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真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
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維新

明治元年9月20日、明治帝は東京と名をあらためた江戸に行幸する。

この後、ついに玉体が京に戻ることはなかった。京都側の感情を考慮し、明確な遷都令は今に至るまで出されていないが、事実上の東京遷都にちがいない。

遷都案は鳥羽伏見の直後あたりから、薩摩の大久保とその周辺が画策をはじめたものらしい。と言っても大久保は同郷の薩摩人にはふしぎなほどに人気がなく、この場合の周辺というのは公家の岩倉具視であったり、あるいは桂や大隈であったりする。

そのため改元の前後あたりから、そういった面々が東下と上京を繰り返し、幾度も往復している。少し前なら陸路を徒歩で一月がかりの旅程だが、今なら船で数日である。

便利になったものである。さすがにまだ一般庶民が気楽に乗れるようなものではないが、いずれ近くそれも実現しよう。

そして明治2年の6月中頃。

品川の港に、御高祖頭巾で顔を隠した女がひとり降り立った。

出迎えは、伊藤であった。そのまま彼に伴われて木戸邸に入る。

この日は偶々蔵六が来ていたが、頭巾を取った女の顔を見て驚いた。

「桂殿、文久や元治の頃でもありますまいに、いま変装が御必要とは一体何事で」

他にたれあろう、この家のあるじ桂小五郎こと木戸孝允その人であった。

「ああ先生、丁度良うございました」

桂は挨拶もそこそこに、奥の部屋に蔵六を連れていき、人払いをして閉じこもった。

そして、やおら女装を解きはじめる。

そろそろ暑くなりはじめる季節の割には妙に厚着であったが、肌着一枚の姿になるとようやく桂の言わんとすることが知れた。

下腹が、膨れている。

着込んでいる分には特に違和感を感じぬが、脱げば桂の身体に何事が起こっているのかは一目瞭然である。

「誠に申し訳ありません、私も懐妊に気付いたのが在京中で」

蔵六、狐狸にでも化かされたような顔で沈黙。

桂は蔵六にだけは、書状を出して知らせようかとも思ったというが、万が一にも証拠の残るような形でひとに知られたくない。余談になるが、幕末の志士は同じ藩邸住まいであってあってさえ、記録に残す目的で重要な話題は書状でやりとりした。書状に残せばどれほど信頼出来る者に託しても誰ぞに読まれぬ保証はないし、口頭での伝言でも同じことである。

慎重派の桂は、顔にこそ出さぬが、同じ長州人であってもひとによっては全面的には信用していない。

吉田松陰も周布翁も高杉もこの世にない今、腹の底から疑いなく信頼できる者はそれこそ蔵六ぐらいのものであろうか。他藩出身者ならなおさらで、寄り合い所帯の新政府にあっては幕末期よりも用心深くなっているきらいがある。

現在では、各藩を代表するクラスの要人のほとんどは、桂がオメガであることは知っているはずだと言う。

が、当然のことながら軽々しく口に出すようなことではなく、公然の秘密といった扱いであるらしい。無論下っ端の連中が知るようなことではない。

ましてや妊娠中などとなれば尚更、要人連中であれ誰であれ、極力知られたくはない。在京中は風邪を引いたと称し、暑いのを我慢して厚着をして腹を誤魔化していたという。

はじめのうちこそ阿呆面をさらして放心していた蔵六だったが、そのうちに血相を変え、物凄い勢いで桂を質問責めにし、その後、有無を言わさず寝台に乗せて診察をはじめた。元医者の本領発揮と言わぬばかりである。

「間違いなく先生の御子にございます」

「そんなことは言われずとも解っております、誰の子であろうがなかろうが、とにかく御身を御大切にせねばなりませぬ」

あいかわらず情思に欠ける言い草である。普段はまだしも、今この状況で言葉選びに気を使うような心の余裕は蔵六にはない。

かつて医者であったころ、蔵六は産科は得意であったのだが、しかし男女どちらにせよオメガの妊娠出産を扱った経験はない。それが若干不安要素ではあったが、なんにせよ桂には、こんどこそ母体(?)と赤子ともども無事かつ健康に出産をさせてやりたい。

もっとも蔵六とても暇な体ではなく、新政府軍の兵制改革で猫の手も借りたい有様だったから、桂の身体にばかり拘っているわけには行かぬ。あるいはオメガの出産に慣れた医者や産婆を探すべきかもしれぬ。

桂本人に関しても、

「医者として申し上げるならば、いっそ国政の一線から退いていただきたいくらいですが」

蔵六も、無理を承知で言っている。桂はなにしろ新政府の重鎮のひとりである。多忙さでは蔵六の上を行く上、かるがるしく進退を自儘にできるような立場ではない。しかし、かならずしも人間関係良好とは言えぬ新政府の海千山千どもを今後も相手にし続けねばならぬとなれば、身重の体に心身の疲労は生半可では済むはずがない。

が、当の桂は、意外にも、

「数年後にはむしろ進んでそうしたいとかねてより思っておりました。今すぐは無理でも、予定を少し早めるくらいは構いますまい」

いわく、自分たちの仕事は革命である、革命とはすなわち破壊である、創業あるいはその維持とは別種の仕事である、それらのことは若手に任せるべきであろう、云々。

「無礼を承知で名指しで申しますが、ここだけの話、西郷殿などを見ていると余計そう思います」

自分達はそろそろ過去の人間になるべきだ、と桂は言う。





西郷は上野の勝利の後も、時折子供のような我儘を言い出しては周囲を困らせる、という事を何度か繰り返していた。

周囲と言うのはこの場合、普段かれの周囲を取り巻いている同郷人たちではなく、桂や岩倉など新政府の要人連中のことである。

彼らはむしろ、西郷本人がどうこうと言うよりも、その周囲の元薩摩藩士の集団の方をにがにがしく思うようになってきている。

―――大西郷の仕儀に対し異を唱えるなど度し難し。

例によって例の如く、西郷がなにか言い出せば無条件で賛同し、時には煽りさえする。

———北越に行かせて給んせ。

西郷は上野攻めのしばらく後、そんなことを言い出した。

そのころ越後長岡藩を中心に、北陸・東北の諸藩が結集し奥羽列藩同盟が結成され、新政府軍と激戦を繰り広げていた。本来ならば総司令官であるはずの蔵六は現地に赴くべきであったが、諸事情により江戸を動かずにいた。

蔵六は、例によって面倒臭がってその諸事情の中身を周囲に説明しない。

しかるに「総司令官」の蔵六を差し置いて、西郷は北越戦争に行きたがった。こちらはこちらで理由はさだかではない。

が、

———無用の事にございます。

蔵六は、西郷に理由を質しもせず、にべもないことをを言ってその申し出を却下した。

———到着されるころには、戦は終わっておりましょう。

一体何をもって戦の終結時期を予言したのか、周囲とっては全くの謎だったが、西郷本人は一旦はおとなしく引っ込んだ。が、周囲の取り巻きは激昂しきりであった。蔵六の手並を思い知ってからは表立って露骨に異をとなえるようなことはなくなったが、かと言って蔵六を信頼するようになったわけでもなければ好いているわけでもない。むしろ反感は深まっているやもしれぬ。

蔵六本人は、そんな有象無象どもの反応にはこれまたいつものごとく徹底して無関心だったが、ところが西郷はその直後、突如として東征軍参謀を辞めてしまった。

形式だけとはいえ総督は宮様なのである。当然ながら許可など取っていない。無論京の新政府首脳連中など露骨に無視である。

それで勝手に辞めて何処へ行ったかといえば、呆れた話で、故郷薩摩に戻って行ったのである。

そこで一個中隊ほどの兵を募り、自分は頭を丸めて坊主を称し(さすがに正式得度はしていない)、集めた兵を率いて北越へ向かったのである。頭を丸めたのは各方面への不義理を詫びる体らしい。

が、ばかなはなしで、蔵六の予言通り、西郷と薩摩兵が北越に着いた頃には戦は終わっていた。

西郷は、行った先の北越でもあくまで私兵を率いたいち小隊長としての態度を崩さず、決して出しゃばることはなかったと言う。

が、それよりなにより、

「オイは大村さァに合わせる顔がありもはん」

そう言ってしきりに己を恥じていたとやら。

―――相も変わらず気色の悪い。あんなものは愛嬌とは言わぬ、あれに騙されるような奴は阿呆よ。

どれほど謙虚なふりをしたところで、結局は奴の自儘が通ってしまっておるだけではないか。大隈などは遠慮なくそんなことを言っていた。口には出さずとも、他にも似たようなことを考えた者は案外多いかと思われる。

現在は、まだ混乱期と言って良い状況であるから、多少の逸脱はしかたがあるまい。しかし時代が治世に移りかわれば、大西郷であろうが誰であろうが掟破りは赦されぬ。

「ひとのことはあまり言えませんが、物事を成す者というのは馬力のある分無茶もする。そういう人種というものは、規律を尊ぶ治世には良しにつけ悪しきにつけ、おさまりにくいもの」

桂はそこで言葉を切り、にがい表情で、

「…先生には戊辰の陣中すでに、今後おそるべきは西である、そう仰言られたと仄聞致しましたが」

「ああ、はい、申しました」

新政府軍の陣では、奥州(東北)は一旦は平定されてもいずれ数年のうちにはまた再起する、という論が主流であった。

しかし「総司令官」蔵六はこれを一笑に付し、上記のことを言ったという。

西とはこの場合、暗黙の了解で、薩摩をさす。

「西郷殿と薩摩勢、あれはもう、どうにもなりますまい」

かつて上野攻め前夜に大隈と語ったような話は、すでに桂ともしていた。

東北諸藩は結局、最後の最後まで時勢に鈍感であった。蔵六いわく、こういう諸藩は案外その後も暴発などせぬものである。そもそも西国や京で何が起こっているのかもよく知らない。温度の上がらぬまま、戦があったとしても一時的な暴風雨に遭ったようなもので、喉元過ぎれば以前と大して変わらぬ日々の暮らしが続くと思っているから、日常生活が極端に変わるような、余程の理不尽が襲ってでも来なければ、ことさらに何かしでかそうとは思わぬものである。

問題なのは、革命の主力であった勢力である。

これは或る種の物理的エネルギーのようなもので、燃料を消費しつくすまでは止まってはくれない厄介な内燃機関のようなものである。西郷はこれを何とか戊辰の戦で燃料を使い切ってしまおうとし、そのためには故意に戦を長引かせようと考えていた形跡すらあった。しかし蔵六は戦による国力の疲弊や一般庶民への害を可能な限り抑えるため、可能な限り早期に内戦を切り上げようとし、概ね成功した。その結果、温度が上がりっ放しのまま頭の冷える様子のない、膨大なエネルギーがだいぶ残されてしまった。

これを、できる限り新国家とその国民の迷惑にならぬようなかたちで、どう発散するか。

「私とても、これを完全に制御できるわけではありませぬ。ただ幾通りか予想は立てておりますゆえ、それぞれに対策をたてればよろしい」

暴発を抑えつけ、何事も起こさずに済ませられるならばそうしたい。しかし、おそらくそれは無理な相談で、であれば敢えて暴発させてしまおう、そのかわり周囲への被害を出来るだけ少なくする算段を立てる。言うなれば、おなじ爆薬庫ならば市街地ではなく離れ小島に置く理論で、ある意味じつに蔵六らしい。

「具体的には上方に鎮台を置き、兵器廠、陸海軍の練兵場、兵学寮等を設置致します」

西から軍勢が押し寄せてくることを想定し、大阪あたりにその対抗拠点をおく。早手回しな話で、蔵六は戊辰の戦の最中すでにそういう計画を立てていた。明治2年の5月には五稜郭で榎本軍が降伏し、戊辰の戦が終わったため、ぼちぼち蔵六自身も上方へのぼらねばならぬ。

一方で桂は、こう腹が膨れてはいくら船が便利と言っても同行は控えるべきで、東京で待っていて貰わねばならぬ。

「肝心な時におそばに居れぬのは悔しいかぎりでありますが。…」

「仕方がございませぬ。…」

桂はさびしげに微笑んだ。

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