読めないのは作品が悪いからじゃない 読めない私に問題があるのです
詩を読む際の視点として、私は、常にタイトルのように思う視点を持ち向き合うのです。
……何故なら、評価とは、限定されて初めて浮彫りになる形に過ぎず、どのような作品にも美はあると私個人的に理解しているからですね。
自分に見いだせない美がそこにたとえあったとしても、その御作品に美が無いとは言えない。ただただ、今の私にはその美が理解出来ないだけなのだから。
そういった視点です。
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特に詩のようなものは、曖昧な表現が多く、読む人間の味わい方、想像性によっても『読み方そのもの』が変化しがちなものだと個人的には理解しています。
発想を拡げ、想像を拡げ、目の前の詩的世界を泳ぎたいのならば、私自身が先ず、その穴に何も持たないままのまっさらで透明な心で飛び込む必要があるのです。
……いえ、私個人がそのように感じている、思っている、ということですね。
私以外の他者、詩を読む方々楽しむ方々がどのように詩に接しているか、は、私個人には関わりも関係もない思考ですから。
私は私個人の目線で目の前のものに向き合い、私が今掴みたいものをそっ、と見ようとしているのです。
それは、およぐ、というものだと私は思っているのです。
およぐ。
目の前のあなたは、どう見るでしょう……?どう、およぐでしょう……?
……ほら、美とは千差万別なもの、ですね。