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失楽の予見者  作者: 桐央琴巳
第一部 「失楽の予見者」
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第二章 「使命」2

 書庫から神殿までの道程を、アルセイアスはマリアセリアに先導されて歩いた。

 同世代の少女たちと比べても、とりわけ小柄なマリアセリアのことである。その気になれば簡単に追いついて、肩を並べてしまえるのだが、距離を詰めようとすると気配を察して避けるように足を速めるので、アルセイアスは黙したまま、マリアセリアの遣り様に従った。


「レスラ姉様は祭壇でお待ちです。ご用は直接お伺いになって下さい」

 神殿の前に辿り着くと、マリアセリアはそう言ってアルセイアスを促した。

 常であればマルシレスラの御前まで案内し、人払いの必要があってからその場を退くものであるのに――。あからさまに勝手を違えられて、アルセイアスは眉を顰めた。


「あなたはどうなさるのですか?」

「私は……」

 即答できずに、マリアセリアは視線を逸らす。マリアセリアが気鬱をしたまま控えていては、マルシレスラの気を散らしてしまうだろうし、アルセイアスもそぞろになってしまうだろう。今は務めを放棄することになってしまっても、夫の傍にはいたくなかった。


「お邪魔をしたくありませんから、遠慮を致します。私のことは気にしないで、放っておいて下さい」

 ささくれた気持ちは隠し切れずに刺となってしまう。何と可愛げのない、当てこすりであるのだろう? 自己を厭う気持ちが、マリアセリアに唇を噛ませた。

「セリア」

 軽く腰を屈めて、マリアセリアの顔色を窺いながら、アルセイアスはしっとりと呼んだ。優しげな声音の奥に、宥めようとする作為を読み取って、マリアセリアはなおさら頑なになる。


「行って下さい。早くっ……」

 打ち消そうとすればするほどに、書庫で自堕落に絡み合っていた、夫と女の姿がはっきりと蘇る。愉楽に浸るパキラリウムは、淫猥でいながらぞくりとするほどに美しかった。

「この場で仲直りは、させてもらえませんか? 吾妹」

 強張った頬に指先を掛けられそうになって、マリアセリアはぐっと顎を引き、薄い身体を縮こめていやいやをした。

 触れられたくないと思った。比べられたくなかった。アルセイアスの肉体は、豊満なパキラリウムの弾むような感触を、おそらくまだ、生々しく覚えているであろうから。


「できません」

「わかりました、無理は強いません」

 【心】(イオス)の瞳を継ぐ者は、氏族の名の通りに人の心に聡い。

 異眸のマリアセリアに、それほど強い精神感応力は備わっていなかったが、不誠実な言葉で凌ぐことは諦めたようで、アルセイアスはあっさりと引き、代わりに深く吐息を零した。


「……!」

 それはアルセイアスの予想を超えて、マリアセリアの心に暗く重くのしかかり、たまらなく彼女を不安にさせた。

 手の焼ける子供と呆れないで欲しくて、補う言葉を探そうとするが、せりあがる想いに胸がつかえて、嗚咽をこらえ歪んだ顔を上げることすらできない。

 こんな時、セルクシイルならばどうするだろうと、マリアセリアは不意に思った。

 大人の余裕を持ったあの第一夫人ならば、夫の身持ちを責めることも、パキラリウムに対する劣等感に苛まれることもなく、アルセイアスを許してしまえるのだろうか?

 他の女と浅ましく求め合っていた唇を、汚らわしいとはねのけることもなく、すんなりと受け入れてしまえるのだろうか?

 それとも……?



*****



 思いの淵に沈んでしまったマリアセリアには、まるで取りつく島がない。

 妻と呼ぶには幼すぎる、少女の潔癖に辟易しながら、アルセイアスは空へと続く神殿を振り仰いだ。

 用向きは不明だが、アルセイアスは首に呼ばれてここへ来たのだ。こんな時であってもなお、マルシレスラに必要とされる喜びに、アルセイアスの胸は、初恋をしたばかりの少年の如く震えそうになる。

 マリアセリアを得てなおさらに、アルセイアスは自分が強欲になった気がしてならない。想いは愚かに先走り、常には節度を保たせている信仰と理性を置き去りにして、神殿の階を駆け上ってゆくようだ。


「セリア、あなたに、見せてはいけない現場を見せてしまったことは謝ります。詰る言葉があるならば、また改めて伺いますので、次の逢瀬までに考えておいて下さい」

 表面上は努めて冷静に言い置いて、マリアセリアの答えを待つことなく、アルセイアスは階へと足を向けた。


 遠のく夫の気配に、マリアセリアはゆっくりと、眼差しを上げる。

 ようやく見上げた憎らしい背中が、振り返ることもしてくれずにどんどんと遠ざかってゆく。

 離れ行こうとしているのは、果たして身体ばかりなのだろうか――?

 ひび割れた心に、切なさと心細さがひたひたと満ちてゆき、マリアセリアの瞳から、こらえていた涙が堰を切ったように溢れ出した。

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