救済の技法
しばらくして、双方多忙のあいまを縫い、桂と蔵六は太夫山の毛利家別邸に赴いた。
現在は東京都世田谷区若林の地名で呼ばれる。この毛利家別邸には吉田松蔭の墓所があった。
安政の大獄で刑場の露と消えた松蔭の遺骸は、処刑直後に桂や伊藤たち元松下村塾生数名によって小塚原回向院に埋葬されていた。
とはいえ、罪人である。供養こそ許可されてはいたものの、墓石に名を刻むことは許されず、土饅頭に粗末な自然石を置いて墓標とするのみであった。
その後井伊大老が桜田門外で殺され、文久2年には和宮降嫁の祝賀で受刑者たちに大赦が出、事実上の名誉回復がおこなわれたのち、文久3年に桂たち元松下村塾生らは松蔭墓所の改葬を行ったのである。この地には後年、明治15年に松陰神社が建立されるが、このころはひと気少なとはいえまだ別邸があり、その一角に墓があるだけであった。
とはいえ、墓所は立派で手入れは行き届いている。数多くの者が志半ばで斃れたとはいえ、桂の他にも元松下村塾生はそれなりの数が生き残っている。彼らとても暇な身ではないが、折に触れ入れ替わり立ち替わり亡き師の墓所に詣でているようだった。
蔵六は故松蔭を全く知らない。
墓に来るのも初めてであった。この日はたまたま珍しく体が空いていたから桂に同行しただけで、ことさら来ねばならぬ理由があったわけではない。
同行と言っても、連れだって歩いて来たわけではなく、現地で合流した。
さいわいと言うべきか、桂の腹は八月近い割にはあまり目立たない。着込んでいれば少し太ったかと思う程度であったが、桂はここしばらく体調が優れぬと称して最低限の出仕をするのみで、可能な限り自宅に籠っていた。今日も女物の着物、この暑いのに御高祖頭巾で顔を隠した女装姿である。
墓所に花を手向け、手を合わせたのち、桂がおもむろに口を開いた。
「そう言えば、国許では我が家の義兄が先生をお訪ね申し上げたそうでありますな」
「…ああ、ご存知でありましたか」
事実である。ただし、最近の話ではない。
もう6年も前の前の話である。一方的に幕臣を辞め、国許へ戻ってまもない頃、八月一八日の政変からさほどに時を置かぬ文久3年の秋頃のことであった。
このころ、桂は京で東奔西走していた時期であるから国許には全く戻っていない。
桂の義兄、和田文讓は桂の異母姉の婿である。桂の父、和田昌景は藩医をつとめていたが、最初の妻は娘ふたりを産んで死別、その後迎えた後妻もなかなか子が生まれず、先妻の産んだ長女に婿をとらせて和田家を継がせたのである。待望の長男たる桂が生まれたのはその後であった。
文讓は、一見、単なる挨拶という風情で訪ねてきた。
そのくせ、
―――この訪問は小五郎には内密に。
などと言っていた。だから蔵六は桂本人に限らず誰にも言っていないが、にもかかわらず、それを桂が知っていたことに関しては特に驚かない。桂でなくとも、この時期の志士や活動家は普段から山ほど密偵を使っているのが当たり前で、殊更政治的な事柄にかかわる話でなくとも把握していて不思議ではない。
しかるに和田文讓の方はこのとき、
――故吉田寅次郎殿が、小五郎の番となりし次第につきまして。
語りに来た、と言う。
かならずしも絶対知っていなければならぬ種類の話ではないが、知らねば知らぬであるいは不都合があるやもしれず、などと文讓はよほど語りにくいのか、しばらくの間もごもごと妙な言い訳を繰り返し、だいぶ蔵六を待たせてからようやく本題に入った。
桂のオメガが発覚したのは、かぞえ17歳の時であるという。
その前年に桂は元服をしている。元服の少し前、例によって花街に連れていかれた。
蔵六もそうだったが、属性の判定は男ならば元服時の絶対条件である。敵妓であるオメガの妓からはこのとき、アルファの太鼓判を押されていたそうな。
結論から言えばこの時の判定は間違いだったわけで、詳細な実態は不明だが、のちに血液検査の開発と導入以前はこの種の判定ミスは実のところ結構あったらしい。
つつがなく元服をすませた一年後、夏の暑い盛りの頃であったという。
そのとき家にいたのは桂ひとりであった。
文讓はじめ、家人は使用人も含めて所用あって皆外出していた。このころ桂は若年の身ですでに隣家桂家の当主であったが、桂家の養父養母は既に亡く、成人し妻帯して一家を成すまでは実家で暮らすことになっていたようだ。
桂は、涼しい奥の一室で書見をしていたという。
そこに文讓が用を済ませて帰宅してきた。
どうも屋敷の中が、何やらただならぬ空気に満ちているような雰囲気を、玄関をくぐった時点で薄っすら感じたという。
―――この時点で帰宅せず引き返せば良うございましたか。
文讓はそう言って自嘲したが、そんな根拠らしい根拠もろくになく、なにやら雰囲気が悪い程度で自分の屋敷に帰らぬ判断をする者はあまりおるまい。彼にばかり責任を負わせるのは不当であろう。
邸内にあがると、一室で桂が意識を失い倒れていた。
書見をしていた奥座敷からはずいぶん離れた別の座敷であった。なぜそんなところにいたのかはわからない。
その室内は更に異様な熱気に充ち満ちていた、と文讓は言う。
そして文譲は己を失った。
己を失いつつも記憶だけは鮮明で、自分がなにをしでかしたか、後の顛末はハッキリと記憶しているとの事。
どのくらい時間が経った後か、文讓は突然えりがみをつかんで背後に引きずり倒され、顎に鉄拳を派手に一発食らって吹っ飛ばされ、ようやく我に返った、と言う。
拳を若干赤くして立っていたのは、長州藩軍学師範吉田寅次郎松蔭であった。文讓とは歳の離れた友人である。
文讓は、意識のない義弟の体の上にのしかかっているところを松蔭に発見されたのである。
松蔭と文讓は、さる集まりで先刻まで顔を合わせていたのだった。文讓が退席した後、矢立を忘れていった事に松蔭が気付いて届けに来たとのこと。玄関先で、中からどう聞いてもただごとでない物音が漏れ聞こえて来るものだから、非礼を承知であがりこんだ結果がこれであるらしい。
―――このとき自分はしばらく茫然としてなにも考えられぬ状態でしたが、吉田殿はさすがと申し上げるべきか大層冷静でございました。
間髪をいれず、僭越ながら御弟君の番は拙者がつかまつる、と宣言し、止める間もなく桂の首筋を噛んだ―――と言う。
状況から言ってこの事件は、文讓、桂、家族一同、誰が悪いわけでもなく不可抗力というものであろう。桂は初のオメガの発情期を突然迎えたのである。
のちに目を覚ました桂本人は、書見をしていて突然目の前が真っ暗ならぬ真っ赤になり、そのまま失神したらしくその後のことはなにもわからぬと言う。
そのオメガの体香の充満する室内に、番を持たぬアルファが一歩足を踏み入れれば一体どうなるか。火を見るよりも明らかというものである。
松蔭が踏み込んだのは、下世話に言う「最中」であったようだが、松蔭本人の証言によればこのとき、松蔭は室内に異様な熱気こそ感じたものの、文讓のように我を忘れるようなことはなかったという。
松蔭はオメガどころか普通の女色すら一切排除し、元服時の廓行きすら断ったと言う男であるが、それでもオメガの体香の何たるかだけは知っていたらしい。当人いわく、かつて、禁欲の誓いを立てている松蔭を心配して、友人のひとりが親切のつもりで無理にオメガの妓をあてがおうとしたことがあるそうな。松蔭はいつぞやの蔵六と同じような状態になりながらも必死に固辞して帰ってきたというが、そんなわけで室内に踏み込んだ時、充満する香がオメガ由来のものであることだけはわかったという。
第三者が居合わせた場合、その者には体香は効かぬものなのだろうか。あるいは事前・最中・事後で効果の違うものであるのかないのか、その他諸々、つい蔵六は職業病を発症して医学上の疑問をさまざまに思い巡らしてしまう。
なんにせよ、そんなわけで松蔭はこのとき、文讓を殴って引き剥がした直後、とっさに、
———自分が番の任をひきうければ万事無難におさまるのではないか。
咄嗟の思いつきではあるが、諸事情をかんがみれば、それが一番万人に益すると判断したらしい。
まあ結果論で言っても確かにそれが最良の選択であったかと思われる。というか他に途はなかっただろう。まさか和田家(桂の実家)の入婿当主の文讓が、義弟にあたる桂を番のオメガとして娶るわけにはいかぬ。
和田家・桂家の縁者一同が小五郎の桂家当主続投の届を申し出たのはそのしばらくのちである。その際、さすがにこういうきわどい経緯は藩庁にも秘された。
―――成程、そういう御事情でありましたか。
このときの蔵六は、全く何とやらの一つ覚えで、可能なものならあらためて当時の話をお伺いしたい、貴重な事例であります、そうとわかっておれば御生前の松蔭殿にもお会いすべきでありました、などと医学的好奇心全開であったが、文讓はよほど己のしたことを悔いているのか、とにかく何卒小五郎をよろしくお願い致します、とひたすら平身低頭していた。
一方で、当の桂本人はというと、この時はことの起こる前に気を失い、その後目覚めたのはだいぶ後のはなしで、全ては当人が意識をなくしている間に起こった事だったためか、どうにも事態がぴんと来ないらしい。
「おかげで義兄に陵辱されただの、天才にして奇人の誉れ高い軍学師範殿が番になっただの、あとから聞かされても何やら他人事のようで、義兄などは己に悪気があったわけでもないのに必要以上に恥じ入ってばかりで、むしろ戸惑いました」
そんなこんなで桂本人にしてみれば、体調の変化こそ面倒臭いと感じたものの、それ以外のことはなにひとつ物事が以前と変わったような実感はなかったと言う。当の桂がそんな調子であったから、義兄もそのうち、内心はどうあれ、表向きは元通りの態度に戻った。番のアルファたる吉田松蔭とはこれをきっかけに親しくはなったが、先方は全く「手を出して来る」ような様子はなく、慇懃な態度を一切崩そうとせず、松下村塾でも他の門弟たちとは一線を画する客分扱いであったと言う。
桂の方も、敬愛の念はあれども恋愛感情やそれに類する思いとは無縁に終わった、そうな。
「…ですから私は長いこと、オメガであるにもかかわらず、周囲からは随分と甘やかされ持ち上げられて生きてきたことにずっと気付かず、無自覚無頓着なままでいたのです」
あのときまで、と桂はつぶやいて下を向く。