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真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
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さすらいびと

桂小五郎は、元の姓を和田という。

藩医である和田昌景の長男に生まれたが、8歳のときに隣家、桂家の養子になった。桂家の当主が急病死したため、その直後に急遽養子に立てられたが、こういう経緯を末期養子と呼ぶ。そのため、幼少の身で即座に桂家当主となった。

しかし小五郎が桂家を継いだ数年後、今度は彼のオメガが判明する。

周囲は、相当困惑したらしい。

本来ならば小五郎は即刻廃嫡される。桂家は誰か他の者を当主に据えるしかない。が、今回ばかりはそれも不可能であるかもしれなかった。

そもそもが末期養子というものからして、滅多に許可の下りない特例処置である。

通常ならば、跡取りの居ない家は、現当主が健在のうちにしかるべき養子を立て、藩に届け出を出し、その承認を得た後でなければ相続が許されない。当主が没した時点で次期当主がきまっていなければ、本来は問答無用でお家お取り潰しである。桂家が存続を許されたのは、藩内でも有数の歴史ある名家であったからゆえの事。

しかし、今回も同じことを期待出来るかと言ったら、そうとは限らぬ。

藩上層部も、事情を気の毒に思いこそすれ、あまり重ねて特別扱いを繰り返すような真似をしては周囲に示しがつかぬのである。末期養子の承認が通った際に、引換えとして桂家は禄高を百二十石から九十石に減封されていた。場合によっては今度こそお取潰しかもしれぬ。

そして、一族郎党が額を集めて協議した結果、

−−−桂家当主は換えぬ。このまま小五郎を据え置く。即刻番のアルファを探して娶せ、共に暮らせぬのなら抑制剤を大量服用させて発情期を凌がせる。

無茶である。オメガの相続不可は明文化された法ではなく不文律、慣習のたぐいであるから、純法理的には不可能ではない。しかし、だからと言って実際にオメガが家督を継いだ事例というものが古今はたして存在するだろうか。

が、どうも、一族は本気で続投を願ったわけではないらしい。

常識的に考えるならば、オメガの当主続投を願い出たところで藩上層部が許すようなことはまずあるまい。不許可の御達しが出た暁にあらためて「ではせめて別の者を養子に」と代案を示す。一族の戦略としては所謂二段の構えであった。交渉術というのはそういうもので、無理筋な要求をどうしても通したいならば、初手から下手に出るよりも、最初はわざと無茶な案を出しておく方が、あとあと本来の要求が通りやすいものであろう。

が、何をどう間違ったのか、オメガ当主の続投要求がそのまま通ってしまった。

一族は仰天したらしい。無理もあるまい。

藩上層部としては、どうも純粋に小五郎の学才を惜しんだ様子だった。

幼少期から学業成績優秀で、藩主毛利敬親が自ら試験官をつとめる親試において論語の講義、即興漢詩などで好成績をおさめたというから、お歴々連中がその将来を諦めきれぬ気持ちも解らぬではない。一説には藩主敬親公本人の意志との噂さえあるようで、これはさすがに真偽不明であるが、どうあれ一族が驚こうがどうしようが、それが上からの御達しであるならば逆らえよう筈もない。

結果論だけから言うならば大正解と言うべきか。小五郎はその後、江戸に剣術留学すらしてのけた。名門の斎藤弥九郎道場練兵館に入門を許され、道場始まって以来の天才剣士と呼ばれて長く塾頭をつとめた。ペリー来航の癸丑以降は剣術のみならず、江戸中の専門家の門を叩いて砲術、小銃術、造船術等を学び、洋式兵学の導入につとめ、現在は藩の外交要員として八面六臂に働いている。

無論、藩の外部には彼がオメガであることは秘されている。藩内ですら知らぬ者は知らぬ話らしい。

これらの事情を、蔵六は周布から事前に聞いた。

その際、桂の名はいっさい伏せて聞かされた。聞く者が聞けば誰のことかなどすぐに解ってしまうのだろうが、なにしろ周防の田舎の村医者あがりで藩内に知人なぞ居ない蔵六にはそんなことは解らぬ。まさか自分を推挙してくれた桂その人であるなどとは露ほども思わぬ。

結局、そうと知らずに対面し、情けないことにろくに口すら利けず、這々の体でまるで逃げ出すように退去した有様。

それでも、最低限の目的だけは果たした。

逃げ出す直前、彼の膝下に、

−−−欧州渡りの新しい抑制剤にございます。

それだけを必死で言い、なかば無理矢理に押し付けるようにして包みを渡した。

日本古来の、つまり漢方で処方された昔ながらの抑制剤は効き目が弱い。従って大量に服用せねばならず、当然ながら副作用その他で患者の身体に強い負担がかかる。

周布に聞いたところによれば、桂は(話を聞いた時はそれが桂だなどとは露知らなかったが)、どうも前の番のアルファと房事をほとんど行っていないらしい。

先日ついに儚くなったという前の番のアルファ青年は(これまた誰かは知らぬのだが)、どうもその生涯のほとんどを旅の空に費やす人生を送ったらしい。江戸にも国許にも居つかず、当然ながら共にも暮らせず、つまり桂はその発情期をほぼ全て、抑制剤のみで凌いできた事になる。

よりにもよってなぜそんな者を番に選んだのか。選んだのは一族の者たちであろうが、さすがにその辺りの事情は周布も知らなかった。

一方で小五郎も、とにかく国事に奔走せねばならぬ立場であるから、番のアルファの方がオメガである桂に付き従って回らねばならぬ。誰を番のアルファに選んだところで同じで、これは事実上不可能であろう。俗に出世間違いなしと言われるアルファであるから、誰であれそうそう我侭勝手の効く職務には就いては居るまい。

つまりこの二人の番の契りは、本当に「発情期の体香で周囲に迷惑をかけぬ為」でしかなかったという事になる。

医者として、どうにも気分の良くない話である。

時局柄、いや昨今のような時局でなくとも、社会的立場の高い者ほど甘えた事は言えぬ。そんな事は百も承知であるが、だからと言って、このように身体に負担がかかる手段を、承知の上で強いるというのはどんなものであろうか。

皮肉なもので、その時局柄、欧米列強とは通商条約が締結されたおかげで西欧の文物は入手しやすくなった。桂に渡した新薬は少量でも良く効く。副作用もほとんどない。幕府経由で輸入されたそれを蔵六が入手するのはそう難しい事ではなかった。

ただ現状、列強と通商を行えるのは幕府のみであり、各藩には許可されていない。だから桂に限らず、藩内に希望者があれば蔵六が内密に融通する旨、周布には既に許可を得てある。

蔵六は洋式兵学者として長州藩に招聘された。医者として開業や学塾開設することは、原則禁じられている。他の藩医の職分をおかすおそれのないようにとの配慮であるが、場合によっては薬を処方するだけでも禁に触れるやもしれず、わざわざ周布に話をしたのはその黙認のとりつけと、

−−−いまのうちから長州も、西欧諸国から直接文物を輸入する目処をつけておくべし。

そう進言したのだった。

あるいは将来的に、幕府と手切れになるやも知れず、とも言いたいところだったが、さすがにそれは控えた。

そして、さらに数日後。

「先日はあのような無様な不調法、先生には誠にお詫びの仕様も御座いませぬ」

座布団をはねのけ、畳にじかに座って手をつき、廊下を歩いて来た蔵六を立たせたまま桂がその場に平伏したから蔵六は驚いた。

「いえ、その、別に貴方の落度では」

「いいえ小五郎の落度にございます、何なら別室に床を用意させれば良かろうなどと軽く考えて居たのが誤りでございました、これから藩のために一肌も二肌も脱いで頂かねばならぬ先生に多大なるご迷惑、どうかお許し下され」

その上自分の如き愚物の身体までお気にかけて頂き、貴重なお薬をたまわりまして望外のよろこび、感謝の言葉もございませぬ、等々。大変な剣幕である。

「とにかく桂殿、診察をさせて下され」

今日はそのために双方忙しい中、時間を作ったのである。

本来ならば前回も、きちんと彼の身体を診た上で薬を渡すつもりだったのだが、それが出来なかったのが蔵六としては悔しい。客観的に見て不可抗力ではあったろうが、結果的には直接身体を診ることができず、伝聞だけで薬を処方するなど、本来ならば医者としてあるまじき事である。

それを説明すると、桂は、ますます恐縮したようだった。

なるほど薬は無事効いているらしい。沈香に似た香は相変わらず感じるが、先日と違い仄かに香る程度である。多少胸が泡立ちはするものの、動悸や逆上せを自覚するほどでもない。

蔵六に診察されながら、桂は申し訳なさそうに目を伏せつつ、

「何としても先生を他藩に取られとうはござりませなんだ」

と、つぶやくように言う。

周布は違うと言っていたが、桂本人は、あるいは蔵六を藩につなぎとめるための手段と思う気持ちが少しはあった模様である。

「ああ、幕府も恐らくは似たようなことを考えておりましょうな」

まさかオメガをあてがいはしませんでしょうが、と、蔵六は蔵六でそんなことをぼんやりつぶやいた。

桂は、ますます恐縮している。

オメガをあてがうかどうかはともかくも、現実問題として、洋式兵学者がそれほどまでに不足しているのは事実だった。

不足どころか、居ないと言ってすら良い。これは当然の事である。幕府はこれまで何度も陰に陽に蘭学者達に対する弾圧を続けて来た。人命尊重の観点から、蘭方医学のみ細々と存続を許されて来たのである。うかつに医学以外の蘭学を学んで処罰投獄を食らった者は数知れず、獄死した者も多い。それでいざ西欧列強諸国が押し寄せて来た今になって慌てているのだから世話はない。

蔵六が幕府蕃書調所に召抱えられた時、もう既に何十人もの蘭学者が居たにもかかわらず、軍事兵学関係の洋書のみ、原書のままで一切翻訳されず手付かずのまま膨大な数が残されていた。これを今、蔵六が翻訳しつつ、終わったものから順に講武所で教科書として使い、指導をしている。そういうことを出来る人材が、いまのところ幕府にも蔵六ぐらいしかいない。

その蔵六も、幕府につかえる以前、宇和島藩で砲台や国産蒸気船をつくるまではただの蘭医であり、兵学を学んだことはなかったのである。ただ宇和島藩はかつてお尋ね者の高野長英を秘密裏にかくまい、軍事技術顧問をさせていた時期があった。長英の残した資料もあり、また軍事関係の洋書も多く所蔵されていた。それらを読んだり翻訳したりするうちに知識は自然と身についた。

「…今更のようですが、先生は、なぜ幕臣におなりになりませなんだか」

桂は、不安げな様子を隠さない。

彼は蔵六の仕官を強く藩に推したが、もとの百姓医の身分が邪魔をして、今はまだ正式な士分ではなく、雇士(非正規雇用扱い)である。桂は、蔵六に対し、そのことを非常に申し訳なく思っているようだった。

暫く後には間違いなく士分に引き上げる旨、藩上層部の言質は取ってあるというが、もし現時点で蔵六がそう望めば長州藩への仕官を蹴って正式に幕臣になることも出来る。だいぶ威信に翳りが見えるとはいえ、まだまだ葵の御紋の御威光健在たる今、常識的な感覚の持ち主ならばむしろそちらを選ぶのが当然と言えよう。が、どういうわけか蔵六は初対面から桂には幕臣にはならぬ、長州へゆくと断言し続けている。

「ああ、理由はまだ御説明致しておりませんでしたか」

ばかな話で、蔵六はすっかりその事を忘れていた。桂は桂で、あまりに蔵六が断乎とした様子で、長州に参る、幕府には参りませぬ、とばかり繰り返すので、なんとなく今まで理由を聞けずにいたとやら。揃って間抜けな話である。

「自分は、もとより幕府を組織としてあまり高く評価致しておりませぬ」

今は亡き伊勢守様が、世には開明家と称されておりましたが、私はそうは思いませんでした故、と蔵六は、当然のような顔でそんなことを言った。

安政4年に急病死した時の老中首座、阿部伊勢守正弘の事である。

一般には名宰相と言われている。ペリー来航に際して外様大名を幕政に参与させ、広く下々からも意見具申を募り、大船建造の禁を解き、蔵六が教授方をつとめる蕃書調所や講武所を創設した。各所からの反発をねじふせて様々な改革を次々と打ち出したのだが、

「故伊勢守様は幕府の改革には御熱心なれども、自国では全くそのようにはなされなんだご様子」

阿部は備後福山藩主であったが、この藩は今でも古式ゆかしい長沼流軍学を続けている。真の開明家ならばまず即刻国元から改革を始めるべきであり、それをしないなら、所詮は立場上開明家を称しているだけにすぎない、と蔵六は言う。

「ははあ、なるほど」

手厳しゅうございますな、と桂はおかしそうに言った。

蔵六の意見は正しい。正しいが、もし阿部伊勢守が本当にそれを実行していれば、あるいは病死する前に暗殺されていたかもしれぬ。新技術や新制度を導入する事は、本来そのくらいの反発を生むものである。

が、蔵六は、故伊勢守様にはそこまでの気概は御座いませなんだ御様子、などとにべもない。

蔵六は、技術者である。幕府にも兵学者、軍事技術者として雇われている。軍事技術という観点から幕府という組織を見るならば、非効率的という言葉のそのまま見本にさぞかし良かろうと思われるような塩梅であったが、何々の守などという肩書を持つお歴々の方がたにとっては幕府組織は自分の家同様、或る種の生活の場であるようだ。機能性より居心地の良さの方が重要なのである。

「それではいずれ西欧列強諸国に食い物にされるだけなのですが、柳営(幕府)のお歴々がたにはどうにもそれが解らぬ御様子」

そこへ行くと長州のような外様藩は変な遠慮は要らぬ。三百諸侯に京の朝廷、跳ね上がりの攘夷浪人達、その上列強諸国の顔色まで窺わねばならず雁字搦めになって何も出来ぬような面倒さはない。自藩内の藩論さえ統一すれば、いくらでも軍事的機能性最優先の組織をつくることができる。無論それとても、そう簡単なことではない。蔵六も、場合によっては殺されかねない立場なはずなのだが、どうにも身の危険に鈍感な性分なのか、なにやら他人事のような風情で居る。

「先生の胆力にはこの桂、誠に感服致しております」

桂は、むしろおかしそうにそう言った。

ちなみに蔵六はまだ宇和島藩にも士籍があった。しかし宇和島藩士になるつもりはない。宇和島藩主である伊達宗城は天下の四賢候のひとりと称された開明君主であったが、宇和島藩の身代は十万石、貧乏なわけではないが大藩とは言えず、独力で出来る事は限られている。宗城はそのあたりをよく理解していて、むしろ蔵六の才を独り占めにするは宜しからず、ひろく天下に出して存分に手腕を振るわせるべしと言い、いつでも蔵六を手離すつもりで居てくれている。賢公の誉に違わぬ名君たる所以であろう。

「そんなわけで暫くのあいだは宇和島や幕府の禄もいただきますが、いずれは長州に骨を埋めるつもりゆえ御心配なさらず」

「安堵致しました。…」

以前から、桂は蔵六と、この種の時局論とも雑談ともつかぬ話を語り合うことを好んだ。

同じような話は余人ともするだろうが、蔵六が相手だと、

「何と申しましても先生は常に落ち着いていらっしゃる。物事に狂騒するようなところが微塵もない」

それに幕府の動向も多少は御伺い出来るのが実にありがたく存じます、とのこと。役目柄、他藩のにも顔が広く情報源には事欠かないはずの桂であるが、それでも幕府の動向などは中々聞こえてくるものではない。どんなつまらぬ事でも喉から手が出るほど聞きたいのが本音であるようだ。

しばらくと言わず当分の間、長州・宇和島・幕臣の三足の草鞋も、存外悪くはないかもしれぬ。口には出さず、蔵六はふとそう思った。




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