食べて。」
タカシは葵の目をしっかりと見て微笑んだ。このタカシの笑みに葵は弱かった。水晶のような透けてる瞳に、くっしゃっとした笑顔。この笑顔を見るだけでなんでも話してしまえそうだった。食事を一通り楽しんだ後、2人は少し散歩することにした。タカシは隣で歩く葵を覗き込んで聞いた。
「どうして奈良に引っ越したの?葵ちゃんも転勤?」
「いや、私は、元々看護師をしてまして・・」
「・・・聞いてごめん。俺、知ってるよ。元看護師だったこと。」
「え?」
「半年ちょっと前だよね。ネットで話題になったの。あれって葵ちゃんだよね。写真が出ていて覚えていたんだ。でもこんな場所にいるはずないって、勘違いかと思ってたんだけど、話せば話すほどその看護師像と繋がっていったんだ。ごめんね、気を悪くしたかな。」
葵は少し怖くなった。もしかしたらまた傷つけられるかもしれない。葵は今までの辛かった記憶が蘇ってきて、震えていた。逃げ出したい気持ちになった。
「あ、私ちょっと、もう帰らないと・・」
恐る恐るタカシの顔を見上げるとタカシは瞳を涙でいっぱいにしていた。
「タカシさん?!」
「ごめん・・・泣きたいのは葵ちゃんだよね。ニュースを見たとき、このニュースが真実ならば、こんなに素晴らしい人がこの世にいるんだって感動したんだ。自分の命を削ってでも、人に希望を持たせたいって、なかなか思えないよ。でも、君は傷ついているようだね。一番辛いのは葵ちゃんの方なのにね。ごめんね・・・」
タカシは涙を袖で拭って、唇を震わせながら無理に微笑もうとした。でもうまく笑えなくて、泣き顔に戻ろうとしていた。葵は驚きのあまり、涙が止まった。同時に、タカシのことを愛おしくて仕方なく思った。葵は無意識にタカシに抱きついてこう言った。タカシも葵の背中に手を置いて抱きしめ返した。
「私たち、昨日会ったばかりなのに、なんか変な感じですね。」
「君はまだ東京にいると思っていたから諦めていたんだ。でも、この三輪の地で君に会えた。君に会いたかったんだ・・・」
出会ってからわずか2日で2人は付き合うことになり、3ヶ月で籍を入れた。これが運命というならば、そうなのかもしれない。葵とタカシは今、桜井駅の近くに1LDKのマンションを借りて一緒に住んでいる。
「良い天気だし、洗濯物干したらさ、長谷寺に行こうよ。葵まだここに来て1年も経ってないし、行ったことなかったよね?」
ある晴れた日曜日、長谷寺参拝を提案したのはタカシだった。
「なんかインスタ映えスポットがあるって聞いたことある!行きたい!」
「よし、じゃあどっちが映えな写真撮れるか勝負だ!」
冗談をいいながら、2人はお互いの顔を愛おしく見合って口を大きく開いて笑った。長谷寺は花の御寺といわれる寺で、牡丹を始め、桜の名所でもあった。本堂までに続く登廊と呼ばれる緩やかな階段には牡丹の植木が配置してあった。階段の外には牡丹の庭があり、ピンク、白、黄色、様々な色の牡丹が花開いていた。一面に牡丹が広がるこのお寺を、葵はすぐに好きになった。また、華やかで大きな牡丹に、とても大きな生命力を感じていた。
「俺、花が好きって言ったけ。実家に広い庭があって、いろんな植物や花を育ててたんだ。特に牡丹が好きでさ。葵と牡丹を一緒に見たいなって思ったんだ。」
「私も父親がお花好きで、小さい頃からお花を見て育ってきた。牡丹も、好き。こんなに大きな花を咲かせられるなんて、牡丹はすごいね・・綺麗。」
「そうだね。まるで葵みたいだ。葵も牡丹も大好きだ。」
「もう、照れるからやめてよ!」
ロマンチックな牡丹のムードに影響されたのか、急なタカシのくさいセリフを葵は顔を赤らめた。2人は手を繋ぎながら、登廊を渡り、本堂で参拝をした。本堂から出ると、奈良の一面を見渡せる景色がそこには合った。2人は景色を眺めながらやわらかな風を浴びていた。その時、タカシは真剣な眼差しで葵を見て口を開いた。
「なぁ葵。君は、どれくらいの寿命を人に分け与えたんだい?」
「・・え?」
不意を突かれたので葵は言葉に詰まった。
「自分の命を削って人に受け渡してるんだろう?葵があとどれくらい生きられるのか、ふと気になってしまって。そんなの葵の覚悟の上で寿命を与えてるのは知ってるんだけど、俺は、葵と一日でも長くいたいし、人生の最期まで葵といたいんだ。自分勝手だけど。」
「ありがとうタカシ。人に分けた寿命は、ほんの1、2年だよ。私があと何年生きれるかは分からないけど、女性の方が寿命長いし、タカシの寿命とトントンなんじゃない?」
葵は白い歯を大きく見せて微笑んだ。タカシは少しの間何か言いたげに沈黙していたが、下を向いて呆れたように「ふっ」と笑った。
「そうか。それなら死ぬ時は一緒だ!安心したよ。長生きしような、葵。」
タカシのその透き通るような瞳から、全て見透かされたような感じに見えたが、タカシはこれ以上聞くことはなかった。葵もタカシのノリに合わせるように答えた。
「当然よ!寿命なんて考えるのやめやめ!タカシとずっと一緒にいれますようにってお祈りしたんだから。そういいながら、タカシも突然いなくなるなんてダメだからね!」
葵は、タカシに初めて嘘をついた。与えた寿命は、1、2年の話ではない。葵は、今まで考えるのを避けてきたが、母親の寿命で生きていると考えると、自分があとどれだけ生きられるのか、不安になってきた。しかし、自分の寿命を気にして不安になるよりも、今タカシと奈良で平凡で幸せな生活の方を考えていたかった。
「そうだ、最後にインスタスポットで写真撮って帰ろう!」
葵はタカシの手を引っ張り、2人は微笑みながら礼堂へと向かっていた。こんな幸せな日々が永遠と続いて欲しい、葵は心からそう思った。
8.大切な人のために
タカシの母親・薫子は2人が住む家から車で20分程度のところにある。タカシには父親がいない。タカシの幼少期に病気で亡くなったそうだ。薫子は女手一つでタカシを育ててきただけあって、とてもパワフルな女性だった。しかし、そんな薫子が最近体調をよく崩すようになった。薫子はいちごの農業で生計を立てており、とても立派ないちご農園を持っていた。薫子の体調が悪い時は、葵もいちご農園の手入れを手伝っていたが、出身も育ちも東京の葵は、農業の勝手など分からなかったし、なんせ虫が大の苦手だった。幼虫が出るやいなや葵が「わあ!」と叫ぶので、その言動に薫子はいい顔をしていなかった。
「事情は分かるけど、郷に入っては郷に従えよね。こんな田舎に住んでおいて虫が怖いなんて致命的じゃない?そもそもなんで東京からこんなところに来たのかしら。」
薫子がそんなことを近所の人に言っていたのを葵は聞いてしまったこともあり、薫子が葵のことを良く思っていないのは葵もわかっていた。だからどうにかこれ以上嫌われないように、なるべく家事を手伝ったり、料理を届けに行ったりしていた。
今日は土曜日だったので、葵はタカシと一緒に薫子の農園に出向いた。薫子は体調不良のため、2人で手入れ作業を進めていた。
「おふくろもいい年だからね。本当はこの農園を継いで欲しいみたいだけど、継ぎ手がいなくてさ。俺は本職があるし、どうしたもんかね。」
苦笑いで葵を見た。葵は、タカシが農業を葵に継いでほしいと暗に意味していることはすぐに分かった。葵も収入が週4日のカフェでのアルバイトのみだし、他の3日は割と時間に余裕があった。一方タカシはフルタイムの会社員。残業はそこまでないが、平日は毎日働いているし、毎日ヘトヘトになって帰ってきている。となると葵に継いでもらうのが自然な流れであったが、葵は正直継ぎたいと思わなかった。いちごは好きだが虫は苦手だし、しかもそれを生業にするなんて、現実的な話ではないと思っていた。一方で、タカシの悲痛な思いも痛いほどよく分かった。女手一つで育ててくれた母親に少しでも恩返ししたいという気持ちは葵にも理解できたし、自分の父親のことと合わせて考えていた。
「そういえばお父さんも、男手一つでここまで育ててくれたんだよな・・。お父さんから仕事を離れてもいいんだよと言われなければ、私はまだ日々苦しみながら看護師の仕事を続けてただろうか・・まさか奈良に移住することもなかっただろうし。背中を押してくれる存在がいるかいないかで人生って変わるんだな。きっとタカシのお母さんも、タカシを必死に 守りながら、たくさんの愛情を注ぎながら育ててきたんだろうな・・」
葵は少しの間葛藤し、今度は声に出してこういった。
「ねぇタカシ。」
「うん。どうしたの、真剣な顔で。」
「いちご農園、これからもずっと続けられるように頑張りたい。すぐに継ぐわけではないし、薫子さんの手伝いをしながら少しずつ覚えていきたい。」
「本当かい?ということはゆくゆくは葵が継いでくれるの?」
「薫子さんに認めてもらえるように、これから勉強して頑張るよ!」
「ありがとう、葵!!おふくろもきっと喜ぶと思う!」
タカシは軍手のまま葵を抱きしめた。
「わわ、泥が服につくよぉー。」
「あははは・・・」
2人は大きな声で笑い合った。葵には特にこれからやりたいことなどなかったし、これでいいんだ、と思うようにしていた。
「これでいい・・私は農園をちゃんと継ぐんだ・・」
その晩、薫子の家に夕飯を届けに行き、3人で食事をした。食べ終わり葵が食器を洗っていると、居間で薫子の感情が爆発した声が家中に響き渡った。
「葵さんにいちご農園を継ぐって?!ふざけんじゃないわよ!虫も恐がるし農業の基本も何もわかっていない子になんて私の大事な農園を渡すことなんてできないわよ!」
普段からヒステリックになりやすい性格なのは認識していたがここまで取り乱すなんて予想もしなかったし、全く信頼をおかれてないことが露呈し、葵はなんだかやるせない気持ちになった。
「あのー・・私、食事の後片付け終わりましたので先に帰ってます・・」
タカシはすぐさま玄関に向かう葵を引き止め、葵と一緒に薫子の家を出た。
帰りの車の中でタカシは分が悪そうに言った。
「きっと更年期障害なんだ・・おふくろが言ったことは悪かった。天邪鬼なところ、あるからさ。本心じゃないんだ。許してやってくれ。」
タカシは徐々に声を小さくして自信なさげに葵を庇った。葵は何も言い返さなかった。その時葵は「だったら継ぐのやめるよ」という言葉がのどまで出かかったが、ぐっと堪えた。
翌日、朝9時に家のインターホンが鳴った。朝が苦手な葵は、仕事がない日は10時くらいまで寝ていたので、「こんな朝早くから誰よ・・」と思いながらパジャマのまま玄関に向かった。
「葵、お父さんに葵の住所聞いて来ちゃったー!」
ドアを開けるなり、満遍の笑みこう言ったのは、咲良だった。
「えぇっ、咲良?!なんでここに!・・まさか始発で来たの?」
「ううん、昨夜到着して、近鉄奈良駅のビジネスホテルに泊まってるんだよ。それよりも、本当に、久しぶりじゃん!元気?」
咲良と会うのは約5年ぶりだった。5年前に余命宣告されて、葵が寿命を5年伸ばしたことをふと思い出した。
「体調は、大丈夫なの?!ちょっと顔色悪くない?」
「そんなことないよ、元気元気!5年前と比べると、こうやって1人で外も出歩けるし、自分でもびっくりするくらい元気だよ!懐かしいな・・5年前、葵がお見舞いに来てくれた時・・」
葵は少しびくっとした。余命半年だったのに、もうあれから5年近く経つ。それに、葵の特殊能力が疑われた騒動もあったし、咲良から勘ぐられないだろうか。それよりも、葵が引っかかっていたのが、あれから5年延命してからもう5年になることだった。葵の不安とは裏腹に、咲良は痩せてはいたがとても元気そうで、はつらつとした笑顔で葵に話しかけていた。
「大神神社ってこの辺りにあったよね?そこでお参りしたい!もし今日時間あれば一緒に行こうよ!」
咲良があまりにも元気なので葵は少しだけ安心していた。「どこかのタイミングでまた延命を唱えればいい」葵はそう思っていた。
「今日仕事休み!車だすよ。」
「やったー!」
葵は咲良を車に乗せて出発した。大神神社までは車でわずか15分もかからない所だったが、その間学生の時に流行った歌手や、当時の担任の先生の話、葵の出会いから結婚までの馴れ初めなど、咲良といろんなことを話した。葵は普段の生活で同年代との交流もないし、何よりも中学生からの親友の咲良だ、とても楽しくて、咲良の寿命のこともすっかり忘れていた。
あっという間に大神神社に到着した。大神神社は日本最古の神社と言われており、三輪山を神体山としている由緒正しき神社である。近年パワースポットとしても注目を浴び、鳥居をくぐると「神域」と呼ばれるほど神聖な気持ちにさせてくれると話題である。2人は大きく息を吸い込み、「なんだか神様が近くにいるような感じがするね!」と顔を見合わせて微笑んだ。
拝殿につくと、2人はお賽銭をいれ、祈りを捧げた。葵は賢明に咲良の健康を祈った。葵は 目を開けて隣を見ると、咲良はまだ祈りを捧げている。ぎゅっと瞼を強く閉じて、賢明に祈っている。そんな何事も一生懸命で偽りのない咲良の祈る姿をずっと見ていたいくらい愛おしかった。咲良との時間がずっと続けばいいのに、葵はそう思った。その後、2人は近くの定食屋で食事をした。
「さっきずーっと何かを祈ってたけど、何をお願いしたの?」
「えー、こういうの、普通言わないもんじゃないの?じゃあ逆に、葵はお願いしたこと言えるの?」
「咲良が長生きしますように。」
葵は思わず真剣な顔で即答してしまった。咲良の表情は急に暗くなって、言葉を失っていた。
「ごめん、ちょっとトイレ。」
咲良は慌ててトイレに駆け込んで、しばらく出てこなかった。気を遣わせてしまったかな・・と葵は反省していると、咲良は血色のない顔で戻ってきた。
「ねぇ、咲良はいつまでこっちにいれるの?よかったら今晩はうちに泊まっていきなよ!旦那にも咲良を紹介したいしさ。」
葵は極力声のトーンをあげて咲良を誘ったが、今日の夕方に新幹線の指定席券を購入したことを口実に断った。新幹線の時間が近づいているからか、もしくは別の理由があるのか、咲良はなんだか急いでいるようだった。葵は咲良の焦る表情を察し、「近鉄奈良駅まで送って行くよ」といって2人は大神神社を後にした。
車内では何となく会話がなく、重い空気が流れていたが、先に口を開いたのは咲良だった。
「葵。なんの前触れもなく、今日来ちゃってごめんね。葵にどうしても会いたくなったのと、御礼をいいたくて。私を生きさせてくれたの、葵でしょ?余命宣告をされて、死を覚悟した時に葵がお見舞いに来てくれて、それからなんか体力が回復して状態も良くなって。 普通じゃ考えられないって、先生も言ってた。その時は、葵が来てくれたから生きる気力を 取り戻したのかななんて思ってたけど、葵の能力のことを知って、絶対に葵の寿命を私に分けてくれたんだ、って分かったよ。あれから5年近く生きている。きっと、5年くらいの寿命をくれたんでしょ。それも分かるんだ・・」
「分かるって、どういうこと?!」
黙って聞いていた葵が焦って遮る。
「そりゃ自分の身体だもん。あとどれくらい生きられるのか、もう長くないとか、なんとなく分かるよ。この5年、葵にはあまり会えなかったけど、一瞬一瞬がとても輝いていて、 一秒も無駄にしたくない、って思いながら過ごしたよ。葵からもらった、大事な大事な時間だったから。もっと葵と会いたかったけど、なんとなく、私のこと見たら辛くなっちゃうかなって思って中々会いに行けなかった。この1年はほとんど病院にいたしね。 実は今回も、自宅療養になった瞬間こっそり抜け出してきちゃった。最期に葵に会いたくて・・・」
咲良は泣きながら話した。葵は車を止めて、咲良の青白い手を握った。
「最期なんて言わないでよ!私、今日改めて気づいたの。私の人生に、咲良は絶対に必要な 存在なの!咲良の無邪気な笑顔を見ていたいの!天真爛漫に、もっと私を振り回して笑わせてほしいの!咲良のわがままがもっと聞きたいの!」
「わがままなんて・・・」
咲良は涙を流しながらクスッと微笑んだ。
「葵。私も同じ気持ちなの。でも、私だって、葵にずっと健康でいてもらいたいの。長生きしてほしいの。もっと自分のために生きてほしいの。自分を大事にしてほしいの。だから、間違っても自分の命をこれ以上燃やしてほしくないの!自分のための、命なんだよ!葵もこの一瞬一瞬を大切に生きてほしいの・・・」
咲良は言いながら泣き出した。通行人が車窓を見てギョッとした表情をしている。咲良はなんとか泣くのを抑えて言った。
「約束して。もうこれ以上命を人に渡さない。私にも、渡さないで。葵は、葵の持っている時間を全力で生きて。」
咲良は真っすぐな目で葵を見ている。濁りのない、澄んだ目をしている。その瞳に逆らうことは葵はできなかった。
「・・・わかった。」
唇を噛みしめながら言うと、咲良は少し明るい表情で言った。
「でも今日葵に会えたから、友情パワーで更に5年生きて、またこの地に来てるかもー!ってやばい、新幹線の時間もうすぐだ!発車願いまーす!」
無理矢理明るく振る舞う咲良に葵は涙を堪えながら、葵も無理矢理笑って運転を再開した。
近鉄奈良駅の改札に着くと、2人は強く抱きしめ合った。
「咲良、私たち、何があっても、ずっと一緒だよ。」
「うん、大好き。」
そう言って、咲良は改札を入って行った。
「葵ー!大好きだー!」
咲良は振り返るなりそう叫んだ。
「やめて、恥ずかしいよもう!まぁ、気をつけて帰ってよね!」
葵は咲良の姿が見えなくなるまで大きく手を振って見送った。葵はぐっと涙を堪えていた。
時刻を見ると、もう夕方5時をまわっていた。遅くなってしまったな・・そう思いながら近鉄奈良駅から車を走らせた。夕飯の食材を買って直接薫子の家で食事の準備をしようと思い、薫子の家へ向かった。咲良のことを考えながら運転し、薫子の家の前まで着くと、救急車が止まっていた。
まさかと思い、急いで車を止めて向かうと、タカシが我を失った様子で叫んだ。
「何度も電話したのに、何で出ないんだ!おふくろが倒れたというのに!」
葵は突然力が入らなくなり、買った食材の袋をぼとりと地面に落とした。
9.枯れた花
「薫子さん、体調いかがですか?」
「あ・・・タカシ?タカシが来てくれたの?」
「すみません・・葵です。」
「ああ・・・」
薫子はくも膜下出血で倒れ、長期入院を余儀なくされた。なんとか一命は取り留めたものの、左半身に痺れが残り、軽度の記憶障害と言語障害が生じていた。
「身体がうまく動かないのよね・・もう今までの、生活には、戻れないの・・かしら」
薫子はぼーっとしながら表情のない顔でこうぼやくことが増えた。タカシのお願いで葵は 毎日薫子のいる病院へ足を運んでいたが、このような生気のない言葉を浴びさせられ、少しずつ葵からも表情が消えていっていた。誰かの言葉は誰かに少なからず影響を与える。真摯に人に耳を傾けようとする人ほど人の言葉に影響を受ける。以前追い詰められた時に、「悲しいニュースや残酷な事件の情報を取り入れないように」と心療内科の先生にも言われたことがある。自分の精神にもろに影響を受けて、状態が悪化したりするのだそうだ。特殊能力じゃなくて、医療で人を助けたい。そう思って看護師になった葵だが、特殊能力を使って特定の患者のみを助けた事実が、残酷な記憶として蘇る。1秒でも長く生きたいという患者がごまんといる中で、どうして自分の都合で延命する患者を選ぶことになってしまったのか。こんなに助けを求めている人がいるのに、どうして全員を助けられないのか。もちろん自分の寿命には限度があるし、物理的に全ての人を救うなど不可能だ。みんなを助ける、正義のヒーローなどこの世には存在しない。そんなことは分かっているのだけれども、寿命を与える人を選んでしまっていたのは偽善者じゃないのか。このように葵の負の感情が渦巻き出したきっかけは、薫子に寿命を受け渡すかどうかを考え始めたからだ。身内ならば無条件で能力を使えるはずなのに、少なくとも実の父親なら考える隙もなく能力を使っていたのに、なぜ薫子には使うかどうか考えているのだろう。葵はそんなことを考える自分が許せなかった。寿命を削ることが怖くなった?それとも相手が自分のことを嫌っている薫子だから躊躇している?葵の思考はグルグル回りだし、胃がピリッとし始めたので何も言わずに病室から逃げるように出て帰路へとついた。
「おふくろの状態、どう思う?」
夕食時タカシは深刻な声で葵へ問いかけた。
「どうって・・?」
「なんだよその言い方。毎日病院で見てるだろ。いろいろ後遺症も残って、あまりいい状態じゃないんだろ。」
タカシは少し苛立った様子で声を荒げた。滅多に怒りの感情を表に出さないタカシだったので、葵は驚いたがなるべく冷静に答えた。
「少し、ネガティブになっているみたい・・私じゃなくて、タカシに来てほしいみたい・・」
「俺が仕事でいけないから葵にお願いしてるんだよ!ネガティブになっているなら、ケアしてやってくれよ!元看護師だろ?」
タカシは更に声を荒げて言った。葵は言葉に詰まってしまった。怯えた表情の葵に、タカシは目頭を熱くしながら続けた。
「このままだと・・生きる気力をなくしてしまう・・状態も日々悪くなっているし・・・なあ・・・お願いだ・・・葵の寿命を、おふくろに分けてあげてくれないか・・・1年でいい。1年伸ばせば、少なくとも自分の足で歩けるくらいにはなっているはずだ・・・なあ・・・おふくろのためなんだ・・・いいよなあ?」
私だって好きで毎日行ってるわけじゃない・・・
それに、この能力は二度と使うなって言ったのタカシだよね・・・
葵は喉まで出かかったが、なんとか言葉にするのを抑えた。しかし、身体は正直だ。一筋の涙が葵の頬つたう。タカシは少しギョッとした目で葵を見たが、なにも言葉を発しなかった。
「すこしだけ・・すこしだけ考えさせてください。」
翌朝。葵は目が覚めると突如激しい目眩に襲われた。視界がぼやけて、立ち上がれない。
「少し、疲れちゃったかな」と言葉に出した。今日は幸いにも休みだったので、ベッドの上で回復を待った。 午後には薫子の病院に行かなければならなかったが、なんだか今日はいつにも増して行きたくない気分だった。
「どうして私が毎日病院に行かなければならないの。タカシよりも時間があるから?どうせ暇だと思われてるから?でも、私が病院に行くことで何が変わるというのか。病院に行ったって、薫子さんから煙たがれるだけだし・・私だって、行きたくない。私だって、今日は 体調が悪いんだ・・・疲れているんだ・・」
そう思いながら、葵は目眩とともに深い眠りについた。
葵ちゃんはすごいね。お母さんいないのに、こんなにいい子に育って。
葵ちゃんは将来有望だから、良い大学を出て、成績優秀でお医者さんになるのかな?
葵ちゃんは真面目だから、やれと言われたことはちゃんと最後までやるんだね。
葵ちゃんは正義感が強いから、人を助けたいって思うんだね。
すごいね。すごいね。すごいね。
でも、1秒でも長く生きたいという人がこんなにもいるのに、どうして特定の人だけ助けるの?
どうして義母を助けてあげないの。どうして、病院にお見舞いに行きたくないの。
また助けないの?じゃあまた全く関係ない人を助けるの?
助けて。助けて。助けて。たす・・・
葵はカッと目を開いた。最近こんな悪夢ばかりだ。汗だくだった。呼吸が苦しかった。頭痛が酷かった。時計を見ると午後1時を回っていた。
「薫子さんのお見舞いに行かなきゃ・・・」
葵はふらふらとした足取りで車に乗り込み、病院へと急いだ。
「あら、遅かったじゃない」
薫子が外を見ながら冷たい声で葵に話しかけた。今日の薫子は一段と機嫌が悪いようだった。
「ごめんなさい、なんか道路が混んでいて・・・」
「このクソ田舎で?嘘が下手ね。ここは東京じゃないのよ。」
葵はびっくりした。薫子が珍しく言葉遣いが乱暴になったことに、いや、乱暴な言葉遣いの裏に諦めがあることに。薫子は続けた。
「そっちこそ顔色が悪いみたいだけど、そちらこそ大丈夫なの?」
「あ、いえ、私は元気です。大丈夫です。」
「いいわね、元気で・・・」
薫子は投げ捨てるように言って、そっぽを向いてしまった。
「あ、あの、そろそろ夕飯の買い出しに行くので失礼します。」
「勝手にすればいいじゃない。ちょうど寝ることだったから、早く出て行って。」
葵が病室から出ると、心配そうな表情をした看護師が葵に近づき、小声で話しかけた。
「大垣さん、昨日から何も食べてないんです。何かボソボソ呟くことも多くなったのですが、私たち看護師とはまともに話そうとしてくれないし・・なんだか自暴自棄になっているようで。でも、三浦さんが来ると、少しだけ表情を取り戻して、よく喋るんですよ。それが少々荒い言葉でも、三浦さんがくるの楽しみにしているような感じがするんです。」
「どうなんでしょう・・・私は、嫌われているので・・・本当は旦那に来てほしいんですよ・・」
「それでも三浦さんは、毎日欠かさず来てるでしょう?心お優しい方だなといつも思っていますよ。三浦さん東京からいらしたんでしょう?東京の大きい病院には、おしゃれなカフェも併設されてるんですってね。ここは何もない病院ですが、明日も来てくださいね。」
葵はなんだかよく分からない感情に苛まれた。励まされたはずだったが、苦しくもあった。帰り道、車の中で葵はぼーっとしながら考えた。生きる気力がなくなるとはどういうことだろうか。咲良は、余命を宣告されても、生命力でいっぱいだった。今を全力で生きようとしていた。そんな咲良は、輝いていた。一方、かつて隣の部屋に住んでいた澄子さんは、日々目から光がなくなっていったことを思い出した。視線の焦点も定まらなずに、ただただ渇いた笑顔を振りまいて死んでいった。葵は薫子さんを生前の澄子さんと重ねて見ていた。澄子さんは言葉遣いは乱暴になっていなかったが、表情が言葉についていっていないところや、話すテンポ、視線、瞳の輝きのなさはとても似ていた。葵は怖くなった。薫子さんも、澄子さんのように自ら命を絶ってしまうのではないかと。
「もしそんなことが起きたら、きっと自分のせいだ。私が寿命を渡さなかったからだ、と言われてしまう。」
葵はそんなことを考えているとまた強い目眩に襲われた。
家の駐車場に車を止めると、家の前の花壇の花が全て枯れていること気づいた。花の世話をしていたのはタカシだった。タカシは花が好きで、知り合いの花屋の店主から球根をもらったり、旬の花の花束を見立てててもらっては葵にプレゼントとして花言葉といっしょに贈っていた。チューリップやコスモス、すずらん・・そして葵が長谷寺近くの牡丹専門店で買った牡丹も、花開くことなく枯れた。花壇は家の玄関口に並んでいるのに、枯れていることに全く気づかなかった。玄関を彩っていた花々。枯れてしまうと家の空気が更にどんよりとして見える。
「枯れたことにすら気づかなかったのに、何をいまさら・・」
葵は独り言をもらし、ため息をつきながら家の中に入り、夕食の支度を始めた。
「家の花壇の花、最近水やってなかったでしょ」
夕食中、花のことを切り出したのは葵だった。
「今日見たら、枯れちゃってた。ぜんぶ。」
葵が続けるとタカシは葵を睨みつけてこう言った。
「枯れちゃってたってなんだよ。気づいたらお前も水やってくれよ!」
「お前って・・・!何よその言い方!薫子さんの病院も毎日行ってるし、私だって疲れてるんだよ?!タカシはいいよね、仕事してれば良くて。私だって、パートだけど仕事はしてるし、家のことだってやってる。あれもこれもできないよ!!!」
「・・・」
タカシは目を熱くしながら黙ってしまった。葵もしまったと思い、口を塞ぐ。
2人の間に重い沈黙が続いた。少し経って、俯きながらタカシが口を開いた。
「・・なあ、葵。病院なんだけどな、もう行かなくていいよ。おふくろのところ。」
タカシの瞳は光がなく濁っていた。
「どうして?」
「実は今日、早めに仕事上がって、俺もおふくろのとことろに行ってきたんだ。少し日数が経っただけで、人ってあんなに変わるんだな。身体もうまく動かせないらしいし、何も食べたくない。息するのも面倒くさいんだってさ。もう、心は死にかけているんだ。これ以上、何も施しようがないんだ・・・」
急なタカシの弱音に、葵は胸が苦しくなった。タカシの精神も、そろそろ限界なのだろう。花壇の花を見ればすぐに分かる。水をやることにも気が回らないくらい、彼は追い込まれているのだろう。葵はふと、先日の看護師の言葉を思い出した。
「心優しい方だと思ってますよ・・・明日も来てくださいね・・」
タカシは一粒の大きな涙を目尻にためて視線を下にむけている。そんなタカシを葵はなんだかすごく哀れで、同時に愛おしく思えた。タカシのためになら、何だってしたい、葵はそう思った。葵は少し考え、俯くタカシをしっかりと見ながら言った。
「タカシ・・・この前のタカシからのお願い、叶えるよ。薫子さんに、私の寿命1年渡す。」
タカシは即座に顔を上げた。目には光が宿っていた。
「本当か・・?でも、葵は、まだ、大丈夫なのか・・?」
「私たち、まだ25歳だよ。1年くらい減ったって、私たちがおじいちゃんおばあちゃんになった時には医療も発達して、取り返せるっしょー!」
葵は出来るだけ声のトーンを上げて、なるべく大きな声で言った。
「葵!!やっぱり葵を選んでよかった!葵は最高の奥さんだ!!」
タカシは葵を強く抱きしめて少年のように喜んだ。
「あはは、痛いって!玄関の花も、もう一回咲かせようよ。一緒に水をやって、育てていこうよ。今度は私もちゃんと面倒見る!」
「ありがとう、明日店主から大漁の球根と種を仕入れてくるぞー!」
「家の前お花畑になりそうだ、楽しみ!」
翌日、タカシは有給をとって一緒に病院に行くことにした。運転はタカシがしていたが、今日のタカシはいつにも増してよく喋った。
「なあ、昨日家の前をお花畑にしようって言ってくれたじゃん?うちは1階で庭付きなんだし、コンクリートを土壌に変えて、玄関口をお花畑にするのはどう?」
タカシは目を輝かせていった。たまに見せる純粋な少年感。これがタカシの本当の姿なんだろう。葵は、そんなタカシが好きだった。
「え、あれ本気だったの?私、冗談のつもりで言ったんだけど!でもそれを現実にしちゃうのが、タカシだよね。良いじゃん、お花に囲まれた生活!」
「そうこなくちゃ!早速午後業者に発注しようぜ!」
そんな浮足だった会話をしながら、あっという間に病院に到着した。
病室に近づくと、空気は一転。急に重々しく変わり、薫子の正気のなさが痛いくらい伝わってくるようだった。
「おふくろ。今日は2人で来たよ。」
「・・・・・」
薫子は何も答えず、視線すらもこちらに向けなかった。葵とタカシは目を見合わせ、うなずき合った。
「おふくろ。聞いてくれ。葵が、おふくろに、寿命を1年渡す決心をしてくれた。1年でどれくらい状態が良くなるかは分からないけど。俺と葵は、おふくろに悔いのない人生を全うしてほしいんだ。」
薫子は初めて寝返りを打って、冷めた表情で身体と視線をこちらに送った。
「ついにおかしくなってしまったのかい。」
「違うんだおふくろ、葵には特殊能力があって自分の寿命を人に受け渡すことができるんだ。おふくろだって、あの少年のニュース見ただろ?あのニュース、本当だったんだ。その時の看護師が、三浦葵さんなんだ。」
薫子は目を大きく見開いて唖然としていた。
「ほんとうかい・・・葵ちゃん・・あなたが・・・」
「はい!今まで黙っててごめんなさい。寿命の件は、タカシさんと話し合って決めたことです。」
「ありがとう・・・ありがとう・・・」
薫子は、今まで押し殺してきた感情が一気に出たかのように、泣きわめいた。その姿がタカシそっくりで、「やっぱり親子だなぁ」と葵は微笑んだ。
「葵、早いうちに始めよう。この病室には誰にも入れないよう、出口を見張っておくからさ。」
「うん。」
葵は深く頷いて、薫子の胸上に手をやった。
「命燃やして救うに後悔なし。汝に我の命、1年を渡したまえ。」
唱え終わると、薫子は目を開き、驚いた表情で叫んだ。
「身体が・・動かせる!こりゃすごいわ!」
薫子は起き上がって病室を楽々と歩いてみせた。
「おふくろ、良かったな。」
「本当に、すごいわ!身体を思うように動かすことがこんなにもすごいことなんて!葵ちゃんのおかげだわ!葵ちゃ・・・」
薫子とタカシが葵の方に目を向けると、そこには倒れ込む葵がいた。
「葵!!!」
葵が目を覚ますと、そこは薫子の入院する病院のベッドだった。
「葵!大丈夫か?」
目の前には心配するタカシがいた。どうやら少しの間気を失っていたらしい。
「あれ、私・・・あ、薫子さんは?!」
「おふくろなら、元気に病院を歩き回ってるよ。それより葵は大丈夫なのか?」
「うん、ここ数日寝不足だったから、ちょっと疲れてたのかも。でも点滴もしてもらったし、今は元気!心配しないで。」
「良かった!葵の意識が戻らなくなったら俺生きていけないよ!」
タカシは涙ぐんで言った。葵は点滴後、特に問題はないということで即日帰宅することになった。薫子も、状態が良化したとのことで、その経過観察後問題なければ1週間後に退院できると医師から伝えられた。医師は不思議に思っていたが、「やはり精神的なものだったのか・・」とぼやきながら薫子の病室を去っていった。
「じゃあな、おふくろ。1週間後、葵と迎えに行くからさ!」
「タカシ、葵ちゃん・・・本当にありがとう。」
薫子はまた目を潤ませながら何も偽りもない笑顔で2人を見送った。
2人は病院の駐車場に向かった。
「はっくしょん!!」
葵は自分でもびっくりの大きなクシャミをした。
「大丈夫かよ?確かにこの駐車場、コンクリ地下でひんやりするよな。」
タカシは笑いながら言って先を歩いた。
葵も「はは・・」と笑ったが、くしゃみのときに押さえた手に、血がついていることに気がついた。
「これでいいんだ・・・これで・・・」
葵はそう言い聞かせながら常備していたウエットティッシュで手のひらの血をさっと拭った。
10.いつかまた会う日まで
昨日薫子は無事退院し、しばらくは葵とタカシの家で生活をサポートすることになった。そんな土曜日の朝。目が覚めると、タカシは庭で何か作業をしているようだった。眠い目を擦りながら玄関の庭へ向かうと、タカシは葵を見つけ、微笑みかけた。
「おはよう!見てくれよ、ここ一面全部花が咲くんだぜ!ここはチューリップで、あっちはコスモス。そしてこの一番目立つところには牡丹の花。つぼみを買ったから牡丹が一番早く咲くかな。それぞれ旬の季節は異なっても、ちゃんと手入れをすれば同時期に咲いてくれるんだって。最高の花畑を葵に見せられるようにするからさ、待っててくれな!」
今日のタカシは一段と機嫌が良いようだった。機嫌が良いのは、良いことだ。薫子も今は生きる気力で溢れていて、借りを感じているのか、葵にも優しく接するようになった。いちご農園は今は葵と薫子で見ている。葵ももう虫を怖がることはなくなり、いちごの収穫も手慣れた様子でできるようになっていた。今日だって、いつもと変わらない穏やかな1日。こんな日々が毎日続いてほしかった。でもなんだろう、心がざわつくのは。葵は時折激しい目眩に襲われた。特に今日の午後は全く動けず、布団にこもりきりになっていた。
週明けの月曜日。一通の手紙が葵のもとに届いた。送り主は、飯塚真司と書いてある。咲良の旦那からだった。なんだか嫌な予感がする。葵は慎重に封を開けた。便箋を取り出すなり、見たくない言葉が視界にチラついた。なるべく見ないように、考えないようにしていた言葉を今度は視線でしっかりキャッチしてしまった。今度は葵は手の震えた。
「飯塚咲良が、白血病のため永眠しました。」
咲良・・・咲良・・・・咲良が・・死んだ・・・
葵は視界歪み、リビングのソファにうつぶせに倒れ込んだ。目を開いて窓に目をやると庭の牡丹のつぼみが見えた。もうすぐ開花しようと賢明に太陽の光を吸収しているようだった。タカシと長谷寺で見た牡丹もこんな感じで咲いていて、懸命に生きようとする咲良と重ねてみていたことを思い出した。咲良の笑顔が、思いやりの心が、優しい言葉が、頭の中を駆け巡る。葵はなぜか身体がほてり、ぬるま湯に使っている感覚に陥った。その感覚は、不快なものではなく、まるで咲良が抱きしめてくれているような、優しい、心地よい感覚だった。
このまま、咲良と一緒に天国に行けたらいいのに。そうすればこれ以上悲しむ必要なんてないし、ずっと咲良と一緒にいられる。咲良、今、ここにいるのは咲良でしょう?私も連れて行って・・私も・・・
葵は深い眠りについていたようで、タカシに起こされてハッと目覚めた。もう夕食の時間を回っていた。
「葵!大丈夫か?」
「あ・・ごめん。私、寝ちゃってた・・夕食の準備・・しなくちゃ・・・」
起き上がろうとすると再び目眩がしてなかなか起き上がれない。葵は急に寒気がした。さっきまで温かく包まれていたのに、今度はものすごく寒い。
咲良・・私をおいて行ってしまったの?
葵はそのまま倒れてまた眠ってしまった。
再び目覚めたのは、翌朝だった。今度はベッドの上で目が覚めた。タカシが運んでくれたようだ。1階のキッチンから良い匂いがする。葵は匂いにつられて階段を降りてキッチンを覗くと、そこにはタカシの姿があった。
「おはよう葵!体調はどう?」
「昨日よりだいぶ良くなったよ。ありがとう。タカシ、仕事じゃないの?」
「今日はね、俺も休み!それでいて、今日は俺が主夫です。俺特製のクロックムッシュがもうすぐ出来上がるので、顔を洗ってきなよ。」
「タカシ・・・ありがとう。」
葵は目をうるっとさせながら洗面所へと向かった。洗面所には、薫子がいた。心配そうな顔で葵を見た。
「葵ちゃん、体調悪いんだって?病院いかなくて大丈夫?」
「大丈夫です。最近寝不足だったからかなーなんて。ご心配おかけしてすみません。」
「葵ちゃん・・もしかして私に1年寿命をくれてから体調悪くなっちゃったんじゃないの?」
薫子は少し声をこわばらせて葵を覗き込んだ。
「いやぁ、そんなことないですよ。だってほら、私まだ25歳ですし。1年くらい、誤差だと思ってますから。」
葵は普段とは違う口調で空笑いをしてみせた。薫子は一瞬黙り、こう続けた。
「そうよね、葵ちゃんまだ若いものね。不謹慎なこといってしまってごめんなさいね。さぁ、一緒に朝食を食べましょう。早く顔洗ってリビングに来てね。」
薫子が爽やかな笑みを見せるものだから、葵も出来る限りの笑顔で返した。洗面所で鏡に映った自分を見ると、頬がげっそりしているようだった。うがいをすると血が滲んでいた。最近鼻血もよく出るし、くしゃみをすると手に血がつくことが多くなっているのを葵は気になっていた。
「私は、あとどれだけ生きれるのだろうか。」
ずっと考えるのを避けていたことだった。怖かった。知りたくなかった。でも、知らなければならないような気がした。母親からもらった寿命。母親は38歳で私を産んでいる。日本の女性の平均寿命が84歳とすると、与えられた寿命は46年分。私は今年25歳だから、残るは21年。そのうち咲良に5年、少年に1年、薫子に1年、他にも・・・急に考えるのが怖くなった。自分の寿命を、出血がアラートとして示しているようだった。自分が仮にあと14年弱生きられたとしても、タカシより先にいなくなることになる・・・タカシを残すことになる・・・葵は急に怖くなって、地べたにペタンと足をついて動けなくなってしまった。
「葵?もう朝食できたぜ?」
タカシが洗面所を覗くと、しゃがみ込んでいる葵を見つけ急いで駆け寄った。
「大丈夫か?やっぱ体調悪いのか?昨日から変だよ。何かの病気かもしれない。病院行こう?」
「ありがとうタカシ。でも、本当に大丈夫なの。ちょっと横になっていれば、回復するから。せっかく朝食作ってくれたのに、食べられなくてごめんね。」
「そんなこと気にすんなって。ほら、おぶってやるから。ベッドで少し横になってなよ。」
タカシは葵をおぶり、寝室のベッドに葵を寝そべらせた。タカシが寝室から去ろうとすると、葵は無意識にタカシの腕をギュッと掴んだ。
「行かないで・・・そばにいて欲しい・・お願い・・」
タカシは葵の震える手をギュッと握り返して、ベッドに身を上げて葵の隣に横になった。葵を強く抱きしめた。その時、葵の身体の細さに驚いていた。
「葵、痩せた・・?もしかして、咲良ちゃんのことかな。」
「え?」
「ごめん、見るつもりじゃなかったんだ。でも、ソファの上に濡れて乾いた跡のある便箋を見つけて、見てしまったんだ。でも俺から言うのも野暮だなって思ってしまって。でも、見つけたらすぐに抱きしめてやればよかった。葵がこんな辛い思いをしていたのなら尚更だ。ごめんな・・」
葵は「ううっ」と声を上げて泣いた。こういう優しい言葉が欲しかった。こういう温もりが欲しかった。こういう抱擁が欲しかった。2人はしばらく強く抱き合って、葵は安心した表情で眠りについた。
葵が目を開くともう夕方だった。真っ赤な夕日が、寝室の窓一面に広がり、その眩しさが心地よかった。1階のリビングに行くと、タカシも薫子もいなかった。誰もいないリビングは、なんだかすごく静かだった。ソファに腰かけると、白色の牡丹が立派に花を開こうとしていた。太い茎で、大きな花をしっかりと支えている。まっすぐに、力強く咲こうとしている。夕陽を取り込んで、真白なボタンは少しオレンジ色に染まっていた。葵は感嘆のため息を大きくついた。
「私もこの牡丹のように、強くたくましく生きたい。」
葵はそう思った。葵の瞳には光がともっていた。
やがてタカシと澄子が戻ってきた。夕食の買い出しに行ってきたようだ。買った食材を、せかせかと冷蔵庫にしまっている。
「あれ?この食材を使ってこれから夕食の準備をするんじゃないの?」
葵が問いかけると、タカシは自信げな声でこう答えた。
「たまにはさ、寿司の出前を取ろうと思うんだけど、どうよ?」
「葵ちゃん体調悪いから食欲もないだろうにって止めたのに、今日は葵ちゃんの好きなものを食べるんだって、聞かないのよ。しかもスーパーで食材を一通り買った後の帰りの車の中でよ?相変わらず計画性のない息子で、呆れちゃうわ。」
「だから外食じゃなくて家で食べようって言ってんじゃん。なあ、葵。寿司好きだろ?」
ニカっと笑うタカシに、薫子は困った顔をしながら一緒に笑った。
「あ、もしかしてタカシが食べたいだけだったんじゃないの?!」
「そんなことないよ。俺、葵ファーストだから。」
「だったらスーパーに行く前に決めなさいよ。」
「そんなこと言わんといてやー。」
葵は2人のまるで漫才のような掛け合いが可笑しくて、大きな口を開けて笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだった。葵は幸せな気持ちに浸りながらお寿司をほうばった。
季節は初夏。葵の好きな季節だったが、澄子さんの飛び降り自殺の時期でもあり、毎年この時期になると澄子さんのことを思い出す。庭の牡丹は満開をむかえ、コスモスも色鮮やかに咲いている。ひまわりも順調に育ち、庭がとても賑やかになった。中でも真っ白な牡丹は一際大きく咲いており、庭のマドンナ的存在だった。
「そこの白い牡丹ちゃん、見てくれと言わんばかりに自信たっぷりで、羨ましい限りですよ。」
葵は独り言を漏らして白い牡丹に向かって微笑みながらアイスクリームにかぶりついた。
その後ポカポカした陽気の下で、ソファの上でウトウトしていると、タカシから着信があった。仕事中のはずなのに電話がかかってくるなんて珍しいと思いながら、電話を出ると、タカシは声を荒げた。
「おふくろが、自転車で転倒して複数箇所骨折した!!葵は今どこにいる?」
「どこって、家だけど・・・」
「なんでおふくろ1人で外に出した!外に出る時は同行しろってあれほど言ったろ?」
「でも・・・」
「でも、なんだよ?!」
葵は黙ってしまった。葵がうたた寝をしている間に、薫子は外に出て行ってしまったらしい。葵は焦燥感と同時に嫌悪感を覚えていた。確かに薫子が外出する時は一緒に行くと約束はしていたが自分は薫子の介護人でもないのに、どうして一方的に怒鳴られなければならないのかとすら思ってしまった。
「とりあえず、桜井市東病院に行ってくれ!」
葵はなんだか腰が重かった。複数骨折とくれば、きっと長期入院になる。その間に、1年延命した命も終わりが近づく。その時の薫子の姿と言動は容易に想像できてしまった。またあの時のような生活になるかもしれない。また薫子から冷酷な言葉をかけられ、看護師からはおだてられる。葵は考えるだけでも嫌気がさした。同時に、このような嫌悪感を覚えてしまう自分が自分でないような気もして嫌になった。なにはともあれ、早く病院に行かなえればならない。ああ、こんな時、また目眩が起きて意識を失ってしまえばいいのに。そう思うときに限って何も起こらないのが現実だ。しばらく葛藤が続いたが葵は気づいたら車を走らせ病院に向かっていた。
病院に着くと、両足を包帯で固定されている薫子の姿があった。骨折で痛々しく腫れ上がっているのは遠目で見ても分かった。
「薫子さん・・・大丈夫・・・ですか。」
「どうしてこの状態で大丈夫だと思うわけ?手術をして、全治半年だって。いちご農園が気になって行ってみたのよ。そしたら、下り坂でブレーキが効かなくなってこの有様。ねえ葵ちゃん、あなた農園の世話はあなたがするって、言ってくれたわよね?私がこの前退院してから農園行ってくれてる?」
葵はギクリとした。薫子が退院してから1回収穫して、それ以来行っていなかった。
「ご・・・ごめんなさい。この前収穫が終わったから、ひと段落ついたのかなって思っちゃって・・・」
「あなたに頼った私がバカだったわ。黙っていればこうなるなんて。娘のように可愛がってたいちご農園も枯らされて。そういえばタカシが大切に育ててた花壇の花もすべて枯らしたようじゃない。命をあげられる人なのに、花や人の心を枯らすのも得意なようね。」
「それは・・・・」
「いちご農園も失った。この事故で私の寿命も縮まった。完治まで半年。私はきっとこの病院で、人生を悔やみながら死んでいくんだわ。」
まるで人が変わったようだった。葵はひどくうろたえた。同時に、なんだか沸沸と燃え上がるような、言葉にならない感情が湧いてきた。葵は自身の両手をギュッと握りしめて、下唇を噛んだ。
「私だって・・・私の事情が・・・・」
「は?なんなのよそちらの事情って。ここ最近家事もろくにできなくてタカシに全部任せて。仕事もしていないし、あなたに何の事情があるというのよ。」
「・・・・・・」
「ほら、のうのうと生きている人間には悩みなんて何もないのよ。1年寿命をくれたことは確かに感謝してるわ。でも、今回の怪我で、生きて退院できるには、もっと寿命が必要なの。なんなら、あなたの寿命全部ちょうだい!!!タカシと2人で生きていくわ!いちご農園を再生させて、庭の花だって私ならちゃんと世話ができる!あなたなんて必要ないのよ!だからちょうだい!全部ちょうだい!!!!」
薫子は我を失って叫び出した。葵は走って病室を飛び出した。
「行かなきゃよかった。病院なんて行かなきゃよかった。あんな人の顔なんて見たくなかった!!!出会わなきゃよかった!あの人にこんなこと言われるくらいなら、タカシとも出会わなければよかった!!!」
葵は車を走らせながら、わんわん泣いた。人間は残酷だ。人間は私利私欲ばかりの汚れた存在だ。みんな自分勝手なことを言う。それで人を傷つけるんだ。人間なんて大嫌いだ・・・そう心の中で叫んでいると、咲良の顔が突然思い浮かんだ。
「ねぇ咲良・・・私、どうしたらいい?咲良ならどうしてる?今、自分のことが嫌いになりそうだよ・・・どうしたらいいのか分からないよ・・」
また激しい目眩が起こった。これ以上の運転は危険なのは分かっていたが、かといって家には帰りたくなかった。タカシは何も悪くないのに、薫子のせいでタカシに八つ当たりしてしまいそうだったからだ。葵はスマホの電源をオフにして、かつて咲良が奈良に来たときに泊まっていたという奈良駅のビジネスホテルに一泊することにした。
11.白い牡丹が見ている
翌朝。葵は窓から差し込む光で目が覚めた。起き上がるなり、コップ一杯の水を飲み込んだときに咽せてしまった。止まらない咳。口元をおさえた手のひらには、やはり血がついていた。
「どうしてこんなに血が出るの・・・」
葵は不可解に思ったが病院に行くのが怖かった。これが何かの病気で、余命宣告までされたらたまったもんじゃない。でも、予定ではあと14年生きられることを糧に気を持ち直していた。スマホの電源は切ったままにしている。タカシのいる家に帰らなかったのは初めてだったので、きっと心配して何度も着信を残してくれているだろう。それでも葵には帰る気はなかった。
「よし、行くぞ!」
葵は何だか解放された気分になりながら、晴れ晴れとした気分で京都駅から新幹線に乗り込んだ。目指すは東京。行き先は決まっていた。咲良の住んでいた家と、実家である。咲良の旦那、真司からの手紙はあれ以来肌身離さず持っていたので、住所は手紙に記載されていた。葵は車内で駅弁を広げ、ぼーっと車窓からの景色を見ながら食べていた。
「まさか自分が奈良に移住するとは思わなかったな。自分に特殊能力がなければ看護師にもなっていなかっただろうし、全然違う人生を歩んでいたかもしれない。もし特殊能力がない普通の女の子だったら何してたかな。子供が好きだし、保育士にでもなってたかな。それでもお母さんから譲ってもらった命だから、大事にしなければいけないな・・お母さん、私は何人かの人に、お母さんからもらった命を渡してしまったよ。お母さんなら許してくれるかな。でも、私は後悔していないんだ。この人には生きてほしいと思って分けた寿命だから。たとえ私の寿命があと14年になろうとも・・・あと14年か・・大事にしなきゃね。」
そんなことを考えながら葵は眠りにつき、目が覚めたときには終点の東京だった。生まれ育った東京。お父さん、咲良、友達がいる東京。久しぶりの東京に心が躍るようだった。
まずは東京駅から東に向かい、人形町にある咲良が住んでいたマンションへ向かった。12階建てくらいの立派なロビーのあるマンションだった。コンシェルジュという人もいて、なんだか高級ホテルにいるような気分だった。オートロックインターホンの前に行くと、ふと今日が平日の昼間だということに気がついた。土日休みの会社員だったら、仕事に出ている時間帯だ。自分の無計画性に呆れ笑いをしながらも、ダメ元でインターホンを鳴らしてみた。
「はい。」
応答があるまで10秒くらい待ったが、真司と思われる男性の声がした。
「あ・・突然押しかけてすみません!私、三浦というものです。咲良さんの友達の、三浦葵・・」
「もしかしてあの葵さんですか?どうぞお入りください。」
真司は慌てた様子でオートロックのドアを開錠し、葵を通した。葵は緊張しながらも真司のいる5階の部屋へ向かった。エレベーターを出るなり、真司は扉を開けて葵の到着を待っていた。
「あ・・・」
2人は目が合い、1秒ほど硬直したのち2人して目を潤ませた。
「初めて会って早々涙ぐんでごめんなさい。咲良から葵さんの話をいつも聞いてたものですから。」
真司は涙ぐみながら笑って、葵を部屋へと通した。真司のことは1度だけ写真で見ただけだった。結婚式は挙げなかったし、咲良は旦那の話をあまりしてこなかったので、葵からもあえて聞いたりはしなかった。真司は写真よりもずっと背が高く小顔で、色白で、すっきりとした優しい顔立ちの男性だった。太い血管が浮き出た細く白い腕で、真司は紅茶を入れていた。
「奈良から来てくれたのでしょう?遠くからありがとうございます。」
「いえ、こんな平日の真昼間にお邪魔しちゃってごめんなさい。お仕事に出ているのかなと思ったのですが・・その・・・」
「ああ、お恥ずかしながら、僕は咲良が亡くなってから体調を崩しましてね。パニック障害というやつみたいです。それでしばらく休職することになって、自宅で療養しているのですよ。でも見ての通り、平常時は普通に生活できますし、何よりも葵さんに来ていただいてとても光栄です。」
「そうだったのですね。この度は、心からお悔やみ申し上げます。そして、咲良さんのことで、わざわざお手紙いただいてありがとうございます。葬儀も身内だけで行われるとのことで、どこかのタイミングでお線香だけでもあげられたらと思いまして。」
「葵さんには葬儀にいらしていただきたかったのですが、咲良の両親の意向が強くてね、僕と、咲良の両親だけで執り行いました。ご存知の通り、咲良は、白血病で長い間闘病しておりました。でも、一時期持ち直した時は、本当にびっくりしました。咲良はそれを葵さんのおかげって、ずっと言っていました。葵さんという存在が、僕なんかよりずっと生きる支えになっていたんです。退院後、入退院を繰り返していましたが、余命宣告されて5年以上も長く生きられたのは奇跡としかいいようがありません。僕もずっと葵さんに感謝したかったので、今日葵さんとお会いできて嬉しいです。そして、心から感謝しています。咲良を支えてくれてありがとう。」
真司は奥二重の切れ長の目から涙を浮かべながら話した。そんな真司を見て、葵も大粒の涙をポロポロ流した。
「咲良さんが生きている限り、私は、どんなこともするんだって、そう思ったのです。咲良さんが、私の人生を輝かせてくれる、大切な存在だったから。でも、もっと長く生きてほしかった・・私の命に変えてでも・・・咲良には・・・うう・・」
「そんなこと言わないでください。咲良はとても幸せそうな顔で、眠るようにして息を引き取ったのです。そこには後悔も、苦悩も、何もないようでしした。とても安らかな表情でした。葵さんも同じように、咲良の人生を輝かせてくれていたんですよ。」
葵は真司の肩を借りながら子供のように泣きじゃくった。涙と鼻水が大洪水していたが、その洪水の中には赤色の液体も混じり込んでいたようで、ティッシュが赤く染まった。
「葵さん?血が・・大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。最近鼻血が出やすくて。服につきませんでした?ほんと、子どもじゃないのに鼻血なんて、恥ずかしいですよね、はは・・」
そういって葵は少しよろけた。真司はすごく心配し、葵は少しの間ソファに横にならせてもらうことにした。咲良の旦那さんといえど初対面の男性の相手の家で泣きじゃくり、目からなのか鼻からなのか血を流し、ましてやソファまで占領してしまうなんて。葵は急に恥ずかしくなった。
「葵さん、さっきよろけていたし、顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?もしよろしければ寝室で少し休まれますか?」
さすがに咲良の旦那のベッドを借りて長居するのも申し訳なくなり、葵は真司の家を出ることにした。マンションのロビーまで真司は見送ってくれるようで一緒にエレベーターに乗った。エレベーターの中では2人とも何も話さなかった。ロビーまで来ると、真司は葵の手をギュッと握ってこういった。
「葵さん、僕からお願いがあります。これからも咲良の分まで生きてください。今は、なんだか大きな苦悩を抱えているようにお見受けします。少し休むことも大事ですよ。僕が言える立場じゃないですが。」
真司はまた困り顔をしていたが、目は真っ直ぐ葵を捉えていた。その握りしめた手からは、大きな生命力を感じた。
「咲良が、真司さんを選んだ理由が分かった気がします。ありがとうございます。真司さんも、お身体気をつけて。さようなら。」
葵は真司の手をギュッと握り返して離した。真司は葵の姿が見えなくなるまで、はにかんだ笑顔で手を振って見送った。
マンションを出て少し歩くと、葵は大きな目眩に襲われた。コンクリートが歪んで見える。目が回る。でも、ここで倒れてはダメだ。葵はなんとか気を持ち直して、今度は清澄白河の実家へと向かった。電車に乗る気力がなかったので、タクシーに乗り込み、座席に倒れ込んだ。
「お客様、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。清澄公園の、清澄通り沿いあたりで降ろしてください。」
人形町から実家の清澄白河はタクシーで10分もかからない程度で到着した。もう少しかかったら、タクシーの中で気を失っていたかもしれない、そう思いながら葵はフラッとタクシーを降りて自宅へと入った。自宅の門の奥に、腰の曲がった男性が庭の手入れをしていた。葵は目眩で視界がぼやけていたが、それが自分の父親だとすぐに分かった。
「お父さん。」
葵が力ない声で話しかけると父親のヒロシは青ざめた顔で葵を見た。
「葵か?!どうしたんだ、その姿は。」
「お父さんに会いたくて・・・」
葵は門を入ったところで倒れ込んだ。
「ちょっと待ちなさい、救急車を呼ぶ!」
葵はヒロシのズボンの裾を強く引っ張り、こう言った。
「呼ばないで・・・お願い・・・ちょっと目眩がしちゃっただけなの・・少し休めば治るの・・・」
ヒロシは慌てて葵を持ち上げ、和室の布団へと運んで横にならせた。葵は20分ほど意識を遠のかせたが、なんとか取り戻し、呼吸も落ち着いた。
「葵、お前、あれから何人に、何年分、寿命を差し出した?二度と特殊能力は使わないっていったよな?」
ヒロシは声を震わせた。
「お父さん・・・私は、大丈夫。あれから、1回、それも1年しか使ってないよ。だから、あと14年は生きられるんだよ。だから、まだまだ元気でいられる。ちゃんとお父さんを見送れるから安心して。親をちゃんと看取ることが親孝行だっていうしさ。」
葵はちゃかしながら言った。しかし、ヒロシは全く納得している様子ではなかった。
「14年?それは何を根拠に言ってるんだ?」
「女性の平均寿命から、お母さんの残りの寿命と、今まで差し出した寿命を引いたの。ちゃんと計算して出た数字だよ。」
「葵・・・その根拠は、残念ながら、ない。郁美はな、昔から病気がちだったんだ。元々体力もあまりなくて、出産も難しいと言われていたくらいだ。でもどうしても1人子どもを産みたいって聞かなくてな。それで生まれたのが葵だ。郁美が、日本女性の平均寿命まで生きれたかどうかなんて分からないが、14年という数字はあまり根拠がないかもしれないことをわかってくれ・・・」
ヒロシは涙を浮かべながら、できるだけ眈々と離した。
「お父さん、どうしてそんなこと言うの?人の寿命なんて、分からないでしょ?どうしてそんな意地悪なこというの?!根拠がないのはお父さんじゃん。」
「すまない・・・葵・・・でも、今の葵の姿を見て・・・怖くなったんだ・・・どう見てもいつもの葵じゃない。だからもう残り少ないんじゃないかって思ってしまったんだ・・言いたくなかった。でも・・すまない。」
ヒロシは涙をシャツの袖で拭いながら言った。
「年甲斐もなく泣いて、葵も傷つけて、僕は何のために生きてきたのだろうか。」
ヒロシがこんなに泣いたのも、弱音を吐いたのも初めて見た葵は驚きながらも、自分はもうあと少しで死ぬのだと強制的に確信に変わった。
「葵、来てくれて本当にありがとう。本当は私が奈良に行こうと思っていたんだ。でも昔のこと思い出させてしまうんじゃないかって。でも、それは言い訳だったな・・ごめんな。こんな姿で来させてしまって。でも、会えてこんなに嬉しいならもっと早くに奈良に会いに行けばよかったな。」
「お父さん・・私・・・うう・・・死にたくないよ・・」
葵はヒロシの胸に飛び込んで声をあげて泣いた。ヒロシも泣きながら葵を強く抱きしめた。
「葵・・よく頑張った。お前の生き様を尊敬するよ。きっと、奈良の観音様がずっと葵のことを見守ってくれていたんだね。葵・・・生まれてきてくれてありがとう。そして、ちょっと渡したいものがあるんだ。待っててくれ。」
「渡したいもの・・?」
ヒロシは仏壇横の引き出しから何か持ってきた。
「葵、これは母さんが残して行ったものだ。母さんの誕生石、ルビーのネックレスだ。これからタカシくんのところに戻るんだろう?それまで、母さんが見守ってくれるように、このネックレスを身につけていきなさい。」
「ありがとう、お父さん。明日の朝、帰るよ。だから今日は泊まっていいかな?」
「もちろんだよ。今日はな、茄子のお浸しを作ったんだ。ご飯も炊けている。夕飯にしようか。」
葵とヒロシは、昔話やここ最近の町内会の流行りの話などしながら楽しく夜を過ごした。
「やっぱ純烈が流行ってるの?」
「しかも、私が純烈の1人に似てるらしくてな。なんて名前か忘れてしまったなぁ・・とにかく、モテモテなんだよ。」
「あはは、お父さん顔だけはかっこいいもんね!背は小さいけど!」
「顔だけってなんだよ!知性も品性もあるダンディズムを極めしものだ・・がはは・・」
この日、葵は実家の布団でぐっすり眠れた。こんなにちゃんと眠れたのは本当に久しぶり
。
翌朝、葵の身支度が整うとヒロシはタクシーを呼び、東京駅まで一緒に着いて行った。タクシーの中で葵はぼやくように言った。
「いつか、お父さんに奈良を案内したいな。一緒に京都もいきたい。また、会えるかな・・」
「会えるとも。すぐに奈良にいくよ。なんなら、これから帰るとき一緒にいこうか。」
「ううん、大丈夫。お父さん足悪いし、無理しないでよ。新幹線に乗ってすぐだから、何の問題もないよ。」
「そうか、本当はもっとゆっくりして行ってほしいところだったが、急いでいるんだろう。タカシくんによろしく伝えておくれ。くれぐれも、道中体調が悪くなったら救急車呼ぶか、どこかで下車して休むように。」
「うん、ありがとう・・・お父さん。私、お父さんの子でよかった。お父さんも、お母さんも、大好き。」
それから2人は無言のままタクシーを下車し、新幹線口の改札口に到着した。ヒロシは葵の肩をポンとたたき、「いっておいで」と送り出した。葵は涙を堪えるのに必死で、大したこともいえず新幹線にそそくさと乗り込んだ。これでお父さんと会えるのが最後かもしれないと思うと、胸がキュッとした。葵はヒロシから託されたルビーのネックレスを首にかけ、右手でギュッと握った。だんだん呼吸が苦しくなってきた。胸も痛い。お腹も痛い。でも意識は、まだある。なんとか持ち堪えながら京都駅に到着した。京都駅から三輪駅までは1時間半くらいかかるが、電車は30分に1本程度しかないため、もっとかかりそうだった。葵は急に寒くなり、身体の震えが止まらなくなった。これはまずいと思って、葵は思い切ってタクシーに乗り込んだ。この際お金なんか気にしない。1秒でも早くタカシに会いたかった。そういえば、この2日間電源がオフになったままだった。今日は土曜日。到着する時間には、きっとタカシは庭の手入れをしているだろう。
葵はタクシーでタカシのことをずっと考えていた。震えは落ち着いたが、唾液が血の味をしている。なんとかハンカチで口を押さえながら、奈良駅まで到着した。
自宅まであと30分前後。ハンカチが血で真っ赤に染まっている。これ以上血を吐くと、ハンカチから血がポタポタ垂れてしまいそうだった。鏡越しに葵を見てギョッとする運転手。
「ちょっと、お客さん!病院に行った方が・・!」
「大丈夫です。ただの鼻血なんです。進めてください。」
運転手は葵のことよりも、座席に血がつかないか心配な表情で車のスピードを上げた。
ああ・・自分の寿命があとどれくらいか分からないうちは、ずっと生きられる気がしていたよ。そりゃそうだよね。生きている間は、自分がいつ死ぬかなんてわからないもんね。こんな死ぬ間際にならないと、自分の寿命が分からないなんて・・。咲良もそれが分かっていたからあの時奈良に来てくれたんだね・・
葵は急に怖くなり、再び震えだした。それは悪寒によるのものなのか、恐怖によるものなのかの判断はつかなかった。
やだ、死にたくない・・・もう少しでいいから、生きていたい。タカシに会いたい・・お父さんに会いたい・・・
葵は目をぎゅっと瞑ってネックレスを握りながら神頼みした。
どうか、生きさせてください・・死にたくない、死にたくない・・
「お客様、着きましたよ!ご指定の住所に。」
葵はハッと目を開いた。家だ。思ったとおり、タカシは庭の手入れをしていた。その顔には表情が一切なかった。葵のことをずっと想っていたのだろう。心配で夜も眠れなかったのだろう。目の下には深く濃いクマがあった。
葵は急いでタクシーを降りて、タカシのいる方へ向かった。しかし、また強い目眩が生じた。今度は身体が火照る。暑い。苦しい。でも・・伝えなきゃ・・・早く・・伝えたい・・・・
「タ・・・カシ」
「えっ、葵?!!どこにいって・・・」
「愛してる。タカシ・・」
「葵・・・?」
葵は最後の力を振り絞って言葉にし、満開に咲く牡丹の花々の中に倒れ込んだ。
葵が身につけていたルビーのネックレスが、太陽の光を反射し、ただただ美しく光っていた。
ーfin.ー
実は、この物語を書く直前、私は鬱になりました。会社を休み、大量の薬を処方されました。突然の流涙や自己嫌悪、悪夢などに苦しみました。前書きにも書きましたが、鬱になって一層、生死について考えることが多くなりました。だからこそか、難しくて繊細な「命」というテーマに向き合ってみたいと思いました。最初はどうやって書こうかなんて思ってましたが、実際書き始めてみると、勝手に手が動いていきました。そこで私は実感しました。「ああ、私、このテーマを書きたかったんだな」と。休職中、狂ったように無心で書いていました。鬱になった時はただただ無気力で呼吸すら忘れてしまいそうだったのに、今は書くことの喜びに溢れている自分に驚いております。
物語については「悲しい結末」と思う方もいるかもしれませんが、私はこの物語を通じて、「命」について一歩近くに足を踏み入れてほしかったのです。そして「生」を実感してほしかったのです。最近出会う人や友人の中で、「生」の実感をあまり持てていない人が多いような気がしています。情報が多すぎるし、仕事に追われる日々。そして、今の時代、なんでも目的を見い出そうする風潮があるかなと思います。「何のために生きるのか?」「人生の目的は?」そのようなことを四方八方から迫られていて嫌になりますね。「生きる」ことで精一杯なのに。「生きる」のをやめてしまう人だっていますね。だから、無理に答えを出す必要なんてないと思うんです。「家族との時間が大切だから」「母親の笑顔がみたいから」「自分の趣味を楽しみたいから」案外当たり前のことが生きる目的になっているのかもしれないです。それを難しく考えると生きづらくなる。主人公・葵だって、「咲良のために」「タカシのために」「患者のために」・・すべて人のために生きていた。目的なんて考えてなかったと思います。みんな、好きに生きようぜ。
拙い文章をお読みいただき、本当に感謝しております。デビュー作だったため、稚拙な表現や至らない点等多々あったかと思います。それでもこの後書きにまで目を通してくださる方がいることが、この上ない幸せなのです。またどこかでお会いしましょう。ありがとうございました。