前半
腹立たしいのを全部暑さのせいにしたいけど、残念ながらそうもいかない。やはりだめだ、合わないのだ。あの人たちはなにかが違う、違いすぎている。一晩経って忘れてしまえればいいが、ここ最近、そろそろ限界なのではないかという気もしている。さんざん偉そうなことを言っておいて、しょせん彼らはできないからやらないだけなのだ。「僕たち忙しいから、そういう雑用は下々にやってもらいたいんだよね」などともっともらしいことを言いながら、いざ自分たちにやらせてみたら、なにもできやしないのだ。他人のせいにすることだけはどんどん上手くなっていくものの、締め切りもろくに守れない。そんな人たちは下々がいる限り、自分たちがどれほど仕事ができなくなっているのか気づかずにすむ。上司だって気づいているのだろうが、ちょっとでも注意すると、たちまちパワハラだなんだと大騒ぎするのがそういう人たちの常なのだ。見ている人も口に出さないだけで本心ではわかっているはずだ、そう思わないと、とてもやっていられない。今日もいつもと同じように繰り広げられていた場面を横目に、みんな腹の中ではどう思っていたのか。
今までワードで作られていた、計算表がついた文書があった。毎回手計算して仕上げられていたのを、「自動計算させたほうが楽ですよ」と、他部署の人がエクセルで作り直したものをくれたらしい。そのファイルを用いて作った書類の合計値が合わないようで、書類を回したLさんは、上司に「これもう一度確認して」と言われていた。Lさんは「わかりました」と言うが早いか、まっしぐらに私のところにやってきて、「悪いんだけど、これ、どこが間違ってるか調べてくれる?」と言った。毎度ながら、自分で原因を確かめる気はないらしい。こういうささやかな日々の積み重ねが、パソコンを使えないままでいられる秘訣なのだと思いつつ、事務補助という名目でここにいるからには文句は言えない。紙っぺら一枚しかくれなかったので、「電子ファイルないんですか」と訊くと、「僕が作ったんじゃないから、どこにあるのか知らないんだ」と意味不明の返答があった。仕方ないので自分で探し出して確認してみると、最後の一行が、計算範囲に指定されていなかった。全部電卓で洗い直していたら、何分かかったことだろう。確かに雑用が私の仕事なのだし、自分たちよりも時給が安いから、どう使ってもいいと思っているのだろうけれど、もう少し配慮すべきではないか。こみあげてきた怒りを抑えられなくなり、立ち上がると「いい加減にしろよ」と怒鳴ってやった――そんなことができたらどんなにいいだろう。現実にできることと言えば、廊下に出て、誰もいないことを確認してから、その辺にある段ボール箱を蹴とばすことくらいだった。段ボール箱に罪はないというのに。
もう少し自分のこととしてとらえてもらえないものだろうか。定年までまだ十年以上はあるはずなのに。一生転職する必要がないと、安心して頑張れると同時に、頑張らなくてもいいという気持ちもまた芽生えるものだということを、ここに来て知った。僕が作ったのではないのなら、一体誰が作ったのだろう。そういうことは、追及してはいけないのだ。それがずっとここにいるためのルールだった。
なにを言ったところで、こういう人たちにはなにも響きはしない。終わったことはなかったこととなり、次に生かされない。だから私のような役目がいつまでも必要とされ続けるのだが、こういう手伝いばかりで日々が過ぎていくと、だんだんと日々に現実味がなくなっていく。こんなの私のしたかったことじゃない、まあ、誰だって、どこへ行ったって、多かれ少なかれそう思うのだろうけど。周りの人のことを考えて、責任感を持って働いている人の手助けをするなら、もっと忙しくても喜んでできるのに、ついそんなことを思ってしまう。Lさんみたいな人の下にいると、彼が人から頼まれる仕事自体が少ないので、確かにゆとりはある。しかし、毎日のように「またこんなことか」と思いながら過ごすのは、それはそれで体に悪い。
こういう人が一番頑張ったのは、おそらくは採用試験の当日だったのだろう。日々しぼんでいくボールに、普通の人はせっせと空気を補充するものだが、そういうことができない人というのも少なからず存在する。自分では弾むことができなくても、ほかの人たちがその分弾んでいれば、目立たないままときが過ぎる。結局は、長く働き続けられるのはそういう人なのかもしれない。学生時代に、社会に出たらなんでもちゃんとやらないといけないのだと、あんなに怯えていたのはなんだったのだろう。いつの間にか、私が一日の大半を過ごす場所はこんなところになってしまっている。以前はいい人もいたけど、みんないつの間にかいなくなってしまった。
風呂上りに髪を乾かし、まだ寝るつもりではないものの、一度ベッドに寝そべったら、そのまま起き上がれなくなった。あいにく手の届く範囲にスマートフォンも本も置いていないので、なにもできない。手持無沙汰ではあるけれど、この心地よい領域を出てまでなにかしようという気にならない。
視界に机が入る。私の机。これを買ったとき、店頭には針葉樹材のものと広葉樹材のものとがあって、奮発して一万円ほど高い広葉樹材の方を買ったのだった。ここに引っ越してきた当初は、この机があれば自分にもなにかできるかもしれないと根拠のない期待を抱きながら、日々わくわくしていた。しかし、結局のところ未だになにもできてはいない。いくらよい机があっても、使っている人になにもなければ、なんら生まれようがないのである。最近では半分物置きと化してしまった机を見ながら、私もまたなにも書けないままで終わっていくのだろうかと思う。彼女がそうであったように。
そのとき、突然なにかが部屋の中に飛び込んできた。鈍い羽音は、そこそこ重量のある虫を思わせる。ゴキブリだったらどうしようかと恐る恐る確認すると、カナブンだった。
一瞬安心したが、歓迎できるものではない。なぜ突然カナブンが私の部屋に入ってきたのか。網戸に開いた穴をそのまま放置していたので、こうなるのは時間の問題ではあった。灯りに誘われてふらふらやってきたのだろう。カーテンは閉めているが、偶然体当たりしてみたらそこに穴があったのか、それとも穴を認識して飛び込んできたのか。とにかくなんらかの方法で、やつは穴を通過してしまった。そして今、ここにいる。最近暑すぎて蚊もへばり気味で、少しくらい破れていてもまあ大丈夫だろうと吞気でいたが、まさかこんな大物がやってくるとは、すっかり油断していた。この近所に生息しているカナブンは、薄い茶色で産毛が生えたものが多いのだか、今飛んでいるのは、メタリックな緑色のものだ。この辺りには、こんなものも住んでいたのか。そもそも、メタリックなカナブンと地味なカナブンとの生息地はどう違っているのだろう。それぞれどんな食糧を必要としていて、どんな場所で寝ていて、簡単に言えばどんな樹が生えていれば生きていけるのか。私には未知の世界だった。
結局彼女のことだって、私はほとんどなにも知らないままだった。
高校生のとき、私たちは文芸部に入っていた。部誌を作るために定期的に職員用の印刷機を借りていて、ある日、顧問の先生につき添ってもらっていたときのことだった。「こういうの、全部読んでるんですか?」と何気なく尋ねてみると、「普通の雑誌と同じで、面白そうなのしか読んでないよ」との返答があった。顧問の先生といっても、普段は特に交流のない人だったし、概ね予想通りの返答だった。しかし、想像していたのと実際言葉にされたのとでは、やはり受け止め方は違った。きっと彼女の原稿は読まれているのだろうと思った。彼女は私より学年が一つ下だったが、その文章は、明らかに他の人のものよりも読みやすく、読み始めたら最後まで一気に読んでしまうものだった。ちょっと書ける高校生の域を出てはいなかったものの、ときには涙してしまうこともあったし、誰かに「これ読んでみなよ」と勧めたくなるようなものだった。一方私の原稿は、真っ先に読み飛ばされても文句の言えない代物だった。
多くの部員にとっては趣味のようなものだっただろうし、今みたいにブログやSNSがあれば、あえて文芸部なんて入る必要はなかったのかもしれない。お互いが書いたものについて口出しすることもほぼなくて、ただ定期的に集めた原稿を印刷して冊子にして、淡々と配っておしまいだった。誤字脱字の確認は一通りあったものの、内容についてとやかく言われることはなかった。十代なんてそんなものだった。自分が干渉されたくないから人にも口出ししない、私にとっては、そしてまた他の人にとってもそんな日々だったのではないだろうか。
そんな中で彼女だけは、正々堂々と自分をさらしていた。失恋したことなども、相手の本名すら出さないものの、臆せず書き続けていた。さり気なく見て見ぬ振りふりをされながらも、それでもみんな、しっかり彼女の原稿を読んでいることがうかがわれた。図書室にも置かれているので、部員だけでなく全校生徒に読まれる可能性があるというのに。そういうものにプライベートなことを堂々と掲載できるだなんて、私にはとても無理だと思った。文章の上手い下手以前の問題だった。私のように当たり障りのないことをさらにぼかして書いたところで、先生だけでなく他の部員にも読み飛ばされておしまいだった。それを知りながらも、結局私の書くものが当たり障りのない範囲から出ることはなかった。もし同じ学年だったら、我々はもう少し話す機会もあったのだろうか。十人近く部員がいた中で、私たちはそこまで親しいわけではなかった。
大学に入ってしばらくしたころ、気づいたら、彼女はブログを始めていた。時折そのブログを見ながら、やっぱりこの人は違うんだなと思った。そのときは詩がよく書かれていたが、私にこんなものを書ける日が来るとは到底思えなかった。
みんなが大学を卒業して社会に出始めたばかりのころだった。彼女のブログに書かれることは、少しずつ変わった内容になっていった。相変わらず引き込まれる文章ではあったものの、気軽にコメントできない内容が増えていった。例えばある日の日記によると、どこかに偶然できた割れ目から、突然不思議な生き物が現れて、彼女を困惑させるらしいのだ。どこかへ行ってほしいと思っても、なかなかいなくなってくれなくて、彼女はかなり辟易していたようだった。――辟易なんて言い方でどうにかなるものだったのだろうか。戸惑い、混乱、恐怖、あきらめ、そしてどこまで本当なのかいまいち信じきれない私たち。そんなの、しょせん外野にはわかりっこなかった。職場でのことだって、同じ状況にいようと、嫌がらせだと本人が思えばそうなるが、ただ気遣いが足りないだけで悪気はないと言われればそれでおしまいだ。要はものごとのとらえ方の問題なのだ。ちょっともやもやした、嫌だなあという思いを少しだけ大げさに書いてみると、ああいうことになっていただけかもしれない。どこまで本当でどこまで想像だったのかはわからない。他界してからもう三年が過ぎた。彼女のブログは親族が削除したようで、今となっては、なにが書いてあったか確認できないのだが。
どうも羽音が増えた気がして、目をやると、虫の数が増えている。そのテントウムシのような生き物は、カナブンとほとんど変わらない大きさになって、楽しそうに飛び回っている。恐れるようなことではないと思いつつも、普段は一センチにも満たない虫が、カナブンと同じ大きさでいるのは、これをそのまま納得して受け入れていいものかどうか疑問である。このまま放置していたら、次はなにが現れるのか。楽しそうにしている虫たちに、「ここは私の部屋なので、ご遠慮願いたいのですが」と一言注意したほうがよいのか。話せばわかる相手なのか、叩き落としたりして無理矢理わからせないといけないのか。しかし、問題は私がここから一歩たりとも動きたくないということだ。やはり、思った以上に疲れているのかもしれない。その上彼らを見ていると、ますますやる気がなくなってきて、ますます床の上に足を下ろすのがおっくうになってくる。もしくは彼らは私からやる気を吸い取っているからこそ、こんなに生き生きとしているのかもしれないが。
次に入ってきたものは、もはや現実のものとは思えないものだった。ぬいぐるみでなら、見たこともあったかもしれない。これがテーマパークの中であれば、にこにこ笑いながら見ていられるのだろう。しかしここはテーマパークではない。私の部屋の中なのだ。こんなものが飛び回っていてよいところではない。百歩譲ってでかいテントウムシはまだ許せるにせよ、こんなものがいていいわけはない。それは、おそらく人面鳥と呼ばれる類のものだった。オカメインコほどの大きさで、あの穴から入るのは本来であれば物理的に無理なのだが、カナブンやテントウムシが通り道を作ってしまったのだろう。しかも、あの図体を支えるにはかなり頑張って羽ばたかないといけないのだろうが、やたらと優雅な動きを見せている。二分の一倍速で再生されているかのような、気だるい羽ばたき方だ。性別はわからないが、髪は短いようだ。仮面をつけているので、人相はよくわからない。しかも、仮装舞踏会にでも行くようなふざけた仮面ときている。なんでこんなものが私の部屋の中を飛び回っているのだろうか。そろそろやる気を出して、やつらを蹴散らしてガラス戸を閉めればなんとかなるのか、でも今の私にそんな気力はない。目の前で起きていることを、ただ黙って見ていることしかできない。