真昼の月
「…京を脱する時、私は予定では対馬藩士の同士と護衛をもう1人、さらに幾松を連れ、計4人で脱出行に出る予定でしたが、実際にはその通りには参りませんでした」
幾松から聞いておられましょうが、と桂はこともなげに言う。
長く連絡の取れなかった諜者が急に訪ねてきて、説得に手間取り出発が遅れた。幾松は護衛をつけて先に逃がし、訪ねてきた諜者と対馬藩士某と桂との3人と、時間差をおいてふたてに分かれて脱出行に出たのである。
「以前、私が孕んで流れてしまった子の父親が、この諜者の男であります」
道中、この男に暴行を受けた、隙を見て自ら斬り殺した、と桂は、ことさらに平静を装った声で言った。
くだんの諜者の男は、長州藩のさる下級武士の出身であるという。
最低限の格式をなんとか保つだけで精一杯、白い米の飯などろくに見たこともなく育ったと言うから、下手な百姓よりもよほど貧しい暮らしであったようだ。どこの藩でも下級武士の生活などそんなもので、ひとくちに武士と言っても維新前は同じ武士の中で階級構造が徹底していた。
みじめな環境に生まれ育った者の常で、上昇志向の強い性分だったという。
かつて当人が自ら桂に語ったことがあると言うが、幼少期のころは、長じてのちはなんとかしてアルファになれかしと祈念していたという。
「ああ、子供にはよくある勘違いでありますな」
なりたくて精進すればなれるものなら誰も苦労はせぬ。身分制度などとは違い、属性は生まれつきであり努力で変えられるものではないが、教育の行き届かない層には時折そのへんを誤認した者が実際に居るらしい。
無論、そう時をおかず真実を理解する時は来る。しかし、それでも希望的観測でもって、判定が下るそのときまで自らをして必ずアルファであると信じて疑わぬ者も多い。仕方のないことではあるだろう。
くだんの者の場合、結果は、平凡なベータであった。現実とはは概ね残酷である。
落胆のすえ自暴自棄になりかかったらしいが、そのうち桂小五郎なる人物の存在を知って驚倒する。オメガに生まれて萩の名家を継ぎ、藩を背負って乱世の雄たる働きをこなすというのは一体どういう事なのだろう。
その後ゆえあって当の桂のもとで働くはこびとなり、背後の様々な事情を知るが、その結果その心中に生じたのは薄ぼんやりとした軽侮と嫉妬であったようだ。
(所詮はオメガ風情ごときが、なんの面目あって指導者づらでアルファやベータを顎で使うか)
無論、桂が現在の身分や地位、実績を残すにあたって、誰の助けも借りずに自分一人の力だけでそれを成し遂げたわけではない。当初はアルファの誤診断を受けていたり、断絶させるわけにはいかぬ名家の養子であったり、そのために周囲が全力で後援をしたりと、かならずしも彼個人のためではないにしろ、そういった様々な偶然や幸運(?)に恵まれなければいまの彼はない。もし彼が伝手のひとつさえ持たぬ生まれ育ちであったなら、どれほど優秀であったとしても平凡なオメガとして子を産み育てる以外の人生はなかったはずである。
要するに桂小五郎は運が良かっただけだ、そう酷評する者は、他にも居ないことはなかった。
貧しい生まれ育ちの上、密偵などという卑役ぐらいしか活計の路もなく、それでも動乱の時代になにがしかの功あれば多少の栄達も夢ではあるまい。そういう、藁にもすがるような思いで危ない橋を渡って働いてはいるが、その上役がオメガの男とは一体どんな冗談であろうかと、時折ふと我に返る。
それでも、人一倍のはたらきをしてみせようとし、ひたすら我武者羅に働き命がけで隠密任務をこなし、さらには伊東甲子太郎との共闘などを提案してみたが一蹴され、その後の逃避行の路途でふと魔がさしたか。
蔵六という番の既にいる桂が相手であるから、体香にあてられた訳ではないのは明白である。純然たる暴力と支配欲、物事が己の思い通りにならぬ全てのことへの不満が暴発したのであろう。
―――オメガ風情が、たかがオメガ風情が。
当人は自覚していただろうか。動向の対馬藩士某がおらぬ隙、桂に襲いかかったその瞬間から斬り殺されるその時まで、彼はずっとそう呟き続けていたという。
かつて西郷が、頓珍漢な同情心を示してきた事などは、このときにくらべれば、腹が立ちはしたものの衝撃の度合は大したことはなかったと、桂は今にして思う———と言う。それはそうだろう。
「彼の者に対しては、今も、特別の感慨は湧きませぬが」
このときは、当の相手個人がどうこうと言うよりも、オメガという属性に対する、世間全体からの、一種言い難い蔑みの感情を、桂ははじめて実感として思い知った———ように感じたらしい。
当の相手に関しては、事件の前からあまり強い印象を感じたこともなく、事件の後も、憎くもなければ好感も(当然)なく、なんというかのっぺらぼうの名無しの権兵衛のようで、当時も今も全く関心が持てぬとやら。
腹に居た子に関しても、なにしろ流れてしまってはじめて妊娠していた事を知ったのもあり、そのときは同様になにも思わなかった。
が、長く時間の経った今になって、、
―――流れてしまった子には、可愛想な事を致しました。
蔵六の子を宿して初めて、今頃になって、この世の光を見ることなく闇に帰ってしまった子のことを想うようになった、という。
蔵六は、黙って話を聞いていたが、やがて、
「桂殿、よもやとは思いますが、それが理由でオメガはやはり社会的に劣った性であるなどと思いはじめてはおりますまいな」
めずらしく、日頃の石地蔵面とは別人のようなこわい貌になった。
目を見張って驚く桂に、
―――亡くした御子に想いを馳せるのは人の子の親として当然の事。それは結構ですが、その一件の所為で自己評価を低めるおつもりならば速やかにお考えをあらためていただきたい。
オメガがとかく劣性種のように言われる所以は能力うんぬん以前の問題である。まず何より社会参加の難しさにある、逆に言えばそれが解決して社会参加が可能になった時にどの程度の社会貢献ができるものか、オメガの誰も彼もが桂のごとき活躍をしてみせるか、あるいは過去にいわれたとおりベータにも劣るかは未知数である。結果の出ないうちに妙な思い込みで独り決めをするべきにあらず。
桂は黙って長広舌を聞いていたが、やがて泣き笑いのような顔になって、
―――ありがとうございます。
と、ひとことだけ言って頭をさげた。
明治2年(1869)8月の末、蔵六は江戸を発った。
行き先は京阪方面である。大阪に置く鎮台や兵器工廠、京のはずれに置く予定の火薬庫、その他諸々の軍関係施設の建設前の実地検分である。
蔵六の言う「西」、暗黙のうちに指すところの薩摩発の乱にそなえるため、早急に段取らねばならない。
が、これは桂だけでなく、大隈はじめ蔵六びいき(少ないが)の面々がこぞって反対した。
「いくらなんでも、危険すぎる」
薩摩本国だけでなく、西国各地にはすでに不平士族になりかかった狂信的攘夷主義者たちがそこかしこに散らばって刀を撫しているのである。
かれらは新政府首脳、とりわけ蔵六を憎悪していた。
「大村なる者、洋夷の手先」
かつて彼らは、外国のゴリ押しに抵抗できず次々に条約を結び港を開く幕府を弱腰と罵り、倒幕活動にその身を投じた。外国人を追い出して鎖国を復活させるべし、国防は昔ながらの刀槍のみで十分と本気で信じている。
ところが幕府を倒して出来た新政府は、外国人を追い出すどころか近代化と称して海外の文物や技術を次々に取り入れ、あまつさえ政府が外国人の技術者を雇い入れる計画すらあると言う。
―――話が違うではないか。
新政府は或る意味で、承知の上で下級武士たちを「騙した」のである。
そもそも癸丑のペリー来寇以前から、アヘン戦争での清の敗北など、欧米列強の脅威は一部知識人のあいだでは知られてはいた。
ことなかれ主義の幕府はどうにもその種のことに鈍感だったが、危機意識の強い人物というのはむしろ地方に多く、要するにそういう「人物」たちが新政府の指導者層になっている。
彼らはもともとが知識人でもあり、最初から近代化を視野に入れていたが、大半の者達はそんな予備知識などない下級武士の出で、純然たる攘夷思想(と出世欲)から倒幕側に身を投じたのである。
かれらにしてみれば、弱腰の旧幕勢力を倒したら、日本開闢以来の祖法(!)である鎖国を復活させ、他国が責めてくるなら古来よりの刀槍でもって撃退すればよい。本気で、そう信じている。
しかし、蔵六は銃、大砲、軍艦、その他諸々の欧米伝来の武器装備を導入し、それだけでなく、兵制改革で徴兵制度を敷き、ゆくゆくは廃刀令、兵学校を設置し、藩兵を廃する計画を進めていた。
藩兵は文字通り、各藩の藩士たち、つまり下級武士をそのまま兵としている。上記のような、不平士族予備軍とも言うべき者達は要するにここに多く所属している。
が、徴兵となれば、武士だけでなく日本国民のうち健康な男子すべてが(期間限定ながら)兵となる。
これが反感を呼んだ。
「仮にも武士たる我々に、百姓どもと同じことをさせる気か」
かつて蔵六は村医者、百姓医あがりというのでなかなか士籍を得られなかった過去がある。農民(だけではなく武士以外の身分の者すべて)を下に見る差別意識は、特に下級武士には根強く、出自によって所属や昇進に制限をつけることなく能力主義、万事に平等というところに強く抵抗を示した。
が、蔵六はもともと身分感覚に鈍感な上、おのれの過去のことなどなかば忘れている。多少の抵抗は当然のこととばかりに頓着しない。
―――むしろ大村殿の御身をまもるため。
と言って、兵制改革を一旦保留、凍結したのは大久保利通であった。
大久保はことさらに蔵六びいきなわけではなかったが、新政府において軍事にまつわる全てのことを指導できるような人材は蔵六をおいてほかにないことは重々理解してしている。が、いま当人の望む通り、強引に兵制改革をすすめて士族の反感を買えば、当の蔵六が暗殺の標的になるのは火を見るより明らかであった。
そのことに、当の蔵六ひとり、徹底して無頓着なのが何ともはや。
「桂殿や大久保殿あたりならばともかくも、私の身など狙う物好きはおらぬでしょう。そんなことより、可及的速やかに兵制改革を進めていただきたい」
そんな調子で、簡単には納得しようとしない。
大久保は蔵六を守るため、蔵六の更迭さえ画策したが、なにしろ代わりがいないものだからそれはさすがに不可能だった。どうにか、徴兵制や廃刀令を先送りにするかわり、鎮台(全国に数箇所置かれる軍事拠点)のうち大阪に一箇所だけは、いますぐに設置するということでとりあえず納得させたのである。
大久保は薩摩人だが、それだけに同国人の頭の固さ、手に負えなさを骨身に沁みて知っている。
「なんと言うても、小松殿の御身体の具合が思わしゅうなかとが痛うごわす。…」
小松帯刀は薩摩藩の若き門閥家老であったが、西郷や大久保たち若手下級藩士たちの理解者であり、長く彼らの後見役をつとめてきた。長州で言えば故周布翁に近い立ち位置であろうか。
倒幕活動の主軸を担った雄藩では概して、門閥家老の中にも一人二人は危機意識の強い者が居て、革命のメインパワーたる跳ねっ返りの下級藩士たちと上層部のパイプ役をつとめてくれたおかげで藩全体の足並みが揃い、事が成せたと言っても良い。いかに西郷の如き英雄が居たと言っても下級藩士たちだけで革命が成るはずもないのである。
薩摩の場合、西郷がどうこうと言うより、問題があるのは彼の周囲を取り巻く薩摩藩士なのだが、その取り巻きたちも小松から受けた恩義は重々承知している。あるいは小松から直接説得されれば多少は自重したやもしれぬが、しかし小松は幼少期から身体が弱く、いまは療養のため薩摩に帰っており政局には携われぬ。のち、明治3年7月に死去。
「阿呆どもが、神輿をかついで騒ぎたがるのも度しがたいが、神輿の方でも担ぎ手を切り捨てられぬ。是非にもあらず、自業自得だ」
いずれ武力でもって平定せねばならぬ事態もやむを得ぬやもしれず、従って、大阪鎮台設置だけは火急の要件であることは大久保もよく理解していた。
そんな経緯があるものだから、蔵六はどうあっても大阪行きを翻意しそうになく、止める方も強いては止めづらい。
せめて中山道をとってくれ、東海道は刺客がばらまかれているという情報がある、と言うとそこだけはさすがに素直に従った。
明治2年9月4日、蔵六は宿泊先の旅籠で奇禍に遭う。
襲撃犯は元長州藩士の神代直人以下9名。ただし、黒幕は元薩摩藩士海江田信義と言われる。
海江田はもとは有村俊斎といい、実弟の有村雄助、治左衛門は桜田門外の変に参加し、本人は西郷隆盛の若い頃から常にその側近くに居た閲歴の古い志士だった。このとき、京都弾正台支所長官(警察署長)。のち子爵。
真偽は、定かではない。
この時代、刺客に襲撃を受けた者は、無傷あるいは軽傷で逃げ延びるのでなければ、大概は即死かそれに近い状態で死に至る場合がほとんどだった。暗殺なのだからそれが当然だが、蔵六の場合、襲撃者はよほど慌ててでもいたのか、とどめを刺さずに去り、蔵六は一命をとりとめた。
ただし、重症には違いない。顔面、両腕から右膝まで数箇所におよぶ刀傷、特に右膝は深手であった。
蔵六は、まずは京の長州藩邸に運び込まれ、そこで治療を受けたが、蔵六を診察した緒方惟準(緒方洪庵次男)は蔵六の容体は決して楽観すべきものにあらずと言い、大阪に蔵六自身が建てつつあった浪華仮病院(大阪大学医学部前身)へと移送されることとなった。
長州藩邸は、高瀬川沿いに建つ。喫水の浅い高瀬舟を水面に浮かべ、西洋式の担架で蔵六の身体をはこんで船に乗せ、そのまま水路でもって大阪へと下る。
蔵六本人も意識はしっかりしていたが、その蔵六本人も含め、周囲が悩んだのは、
―――桂殿には果たして知らせたものかどうか、
このころ桂は産み月も間近、療養中と称して箱根に滞在していた。迂闊な事を耳に入れれば当人も腹の子も、いのちにかかわるやも知れぬ。
心配は当然だが、これはある意味無駄な配慮でもあった。周囲がなにか言う前に、地獄耳の桂は既にいずこからともなく事の次第を知っていた。はたから見る分には表立って取り乱した様子はなく、さいわい腹の子にも別状はなかった。なんにせよ蔵六が即死ではなく、一命をとりとめたというのは大きいかったかと思われる。
蔵六は、移された先の病院で、桂に宛てた書状を書いたらしい。
が、その直後、容体が急変する。
敗血症であった。ばかなはなしで、手術が間に合わず結局は手遅れになった。深手だった右脚をさっさと切断してしまえば命には別状なく済んだはずなのだが、蔵六が朝廷から官位を贈られた高官だったため、朝廷の勅許がなければ手術が出来ぬという馬鹿げた慣習があった。看護がどれほど手厚かろうが、これでは意味がない。
襲撃は、9月4日。10月2日に浪華仮病院に入院。勅許を待って10月27日に右脚切断手術。その後しばらくは経過良好であったが、11月4日夕刻、危篤状態に入る。翌5日早朝、死去。
送った書状が桂の手元に届くより、死の知らせの方が早かったらしい。
約半月後の11月21日、桂は遂に産屋に入る。翌22日、無事に女児を出産。好子と名付けられる。
書状が到着したのは、産褥の床にあるころであったという。
―――移送の際に舟に寝かせられつつ仰いだ空は抜けるような晴天、白く浮かぶ真昼の月が誠に鮮やかにて。…
四斤砲を多く作って欲しいだの、兵器工廠の規模がどうしただの、殺伐とした話題ばかり並ぶなかに、珍しくそんな詩的な一文があった。
尚、公式記録には、木戸孝允(桂小五郎)唯一の実子好子は現在に至るまで生母不明とされている。