月中ごろの定番商品6
めぐみが三春の異変に気が付いたのは、購買から帰ってきた三春がおにぎりを食べ始めたときだった。
――なんか、今日は険しい顔してお昼ご飯食べてる
おにぎりの中身が嫌いなものだったのかな。めぐみは険しい顔で時々ケイタイをいじる三春をちらちらと見ながらそう思う。かつてあんなにも険しい顔をしておにぎりを食べている三春を見たことは無い。かといって普段は嬉しそうに食べているかというとそういうわけでもないのだが。普段ならひたすら無表情だ。
――そういえば今日はおかず、無いみたい
ちらちら見ていると、机の上の異変に気が付いた。普段ならば購買で買ったフライセットか煮物セットが机の上にあるはずである。代わりにそこにあるのは、袋に入ったパンらしかった。
――売り切れだったのかな
それで、少し機嫌が悪いのかもしれない。そう推測すると、めぐみはすうと三春から視線をそらして自らの机に向き直った。母親手製の弁当と、広げていた本が見える。本は、おにぎりを食べながらケイタイをいじる三春の姿に倣って用意したものだ。おかげで教室の雑踏の中でもなんとか食欲を保つことができるようになった。
――わたし、何してんだろうなあ
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
――ずっとちらちら見てるぐらいなら、勇気を出して、話しかければいいのに
そうは思うが、そもそもそれが出来る人間だったならめぐみは十六年間も友だちが出来ないことに悩んだりはしていない。自分のふがいなさに、めぐみは小さくため息をついた。なんだか食欲が無くなってしまうようだ。落ち込んだ気分のまま、めぐみはまだおかずの残る弁当箱のふたを閉めるのだった。
めぐみが自らの異変に気が付いたのは、放課後になって間もないころだった。
放課後になれば、めぐみはいち早く席を立ち家路を急ぐ。家に帰ることのできる時間が来たなら教室や学校といったこの場に留まる理由は無く、早く家に帰りたいのだ。
しかしこの日、ローファーを履いて昇降口を出ようとした瞬間、異変がめぐみを襲った。
ふと、背中がぞくりとした感覚が駆け抜ける。
――助けてくれ
ひゅう、と息をのむ。思わず足が止まってしまった。
それは、頭に直接響いてくるような声だ。いや、心臓のあたりで響いたかもしれない。少し高い少年のような声だったことが、ほんのわずか恐怖を和らげた。しかし、ほんのわずかである。めぐみを立ち止まらせ、辺りをきょろきょろと見渡すという不審な行動をとらせるのは確かに恐怖という感情だ。
未知との遭遇に対する恐怖。
それから、自分に対する恐怖であった。
心臓のあたりで拳をぎゅうと握ると、めぐみはだっと駆け出した。今だけは、人の目が気にならない。どこまで逃げればあの声から逃れられるのか、わからなかった。
めぐみがようやく落ち着きを取り戻すことが出来たのは、鍵のかかっていない玄関の扉を開いて家の中に入った瞬間だった。
「はああ……」
思わずため息が出て、崩れ落ちる。
「姉ちゃんおかえり、どしたん、今日そんな疲れた?」
「ああ、ただいまあ……」
玄関まで出迎えに来た六つ下の弟、しおりに疲労困憊といった体でそう答える。それからゆっくりした動作で立ち上がると、靴を脱いで家の中に入っていく。するとしおりがめぐみのカバンをばっと奪い取り、居間の方へと駆けていった。めぐみは一瞬「あっ」と声を出すが、すぐにしおりから奪い返す元気は無い。仕方がないのでしおりの後を追って、居間へ向かうしかなかった。
めぐみが居間へ続く扉を開けると、しおりはダイニングテーブルに二つ並べたコップにジュースを注いでいるところだった。しおりの好きな、透明な炭酸飲料だ。めぐみのカバンは、ソファに放り投げてあった。
「ほら姉ちゃん座って」
しおりはめぐみに気が付くと、そう言って椅子に座るよう促してくる。弟の言葉に従ってめぐみが椅子に座ると、しおりは炭酸飲料を注いだコップをめぐみの前にスライドさせた。それからめぐみの向かいに座ると、もう一つのコップは自分の方へと手繰り寄せる。
「なんかあったの、姉ちゃん」
しおりが心配そうな顔で、そう聞いてくる。
めぐみは昔から、自分からは何も言わないが、「どうしたの」と聞いてくれたらなんでも言える子どもだった。小さい頃は誰もがそう聞いてくれたのだ。しかし、大きくなるにつれて、大人は誰もそう聞いてはくれなくなった。
それでもただ一人、大きくなっためぐみにも「どうしたん」と聞いてくれる存在があった。それが、六つ下の弟、しおりだ。そう聞いてくれるために、めぐみのカバンを奪って居間へと誘い込んだのだろう。
「しーくん……」
眉を八の字にして、めぐみが弟を愛称で呼ぶ。しおりという弟が産まれたことで、両親はめぐみに「どうしたの」と聞かなくなった。しかし、しおりという弟がいたからこそ、めぐみは学校という社会に出て行くことができたのである。
「お姉ちゃん、もう、だめかもしれない……」
だからこそめぐみは弟の気遣いに触れ、今にも泣きだしそうな顔でそう弱音をもらした。しおりはいつにない本気の弱音にえっと驚き「どしたん」と返す。
「あ、あのね、今日帰ろうとしたら学校の玄関でね、変な声が聞こえたの」
「変な声?」
「小さい男の子みたいな声で、た、助けてくれって聞こえて」
「えっ幻聴?」
「や、やっぱり幻聴だよね? お姉ちゃんやばいよね?」
「いや、落ち着けって姉ちゃん」
しおりは、少々興奮気味の姉を制止する。
「一瞬だけ聞こえたん?」
「え、あ、……うん、一瞬だけ、なんか、背中がぞくっとして」
「一瞬だけだったら、空耳とかいう可能性あるじゃん、大丈夫だって」
「そうかなあ……」
「姉ちゃん気にしいなんだって、ほら、ジュース飲んでよ」
促されて、めぐみは戸惑いながらもしおりの用意してくれた炭酸飲料を少し飲んだ。しゅわっとした泡が口の中に広がって、パチパチと弾ける。甘くて冷たいそれが喉を駆け下りていく感じは爽快で、少しだけ気分が晴れていくようだった。
姉が飲むのを見届けて、しおりもぐいとグラスを傾ける。
「もしまた聞こえてもさ、それって姉ちゃんの好きなマンガみたいじゃん、面白がっちゃえばいいんだよ」
ぷは、と息をついたしおりがそう言う。めぐみはそれを聞いて、目を丸くした。何を無責任なことを、と思ったのではない。マンガみたいじゃん、なんて、めぐみには考えもつかないことだ。弟の柔軟な発想力に驚き、そして、それを聞いた途端に肩の力が抜けた気がしたことに驚いたのだった。
めぐみが「ありがとう」と言えば、出来た弟は「どういたしまして」と言って、にかっと笑った。
翌日、めぐみは朝から緊張していた。
いつまたあの幻聴が聞こえるか、わからないのだ。朝家を出る時にはしおりに腰のあたりを叩かれ、「気にすんなよ」と励まされた。おかげで登校する勇気は得ることができたが、幻聴への恐怖はまだ克服できていない。
――でも、昨日聞こえたのだって、玄関での一瞬で、放課後だったし、放課後まではきっと平気なはず
それでもなんとか弟に言われた「気にしいなんだって」という言葉を思い出し、自分にそう言い聞かせる。それが功を奏したのか、放課後になるまであの声は、まったく聞こえることは無かった。
――おい、誰か、いねえのか
それが聞こえたのは、昨日と同じ時間、同じ場所だった。
めぐみは足を止め、ひっと息をのんだ。
また聞こえた。やはり少年のような声だ。弟より、もう少し小さいくらいの。そう思った途端、弟の言葉が頭をよぎった。
『マンガみたいじゃん』
そうだ。そう思うんだ。考えてみればこのシチュエーションは、めぐみが愛読している少女マンガの中でもお気に入りのひとつに数えられる一冊とよく似ているではないか。
平凡な女子中学生が、ある日突然頭の中に声が響いたと思うと、小さな人間の姿をしたなにかと出会うのだ。そこから始まる青春ラブコメなのである。
マンガと現実を混同するわけではない。ただ、この幻聴を『マンガみたいじゃん』と思ってみれば、不思議と恐怖が和らいでいく気がする。落ち着いていく心臓に手を当て、めぐみはしばらくその場に立ち尽くしていた。
すると、昨日はしなかった、二回目の声が聞こえる。
――こっちだ、こっち、助けてくれよ
少しばかり冷静になっていためぐみは、それがある一定の方向から聞こえてくることに気が付いた。その方向に目を向けると、それは、まったく人気の無い方向だ。進んでいくのには少し勇気が入りそうだ。いや、めぐみにとってはむしろ人気の無いほうが、気楽に進んでいけるかもしれない。
めぐみは一度深呼吸をすると、意を決して一歩を踏み出した。校門の方へ向けて、ではない。声が聞こえてくる、人気の無い方へ向けて、だ。
人気の無い方の道は、どうやら校舎の裏側へと通じているようだった。
辺りはすっかり校舎の陰に覆われてしまい、一足早い黄昏時を迎えている。薄暗いその場所を、めぐみは慎重に進んでいった。
――わたし、何やってんだろ
次第に心細くなり、心の中で弱音を吐いた。その瞬間だ。
『おい! おい! 聞こえてんだろ!』
「うあっ!」
鋭い怒鳴り声が聞こえて、めぐみは思わず声を上げてしまった。慌ててきょろきょろとあたりを見回していると、再び声がする。
『聞こえてるんだな? じゃあ下を見ろ! 下!』
「え、下……?」
再びはっきりと聞こえたその声に促され、めぐみはおそるおそる下へ視線を向けた。
瞬間、はあと息をのむ。
『おいお前! 俺が見えてるんだな! じゃあこの俺を助けろ! ほら早く!』
心臓が飛び出そうなほどに大きく鼓動して、手足が震える。めぐみはその震える手で頬を覆うと、大きく息を吸い込んだ。
「かわいい……!」
恍惚の表情とともにめぐみの口からあふれたのは、そんな言葉だった。




