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真昼の月  作者: 赤垣 源一郎
12/19

desolate new world〜荒涼たる新世界〜

その日、佐賀藩士大隈八太郎は不機嫌であった。

原因は、ある。

その原因の巣窟であるところの江戸城に乗りこむが早いか、

「尊公らは、一体、なにをぼやぼやしとるか」

破れ鐘の如く大喝しつつ、廊下の床板を踏み抜かんばかりの勢いで奥の院をめざす。周囲の者たちは皆、何事かと仰天するか、呆然として何も言えず無言のまま見送るしかない。

「西郷は、何処じゃ。昼寝でもしておるのか」

東征軍の幹部という、肩書きばかり大仰な阿呆の溜まり場と思しき一室の襖を、派手に音を立てて開ける。

が、そこには予想外の光景が広がっていた。

「西郷殿は、本日はさる前線に視察にお出でですが」

室内には人影は一人きりである。有象無象が何人となくごろごろしているだけ、と思っていたから拍子抜けした。

そう狭くもない座敷が堆く積まれた書類の山で埋まり、その隙間に文机を置いて座っていた男が、冬眠からさめた熊のようにのっそりと立ち上がった。

ふるぼけた粗末な綿の紋服。なにやら変に眉の太い異相。先刻まで握っていた筆が机上に転がっている、と思ったらそれは筆ではなく木筆であった。のちに鉛筆と呼ばれる筆記具である。この時期、まだひどく珍しい。

大隈はさすがに一瞬動揺したが、顔には出さぬ。

自分は佐賀藩士大隈八太郎、尊公は何者なりや、と問うと、

「自分は大村益次郎という者であります」

「ああ、尊公がくだんの医者どのか」

言ってしまってから、まずいと思った。こういう状況で相手を医者と呼ぶのはいささか軽侮の意味を持つ。

が、言われた方は全く気にした様子もなかった。

「まあどうぞ、お入り下さい」

大隈は、この大村なる妙な男を、人伝てではあるが多少聞き知っている。

大隈の出身地である佐賀藩は、諸事情あって幕末期には二重鎖国をしており、いわゆる勤皇佐幕の別なく志士や活動家という者たちをほとんど出していない。藩士たちは他国の士との交際を厳しく禁じられていたのだが、ごくわずかな例外として文久2年ごろに江藤新平が脱藩を敢行し長州藩の世話になっている。

鳥羽伏見の戦いの後、ようやく藩内鎖国が解かれて佐賀藩が新政府に参加した時は当然、そのわずかな縁を頼ったし、江藤の後輩にあたる大隈も長州には何くれとなく世話になっている。が、付き合いのある長州人たちの口から大村の名が出る時は、

―――あの医者どのが。

と、枕詞のように言われる。

要するに大村なる人物は、身内であるところの長州人からも若干軽く見られているのであった。

これで、その理由がなんの実績もないのに与えられた地位だけは高いから、とでも言うなら話はわかるが、藩軍の洋式化、第二次長州征伐の勝利と、歴然たる武勲功績があるにもかかわらず、というのは一体なぜなのか。

大隈自身はとくに大村を軽蔑する気持ちはない。そもそも人に話を聞くばかりで直接会ったこともないから人品骨柄の判断のくだしようがないが、周囲の影響でつい医者よばわりをしてしまった。

室内に招じ入れられて、まずその事を謝罪したが、大村は心底関心がないといった風情で、

「お気になさらず。お武家さまがたは武門に非ずという意味で医家を蔑まれるが、自分は元々百姓医の出でありますからそんな価値観などどうでもよろしい」

しかし今後そういう価値観は可及的すみやかに滅ぼすべきでしょう、自分はいずれ軍医制度というものを考えている、吹けば飛ぶような一兵卒から雲の上の大元帥に至るまで、戦場に於いては軍医の世話にならぬ者は居なくなる、云々。

(なるほどこれは変わった男だ)

大隈は大隈で、おおいに変物を自認していたが、その自分を棚に上げて感心してしまった。

毒にも薬にもならぬ常識人より、物の役に立つ変人であるべし、それが大隈の座右の銘である。要するに大隈にとっては変物変人とは異才の持ち主の事であり、つまり褒め言葉である。

ところで御用向きは何でござろう、と問われて我に返った。

「ここに直接の用向きはござらぬ、自分は京の新政府の命であす横浜に赴かねばならぬゆえ一夜の宿を借りに参った。ただわが命は尊公らの怠慢が原因で難航せざるを得ぬ。よって東征軍参謀たる西郷にひとこと苦情を申しに参った次第」

横浜港には現在、大型の甲鉄艦が一隻浮かんでいる。

大隈の仕事はこれを買うことだった。艦はかつて幕府がまだ威勢さかんだった頃に米国から買い上げたものだが、日本に到着した頃は丁度戊辰戦争が始まっており、ほどなく幕軍は敗走。行き場をなくした甲鉄艦を、今度は新政府軍が買おうとしたが、米国公使ファルケンブルクいわく米国は中立である、内乱が落ち着いて勝敗決してからでなければ渡せぬと称して売り渋り続けている。

大隈は英語が多少できる。その語学力を買われて先日、口の悪さで知られた英国公使パークスと、さる小さな事件でさんざんにやり合い一歩も引かなかった。事件の交渉そのものは引き分けで終わったが、今度は語学というより、欧米人を向こうに回して張り手を突きまくるような腰の強さを買われて甲鉄艦買付けの交渉役に抜擢され、京の有り金をさらえて作った25万両という大金をかついで東下してきたのであった。

「諸外国どもは日和見だが、それは当たり前のことだ。連中は商売をしに来ている、勝つ方につくのは当然で、さっさと勝ってしまわねば話にならぬと言うのに、尊公らはいつまで彰義隊などという暴徒どもを放置しておくのか。おかげさまでわが外国事務局は諸事やりにくくてかなわぬ」

「御安心召されよ大隈殿、それもあと数日のことです」

それよりも25万両をこちらにお渡し下され、彰義隊討伐の資金に致す、と大村が言う。

大隈は、唖然とした。

「米国公使が当分どちらにも渡さぬと言うのならば好都合。米国だけでなく、諸外国が軒並み日和見ならば、どこの国も旧幕軍に肩入れして先方に艦や武器を売ってしまうこともないでしょう。今後、旧幕軍の掃討戦に艦など不要です」

「そんな馬鹿な話があるか。旧幕海軍であるところの榎本艦隊は精強無比だぞ」

「そうです。だから、榎本艦隊とは戦いません」

大村にいわく、船とか艦隊とか言うものは強かろうが弱かろうが関係なく、そういつまでも海をさすらっては居られぬものである。補給も要れば修理も要る。よって日本各地の主要港をみな押さえてしまえば行き場がなくなる訳で、榎本艦隊がどれほど強大であってもそういうやり方で無力化は難しくはない、まずはなにより陸戦で完全勝利をおさめるべし、と言う。

「敵が強大であるならば、直接対決をせずに勝利できる方法を探せば良いのです」

ですから大隈殿、明日あなたには横浜で艦ではなく小銃の買付け交渉をしていただきたい、艦は駄目でも銃ならば売らぬでもないでしょう、と頼まれ、大隈は驚くを通り越して呆れた。

(これは、桂小五郎会心の人事だな)

こうも徹底した現実主義者は見たことがない。

どういうわけか大隈にかぎらず佐賀藩士は、根っからの合理主義的実務家が多かった。

理由はさまざまにあろうが、なんにせよ目の前の問題にどう対処するべきか、まずそれしか考えていない者がほとんどで、佐賀ではそれが当たり前だった。

ところが大隈などからしてみれば不思議きわまりない事に、他国はそうではない。

他藩出身のいわゆる憂国の志士という人種は考えることが真逆で、水戸学がどうした、国学がこうしたといった思想的観念論を語るばかりという者の方が圧倒的にに多いのである。

大隈などにはそんな思想的観念論者などは阿呆にしか見えぬのだが、だとしても、なにせ周囲の大半はそうなのだから新政府内では妙に肩身が狭かった。

しかるに大村は、空論の徒の卸元がごとき長州出身であるにもかかわらず、先刻から徹底して現実論しか語っていない。大隈にしてみれば、さながら掃き溜めに鶴を見た思いである。





そんなこんなで、大村益次郎と大隈八太郎はおおいに意気投合した。

大村は、

―――彰義隊もあと数日。

などと言ったが、しかしどれほど気が合ったとしても、具体的な日付はいわない。大隈も敢えて聞こうとはしない。

(そういうものだ)

情報の漏洩をおそれての事である。万が一にも彰義隊や旧幕側に漏れては話にならない。大隈は好きこのんでひとに機密を喋るような口の軽い性分ではなかったが、だとしても万が一、旧幕勢力の手に落ちて拷問でも食らえば朦朧たる意識の中で喋ってしまう可能性は否定出来ぬ。はじめから知らぬが万事無難なのである。

が、そのあたりがわからぬ者は多かった。

―――大村なる者、姦物である。

とにかく、薩摩人たちからの評判が、壊滅的なまでに悪かった。

―――大西郷に対し非礼に過ぎる。

案の定と言うべきか、西郷は東征軍参謀(総督は宮様で実権なし)、大村は軍防局判事(言うなれば軍務大臣に相当)で、これは一体どちらが上で下なのか、他に対し命令権があるにかないのか判然とせず、周囲はまずそこに戸惑った。

が、大村は職制のよりどころなど意にも介さず、着任するが早いか物凄い勢いで実務をこなし、いつのまにか実権を握ってしまっていた。いつどこの戦線に援軍や物資をどれだけ送れば良いか、何事も大村を煩わさねば何ひとつ段取りが進まぬ有様。

結果的に、当の大村にそのつもりのあるなしに関係なく、先任の西郷および薩摩勢を無視するかたちにはなった。

これが憎悪を買った。

たとえば、江戸市中の治安維持に関してである。

西郷と幕臣勝海舟との会談での取り決めにより、御三卿のひとつ田安家が市中の治安を担当していたが、現実にはなにもしておらず、市中では強盗辻斬りが横行していた。市民たちは真昼でも外出出来ぬような有様に陥っていたが、西郷は勝に対する約定を律儀に守って市中に手をつけようとしない。そもそもそれ以前に兵力が乏しく、その乏しい兵力の大半は北関東一円に散った旧幕軍の掃討に向けねばならず、市中取締りのために割く兵力がない。市民どころか東征軍の兵卒たちですら市中で彰義隊に出くわして斬られる事件が続出した。

が、大村は着任してすぐ、問答無用で辻々に高札を立て、田安家の任を解く旨を発表してしまった。

当然ながら市中警護に人数を割くことになったし、その分、これも当然のことだが各地の戦線に回す兵力が減った。

にもかかわらず、各地の戦況は好転し始めた。

「削るべきところを削り、増やすべきところに兵力を必要なだけ投じただけの事です。闇雲に全ての戦線に兵力を出せば良いとは限りませぬ」

西郷の面目は丸潰れである。

西郷は義理堅い性分で、約束を守るという事については余人の何倍も真摯であり、たとえ兵力が充分であったとしても愚直に勝海舟との約定を守り続けたであろうかと思われる。大村のしたことは、いわば西郷のプライドに後足で砂をかける仕儀にひとしい。

が、西郷本人はこういう時、えてして相手(この場合は大村)を責めるような事はむしろ言わぬ。

逆に大村を褒め称え、みずからの無能を恥じる言をのこしていた。

「大村さァの手際にくらべ、オイはなんと役立たずじゃ」

余人は大概、激怒してよい場面でこのように謙虚な態度でいる西郷に一発でやられてしまい、その日のうちに西郷贔屓になっている。大西郷と言えば人格的魅力、その人柄はまさに仁者、との評価が定着している。

しかし、大隈のような現実しか見ていない男の目には、

(気色の悪い人たらしが)

人気取りが上手いだけの無能人にしか見えぬから、つい評価が辛くなる。

大隈のみるところ、西郷のいやらしいところは、一見謙虚なくせに表立っては大村の差配に賛成とも反対とも言わぬあたりである。

大村が、西郷本人に直接命令を下すような事は今のところまだない。それをを良い事に、勝手に各地の戦線を視察と称して飛び回っていた。

予想通りと言うべきか、別に戦闘指揮がすぐれているわけではないのだが、その人気は絶大であるから、とりあえずいるだけで士気は上がる。

「その意味ではおおいに役に立って下すっておられるのです。お好きにしていただいて結構でしょう」

大隈にとって痛快なことは、大村が自分同様西郷の人格的魅力を全く感じず、従ってその魅力の虜になって言うなりになるような事は、まず太陽が西から昇ってもありえなさそうな点である。

大概の者は、西郷に惚れるまでいかずとも、その倒幕における実績に気後れしてしまう。これで西郷の人柄が狷介ででもあれば対立もできようが、人格者で謙虚と来ては喧嘩の売りようもなく、結果として西郷のやりようになにひとつ文句の言えぬ状態に陥るものである。

が、大村は気後れもせず言いなりにもならず、かといって露骨に敵対するような様子もなく、まるでそこに誰もおらぬかのような無頓着ぶりで、とりつく島もない。

ひとは自分自身を軽んじられるよりも、自分たちの奉ずる神を軽んじられる方が耐えられぬものであるらしい。ほとんどの薩摩藩士は、大村を明日にも斬らんばかりの勢いで嫌っていた。

他藩とはくらべものにならぬほど気性の荒い薩摩隼人である。いつなんどき本当に背後から斬るか撃つかしてくるかわからぬ。大村はどうも自己保身の概念の極めて薄そうな性分のようで、ひとごとながら大隈はいささか心配になった。





数日後、軍議が開かれた。

開いたのは、大村である。ほとんどの者は、

(ようやくか)

と、思った。彰義隊討滅のために諸将の意見を交換するのだろうと思った。

が、実際には意見の交換など一切されなかった。

ただ大村からひたすらに指示を受けるばかりである。何藩の何部隊は江戸の街のどの辺を担当、何部隊は何々坂を担当、と実に一方的であった。

その上、かんじんの総攻撃の日が明らかにされないという奇妙さである。

「総攻撃の日程は前日に発表致す。よって諸将兵卒は今後当分のあいだ外出を控えられよ」

ーーーこの、百姓医者が。

激昂して鯉口を切りつつ立ち上がった薩摩人が居る。隣の者がそれを制しつつ、しかしけわしい声音で理由を問う。が、大村は情報漏洩防止のためと称して一切答えない。

氷のような空気が室内に充満したが、それを破ったのは西郷であった。

「大村さァがあのように申される。皆、ここはひとつ大村さァの軍配に全てお任せし申そ」

この鶴の一言で、不承不承ではあろうが、全ては落着した。



「大村さァ、この後お時間はおありでごわすか」

三々五々、座が散りはじめたころ、西郷がのっそりと大村に近づき、そう呼びとめた。

(すわ、来たぞ)

大隈は軍議の末席に連なっていたのだが、耳聡くそれを聞きつけ、さりげなく人波をかきわけてふたりに近づいた。ただし多少の距離を取り、聞き耳をたてていることに気づかれぬよう用心した。

大村は、例によって例の如く常と変わらぬ仏頂面のまま、

「暇ではありませんが、御用とあらば時間を割くのは吝かではありませぬ」

などと、これまた答えかたに愛想がない。

周囲に散らばった薩摩人たちの中には、これだけのやりとりでも目を剥く者が数人いた。天下の大西郷に誘われたからにはあらゆる事を横に退けても嬉々として応ずるのが当然と言わぬばかりである。

しかし西郷本人は、こちらも常と変わらぬにこにことした笑顔で、

「それは申っさけなかでごわすが、粗餐をあつらえましたので粗酒一献差し上げたくごわす」

後刻人を呼びに遣る旨を伝えて去った。

大隈はそっと座をはなれ、数少ない佐賀人たちをひそかに呼び集めた。

「西郷は、何処に宴席を設けるつもりか」

城内ならば部屋を突き止めよ、あるいは城外いずこかの料亭にでも一席設けるやもしれず、その場合は店に金を渡して隣室を抑えよ、可能であればそのまま隣室に忍べ、城内でも同じだ、と指示を飛ばす。

幸いにして場所はすぐ知れた。城内の一室だった。

大隈は佐賀人たちを引き連れて、自ら佩刀の鯉口を切って隣室に忍んだ。あるいは周囲に薩摩人が同じく潜むやもしれぬと思っていたが、これも幸いにしてその気配はない。

大隈は佐賀城下に育った上士の子である。得意とまでは言わぬが一通りの剣技は学んだ。大村は刀の抜きかたすら知らぬと言われる男で、飾りは軽いに越した事なしなどと称していまだに銀紙貼りの竹光を差して歩くような男である。時折それすら差し忘れて歩いていたりするから、襲撃をうけて自分で自分の身が守れるとは到底思えぬ。桂の如き負け知らずの剣客にはおよびもつかぬが、それでも自分程度の者でもいないよりはましだろう。

「大村を殺させてはならぬ。彼を守れ。彼を喪えば皇国は即ち滅びる」

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