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真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
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夜明け

世間は、なにもかもが灰神楽が立つようにどたばたとしている。

文久元年、公武合体策の切札として皇女和宮が徳川将軍家に降嫁した。かと思えば翌文久二年の年明け早々、老中首座安藤信正が坂下門外の変で不逞浪士に襲撃される。前の井伊大老のように殺されることもなく、傷もそう重くはなかったが、不名誉な後ろ傷とのことで評判を落として4月には解任。8月には生麦村で薩摩藩の行列にイギリス人の一行が馬で乗り入れ藩士に斬られた。世間はこれを攘夷決行と褒め称えたが、負けじとばかりに年末にはわれらが長州藩士たる高杉晋作がイギリス公使館に放火焼き討ちをする。

翌文久二年、京にて浪士隊結成。そうこうするうち国許長州では馬関を通過中の外国船に砲撃をし、今度は薩摩がそれに張り合ってか薩英戦争を断行する。この年は、世の動きとはあまり関係ないが、蔵六の恩師緒方洪庵が労咳で没してもいる。

この間、蔵六は江戸の藩邸で、世間の騒ぎなど何処吹く風と言わぬばかりの静けさで塾生の教育に没頭していた。

藩は文久三年に秘密留学生を5人、イギリスへ遣っているが、この手配をしたのは蔵六であった。たかがそれだけの動きでも、関わったごく少数の者たちにはまるで石仏が動き出したような印象をうけたようであった。

このときの秘密留学生5人の中には、色々と蔵六の世話を焼いてくれた伊藤が入っている。

「可能なものなら自分が行きとうござる」

ごく近しい者にのみ、そう零したと言うが、さすがにそれは不可能だった。塾生たちや幕臣としてのつとめを放り出すわけには行かぬ。

が、そのうち、蔵六の元にも国許から帰国命令が届いた。届いた以上は塾も閉じ、幕臣であることも辞めて江戸を去らねばならぬ。

藩が馬関で外国船に発砲したのは五月であった。その後、帰国の準備をしているうちに、文久三年八月十八日の政変で、長州は薩摩と会津に京を逐われた。長州の立場は日に日に危うくなっていく。

が、実のところ蔵六の国許召還は、政情変化は関係なかった。

何のことはない、蘭学後進国の長州にあって、昔からほぼ唯一人と言っていい蘭学者であった中島名左衛門が没したからであった。中島は西洋砲術の研究家で、要するに蔵六はこの中島の後釜である。

帰国命令が出たとはいえ、幕臣でもある蔵六は、本来ならば勝手に帰国など出来ない。しかし蔵六はこのとき一方的に帰国願いを提出したきり、勝手に国許に帰ってしまった。こういう遣り方を届け捨てと言うが、当然ながら世間の平和だった頃ならこんな事は許されない。

(幕府も、そう長いことはあるまい)

蔵六は内心でそう思った。思ったが、口には出さぬ。いま口に出したところで誰も真面目に受け取るまい。

京の政界から追い落とされた長州藩の世間の評判は今、さながら諸悪の根源の如くである。幕府とても以前のように順風満帆では無論ないが、世評は幕府より長州の方がよほど悪い。いま幕府を「勝手に」去ったところで、周囲は都落ちとしか思わぬであろう。

これで蔵六が、評価の地に落ちた長州藩士でなく、特別幕府に逆らうわけでもない他藩の藩士であったなら、届け捨てで幕府を去るなど可能であったかどうか解らぬ。

が、蔵六は、

(自分が何処の藩士であろうが、代わりの利かぬ人材をみすみす放出するような組織に未来はあるまい)

蔵六の妙なところは、高慢や自負というより、単なる客観的見解として他人事のようにそう分析しているところであった。しかし他者が聞けば余程驕慢と取られるであろうから、これも口にはしない。

蔵六が萩に着いたのは十一月であったが、このころ桂は国許にいない。

それでなくても多忙な身であったが、馬関での外国船砲撃のあたりから江戸と国許と京をひっきりなしに行ったり来たりさせられていた。八月十八日の政変以降は京に居残り、評価の一変してしまった長州の立場をすこしでも救うべく走り回っているらしい。

一方で、国許では奇兵隊とやら言う妙なものが出来上がっていた。

創始者は、たれあろう高杉晋作である。

とはいえこの頃は、まだあまり注目もされておらず、また高杉が妙な事を始めた程度にしか思われていない。

他所では言わないが、本人に会った時、蔵六はこれを絶賛した。

「君が褒めてくれるとは思わなかったな」

具体的にどのへんが御眼鏡に叶ったのかと高杉は問うた。ただ褒められっぱなしで悦に入るだけに終わらぬあたりは高杉もさる者であるが、

「諸々ありますが、まずは何より全員が戦闘員であるところです」

「ああ、そうだろう」

そこは高杉も、評価して欲しかった点であるらしい。案外素直に喜んだ。

なにが馬鹿馬鹿しいと言って、日本の伝統的な何々流軍学などと言うものでは、それがどんな流派であっても、部隊の中に結構な数の非戦闘員が居るのが普通であることである。

馬の口取りであるとか、小荷駄(荷物持ち)であるとか、人夫や奉公人、中間などである。彼らは自分の主人であり戦闘員であるところの騎馬武者の世話を焼き、手柄を立てさせるためだけに駆り出されており、原則として戦闘には参加しない。騎馬武者は身分によってこの種の「家来」を幾人連れて行くかが厳密に決まっており、当然、身分が高い者ほど人数は多い。どれだけ数多くの者達を連れ、甲斐甲斐しく世話をさせる姿を周囲に見せつけるのが身分の高さの誇示であった。

洋式兵制にはこういうふざけた随従員はない。後方勤務ならともかく、最前線に赴く部隊に非戦闘員が含まれると言う事自体がお笑い種である。可能なものなら即刻廃止したいのが蔵六の本音であった。

(故伊勢守様は、要するにそこからお逃げあそばされた)

蔵六はかつて桂を相手に故老中首座阿部伊勢守を批判した。当然ながら蔵六は、逃げるつもりはない。無論、旧習を排するには強烈な苦労を伴うであろうことはーーー場合によっては命に関わるほどのーーー承知の前であったが、

(難儀でも仕方がない、やらねば国が滅ぶ)

これまた蔵六は、自負も気負いも武者震いもなにもなく、路傍の石を退けねば邪魔であるとでも言いたげに淡々とそう思っていた。

しかるに晋作の奇兵隊は、全員が戦闘員である。

制服を支給したり自前で準備させたりするほどの余裕はないから、服装はみな思い思いの格好をしているが、ほとんどの者は筒袖の着物に細身のたっつけ袴や野袴をはき、旧式でも銃を持っている。大仰で動きにくい甲冑や刀など持っているものはいない。戦場では、旧式軍制のように塊にならず、徹底的に機敏に、散開して敵部隊を包囲して射撃、またすぐに散開して姿をくらまし、を繰り返す。そういう訓練をはじめつつあった。

「誠に素晴らしき構想にて、高杉殿は名将、名軍師と呼ぶに相応しき御仁なり」

洋式兵学と日本兵学の最大の違いは、西洋兵学では個は全体の勝利を目指すための部品にすぎないが、日本兵学は戦を個人の手柄の立てどころと見做しているところにあるだろう。

さすがに、古式ゆかしい一騎討ちなどは戦国の世でももう既に死滅していただろうが、いまでも侍たちは格式にこだわり、鉄砲は足軽の持つものなどと言って使いたがらず、一向に旧習をあらためようとしない。長州藩内部でも武士階級はひたすら頑なであった。そのため、高杉の奇兵隊の隊員のほとんどは農家や商家の次男坊や三男坊以下など、侍でない身分の出身である。

「まあまだ実際に戦えるようなものではない、訓練が足りぬ。物の役に立つまでは時が要るな」

高杉はそう締めた。照れ隠しというわけでもなく本音のようである。

蔵六は蔵六で、その高杉を絶賛しながらも、

(いずれ実戦の暁には、自分の育てた塾生たちが高杉殿の奇兵隊員を指揮して戦うことになるだろう)

それが本音である。

高杉の奇兵隊の戦い方は西洋兵学では散兵と呼ばれる。敵部隊を包囲して銃撃を浴びせ、自分達が捕捉される前に離脱、また散開して包囲ーーーという動きを繰り返すには高い運動能力が必要で、これは兵士ひとりひとりの士気や能力もさることながら、直接に命令を下す小隊長の質がものを言う。

蔵六がいま自分の兵学塾で塾生たちに教えているのがまさにそれであった。農民や商人など侍でない身分から広く兵を募集する構想もあった。或る意味では高杉が蔵六のかわりに兵を育ててくれているようなものである。

無論、今はそんな事は当人には言わない。


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