月中ごろの定番商品5
午後の始めの授業は、古文だった。
五時限目の古文。それは、睡魔が最も活動的になる時間のひとつである。直前の昼休みで空腹を満たしてしまった学生の内側で、睡魔は目を覚ます。睡魔は、誰もが知らないうちに己の内側に飼っているものなのだ。古文という昔のことを昔の言葉で顧みる緩やかな時間は、内側で目覚めた睡魔をさらに活動的にさせる。つまり五時限目の古文は、己の内側で目覚めた睡魔との戦いの時間でもあるのだった。
しかし、三春が今この時間に戦わなければならないのは、別の存在である。
「なるほど、これががくせいを苦しめるという”べんきょう”というものか」
授業に集中したい三春の隣で独り言をつぶやく存在。それこそが今三春が戦わなくてはならない存在。なにがしである。うるさいったらない。
『うるさい、話しかけるな』
三春はノートの端にそう書いてペン先でコツコツと叩く。授業に集中したいのだ。それを読んだらしいなにがしが「ん」と言うのが聞こえた。
「まあ、がくせいの本分はべんきょうとも言うようだしな、お前は真面目にべんきょうに取り組むがくせいだということか」
なにがしはそう言ったのを最後に、黙ってくれるようだった。すうとなにがしが離れていく気配がして、三春は心の中でほっと息をつく。そうしてようやく黒板と、教師の話に集中を始めることができるのだった。
その集中が途切れたのは、それから二十分ほど経った頃だ。
――あれ、赤ペン、どこだ
ノートをたたみ、教科書をたたんでみても赤ペンが無い。その辺に置いておいたはずなのだが。もしかして無意識に筆箱にしまったのだろうか、と筆箱を探るがやはり無い。おやと首をかしげつつ三春が小さく周りを見回すと、コツンと音がして間も無く見つけた。床に落ちている。
なぜ、という思いに顔をしかめつつ、三春は体をかがめてそれを拾った。
「こら、お前か」
聞こえたそれに、三春はぴくりと肩を震わせた。声のした方をちらりと見ると、思わずひゅうと息をのむ。
「まったく、いたずらな奴め」
それは、そこにいたなにがしが、何か得体のしれない小さな生き物をつまみあげていたからであった。
なにがしにつまみあげられ目線の高さにいるそれはぴいぴいと鳴き声を上げて、暴れている。手のひらサイズの小さいおっさん……ではない、手のひらサイズの小さな子どものようだ。ただし、緑色の全身タイツに身を包んでいる。
三春がその光景から目を離せないでいると、三春に気付いたらしいなにがしが三春に視線を寄越した。
「ああ、すまない、邪魔をしてしまったか」
もはやそれは問題ではない。三春はおそるおそる視線を外すと、ノートの端に短い一言を書いた。
『なにそれ』
それだけ書くとまたすぐに視線をなにがしと得体のしれない何かに戻した。その表情は非常に険しい。未知との遭遇に対する恐怖の色も見える。とにかくそれの正体を判明させないことには恐怖のために授業に集中することなど到底難しいのだ。
三春のひっ迫している状況など気にしていないのか、なにがしは至極冷静に答えた。
「こいつは付喪だ」
言われた言葉に、三春の記憶が刺激される。そういえば、前に何度かなにがしの口から聞いたかもしれない。つくも、ああ、つくもといったら。
『つくもがみ、ってこと?』
眉間にしわを寄せた三春がノートにそう書く。
「ああ、人間はそう呼ぶ。こいつらは物に宿る、魂というか、まあそういうものだ。物の中で目を覚まし、ある程度力を蓄えるとこうして形を持って動き回るのだ」
なにがしがそう解説する傍らでは、なにがしにつまみあげられたままの付喪が手足をばたばたとさせて抵抗しようとしていた。鳴き声はさらに高くなり、きいきいと聞こえるようだ。
「今はお前の筆を地面に落としていたからな、捕まえてやった」
まじか、と三春が心の中でつぶやく。いつのまにやら床に落ちていた赤ペンの謎は、そういうことだったのか。そうとわかるとこの小さい全身緑色タイツの姿が恨めしく思えてくる。三春がじろりとそれを睨むと、三春の視線に気づいた付喪がちらと三春を見た。
そうして、べっと舌を出す。
三春は目を見開き、怒りを表すように拳をぐっと握った。その小さな額をばしんと弾いてやりたい。三春のそんな衝動を代弁するかのように「こら」となにがしが声を荒げた。
「まったく反省の色が伺えんな、そういう奴には仕置きだ」
なにがしが付喪をじろりと睨めば、付喪がぴっと高い悲鳴を上げた。なにがしは尚も付喪をじっと睨み付け、その小さな額に指を当てると
「めっ」
と言った。
その瞬間、ぽふっと小さな音を立てて付喪の姿が弾けた。驚いた三春の肩がぴくりと跳ねたのとほぼ同時に、教室に固いものと固いものがぶつかり合うカチン!という音が鳴り響く。同時に響いたのは女性教師の「わっ」という悲鳴。うとうととしていた生徒は体をびくりと跳ねさせて目が覚めたようだ。
「ああ、ごめんごめん、びっくりしたあ」
女性教師はそう言いながら、突然落ちた黒板消しを拾う。
「なるほど、あいつはあれの付喪だったか」
三春の傍ではなにがしがその光景を見ながらそう言った。それから三春が不思議そうにこちらを見上げているのに気付くと、補足の説明を始める。
「言っただろう、付喪は物に宿ると。あいつの場合はあれに宿っていたらしい」
三春は目を瞬かせ、しばしぽかんとなにがしを見上げていたが、やがて視線を手元に落とすとまたノートの端に何かを書いた。
『なにしたの?』
「ああ、仕置きだ。悪さをしたり、それに反省の色が無い付喪には仕置きをすることがある。一時的に力を奪ったのだ。そうすれば付喪は形を失い、もとの物の中に戻るからな」
『消えたの?』
「いいや、消滅させたわけではない。またしばらくして力を蓄えれば形を得るだろう。まあ、次に形を得るときは、少しは反省していることだろうな」
三春はなにがしの言ったことがうまくのみこめない、というような顔でしばしなにがしを見つめ、やがて、再びノートの端に書いた。
『なんで、そんなことできるの』
それを読んだなにがしの答えは
「わからん」
だった。
不思議と三春はそれ以上疑問に思うことは無く、まあいいか、と思ってしまう。もはや『わからん』と聞くと、肩の力が抜けていくようだった。
三春はノートの端に『授業に戻るわ』とだけ書くと、なにがしを一瞥することなく前を向いた。




