表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
7/19

守るべきもの

蔵六は、改名を命じられた。

唐突な話である。慶応元年十二月初頭、第二次長州征伐を目前にした或る日の事だった。

「いえ、先生だけではございませぬ」

実は私もなのです、と命を伝えにきた桂が言う。

「なにしろ先生の御名前は幕府内では有名過ぎますので」

そう言えば蔵六は、元幕臣なのだった。正直なところ言われるまですっかり忘れていた。

幕府の設けた武官の育成機関である講武所と、蘭学全般の研究所で兵学も教える蕃書調所、双方で講義をしていた。従って、長州に寄せて来る幕軍の中にはかつての教え子達が大勢居るはずである。長州軍の将のひとりがかつての師匠と知れれば、あるいは手の内を読まれるやも知れぬ。

桂は桂で、こちらもやはり幕府側に顔も名前もだいぶ売れていた。かつて京で倒幕運動にさんざん暗躍していたのだから当然である。蔵六同様、名を変えて正体を隠しておくに越したことはない。小手先の目くらまし程度の策ではあるが、何もしないよりは良いだろう。

同様に改名を命ぜられた者は他にも何人かいたようだったが、蔵六は詳しい事は知らない。

蔵六は、大村益次郎と言う名を名乗ることにしたが、実際にそう呼ばれる機会はまだ少ない。要するに新しい名は対外的なもので、桂をはじめ、藩内の、以前から付き合いのある者達(少ないが)が、面と向かって新しい名を呼んで来るのは公式な場面ぐらいのものである。

桂も、諸事情あってはじめ木戸寛治、のちに準一郎、さらに孝允と何度か改名した。こちらも定着するのはだいぶ時間がかかるだろう。そんなこんなでふたりとも、あいかわらず桂殿、先生、と呼び合う日が続くので、本稿もそれに倣う。



桂は帰国後すぐに、内用掛という役職に就かされた。

通常時なら藩主の側用人とでも言うべき要職である。現在は、実質、藩内の独裁権力を握ったと言って良い。

任命の直後、桂がやった最初の仕事は、蔵六を用所役・軍政専務という役職に抜擢することであった。

国防局の局長といったところであろうか。軍事に関しては藩内では頂点たる立場で、上は桂ぐらいしかいない。

この時点で村田蔵六こと大村益次郎、長州藩内ですら名を知らぬ者が多かった。

周囲は無論驚いた。蔵六は、桂が長州帰還に際して唯一連絡を取り合ったほど信頼の厚い同志であり、藩兵の洋式化に尽くしてきた蘭学者で、かつ番の相手でもあるとのことで、多少は納得せぬでもない者もないではなかったようだが、

ーーーそもそも百姓医のあがりなどが、何故桂殿の番をつとめておるのか。

いまさらのようにそんな声も上がったが、当の蔵六は周囲の反応など意にも介した様子はない。日頃と変わらぬ仏頂面で辞令を拝命したきり、

(幕軍に、どうやって勝つか)

既に、そればかりを考えている。



そんななか、ある時桂の自宅を訪ねた折に、一人の美しい女が居た。

「木崎松子と申します」

ああこれが著名な幾松か、と例によって蔵六は他人事のように思った。

昨夜は木戸の邸に泊まり、けさがた桂は所用あって早朝に出かけ、蔵六は残ってたったいま遅い朝飯を出されて喰っている。出てきたのがいつもの給仕の下女でなく見慣れぬ美女ーーー桂と浮名を流し、その逃亡を幾度となく助けたと言われる京は三本木の名妓であった。無論、三本木どころか遊里のたぐいにいっさい無縁の蔵六は名乗られるまでは判らなかったが。

ーーー先生に、お詫びを申し上げねばならぬ事がございます。

唐突にそんな事を言われて、蔵六も驚いた。

幾松の言うのは、どうも桂が禁門の変の後、京を脱した際の顛末ーーーつまり子を孕むに至った経緯ーーであるらしい。





禁門の変の勃発は去る元治元年7月19日、桂が京を脱したのは同24日頃だという。

案外、潜伏期間は短い。およそ5日間ほど乞食や按摩に化けて幕吏の目を誤魔化していたと言うが、探索はことのほか厳しく、早々に脱出を決めたようだった。

なにしろ桂は大物である。もたもたしていれば草の根をわけても必ず探し出されるに違いないし、もし捕縛された暁には生半可な拷問では済むまい。このへんの判断の早さは逃げの小五郎と呼ばれた桂ならではであろうか。剣の達人のくせに、襲撃されてもひたすら逃げ倒し、抜いたためしが一度もないとやら。

初めは、脱出には幾松も同行するはずであった。

桂の同志の手配で、先ずはさる町屋に潜伏した。その上で、女物の着物を着せて髢をつけさせ、女装姿で幕吏の目を誤魔化す算段であったと言う。

が、その支度中、頭巾で顔を隠した武士が突然訪ねてきたーーーと言う。その上どう嗅ぎつけたものか、桂を名指しで面会を求めて来た。

これから脱出行に出ようと言う時に、こんなあからさまにあやしげな者に逢おうとする馬鹿もおるまい。

が、一体何を思ったか、桂はこの得体の知れぬ武士を一室に上げて面会したという。

旧知の者ではあるらしい。どうも桂が使っていた密偵のようだったが、だいぶ長い間連絡が取れずに居たとやら。だとすればその間に、敵方に取り込まれて手先になっていない保障はないわけで、繰り返すが脱出の直前にこんな者と敢えて会おうなど、一体どんな理由があってのことか。

もっとも桂も、身の危険に対して全く無頓着であったわけではなく(当たり前だが)、面会した座敷の襖一枚隔てた向こう側には鯉口を切った同志が潜んだ。

幾松は、これまた襖一枚隔てたその部屋の押入れの中に潜んだ。ただし、これは殊更に監視護衛や盗み聞きのためではない。

この押入れは、下段の羽目板が外れ、その下に抜け道の入り口があった。

この町屋は元々は味噌蔵である。上物は建て直されてその気配はすでになく、普通の町屋でしかないが、地下には味噌の仕込みを行なった室が残っている。そしてどんな理由でか、その室から細長く横穴が伸びていて、少し離れた所にある河原の堤に出られた。これを使えば万一、町屋の周囲を囲まれるような事があっても逃げ延びられる。

とはいえ更に万一、河原の出口の方が見張られていないとも限らない。まずは安全確認のため、別の同志が先行した。

桂に一体どんな思惑があるのか知らないが、件の者と桂の話が終わるまで脱出支度を中断して待ってはいられない。準備が整い次第、状況によっては問答無用で件の者を斬り倒し、桂のえりがみをつかんで引きずってでも脱出させねばならぬ。

そんな成り行きで、幾松は押入れの中で件の者と桂の話を聞きながら、脱出の刻を待つ事となった。



驚いた事に、件の者はなんと新撰組に隊士を装い潜伏していたという。

よくぞ今頃まで無事で生き延びたものである。新撰組(初期は壬生浪士組)は内部監査の徹底した組織で、あやしげな様子が少しでもあれば確証などがなくても即刻斬られてしまう。密偵は、初期のころは何人もいたようだが、今も新撰組内で生き残っているのはおそらく自分ひとりであろうとのこと。ただし、情報の漏洩を防ぐため、密偵のたぐいは横のつながりがほとんどないのが普通であるから、誰と誰が同類だったのかは正確にはわからぬという。

件の者いわく、

ーーーもうじき伊東甲子太郎殿が入隊して参ります。彼の者と手を組みましょう。

座につくが早いか、そんな提案をし始めた。

伊東甲子太郎なる人物、江戸周辺では割に名の知れた学識高い名士であるらしい。社交嫌いの蔵六などは知らなかったが、桂は名前くらいは知っていたようである。

件の者いわく、伊東ほどの名士がただ幕府の走狗になりに来る訳はない、隊内を勤皇色に染め上げ直しに来るに決まっている、とそう主張して止まぬ。

この時代、知識人とはイコール攘夷主義者であると言って良い。

外圧にゴリ押しされるがまま、幾つもの港を開き条約を結び、「夷狄」に尻尾を振るが如き姿勢の幕府を見限り、徳川氏でなく帝を中心に据えた新しい政府をつくり、「夷狄」を「攘う」ことを目的とするのが攘夷主義のあらましである。

とは言え外圧に対抗するには国力を強化するほかなく、それには重商主義、つまり開国して貿易で国を富ませる必要があるという発想も広まりつつある。攘夷派とはいえ必ずしも鎖国一辺倒とも限らず、逆に佐幕派、あるいは幕臣であっても感情的な攘夷気分の強い者もいた。

そのへんの温度差は個人差が大きいので、伊東なにがしなる人物がどの程度の考えでいるのかはよくわからない。基本的には攘夷主義を標榜していたようだが、であれば常識的に考えれば「攘夷=勤皇・反幕」のはずである。それが、一体何がどうなってそういう経緯になったものか「佐幕・徳川家の臣下」である新撰組に入隊して来ると言うのは、なるほどこれはどんな思惑があるものか、色々と勘繰りたくもなろう。

ただし件の者は、伊東なにがしと手を組んで(それが可能だったとして)その後具体的に何をする、という事まではこの時はさすがに言及しなかった。

桂も、敢えて具体的な事を聞こうとはしない。

しないどころか、

ーーーそのようなことは一切無用です。君も早く京を脱しなさい。何ならこれから僕達と同行するが良い。

と言い切ったという。

ーーーその伊東なる人物が、どれほどの識見の持ち主であろうと、水戸藩もしくはその周辺の出身で、しかも新撰組に入ろうなどと、所詮は清河八郎の亜流でしかありませぬ。

そのような者と手を組んだところで何ほどのことが出来ようか、と強くはねつけてしまったーーーと言う。




清河八郎は、新撰組の創始者である。

江戸で人を募った時は将軍上洛時の身辺警護の為と言葉巧みに称したが、京到着後に帝の親兵であるとの真意を明かし、大揉めした挙句一部が京に残留、京都守護職会津藩預かりとなる。それが新撰組の前身、壬生浪士組であった。

ーーー数年前までは反幕運動といえば、柳営の要人を襲撃したり、外国人居留地を焼き討ちしたりといった活動がほとんどで、そのころはそういった活動に十分意味がありました。しかし今は違う。

桂いわく。既存政権であるところの幕府がまだ盤石(に見える)であった頃は、盤石であるはずの政権に不満を持ち弓引く者が居るというだけでも世間はおおいに動揺する。この、世間を動揺させるというのが、そのころは重要であった。もしや幕府は存外頼りにならぬ政権なのではなかろうか、という印象を植え付けるためである。

ただし当然ながら、それだけで幕府が倒せるわけではない。最終的にはやはり、倒幕戦争を起こすしかない。

ーーー結局のところ、藩兵を動かせる立場になるしかないのだ。

兵力、軍隊というものが何処からともなく只で湧いて出て来る訳はない。要人や外国人の殺傷襲撃事件などは、計画を綿密に立てる必要はあるものの、協力者をふくめてそう大人数は要らないが、しかし戦となれば桁の違う人数が要る。

土佐の武市半平太を見よ、と桂は言ったという。

武市は下級武士であり、そのままでは藩政を動かせる立場ではない。それが、土佐の参政吉田東洋を暗殺し、藩内クーデターを起こして実権を握ろうとしたのである。

一度はそれに成功した。しかし短期間に終わった。

彼の国は前藩主たる山内容堂が独裁権力を握っており、家老や重役藩士の言いなりにはならず、しかも強烈な佐幕家で、勤皇の志強い武市を良く思わず、投獄して切腹させてしまった。

土佐は下級藩士たちには勤皇の志士が多いが、幾多の者達がどれほど日本中を走り回ろうが、このようにわからず屋の殿様ひとり居るだけでも物事がすぐ水泡に帰してしまう。危機意識の強い下級藩士が上手く重役家老や藩主を操縦して藩政を動かすことに成功したのは我が長州のほか、先日禁門の変で敵方に回り、散々にこちらを蹂躙してくれた薩摩ぐらいのものである。

ましてや清河八郎の故郷庄内藩などは雪深い東北の藩で、勤皇の志士や奔走家など清河ひとりしか輩出していない。当然ながら、たかが郷士の清河ひとりがどう藩内で説いて回っても耳を貸す者はおらず、さっさと見切りをつけた清河は早いうちから江戸や京に出て活動を続けて来た。

ーーー清河とても、理由もなく好き好んで手妻師じみた奇策を連発しては失敗を繰り返して世間を混乱ばかりさせていた訳ではありますまい。

庄内藩がもう少し、時勢に敏感な藩ならば、藩内の佐幕勢力をどうにかして排除し、清河自身が藩論と藩兵を握って(成功するかどうかはともかく)堂々と倒幕戦争に参加することを考えたであろう。それが不可能であればこその手妻師ぶりと言うべきで、出身藩を後ろ盾に出来ぬ者ゆえの辛さと言うものである。

時が少し下って、清河ほどの者が、いつまでも少人数でちまちまとした事件を起こすだけではらちがあかぬ事に気付かずにいた訳はあるまい。自藩があてにならぬのなら、手妻でもなんでも使って自分の意のままに動かせる手勢をつくりだすしかない。もっとも、それでも普通はそんな突拍子もない発想に至る者はそうは居るまいが。

そして今や、水戸藩ですら同じ状況に陥っている、と桂は説く。

赤鬼と呼ばれて嫌われた大老井伊直弼を桜田門外で斃した水戸浪士の名声はいまだに名高い。

大した経歴の持ち主でなくとも水戸者というだけで妙に一目置かれたりする場合すらあるのだが、ただし水戸藩自体はその後、藩論統一に失敗し分裂内紛が続き、倒幕活動の第一線から外れてしまった。

当然、その名声もむなしく、藩兵を動かして倒幕戦争になだれ込むなど夢のまた夢である。

そもそも伊東なにがしなる人物は、水戸藩士ですらなかった。近隣藩の常陸志筑藩(現・茨城県石岡市)の藩士である。奔走家の世界では大雑把に水戸者のくくりで見られているが、もし仮に水戸藩がひとつにまとまって倒幕戦争に打って出るようなことがあったとしても、そこに参加する資格はないのである。

ーーー清河も伊東某もおなじです。学識がどれほどのものであろうが、江戸で攘夷論を吼えているだけではどうにもならぬ。それゆえ清河同様、奇策に打って出ようとし、新撰組などに入ろうという気になったのでしょう。

どんな手段を使うつもりか知らないが、どのみち現在の幹部を皆殺しにでもするか追放でもするかどうにかして自分が首領の座におさまり、新撰組を自らの手勢にし、倒幕側にその身を投じる。それ以外にあるまい。

それこそ身もふたもない事を言ってしまえば、奔走家のなかでも目端の利く者はすでに倒幕が成ったあとの事を考えている。

幕府の倒れた後にどんな政権が出来上がるにしろ、新政権でどれだけ栄達できるかは倒幕にどれほどの手柄を立てたかに依る。そして結局は、手柄の上下は手勢の多寡に正比例すると言って良い。どう綺麗事を並べたところで、清河や伊東の如き人物にとって手勢とは同志ではなく、自身の栄達のための手駒にすぎぬ。

その清河は先日、奇策が過ぎて恨みを買った某人に騙し討ちにされて殺された。自分がひとを騙すことはあっても自分が誰ぞに騙されることなど全く考えていなかったものと思われる。

ーーーいずれ伊東なる人物も、遅かれ早かれ似たような末路を辿るに決まっている。だから手を組むなどは無用の事です。

桂はそう説得したが、件の者は簡単には納得できなかったようで、なればむしろ好都合、我が長州に取り込んだのちは使い捨てにすれば良いではありませぬか、などとなおも様々に抗弁をこころみていた様子だったという。

しかしそのうちに、先行していた同志のひとりが抜け道を戻ってきて、幾松の潜む押入れの羽目板の下から顔を出した。

安全の確認が取れたゆえ幾松殿は先をお急ぎ下され、桂殿ともうお一方は拙者が後からお連れ申す、と急かされて幾松は抜け道に入り、そのままなんとか京を無事脱した。

が、待てど暮らせど桂は来ない。

幾松が、なんとか無事に長州藩内に匿われたのちも、煙が搔き消えでもしたかのようにその消息は知れなかった。結局、幾松が桂と再会を果たしたのは、出石での潜伏期間を経て長州に返り咲いた、つまりつい最近の事であった。




「必ずそうと決めつけているわけではございませんけれどもーーー私が無理にでもお側におれば、その、あのようなことにはならずに済んだのではと思いますと、小五郎さまは無論の事、村田先生対しても誠に申し訳のうてなりませぬ」

実際に何があったのか、直接桂の口から聞けた訳ではなく、従って確証はないが、あの時町屋に訪ねて来た者が流れてしまった腹の子の父ではないか。幾松はそう推察しているという。

(なるほど頭の良い女性だ)

話を聞きながら、蔵六は、あまり関係のないことを考えた。

その推察が正しいかどうかまでは勿論解らない。無論、その時は何事もなく、その身を変事が襲ったのはもっと後であったかもしれぬし、相手も別人だったかもしれない。だから幾松も、そこは解らぬと断った上で、出来事のみを理路整然と淀みなく語り、その上で推察をしている。

とはいえ変事がいつ頃誰と起こったにしろ、もし仮に幾松がずっと桂の身近にいたとして、それを防げたかどうか、これも誰にも解らぬことであろう。

蔵六は、この一件に関しては、桂の心身の健康のみ気になっている。いまのところ身体の方は問題ないようだが心の方はどうだろう。色々と思うところがないわけはないだろうが、あるいは一生たれにも語らぬつもりかもしれず、それならそれでも良かろうとも思う。少なくとも、蔵六の方からことさらに問いつめるような気は一切ない。

以前から、蔵六は桂から幾松の存在を聞かされていた。

ーーー其の者女性のアルファにて、現在はまだ特に体の不調があるわけではありませんが、いずれは是非先生の診察を受けさせたいと思うております。

海外ではどうか知らないが、日本でアルファの女性は極めて少ない。

桂のようなオメガ男性よりもさらに少数派で、文献記録のたぐいもろくに残っておらず、蔵六も実際に診た経験もない。

桂は重ねて、

ーーー自分は桂家の当主でございますれば、いずれは形ばかりでも妻を迎えねばならず、彼の者を正妻に据えるつもりで御座います。

とも言っていた。

なんだかんだで桂家は萩の名家なのである。その当主をつとめる以上、形式に過ぎなくとも妻を娶らぬわけにもいかぬ。蔵六は蔵六で故郷に置き放しの妻がひとり居ることだし、異論を唱える気はない。

ただし必ずしも本当に「形式」であるとは限らぬわけで、つまり桂と幾松の関係の「実態」がどんなものかは、無論多少は気になったが、さすがに当の桂や幾松に直接は聞きにくい。

彼女に限らず、一般に、アルファ女性は花柳界や花街の住人が多いと言われる。

それなりの身分に生まれたのであればまだしも、庶民に生まれた女子にとって、結婚以外に生きて行く手段といえば、どうしても花街とその周辺にならざるを得ぬ。色街をのぞけば世間に女の職業などないに等しい時代である。

これまた正確な記録があるわけではないのだが、一般に、アルファ女性は受胎率が極めて低いとされていた。平たくいえば石女扱いで、したがって嫁や妾としては歓迎されない。正妻であれ妾であれ、女でアルファと判明した者に嫁ぎ先は実質ないと言って良いのが実情である。

幾松は事情あって零落した下級武士の家の出であると言う。花柳界に入ってからは瞬く間に名妓の名を恣にしたというから、これは典型的な例と言うべきであった。

稼業柄、宴席に侍った際に桂たちの政治談義を聞くことは多かったやもしれぬが、それ以外には全く学問などはないはずで、にもかかわらず脱出の際に耳にした会話の全てを理解し他人に解説出来ている。アルファに違わぬ頭脳と言うべきであろう。

とはいえ、それだけで決めつけるわけには行かぬ。アルファが諸般の物事に秀でているのは確かなことだが、ベータやオメガで同様に優れた者が出ぬわけではなく、それこそ身近に桂のような例もある。

しかるに、

(女性やオメガを妊娠させる方に関しては、どうだろうか)

そもそもアルファ女性がどのような身体構造をしていて、いわゆる陽物があるのかどうか、これも正確なところは解らぬのだった。いかがわしい絵双紙やら黄表紙やらの娯楽読み物などには、俗に言う二形ふたなりと混同したような記述が多いようで、これを真に受けている者も多いらしい。あるいは個人差が大きいと言う事も考えられる。

だとしても、もし仮に、アルファ女性が相手の女性もしくはオメガに子を産ませることが可能であったにしても、社会制度上、女性として生まれ育った者が『夫』として妻妾を娶るようなことは当然ながら現状では不可能である。数の少なさもあり、女アルファの社会的な処遇はオメガ男性以上に放置状態であった。

そもそも、アルファ女性の数が少ないとされるのも、社会の受け皿がなさすぎて、生きづらさを理由に属性を隠して生活している者が多いためとも考えられる。正確な調査がなされたわけでもなく、実数は全くもって謎なのである。

当然ながら蔵六も、診たことがない以上、確かなことはなにもいえない。アルファ女性がどのような身体構造をしているかも知らぬ。

こう言ってはなんだが、それだけに彼女は貴重な症例(病ではないが)には違いない。その意味では大変に多大な興味を抱いているのは確かであった。

そんなことを蔵六がつらつら考えている間、幾松は、ひたすら幾重にも詫びの言葉を重ねていた。随分と責任を感じているようである。

が、蔵六は例によって謝罪など不要とにべもないことを言って朝飯を食い続け、その後はさっさと邸を辞した。

可能なものなら今すぐ彼女の診察をしてみたいくらいだが、さすがにそのような不躾なことも出来ず、今はそんな暇もなかった。


戦支度をしなければならない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ