no one knows(改)
さる薩摩人に案内されて、大村は刻限通りに現れた。西郷はその少し前に現れて着座で待っていた。
「大村さァとはこれまで腹を割って談ずる機会がなく残念なことでごわした。この際、一切の遠慮というものを棄てて語り合いとうごわす」
「それは結構ですが、ならばこのような贅沢は不要でありましたな。肴は豆腐が一丁あれば結構」
「ハ、こいは、不調法でごわした」
「まあ出されたものに手をつけぬほど不作法にはなれませぬゆえ頂くだけは頂きましょう。しかし今後は御無用に。戦費は決して潤沢ではござりませぬ」
もし周囲にひそむのが大隈ら佐賀人でなく薩摩人であったなら激怒したであろう。佐賀人たちは内心快哉を感じた。倒幕の最大派閥たる薩摩勢に対し反感を持つ他藩出身者は多いが、それを率直に口や態度に出せる者は居ない。いまのところ、こうも露骨に大西郷に対し言いたいことを言うのは大村ぐらいのものである。
しかし大隈は、短い付き合いながら、大村という男を多少なりとも知っているつもりである。それゆえ単に痛快がるだけの気にもならず複雑であった。
大村は西郷に対し、別に嫌味を言っているつもりはあるまい。単にものの道理を解いているだけであろう。これがたとえ西郷であってもなくても他の誰かであろうとも同じと思われる。しかし周囲はそうは思うまい。この空気を読まなさ、薩摩人でなくても、そのあたりを理解する者は決して多くないだろう。
ともあれ、西郷である。
襖の隙間から隣室をうかがう。大隈がが陣取った場所はたまたま大村の真後ろで、彼の背中と後頭部しか見えず表情は全くわからない。そのかわりその正面に座した西郷の貌は良く見えた。あいかわらずの柔和な微笑みを絶やさない。
大村が、こちらもあいかわらず、無愛想な声音でさて御用の向きはと問うた。
西郷は口元の微笑みを絶やさぬまま、えびす顔をこころもちひきしめ、おもむろに膳を横に退けた。
そして、その場に平伏する。
「大村さァ、ことを秘密裏にはこびたいお気持ちはこの西郷、重々わかり申す。しかしここはひとつ、この西郷を御信頼あってオイにのみ彰義隊討滅の日取をお教え願えませぬか」
畳に手をつき、深々と頭を垂れた。
(あほうめが、どう問おうが大村が答えるはずがあるまいに)
なぜそれがわからぬか、大隈は腹立たしい。
実際、大村は表情こそわからぬが、その後姿は寸分の変化も見せず声音も変わらず、
「決めておりませぬ」
「は?」
「未定と申し上げました」
これでお察し願えないお方には、たとえ決していてもお伝えは出来ませぬな。大村は突き放すようにそう言う。
(駄目だな、これは)
やはり人には向き不向きがある、西郷は政治の才こそ余人の追随を許さぬが、軍事の才は人並かそれ以下であろう。物事を一から十まで説明されねば理解出来ぬでは困ることも多いのである。これが軍事でなく政治絡みの事柄であれば、西郷もこんな間抜けな事はすまい。
「オイを信用してはいただけぬとあらば、そいは是非もごわりもはんが。…」
当人はわかっていない。惚れた女に振られでもしたような情けない顔である。これにほだされる者も多かろうが、大村はまるで動じた様子がないまま杯を傾けつつ、
「たとえば先刻私は貴藩の方に案内されてここへ来ましたが」
お誘いを受けた時にも周囲には多くの人がいた。つまり今あなたと私がこのように余人をまじえず二人きりで語り合っていることは多くの者が知っている。今この時期に東征軍でしかるべき地位にある者ふたりがそのように語り合うとなればさぞかし重要事項にかかわる話であろうとたれもが思うだろう。
「そして先刻まではまさに彰義隊総攻撃についての軍議が開かれていた。その直後の密談となれば、たとえ事実として違う話題であったとしても、総攻撃の日取に関する話であったと皆が思いましょう。たとえあなたが後々それを否定したとしても、聞く耳持たぬ者も多かろうと思います。そして憶測を語る」
総攻撃はいつか、3日後ではないか、いやあるいはひと月後ではないか、いやいや実は総攻撃はせず戦場を別の場に遷すのではないか、等々、人から人の口に伝わるうちに憶測がいつのまにか真実のようになる。末端の兵卒の耳に入るころにはそれが真実ということになっている。
そのうちに江戸市民や彰義隊員にも伝わる、市民はそれを信じて避難疎開し彰義隊も総攻撃に備えて準備をしよう、しかしそれが事実でなかったとするならさぞかし市中は混乱に陥るであろう。
「勝てる戦に、これが原因で負けるやもしれませぬ」
流言飛語とはそのようにして生まれるものだ、従って自分が未定と言ったものを敢えて詮索するような事は本来ならば厳に慎まねばならぬ、あなたのような高官ならばなおさらである。
「こ、こいは、オイが悪うごわした」
西郷は、今度は親に叱られた子供のような顔になった。
「まあ今更しかたがありますまい。あなたには後刻、いま私が申しあげた主張を残らず周囲の方々にお伝え頂きましょう、そうすれば混乱は起きてもなんとか最小限に済みましょう」
西郷にとってはまたも面目丸潰れの事態であるが、背に腹は変えられぬ。なによりも自業自得というものである。まだしも逆切れなどせず素直に誤りを認めるだけ有象無象どもより幾分ましであろうか。西郷の美点などその程度のものだ、などと大隈は辛辣なことを思った。
(しかし、西郷は一体なぜこんな愚問をわざわざ)
西郷は大きな身体をちぢこめて恐縮している。こうも徹底的にやりこめられるとまでは予想しなかっただろうが、それにしても総攻撃の日程など、聞いたところで大村がそう簡単に口を割るなどと本気で思ったのであろうか。
が、大村本人はと言えば、一体何を思ったか、
「それはそれとして、良い機会ですから私の方からも些か伺いたき儀がござる」
などと言い出した。
「は、それは構いもはんが、一体何でごわすか」
「大した事ではありませぬ。御陵衛士の一件にござる」
なにやら妙な方向に話が飛んだ。
御陵衛士なる役職は、慶応3年に成立した。それ以前にはない。新設の役職なのは当然で、前年に薨去した孝明帝の陵墓を警護するのが表向きの任である。
当然ながら墓守などは口実であり、志士活動が本義であった。所属は朝廷であったから、つまりは倒幕側である。
この役職は、なんと新撰組をふたつに割って離脱してきた伊東甲子太郎一派のために創設されたのであった。
伊東一派は新撰組入隊後、弁舌と人格的魅力で確実に心酔者をふやしていたらしい。離脱時かれについて行った者は総勢15人程だったと言うが、のち御陵衛士に合流をめざしてさらに10名ほどの脱走者が出た。
放っておけば隊士を根こそぎ持って行かれてしまうと危惧したのであろう、しばらくのちに油小路の変で伊東はじめ大半の衛士が新撰組によって斬られて粛清された。組織としての御陵衛士は消滅したが、しかしさらに後、生き残り数名が新撰組局長近藤勇を狙撃する事件が起こる。近藤は肩の骨を撃ち砕かれる重傷で、ついに完治せず、この狙撃によって剣客生命を絶たれ、このことはもっと後、近藤が流山で投降した動機に至るとも言う。
尚、狙撃犯たる御陵衛士生き残りはさらに後、新政府東征軍に合流している。流山で近藤の面体を確認したのは彼らであったと言う。
「この御陵衛士なる役職、貴藩の肝煎と仄聞したが、まことにござろうか」
大村は例によって空気など一切読まず、変わらぬ顔色で杯を重ねつつ、そう聞いた。
「ハア、それはマア、あるいはそうかも知りもはんが」
西郷は、戸惑っている。無理もあるまい。
西郷だけでなく、隣室で盗み聞きをしている大隈も、佐賀藩士たちも意味がわからず目を点にしている。
とはいえ、真偽はともかくとして、多くの者は御陵衛士は薩摩の紐付きと認識していたのは事実であった。質問の意図は謎だが、御陵衛士について知りたいことがあれば西郷なり誰なり、薩摩者に聞くこと自体はおかしくはない。
慶応3年頃の朝廷にとって、薩摩藩は巨大な金主にほかならない。表向きはどうあれ、朝廷直属の新設組織が出来たとなれば、薩摩の手下と同義にとられても当然ではある。
徳川300年を通して京の公家と朝廷は徳川幕府により貧乏を強いられて来た。禄高はしごく低く抑えられ、下級の公家など副業に励まねば日々の米塩にも事欠くような生活であった。幕末になって唐突に朝廷尊しと持ち上げられ、薩長はじめ活動家たちがふんだんに金品を貢ぐようになったから、公家たちは金の出元に対しては言いなり同然であった。
無理からぬ事であろう。活動家たちはそれを最大限に利用して新時代を切り開いて来たのである。
ただし、それはそれとして、西郷は、彼自身の申告によれば、このころは別件の仕事が多忙で御陵衛士には全くかかわっていない、存在を知っているくらいだ、実際に薩摩藩が御陵衛士の実質的な後ろ盾になっていたのかどうかもわからぬ、仮にそうだったとしても自分はなにも知らぬ、とのこと。
これは、その通りであろう。そんな端下仕事の段取りを手ずからするほど当時の西郷は暇ではあるまい。
新撰組の離脱者などと言っても、そもそも新撰組がどれほど強かろうが、所詮は多い時でも総勢200名程度、京の街で警察権を与えられていたというだけの剣客集団である。局長近藤勇などは随分と政治に色気をみせていたらしいが、当人のやる気と周囲の評価は別問題で、まわりからは世辞にも相手にされてはおらず、そんな所から10人や20人が袂を別って来たからと言って大した事を知っているわけではないからそう大層な扱いはされない。かと言って他所に奔られても困るので、もっともらしい肩書きだけを与えて飼い殺しにしていたのが現実である。
実際、西郷はその御陵衛士なる者達がどげんしもしたか、と不思議そうである。
大村は、
―――弊藩の桂が。
と、幾松から伝え聞いた京脱出の際の談話を語って聞かせた。
無論、詳細は語らぬ。新撰組と伊東なにがしなる人物について、桂がこのように評価していた、という事を説明しただけである。
「なるほどさすがは桂ドンにごわすな。真っ事て卓見」
桂は、藩の後盾を持たぬ者が志士活動を通じて栄達を欲して奇計を弄すれば碌な末路を辿らぬ旨を説いていた。藩が頼りにならぬ境遇に生まれた不運は気の毒だが、所詮世の中は運も実力のうちである。時が経って伊東某は桂が予言した通りの最期を迎えた。
が、大村はさらに唐突に、
「仮の話ですが、これでもし、伊東某とその一派が早いうちに殺される事なく永らえたとしたら、薩摩としてはどのような仕事を与えましたか」
と、ますます意図のわからぬ奇妙な仮定の話を始めた。
「さて、難かしゅうごわすな。その時になってみないと何とも言えもはん」
それはそうだろう。西郷としてはそう答えるより他あるまい。
大村は、さようでござるか、と言って深く追及はしなかった。
ただ、その後ひと呼吸おいて、
「これは単にそのとき時間が切迫していたため、桂も敢えて言及しなかっただけだと思われますが」
ありえぬことではあるが、もし本当に長州藩が伊東の一党を迎え入れ、なんらかの仕事を与えるようなことが仮にあったとしても、その後も長く重用するようなことはまずなかったであろう。たとえ大功を立ててのけるようなことがあったとしても、新政府内で重要な地位は与えまい。大村はそう言う。
「何故なら、彼らはいまだに、刀に固執しております」
新撰組も小銃は導入しているが、ただし戦法はやはり古い、小銃隊は切り込み部隊の援護が中心で、こんな戦法は戦国時代で終わっている、と言う。
こと近代化という意味では、現在の長州軍は日本国内随一と言っていい。兵の精強さでは薩摩の方が上であろうが、武器装備は長州の方が新しい。大隈の属する佐賀藩は幕末の風雲に参加しなかった分、自国産のアームストロング砲をつくれるほどの科学技術生産力をやしなっていたが、さすがに量産は無理である。
全体としての長州の軍事力の水準をそこまで押し上げた当の功労者であるところの大村いわく、
「武器というものは、ただ導入すれば良いというものではありません」
戦法、戦術は持てる武器装備によってどんどん変えていかねばならぬ。日本古来の何々式の軍学の弱点は兵器が進歩せぬことを大前提としている点にあるし人々もそれが当然と思っていて固定観念になっている。兵器の進歩というものは、場合によっては戦略政略に至るまで変えてしまう。ときには人間の生き方から思想に至るまで変革させる。
旧幕勢力の中に、思想の変革にすらついて来れる者がいるなら、前身など問わぬ、こちらから招聘したいくらいだと大村は言う。
「ただし新政府の中にも、変革についてこれそうにない御仁というのは少なからずおられます。こう言っては何だが私も長州藩兵に旧来の戦法を捨てさせ散兵戦術を叩き込むのが大層面倒でありました」
それが出来ぬ者は、戦場に出る事自体を禁じた、と大村は言う。
旧い武士的戦法を押し通されて味方の足を引っ張られては勝てる戦にすら負けてしまう。そんな羽目にされては堪らぬが、
「お武家さまの困るところは、名誉のためなら平気で死ねるところでいらっしゃる。否、それが全体の勝利につながるのなら、お好きになすって下さって結構なのですが、どうにも、旧来のお武家様の戦い方を押し通したまま戦場で戦って死ぬ事それ自体を目的に戦に出たがる本末転倒な発想のかたが多いようで、それが許されれば結果的に味方側の敗北の原因になりましょうが、なかにはご自身の自己満足的な名誉の方を優先なさろうとする方も多い。これは、困る」
まさか新撰組式の旧戦法で武功をあげるようなことは実際にはあるまい。現に鳥羽伏見では新撰組は鬼神もかくやの奮戦をしたが、結果的には敗れている。が、もし万一旧戦法で勝利をおさめたとしても、武功や戦法どうこうというより思想のありかたの問題で、新政府では危険視されこそすれ、重用はされまい。
一時的にはなんらかの地位を与えられるぐらいはしたやもしれぬ。しかしおそらく早いうちに失脚させられたであろう。生きて閑職に追いやられる程度で済めば良い方であろうか。何か適当な理由をつけて殺されるのが落ちである。
「…なれば、大村ドンは」
膳部の向こうで西郷の団栗眼が光った。
「具体的に、どげんして無用の長物を淘汰するおつもりでごわすかな」
「長州藩の内部では、最終的には、藩主から直接命令を出していただくことでなんとかおさめましたが」
大村の指導する近代的戦術に従えぬ者は出陣相成らぬ旨、藩主敬親の命令書が現存している。
「これが新政府軍であれば帝から勅でも出していただきましょうか。薩摩のお方には慣れた手段でございましょう」
現帝、明治帝は当年とって満16歳の若さである。先帝孝明帝は慶応2年に崩御したが、御所の外をろくに見たこともなく世を去った。至上の御身がそのように世間を知らぬのを良い事に、周囲がその思し召しを捏造同然に勅を乱発しては政治的に利用してきたのは、大村の言う通り、薩摩の常套手段であった。
西郷は大村の語るところを聞きつつ、いつのまにか杯を置き、当初とは別人のように沈黙してしまっていた。
大村も、その後は語るべきことを語り終えてしまったとばかりに飲食以外で碌に口を開かず、そのうちに西郷はいたたまれなくなったか、ぐずぐずと言い訳をつぶやいて退出してしまった。
隣室では佐賀藩士たちが、まるで禅問答でも聞かされたかのような表情で当惑していた。
大隈ひとり、硬い貌で沈黙している。