月初めの新商品3
ありふれた集合住宅の一室。ドアノブに手をかけて回すと、途中でがちゃと止まる。鍵がかかっているのだ。よかった、まだ帰ってない。しかしまだほっと息はつかない。三春はカバンから取り出した鍵で扉を開けると、誰もいない玄関に入り「ただいま」とつぶやいた。
カバンを肩にかけたまま台所へと向かい、炊飯器のスイッチを押す。そうしてようやく、三春はほっと息をつけるのだった。
カバンをソファに放り出し、ついで自分の体もぽんとソファに放り出す。
――おばけ見ちゃった、やばい
いや、正確に言えば見たどころじゃない、会話もした。なんか明日も来いとか言われた。そう思ったところで三春が「あっ」と声を出す。カバンを引き寄せ、中から封の開いたお菓子を取り出した。
中身のチョコレートケーキは、確かにひとつ減っている。自分で食べた覚えは無い。
「夢とかじゃない……」
そうつぶやいた声に見えるのは、絶望の色だ。夢であれと願っていたわけではないが、やはり現実を突きつけられると心にぎゅっとくるものがある。
そもそも、三春は別に幽霊の類を信じているわけではない。かといって疑っているわけでもなく、つまり興味が無いと言えるのだろう。
しかし、百聞は一見にしかずということわざがある、とは先に述べたことである。
三春の今の心情は、つまりそういうことだった。
袋から透明なトレイを引き出すと、チョコレートケーキをひとつつまんで食べる。
「あー……美味しい」
思わずそうつぶやくほど、美味しい。さすがプレミアム。外側のチョコは口どけが良く、ビターで少し酸味のある味わいが中の甘いスポンジと生クリームに良く合う。これをひとつ、あのおばけに横取りされたのか。そう思うとふつふつと怒りが湧いてきた気がした。
これは、わたしのおやつだぞ。
同時に、ああ、でも、と思う。
あれも同じように、これを『うまい』と言って褒めたことを思い出したのだ。それだけで、鎌首をもたげていた怒りがすうと臨戦態勢をといていく。不思議な心地だ。
玄関の方からがちゃと音がして、三春は顔を上げた。
母親が帰ってきたのだ。制服姿を見られたら何か言われるだろう、しわになるでしょ、とかなんとか。しかし炊飯器のスイッチは押しているのだ、昼食代の減額につながることでなければ別に叱られたって痛くもかゆくもない。三春はソファに横たわったままでリビングに入ってきた母親を出迎えた。
「ただいまあ」
「おかえり」
「あ、制服で寝るとしわになるでしょ」
思った通りのことを言われた。仕方がないので三春は体を起こすと、チョコレートケーキの袋を持ったまま立ち上がる。そうして買い物袋を手に台所へ向かう母親の後を追った。
「あら、美味しそうなもの持ってる、ひとつ貰っていい?」
「いいよ」
母親の要求に、三春はあっさりと言い切りチョコレートケーキを差し出した。ためらいは全く無い。むしろ「これ美味しいよ」と勧めるような言葉まで言う。そこいらに荷物を置いた母親はそれをひょいとひとつつまんで、ぱくりと食べた。
「わ、うまいねこれ」
「えへへ、でしょ」
うまいと言われ、三春の顔に思わず笑みが浮かぶ。母親と『美味しい』を共有できたときは嬉しいのだ。
その瞬間、三春はあっと思う。
あれが『うまい』と言ったときのざわつき。それを思い出したときの怒りが静まっていく不思議な心地。もしかすると、これと同じことなのだろうか。でも、身内でも親しいわけでもない、むしろ初対面の、それもおばけ。どうして共有できて嬉しいというのか。
その考えを振り切るために三春は母親に「今日は何?」と夕飯の献立を聞いた。帰ってきた答えは「カレイの塩焼き」だった。
翌日、座って授業を受けている三春は気もそぞろであった。
結局献立がカレイの塩焼きだと聞いてもおばけのことは頭から離れず、夕飯を食べていても、テレビを見ていても、湯船につかっていても気にかかるのはおばけのことだ。あげく寝ようと布団に入ってもおばけのことが頭にちらつき、中々眠れない。
明日、またあの場所に行くべきなのか?相手はおばけだぞ、関わっていいことなんてあるわけがない。おばけはまた来いと言ったけれど、その言葉を聞く義理は無いのだ。いや、しかし、行かなければおばけの恨みを買うことになるのでは?相手はおばけだぞ、何をしてくるかわからない。今日のおばけは穏やかに見えたけれど、いつ豹変しないという保証は無いのだ。それに、せっかく見つけたあの場所をおばけのために手放すのも惜しいのではないか?相手はおばけだぞ……なぜおばけのためにこちらがあの場所を諦めなければいけないのか。ああ、なんだか腹が立ってきた……と、三春が一度眠ることを諦めてベッドから出たのは、夜中の二時のことだった。ホットミルクを飲んでようやく寝つきはしたが、よく眠れた気はしていない。
おかげで三春は寝不足である。
ああ、授業中に居眠りするタイプではないのに。
そうは思うが、三春は先ほどからしんどいと感じるほどにまぶたが重い。うつらうつらとして、意識が風船のように浮上していく。そのうち、目の前には映像が流れ始めた。
咲き誇るジンチョウゲの並木道。見覚えがある、あの公園の、祠への入口がある場所だ。すぐ傍を鹿やウサギ、アライグマといった動物たちが通り過ぎていく。そんな中、一匹の黒い馬が立ち止まるとこちらをじっと見つめた。
そのときなぜか、手にニンジンが握られていることに気が付いた。それを、こちらをじっと見つめる黒い馬に差し出す。馬がそれにがぶりと食い付いた。
『うまいな』
馬が、そう言う。なぜだかどきとして、心が弾むようだ。
『明日、また来い』
黒い馬が、そう言った。ああ、そう言うならまた明日も来ようか。そんなことを思ってしまう。どうしてってそれは、馬がなんとも美味しそうに食べるから。うまいと、その言葉を聞くと嬉しくなってしまう。
これは間違いなく夢だ……と思いながら、三春の目の前はついに真っ暗になった。
三春がはっと気が付いたとき、授業はすでに終わっていた。
午前最後の授業だったため、教室はすでに昼休みに突入しているようだ。周囲はざわざわと騒がしい。時々鼻につくのは、教室内のあちこちで広げられた弁当の匂いだった。
三春は小さくため息をついた。授業中に居眠りをするタイプではないのに。先生すら起こしてくれなかったのか、と思うと少し恥ずかしくなる。しかしすぐに、いいや、と思い直す。自分が居眠りをしていることなど、教室中の誰も気に留めないことなのだろう。自分が教室中の誰も、気に留めることが無いのと同様に、だ。
そう頭を切り替えると、三春の腹の虫がくるると鳴る。
黒板の上にある時計を見ると、昼休みはもう半分を過ぎているようだった。購買におかずを買いに行く余裕は無さそうだ。三春は小さくため息をつくと、カバンから水筒と保冷バッグを取り出した。
忙しい母親が三春のために用意をしてくれるのは、水筒のお茶とおにぎり二つだ。それと、好きなおかずを買う五百円。
手抜き、とは言うまい。三春は母の忙しさを知っている。朝寝坊ばかりする娘に自分で弁当を作れともコンビニで買えとも言わず、お茶とおにぎりを用意してくれるなどありがたいことではないか。
まあ、難があるとしたら、おにぎりの具が独特なことか……。二口目で、はり、という食感がしてそれは現れた。
――今日はキュウリの浅漬けか。
確かにご飯のおかずとしては成立するが、おにぎりの中から出てくるとさすがに驚いてしまう。いや、美味しいけど。
そう心の中でつぶやいて、ふっと三春の心によぎったのは、むなしさだった。三春はカバンからケイタイを取り出して机に置いた。こういうときの暇つぶしのために入れておいた雑学アプリを開く。行儀が悪いと叱られるだろうが、一人でおにぎりを食べる場合はこうしていると格好がつくのだ。それに気も紛れる。
おにぎりの具がキュウリって、と、誰かと笑い合いたいとは思わないといえばそれは嘘だ。そういう自分の心を、三春はわかっていた。寂しくなんかねえやい、なんて強がりは言わない。
寂しいけれど、一人の方が楽なことの方が多いのだ。
それでもやっぱり寂しいときは、三春は心の中で悪態をつく。け、群れていなけりゃ生きていけない、弱虫どもが、と。




