碧(あお)の女神
緑豊かな森に囲まれているリブシャ王国は、その恩恵を主に森から受けている。
周囲を取り囲むワイルダー公国やハーヴィス王国と同様に海岸を擁した土地も国土として有しているのだが、断崖絶壁から見下ろすことになる砂浜から海の恩恵を受けることは至難の業だった。
「南国では広い砂浜に桟橋を築いて帆船を航行させ、交易で栄えている。我がリブシャ王国は豊かではあるが、いずれは海路を発展させねばならぬ日が来るかも知れぬ」
「森の恩恵だけでは、立ち行かなくなる…とお考えですか?」
「森の女王を信頼しておらぬ訳ではないのだ。決してな。ただ為政者として、思いも寄らぬ事態に陥った場合の方策を常に考えておかねばならぬ」
リブシャ国王はそう言うと、年若く麗しい王女に微笑む。
「特に、三国間の同盟が成立すれば我が国の食糧が急速に消費されていくことになる。農業も酪農も、気候に大きく左右されるものだ。我が国は温暖な気候であるが故に、備蓄が少ない。三国分の食糧生産は問題無くとも、南方の動きによっては、今以上に備蓄が必要となるだろう」
「南の土地のほうが食糧が豊かだと聞きます。彼等にとって、我が国の食糧はそこまで魅力的なのでしょうか?」
心に浮かんだ疑問をそのまま口にしたエリーに、王は目を細めた。
「…其方は恐れを抱かぬか? 広大で肥沃な土地を持つ豊かな国が、強大な武力を持つことに」
「恐れ、ですか…?」
エリーは父王の青い瞳を見つめる。歴代の王が持つ青い瞳。エリーもまた、その青い瞳の持ち主だった。
「その感情が、いつの世も国の命運を大きく左右するのだよ。見通しが甘過ぎるのも駄目だが、悲観的過ぎても良くない。他国への信頼と警戒を等分に持ち合わせ、常に自国の民の利益を護ることを念頭に置く。この配分と行いを誤ると、我が国のように武力を持たぬ国は直ぐに攻め落とされるだろう」
「国王は、ワイルダー公国とハーヴィス王国からの忠誠心をお疑いですか?」
「あの若く才気に満ちた皇子達のことは心から信頼しているよ。二人とも、余の大切な姫を救い護り続けてくれるであろう。森の女王と同様に、其方にとって心強い味方だ」
国王はそう言いエリーへ微笑むと、断崖を一旦見下ろし、そしてまたエリーを見た。
「初めて見る海はどうだ?」
「森や国土よりも広いものを初めて見ました。それに、本当に…」
「本当に?」
「父上の瞳の色にそっくりなのですね。母上が仰った通りでした」
無邪気に笑う姫に若き日の妃を重ね、国王は目を細める。
「…そろそろ母上とお茶を飲もう。ところで、サラへの婚約祝いはもう決まったのか?」
高所を怖がる王妃の為に張られた天幕の中ではお茶の準備が整い、王妃はそこで大人しく二人を待っていた。
「はい。この場へ来て、心が決まりました。それで…お二人に許可をいただきたいのです」
「そのように畏まらず、何でも申すがよい」
「恐れながら申し上げます。サラは森の女王の息女ですが、リブシャ王国の国民でもあり、リブシャ王室の大切な友人です。その証として、青い宝石を贈っても宜しいでしょうか? サラに相応しい贈り物だと思うのです」
「構わぬ。母上に相談してみよ。良い宝石を選んでくれようぞ」
「ありがとうございます、父上」
「サラ。海を見たことはあるかい?」
「海? いいえ」
ワイルダー公国の若き妃殿下となったサラは、クレイに与えられた北の領地を視察する馬車の中で夫に答える。
「…そうか」
普段は宝石箱に大切に仕舞われている、サラの胸元を華奢に飾る蒼い宝石を見つめていたクレイは、その返事に口許を緩めた。
「この先に海を臨む断崖があるんだ。道が悪いから馬車で行くことは出来ないが、馬を駆けさせることなら出来る。散歩してみるかい?」
「いいの?」
「ああ」
優しく微笑む夫にサラは瞳を輝かす。
目的地のひととおりの視察を終えた二人は、馬の準備を整えた護衛騎士達に冷やかされながら崖へと向かった。
「やっと二人きりになれた」
まだ馬を操るのは苦手なサラをすっぽりと腕の中に納めたクレイは、満足そうに手綱を捌く。
「馬車の中でも二人きりだったのに、変なこと言うのね」
「馭者も従者も護衛達もいない、二人きりのことだよ。城には使用人がいるし、私室にも侍女がいる。まぁ、リブシャ王国で暮らしていた時ですら、デラがお目付け役として常に側にいたけどね。…それ以前に、こうして一緒にいられる時間が少なくて、本当に申し訳なく思っている」
クレイの言葉に、そちらの意味だったのかと納得したサラは夫の胸に寄りかかる。
ワイルダー公国とリブシャ王国、そしてハーヴィス王国との同盟手続き後もクレイは政務に追われて日夜飛び回り、同じ城に住みながらサラと同じ時間に食事を取ることすら難しい。
「王子様って、本当に忙しいのね」
「僕は兄上達に比べたら暇なほうだよ。今の仕事を終えてこの領地へ移れば、退屈を持て余す生活になるだろう。あと少しの辛抱だよ、サラ。僕が君を外へ連れ出せないせいで、なかなか森に行けなくて寂しくないかい?」
「森に行けなくても大丈夫よ。そばに緑がある限り」
「…そういえば最近、王都周辺の農地の作物が良く育つようになったと聞くな。ここの土地もそうなれば良いんだが」
リブシャ王国と違ってワイルダー公国は痩せた土地に緑少ない国土だった。特に、クレイに与えられたばかりの北方の領地は、僅かな土地に生える牧草で細々と酪農を営むような岩場だらけの土地だ。
この地で暮らすと決めたクレイは、正直、この土地がサラに与える影響を懸念していた。
サラの出自を考えると緑豊かな土地に居を構えたかったが、もともとワイルダー公国は荒れ地の国土。リブシャ王国に到底敵うはずがない。
サラも特に問題はないと言い嫁いできたのだから大丈夫だろうと思いつつも、たとえ無駄な努力であったとしても屋敷には庭園や温室を造ろうとクレイは思っていた。
「クレイがここの土地を望んだと王妃様から聞いたけれど…。どんな思い出があるの?」
視察を終える前から顕著だった土地の荒廃ぶりからも、この土地が人手から離れて長く経っていることは明らかだった。
そこへ新たに人手を入れようとするクレイの試みは一見、サラへの配慮のようでもあったが、何か別の意図があるのだろうとサラは薄々感じていた。
「ここはデラの故郷なんだ」
「デラの?」
「戦の影響による被害が最も大きかった所だ。あの頃の住民の殆どが犠牲者となった。当時の住民で生き残ったのはデラくらいだろう。…僕は王子として、戦から国民を護りきれなかった王族からのせめてもの償いとして、デラに故郷を返したいと…家族を返したいと思ったんだ。僕達が此処に住むことによって路が拓け、市が立ち、人が集まる。土地としては不毛かもしれないけれど、海があるから観光に使えるかもしれない。…君はどう思う?」
馬が歩みを止めると同時にクレイに促された視線の先を見て、サラは目を見張った。
「…綺麗…」
澄み渡る空の色を写し取った海面が、ところどころ太陽の光を反射して白く輝く。遠くまで続く水平線が空との境目をはっきりさせながら、海よりも空の広さをサラに知らせる。
「これが海なのね。なんて青い…」
潮風の匂いを胸に吸い込み、サラは感嘆の溜息を吐いた。
「…エリーにも、見せてあげたい」
「この海岸線はリブシャ王国にも繋がっているから、エリーも同じ海を見ることができるよ」
「同じ海を…」
「これからはこの景色を通じて、僕達と、僕達が大切に思う人達と一緒に暮らしていきたいんだ。いずれデラが討伐部隊から戻ってきたら、デラと…デラの大切な人も迎え入れたいと思っている」
「ありがとう…クレイ」
嬉しそうにクレイを振り返るサラに、クレイは微笑んだ。
「賛成してくれる?」
「もちろんよ」
「デラは屈強な精神を持つ立派な騎士だ。王都はなかなか手放してくれないかもしれないけれど、それはそれで、ある意味好都合かも…」
「どういう意味?」
「賑やかなのも悪くないけれど、こうして二人きりでいる時間も存分に楽しみたいんだ」
「それは難しそうよ」
クレイは驚いてサラを見つめ返した。
「早速お迎えが来たわ」
悪戯っぽく微笑むサラに促されて、クレイは大仰に溜息を吐いてみせ、仕方なく振り返る。
早目に出発しなければ日暮れ前までに宿に着けないことは分かっているが、久々の妻との時間をゆっくり過ごさせてくれないような無粋な奴には懲らしめの為に訓練の時間を増やしてやろうか。
そう思っていたクレイは、無粋な騎士の姿を認めて我が目を疑う。
「皇子、そろそろ出発のお時間です」
「デラ…」
すっかり背丈が伸び、少年から青年へと成長したデラが馬を携えてそこにいた。
「討伐部隊隊長より伝言をお届けにあがりました。我々の任務は本日をもって完了し、以後、国王の命に則り第三皇子の指揮に従います。…このたびの叙勲で私は騎士見習いから騎士へ昇格し、本日の視察の護衛に合流するよう騎士団長に命ぜられて馳せ参じました」
地に跪き騎士の礼を執るデラに、クレイはやや慌てて尋ねる。
「…いつからそこにいた? いや、どのあたりから聞いていた?」
「王都が私を…のあたりでしょうか。これでも気を利かせてゆっくり歩いて来たのですが。なにぶん、地の利はこちらにありますので」
夫の微かな安堵の息に気付いたサラは笑いを噛み殺す。
「久し振りね、デラ。お帰りなさい」
「ご無沙汰しておりました、サラ妃殿下。ご機嫌麗しく何よりです。如何ですか? 我が国の『碧の女神』の美しさは」
「『碧の女神』?」
「ここの村人は、かつてこの地をそう呼んでいました。今ではその名を知るのは私だけになってしまいましたが…。ここから眺める海の景色は、ワイルダー公国随一の美しさなんです。今日のように天気に恵まれた日は特に…神々しいまでの美しさでしょう?」
「本当…。素敵な呼び名ね。ぴったりだわ」
誇らしげに語るデラに頷き、サラはクレイを見上げた。クレイも頷く。
「馬に乗れ、デラ。その話の続きを宿で聞かせてくれ」
「御意。馬車までの抜け道をご案内致します」
「頼む」
ひらりと馬に乗る頼もしい背中を眺めながら、クレイは手綱を握り直す。
「良かったわね。すっかり逞しくなって」
「ああ」
「忙しくなるわね」
「…参ったな」
言葉とは正反対のクレイの表情を見て、サラもクレイと同じ表情で青年騎士の背中を見つめた。
本編と短編で小出しにしてきた、まとめて書きたかったエピソードのひとつが完成しました。
討伐部隊からやっと帰ってきたデラですが、クレイの言葉通りしばらく王都から離れることが出来ず(もちろんクレイとサラも)、マイリへのプロポーズはここから更に数年かかっています。