月末のシュークリーム7
「三春!」
それは、なにがしが自分の名前を呼ぶ声。
目を開けると、途端に視界が奪われる。体温は感じない。自分の体を包み込んだそれがなにがしの体だと気付いたのは、あたりにガラスの割れる音が響き渡った瞬間だった。
「え、ちょっと!」
慌てて顔をあげると、こちらを見下ろすなにがしの目と視線が合う。
「怪我はないか」
三春はとっさに声が出ない。三春がじっとなにがしの顔を見上げたままでいると、甲高い声が聞こえた。
「ばーか!」
三春となにがしが同時に視線を向けると、扉の傍に少し縮んだ付喪が立っている。付喪はべっと舌を出すと、その小さくなった体でだっと廊下に駆け出した。
反射的にその後を追うようになにがしが扉へ駆けるが、なにがしはそこで立ち止まり扉の外へ飛び出していくことは無かった。
「……いや、追っても勝ち目はないか」
そうつぶやいて、三春の方へと向き直る。三春は足元に散らばったガラス片を踏まないよう慎重に進み、なにがしの傍へと寄っていく。
「ねえ、それより大丈夫なの、ビーカーとか当たったでしょ」
三春はなにがしの服の裾を引っ張り、そう聞いた。なにがしの腕の中でその顔を見上げたとき、なにがしの頭のあたりからぱらりとガラス片が落ちるのが見えた。
落ちてきたビーカーから、なにがしが庇ってくれたのだとわかった。
突然の出来事に驚いていたためとっさに心配するようなことは言えなかったが、少し落ち着けば大変なことではないか。怪我は無いかとはこちらのセリフである。言い知れぬ不安で胸が苦しい。
「ああ、この体に痛覚は無い、それに傷ができてもじきに治る」
だというのに、なにがしは少しの笑みさえ浮かべてそう言うではないか。こちらはこんなにも苦しいというのに。
「もう、それでも、心配になるじゃん……」
三春はついにそう言って、引っ張っていたなにがしの服の裾をぎゅっと掴んだ。こちらがこんなにも心配しているのに、何をのんきなことを言っているのか。
ああそうだ、なにがしのことが、心配で、胸が苦しいのだ。
昼休みの事もそうだ。ぐったりした様子のなにがしが心配だった。更にさかのぼれば、出会って間もない頃の、あの雨の日のことだって。まだなにがしは友人ではなくて、得体の知れないおばけだったのに、心配だった。
そして何より、今が一番心配でたまらない。
三春が眉を八の字にしていかにも困ったように訴えれば、なにがしは少し驚いたような顔をしてから、嬉しそうに笑った。
「平気だと言っているだろう、そんなに心配するな」
笑った顔でそう言われ、三春はようやく胸の苦しいのが少し取れた気がした。それから感じた感情は、恥ずかしい、ということだ。思い出したように頬が熱くなる。
「し、心配するよ、だって庇ってもらったんだし、怪我なんてされたら後味悪い……」
それからついそんな強がりが口から出た。我ながら面倒くさい、と思うがすでに言ってしまった後だ。なにがしがははと笑うのが見えた。ちくしょう、笑うな。
「さて、付喪に逃げられてしまったわけだが、どうするか」
なにがしがそう話題を変えることを言うと、三春はなにがしの服を掴んでいた手を離した。そしてなにがしの言ったことを考える。そうだ、付喪には逃げられてしまったのだ。
「後を追っても勝ち目は無いだろうな」
「追って勝ち目無いなら、どうすんの?」
三春が聞くと、なにがしは顎に手を当ててふむと唸る。
「そうだな、あいつは少し小さくなっていただろう」
「ああ、そう言われれば」
扉の傍で「ばーか!」と悪態をつきべっと舌を出した付喪は、確かに初め見たときよりも少し縮んでいた。
「恐らく先ほどのあれで力を使ったのだろう、付喪は弱れば自分の本体の傍へ行く。恐らく奴もそうするはずだ」
「じゃあ、本体の場所が分かれば……」
「ああ、だが奴の本体はいったいどこに……」
「あの子の本体の場所なら、教えてあげよう」
「わ!」
三春が悲鳴をあげる。なにがしとの会話の中に突然知らない声がしたからではない。
なにがしとの会話の最中に、突然足元に何かの上半身がにゅっと出てきたからだ。三春は思わずスカートを押さえてその場から飛びのいた。完全に見える位置ににゅっと出てきた。絶対見た。
「お前は」
「やあなにがし、あの子の話を聞いてくれたのだね、ありがとう」
「いや、ニノキンゾウの助言のおかげで冷静になることができた、俺こそ礼を言わせてくれ」
「は?」
なぜか普通に始まったなにがしと何かの会話に、三春は思わずそう声をあげた。え、何だって、何て言った?ニノキン……何?
三春のあげた声を聞いたなにがしが「ああ」と言い、その何かとともに三春を見た。
「これがニノキンゾウだ」
「まあ元の名はあるけれど、君たちには妖怪ニノキンゾウと名乗った方が馴染みがあるだろう、ニノキンゾウで構わないよ」
ニノキンゾウと名乗ったそれを睨む三春の内心は、うるせえよ、だった。あまりの困惑に思わず悪態をついてしまうのだ。ニノキンゾウは三春に睨まれてもなぜだか動じた様子は無く、それどころか「女子高生に見つめられると照れしまうな」とのたまう始末だ。見つめてねえよ、睨んでるんだよ。ちなみにニノキンゾウの見た目は、完全にあの銅像そのものだった。
「しかし驚いたな、移動ができたのか。俺はてっきりお前はあの場所から動けないものだと」
「私は特別だよ、長い間付喪として存在しているうちにこういう力を得たんだ。まあ言ってしまえば、ただの年の功ではあるがね」
なにがしはなにがしで、ニノキンゾウとのんきに会話をしている。その様子を見ていると、三春は次第に肩の力が抜けてきた。肩を落として、はあとため息をつく。わけのわからない状況なんて、今更か。そう思えば多少冷静に戻れる気がした。だがしかしスカートの中を覗いた疑惑は忘れない。はっきりさせないと気は済まないぞ。
「こちらのお嬢さんが、なにがしの友人かな」
「ああ、三春だ」
何やら自分の知らないところで勝手に名前を教えられていた。が、しかし、わざわざ口をはさむことはしなかった。もう教えられてしまったものは仕方がないし、あとなんとなくあの二人の会話には入りたくない。二人っていうか、どっちも『人』じゃないけど。
「ああ、そろそろ本題に戻った方がいいかな」
三春が黙ってなにがしとニノキンゾウの会話を聞いていると、ようやく本題に戻るようだった。というか、ニノキンゾウの本題って何だったっけ。
「あの子の本体がある場所ならば、知っているよ」
ああ、それだ、と、三春はニノキンゾウの言葉に耳を傾け始めた。
「あの子の本体もまた、私のそれと同じように地中深くに埋まっている。人々に、忘れられてしまったものだ」
「縁を感じるとは、そういうことか」
なにがしはニノキンゾウと出会ったときの言葉を思い出し、そう言った。
「ああ、それもあるね、そしてあの子も私と同じように、下半身が地面に埋まっていた。でも、それを引っこ抜いた誰かがいる。あの子は、その誰かのために、こんなことをしているのだよ」
「……知っていたのか」
「年の功で得た力があるからね、あの子のしていることは知っていたよ」
けれど、と、ニノキンゾウはやや顔を伏せた。
「年の功で得た力では、あの子を止めることも、救うことも、できない」
やや伏せられたその顔の表情は読み取ることができない。なにせ銅像そのものだ、表情筋というものが無い。しかしやや顔を伏せたニノキンゾウからは確かに、悲しみといった感情が感じられた。
「どうかあの子を、そしてあの子を引っこ抜いた、あのお嬢さんを、救ってあげてくれないか」
だからこそニノキンゾウが顔を上げて言ったその言葉は、切実な響きをもって三春となにがしの耳に届いた。
「ああ、任せておけ」
そう言ったのは、強い瞳をしたなにがしだ。ニノキンゾウをじっと見据え、力強く宣言する。ニノキンゾウが「ありがとう」と言った声は、安堵に満ちているようだった。
「あの子は玄関を出て、右側に進んでいった先にいるよ」
「なるほど、外か」
そのやり取りを眺めながら、三春は少し反省していた。後悔と言ってもいいのかもしれない。
ニノキンゾウはまさに本物の二宮金次郎らしく、聖人君子だった。付喪のことを心配して、心を痛めていた。付喪を救えない自分をさぞ情けなく思ってしまっていたのだろう。そうでなければ、どうしてニノキンゾウの言葉がああも切実な響きをもって聞こえたというのか。
そんなニノキンゾウが、スカートの中を覗くはずはないではないか。三春がニノキンゾウの背中を見つめてそう反省をしていると、ニノキンゾウがこちらを振り返った。驚く三春に、ニノキンゾウは「最後にひとつ」と言うと、こう続けたのだった。
「お嬢さん、高校生が黒は、少し早いかな」
三春は思わず「は?」と声をあげた。何が、と聞き返す間も無くニノキンゾウはずぶずぶと理科室の床に沈んで姿を消してしまう。
何だったんだ、と思い、少し考える。
そして、はた、と気が付くと、かっと熱が上がった。
「あのくそニノキンゾウが!」
衝動的に悪態が口をついて出た。なにがしが驚いて「どうした」と言ったが、三春は「うるさい!」と一喝した。説明できるものか。三春に一喝され、なにがしはただ呆気にとられるだけだった。
くそう、前言撤回だ、何が聖人君子だ、反省も後悔もするものか。やっぱり見ていたんじゃないかあの野郎。今度会ったら覚えていろよ……。
心の中でニノキンゾウへの悪態をつく三春は、月末のシュークリームのことなどすっかり忘れてしまっているのだった。




