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失楽の予見者  作者: 桐央琴巳
第一部 「失楽の予見者」
6/13

第二章 「使命」1

 深緑の森に包まれた山里で、緩やかに時は行き過ぎてゆく――。

 マリアセリアとの婚礼から二月を経て、アルセイアスの身辺は、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。年上のセルクシイルは非常に『できた』妻であり、無垢なマリアセリアを己の色に染め上げてゆくのは容易かったので、専らパキラリウムのわがままに手を焼かされていたわけであるが。


 アルセイアスは今日も、朝から書庫に籠っていた。数日前から取り組んでいるのは、朽ちかけた史籍の複製作りである。今彼が広げているのは、数世紀前の【知】(シルヴ)の長の手による、古めかしい記録の一巻きだ。書庫にある文献は、そうして代々の(おびと)や長たちが、記してきたものがほとんどである。

 一言一句を正確に美しく――を心掛け、地道に写本をしていたアルセイアスは、そこに書かれている内容にふと、興味を引かれた。

 今、アテンハルダの里で問題視されていることの起因ともいえる、非常に大きな出来事がしたためられている。



「どうかして? セイアス」

 筆記具を卓に置き、古い巻き物に目を走らせているアルセイアスに、その隣で編み物をしていたパキラリウムが、目ざとく気付いて声を掛けた。

 このところ連日、昼餉時から終業までそうしてパキラリウムに貼り付かれて、煩わしく思わないこともないアルセイアスであったが、閨房で恨み言を並べられるよりはましなので好きにさせていた。

「思いがけず、当たりを引いていたようなので……。知らなかった。過去にはこんなことがあったのですね」

「こんなことって? 一体何が書いてあるの?」

 アルセイアスにすり寄って、夫の手許にある読めない巻き物を覗き込みながらパキラリウムはそう問うた。

 アテンハルダの里の識字率は低い。読み書きは里の為政者階級のみが必須とする技能であって、農作業や狩猟、工芸、そして家事等に従事する、下々の里人には不要だからだ。


異眸(いぼう)の者が生れるようになったいきさつです。

 ――氏族の血を守り、近親婚を繰り返してきた妹兄(いもせ)の間に、いつからか子供ができにくくなった。生れても虚弱で、育たぬことが多くなった。シルヴの家の者から口々に、このまま手をこまねいていては、いずれ里が滅ぶとの予見が上げられるようになる。

 時の巫女はこれを憂いて(うら)を行い、それまでの禁とは真逆に、『男女はこぞって他家の者と契るべし』との神託を得た。

 それによって生まれ育つ子は増え、存亡の機は乗り越えられたが、異なる氏族の父母の血を混ぜたことにより、左右異なる色の瞳を持つ者が出現した。

 各々の瞳に宿る二つの通力(つうりき)を兼ね備えるが、同色の瞳備える者たちと比べて、限りなく非力な彼らを異眸と名付け、同様に前者を同眸(どうぼう)と呼称し区別することとする。

 異眸の者は、巫女、長、長老に就けること能わず。出自に係わらず同眸の者の下位に置く――と、いったような内容ですね」


 通力の優劣で地位を分けるという考えに、自分たちは徒人(ただびと)ではないのだという、先人たちの選民意識が透けて見える。

 しかし、複雑に混血が進んだ現在、同眸よりも異眸の方が圧倒的に多くなり、また、環境が生んだ自然淘汰か、極端から極端に走って同族外結婚を奨励し過ぎた弊害か、四氏族の人口比率に大きく偏りが生じるようにもなっていた。

 【力】(キリス)の琥珀の瞳と、【命】(アロウ)の緑の瞳が里に溢れる一方で、巫女の血を伝える【心】(イオス)の紫の瞳は男子に継承されなくなって久しく、青い目をしたシルヴ氏族は、ここ数代で急激に、同眸の数を絶滅寸前にまで減らしてしまっている。

 氏族の中で最年少の同眸の青年となってしまっているアルセイアスが、シルヴと他家の異眸である三人の妻との間に、早く子供を、たくさん子供をと、せっつかれているのはそういうわけでだ。



「部族を長らえさせるため、とかく生み増やすことのみを優先させたしわ寄せが、現代の我々にきているというわけですか。親愛なる御先祖方には、後世のこの現状も、早くから予見して頂きたいところでしたね」

 巻き物をそろそろと巻き直しながらアルセイアスはぼやいた。パキラリウムは首を捻った。

「今に至るまでに、それだけ深刻にシルヴの血が薄まってしまっているということではない? あたしの予見がひどく曖昧で、なんとなくそんな予感がするの、程度のものだからこそ思うけど、予見しようにもできる人がいなかったとか」

「自分の置かれた状況を、あまり深刻には捉えたくないのですけれど、そう言われればたいへん由々しい気持ちになりますね。……話を変えますが、そういえば近頃、ラシオンを見かけませんが?」

「あら、キセラシオンに何か用?」

「別段に用はないのですけれど、三日に一度は書庫を覗きにいらっしゃる方ですからね。十日近くも顔を見ないとどうにも落ち着かなくて」


 私生活が何かにつけ騒々しい反動で、アルセイアスは立ち入る人の少ない書庫の静けさを気に入っていた。毎日昼餉を届けに来るパキラリウムを除いて、頻繁に出没するのはキセラシオンくらいのもので。

 彼もまた用という用も無く、だらだらと雑談をしに訪れるだけであるが、ともすれば世情に疎くなりがちなアルセイアスにとって、キセラシオンは招かれざる客ではなかった。


「御存知なかったのね。キセラシオンは、首のご下命があったものだから、若手の狩人たちを束ねて森へ巡視に出ているのよ」

「巡視……ですか」

 その言葉を繰り返して、アルセイアスは眉根を寄せた。

「それはまた、不穏なことですね。ラシオンは無駄話を叩いてゆくばかりで、肝心なことには口をつぐんでしまうのだから」

「よほどのことでもないと、あなたは里から出ないものね。心配をかけるだけだから、言う必要はないと思ったんじゃないの?」

「出ないのではなくて、出してもらえないというのが正解ですよ。兄の死後、がんじがらめにされていますからね」


 子供の頃は、心も身体も今より遙かに自由だった。

 アルセイアスの前に、シルヴの長嗣として首を助け、書庫で司書を務めていたのは兄のアクタイオンであり、妻問いについてやかましく意見されていたのも兄であり、アルセイアスはその頼り甲斐のある背に隠れ、お気楽な楽人見習いとして、日がな一日好きな竪琴を掻き鳴らしていられた。


「仕方がないわ、あなたは里にとってそれだけ大事な人だもの。それにセイアス、知っていて? 外界のけだものは、シルヴ氏族をとりわけ手に入れたがっているんですって。ひ弱で綺麗で……、あなたなんて格好の獲物よね」

 うっとりとした眼差しをして、パキラリウムはアルセイアスの髪を梳いた。双子の星のような青い双眸で、アルセイアスはパキラリウムを流し見た。

「夫を掴まえてひ弱と言いますか?」

「だって、あたしの方が絶対に強いもの。セイアスのことはあたしが守ってあげるわ」

「それは頼もしい」

「本気で言っているのよ――」


 こちらを向いてはくれたものの、焦らすように笑うだけのアルセイアスの膝にのしかかり、パキラリウムはその首に腕を巻きつけて、自分から唇を重ねていった。

 僅かに躊躇したが拒まれることはなく、恥らう心までをも貪欲に絡めとられて、白昼の秘め事にしばし酔いしれる。


「……続きはまた、明日の夜に」

「むごい人!」

 嬲るように耳朶を噛まれて、艶やかに肌を火照らせながらパキラリウムは叫んだ。今宵、アルセイアスと同床することになっているのはセルクシイル。今自分を愛おしんでいた指が唇が、別な女の身体を辿るのだと想像すると胸の中が焼けつくようだ。

「誘われても、なじられても、順を変えるつもりはありません。わかっているでしょうに」

 それは妻たちの室をおとなう順番だろうか? それとも心を傾ける順位――? 問い詰めたくなる衝動を、パキラリウムは懸命に飲み込む。表面上は公平に努めようとするアルセイアスの、不公平な心の比重が苦しくてたまらない。



 書庫の中に、ねっとりとした沈黙が重く澱む。仕切りのない戸口の端で、入室をためらうように影が動いた。

「誰かそこに来ていますね。どうぞ、中へ」

 心を千々に乱したままのパキラリウムを尻目に、アルセイアスは声をかけた。パキラリウムはいた仕方なく夫の膝から下りて、衣服の乱れを確かめる。

「……はい」

 小さな答えが返り、顔を赤くしたマリアセリアがおどおどと姿を現した。アルセイアスの第三夫人である幼妻は、居心地悪そうに視線を泳がせており、パキラリウムを嗜虐的な気分にさせる。


「覗き見だなんて、はしたない真似をするのね。いつからそこにいらっしゃったの?」

「……!」

 苛ついたパキラリウムに権高に責められて、マリアセリアは涙ぐみそうになった。いつ誰の目につくとも知れない場所で、はしたない真似をしていたのはパキラリウムの方だ。そう言い返してやりたいが、動揺が過ぎて言葉にならない。


「よしなさい、リウム」

 アルセイアスは溜め息混じりにパキラリウムを嗜めた。彼女を冷静にさせるつもりが、火に油を注ぐ結果となってしまった。自分のいる場所でもいない場所でも、妻たちにはできうる限り顔を合わせて欲しくない。

 立ち尽くすマリアセリアを、アルセイアスは出迎えに行った。これ以上の波風を立てさせるわけにはいかない。


「ようこそ、セリア」

「はい……」

 きつく睨み据えるようなパキラリウムの視線に臆しながらも、マリアセリアは差し伸べられたアルセイアスの手を取った。それがパキラリウムの苛立ちを煽るとわかっていても、いや、だからこそ、卑屈にはなるものかと奮起する。

「書庫にご用ですか? それとも私に?」

 事務的なアルセイアスの対応に、言外に迷惑と告げられているのが知れて、立て直したばかりのマリアセリアの気持ちは萎えそうになる。疾しいことをしていたのは自分ではないのに、夫が何事もなかったかのように平然としているから、心が痛くていたたまれない。


「はい、あの……。レスラ姉様のお遣いで参りました」

「首の?」

「はい」

 マルシレスラの名に反応して、アルセイアスの気色がさっと変わった。その様子を見てとって、マリアセリアは精一杯に威儀を正した。

 長姉の威を借ることになるが、パキラリウムには口を挟ませない。用があるのは夫としてのアルセイアスではなく、シルヴの長嗣としての彼である。今から先は、自分もまた首に仕える『巫女の目』として、媚びることなく端然としていよう。

「アルセイアス、首がお召しです。これより至急にご昇殿下さい」

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