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真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
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arcadia

第二次長州征伐は、四境戦争とも呼ばれる。

四境とは石州口(石見国、現在の鳥取県方面)、芸州口(安芸国、広島県方面)、大島口(周防大島、瀬戸内海方面)、小倉口(馬関海峡を挟んだ北九州方面)の四方面である。

石州口は長州から見て北東の方角にあたる。同じく芸州口は南東、大島口は南西、小倉口は北西。

予想される幕軍の総数は約15万という途方もない数だった。幕府は、この大軍でもって長州全土を全包囲するつもりである。

対する長州軍は約7千5百。数だけ見れば真面目に考える気も起こらぬような兵力差である。これでどう戦うか。

少し前まで蔵六は、とにかく施条銃を喉から手が出るほど欲していた。

銃身の内部にライフリングを彫り、弾丸を回転をあたえて飛ばす施条銃は命中率、射程距離ともに火縄銃の比ではない。これを、蔵六が塾で徹底的に散兵をたたきこんだ長州兵に持たせれば、自分の体重より重い甲冑を着込んで一箇所に固まっている幕軍が数の上で優っていても、蹴散らすのはそう難しくはない。

が、買えぬ。

買うなら外国の武器商からだが、現在朝敵とされている長州と商売をすることは禁じられていたのだった。ことが露見すればどこの国の商人も日本での商売がやりにくくなる。金があってもなかなか売ってはくれぬのである。

が、これは薩長同盟のおかげで解決した。

というか、その解決のために苦汁を飲んで怨敵薩摩と同盟を結んだのである。薩摩藩の買い物という名目で銃器を買い、それを右から左に長州へ横流しする。その薩摩ではここ数年不作が続いており、兵糧米にとぼしい。長州征伐の後に来たるべき倒幕戦争においてはこれを長州が提供する。そういう持ちつ持たれつが約定である。

蔵六は、そういう政治的な場にはいっさい出ない。

むしろ、なかば意図的に政治的なことに無関心であろうとしている。

(自分は、桂の手足であり道具であって頭脳ではない)



高杉晋作は、現在長州海軍総督を拝命している。

その高杉に、蔵六は小倉口の攻略を命じた。

こう言っては何だが、長州の海軍力は大したものではない。ぼろ船が数隻ある程度で、その乏しい海軍戦力はまとめて全て小倉口に集中させるしかなく、同じく海から幕府海軍が押し寄せて来るであろう大島口は最初から捨てるしかない。

が、そののち大島口では幕府海軍が、あろうことか無辜の島民に狼藉をはたらきはじめたため、やむなく手勢を割いて大島口に向けた。非戦闘員である民間人に手を出すべからずは、この時代であっても常識であるはずだが、この一点だけを取っても幕軍の質の低さが見てとれた。

芸州口では、しばらくは激しい戦闘が続いたが、やがて戦線は膠着し睨み合いになった。

石州口は、蔵六みずからが出陣し、石州浜田藩にて浜田城を落とした。

ここまで、わずか10日程。

小倉口はいささか戦闘が長期化したが、そのうちに第14代征夷大将軍・徳川家茂が大阪城で逝去し、おもだった藩の軍勢は引き上げてしまう。孤立した小倉藩は城に火をかけて退却。

芸州口のみは膠着状態のまま、どちらの勝ちとも負けともつかぬままだったが、他の三箇所はどこも長州の全面勝利であった。



幕府の権威は地に落ちた。

それ以前も、だいぶ前から屋台骨の根太がゆるんではいたが、第二次長州征伐の失敗はそれを全国、どころか諸外国にまで露呈してしまった。

「この機を逃すな」

勢いに乗ったまま、倒幕戦争にまで持ち込みたい勢力が増えるのは当然であろう。しかし作戦立案の総責任者である蔵六は、

(まだ早い)

短くとも数年、できれば10年は欲しいのが本音だった。

勝ったとはいえ蔵六は、幕軍を決して過小評価してはいない。今回の第二次長州征伐で直接長州軍と交戦したのは、厳密には幕軍ではないのである。幕府の命で動員された諸藩の軍であった。幕府直轄軍は、わずかに芸州口に投入されたのみである。幕軍随一の精鋭であるフランス式の調練を受けた陸軍歩兵で、彼らが出てきてから戦線が膠着し始めた。

この幕府歩兵部隊の士官たちが、かつての蔵六の教え子たちである。

それに諸藩の兵とても、弱いとはいえ、出てくるものを相手にせぬわけにもいかず、数も多く、交戦すれば少ないとはいえ損害は出るし疲弊もする。その後真打ちの精鋭に出てこられて果たして勝てるものかどうか。

(今すぐは無理だ)

だから時間をかけて兵を養いたい、そのための時間を蔵六は欲している。

だが、それを決めるのは蔵六ではなく桂である。

さらに言うなら薩長同盟がある以上、桂とても独断で軍の進退を決めて良い訳ではなかった。薩摩の西郷、大久保が何をどう考えるか。面識どころか名しか知らぬ蔵六あたりには何をどうしようもない。



そんななか、高杉が死ぬ。

労咳である。まだ特効薬のないこの時代、稀に、よほど運が良ければ初期の養生で完治することもあったが、まず9割9分にとっては死病であった。

暫く前に蔵六は、高杉に請われて彼を診察している。残念ながら既にだいぶ進行していた。養生など、初手からする気は無かったと見える。

「君でも無理か」

高杉は流石に残念そうに笑い、そう言った。

「私であろうとなかろうと、どんな名医でも藪医でも同じことです」

医者は呪い師にあらず、診察を受ければそれで治ると言うようなものない。まあ呪い師の御祈祷を受けたところで治りはせぬのは同じ事であろうが。

「相変わらずだな君は」

高杉は、苦笑するほかない。

「まあ僕の事は良い。無為にただ長く生たところで意味はない。以前に言った通りだ」

「本当に無為なら仰る通りですが」

今の時代、この高杉晋作という特異な存在には、可能なものならせめてもう数年、生きていて欲しかった。そう言うと高杉は、珍しいこともあるものだ、君でも追従を言うことがあるのか、と笑って咳込んだ。

しかし蔵六は、追従を言ったわけではない。

藩内ですら、人望以前に名を知る者すら少ない蔵六が、まがりなりにも滞りなく対・長州征伐戦の指揮をとれたのは、実のところ高杉の存在が大きいのである。暴れ馬の名高い高杉が、にわか司令官の蔵六にあっさりと従ってしまったものだから、周囲は驚きつつもそれに倣うしかなかったのである。

奇兵隊はじめ、庶民軍である諸隊は藩内の佐幕勢力を一掃した軍事クーデターの主力であり、その功あって現在だいぶ驕慢になっている。

クーデターの立役者であり、彼らを創設し率いた高杉ですら、馭すのに苦労している。他の者ではとても言うことを聞かず、そのため諸隊のほとんどは、四境戦争では高杉が大将をつとめた小倉口に投入された。

一方で、蔵六が直接率いた石州口の長州軍は、小隊長や中隊長クラスに蔵六が手ずから教えた兵学塾の生徒を据えたからこそ、指揮がに滞りがなく済んだ。

なんだかんだでこの種の細かい人間関係のあれこれを人事に反映させることもそれなりに重要な仕事ではある。蔵六は無愛想がすぎるあまり、人間感情に無神経な冷血人間のように誤解されがちだったが、このへん決して殊更に無頓着であったわけではない。

「まあ、そこは良く言い聞かせてはあるのだがなあ」

高杉はことあるごとに、今後は大村を仰げ、と周囲に言い続けた。蔵六は石州口で多少なりとも武功をあげたし、わずかずつではあるが声望というか、この人のもとで戦うのならば無駄死にせずにすむという、そういう種類の信頼がうまれつつはあった。

が、この人のためなら命も要らぬというような忠誠や崇拝ではない。

「そんなものは不要です、死にたくないから私についてくる、むしろそうであって貰わねば困ります」

戦争などせずにすむならその方が良いし、するならするで損害は少なければ少ないほど良い。それが近代の戦争であり軍隊というものである。

蔵六の言い草に、高杉は再び苦笑した。

「戦もだが、それより何より桂さんを頼む」

最後にぽつりと言った、それが高杉の本音のようだった。



慶応3年(西暦1867年)4月14日、高杉晋作永眠。享年わずか29歳であった。

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