ムチャ
帰りの飛行機の中、俺はあの日の喧嘩の原因を思い返していた。
それは、愛海の言った
「今年も沖縄行くよね」
この言葉から始まった。
面倒臭がりの俺はこう言った。
「もっと近場にしよう」
でも、彼女は
「イヤッ!」
と、強い口調で言った。
だから俺は
「来年にしよう」
と、軽い気持ちで言った。
約束のことなど頭の隅っこにもなかった。
それでも愛海は納得しない。
「来年じゃダメなの…」
小さくそう言った。
とても弱々しく。
目に涙をうっすらと浮かべて。
だから、
「また泣き落としか?」
そう軽く言った。
そのまま返事はなかった。
長い沈黙が続く。
そして、そろそろなんか仕掛けてくるぞ。
そう思った時だった。
「もうイイ…」
隣で囁くような声が聞こえた。
思ってもいなかった言葉に、俺は慌てて
「えっ? 何?」
と返したが、愛海は顔を背けたまま、
「サヨナラ」
と、言った。
その声は震えていた。
これがあの日の喧嘩の詳細。
全部思い出した。そして気づいた。
俺にとっては些細な事でも、愛海にとっては大事なことだったって事。
ほんとに馬鹿だ。
俺は…
救いようがない、というか、救われる価値すらない…
3年も一緒にいたのに。
いや、3年も一緒にいたからこそわからなかったんだ。
俺は、あいつの優しさに甘えていた。
愛海はきっと不安だったんた。
喧嘩ばかりを繰り返す俺達の関係に、どうしていいかわからなくなっていたんだ。
どんな小さな事でもいい。
何かにすがりたかったんだろう。
だからあのノートを手にとった。
そこはあの日のままだった。
まだ糸は切れてない。
きっと大丈夫…
そう思いながら、願いながら、
俺達の名前を書き入れた。
これはあくまで俺の推測だ。
とんだ自惚れかもしれない。
はっきりした確証なんてどこにもない。
第一、わかったからといって、愛海が
目を覚ます保証なんてのもない。
でも、
だからといって、何もしないのはもう嫌だ
じゃあ、何をする?
眠ったままの愛海に何ができる?
そんなのわかりきった事。
信じる…
あいつは強い奴だ。
だからきっと帰ってくる。
そう信じて待っていてやること。
5年経とうが、10年経とうが、50年経とうが
100年経とうが待ってやる。
しわくちゃの婆さんになっても構わない。
その時は俺もしわくちゃだ。
俺は、愛海より先には絶対に死なない。
だから、
安心して、いつでも戻ってくればいい。
この思いを一刻も早く伝えたい。
はやる気持ちを抑えながら、旅は終わりを迎えた。
「アラ、遥人君おかえりなさい」
病室に入った俺を、おばさんはいつもの笑顔で迎えてくれた。
「急にすみませんでした。訳わかんない事言って…」
「いいのよ、気にしないで。 そんなことより何かあった?」
「はい?」
「なんだか顔が明るくなったわね」
「えっ? あぁ… そう、ですか?」
意外な事を言われ、恥ずかしくなった俺は思わず目を逸らした。
そこで気づいた。
ベッドの横に座っている、小柄な一人の女の人に。
その人は俺と目が合うと椅子から立ち上がり
「初めまして。冴木美奈子と申します」
と名乗り、軽く会釈をした。
冴木?
その名前に覚えはない。
俺は
「ど、ども…」
と言って頭を下げたが、
誰…?
とも聞けずに、その後の言葉に困っていると
「冴木さんはね、愛海の小学校時代のお友達なの。引っ越ししてからも年賀状のやりとりは続けてたみたいで、この前たまたまそれを見つけたのよ」
二人は顔を見合わせ、
フフッと笑った。
だが、すぐにその笑顔は沈み、ベッドで眠っている愛海を悲しそうに見つめながらこう言った。
「久しぶりにおばさんから電話がかかってきたことにも驚いたけど、まさかムチャがこんなことになっていたなんて…
今でも信じられません」
その声は、少し震えていた。
泣いているのか?
なんて、思っている場合じゃない。
今、なんつった?
「あのっ!」
「はい?」
「今、 何て…」
「何て…って、どこのことですか?」
突然強くなった口調に、彼女は少し驚いたようだった。
「えっ? あ、あぁ、名前です。名前」
彼女は不思議そうな顔をしながらおばさんと目を合わせ、俺の方に向き直ると
こう言った。
「えっと… ムチャ… ですか?」
やはり聞き間違えではなかった。
「ムチャって愛海の事なんですか?」
「え、ええ 愛海さんから聞いてませんか?
彼女、小学校の頃みんなからムチャって呼ばれてたんですよ。正義感が人一倍強くて、いっつも無茶な事ばっかりしてたから。
あぁ、でも愛海さんは嫌がってましたね。
だから言わなかったんじゃないですか?」
言い終えた冴木美奈子は、昔を懐かしむように少し微笑んだ。
どういうことだ…
ムチャなんてあだ名、二つとあるか?
俺はゆっくりと後ろを振り返った。
…いない…
さっきまで一緒にいたはずのムチャがいない
俺は部屋中を見渡した。何もないこんな部屋に隠れる場所なんてほとんどないはず。
だか、どこを見ても、女の子はいなかった。
何故だ。 確かにいたはずだ。
…いや、 いた……のか?
人間の記憶なんて所詮あやふやだ。
もしかして、全部妄想だったのか?
それとも、イかれた頭が造りだした幻?
俺は、ずっといないはずの女の子に話しかけ旅をしていたというのか?
いやいや、だとしたらこのヒトデのぬいぐるみはなんだ?
これもおれが造りだした幻に、欲しいという欲求を与え、買ってあげた事で一人満足気に浸っていたというのか?
いや、これはあいつが… ムチャが欲しがったから買ったんた。
って… ムチャ?
そうだ、それならなんで俺はこの名前を知っていた?
あの女の子が俺の造りだした幻だとしたら
なんで俺はこの名前を選んだ?
頭の中は、永遠に続く螺旋階段よように
グルグルと回っていた。
「あの… 大丈夫ですか?」
心配した冴木美奈子が声をかけてきた。
その声で俺はハッとなり、
「だ、大丈夫です。 すみません。
少し考え事をしてたんで」
おばさんもそんな俺を気遣い
「帰ってきたばかりで疲れてるんじゃない?
今日はもう帰って休んだら?」
心配そうに声をかけてくれた。
「いえ、本当に大丈夫です。
もう少しここに……」
いさせて下さい。
そう言いかけて止めた。
なぜなら、顔をあげた俺の視界に、チラチラと揺れる何かが映ったからだ。
ん?
その何かは、冴木美奈子の後ろに隠れるように立っていた。
赤い…
赤い……ワンピース…?
ムチャッ!?
俺は心の中で叫んだ。
それに応えるように赤いワンピースは姿を現した。
ひょっこりと。
頭だけを覗かせて。
間違いない。
ムチャだ。
俺はやっぱりイかれてはいなかった。
幻じゃなかったんだ。
そう、安堵した。
だが、それも束の間
その子の表情を見て、俺は愕然とした。
女の子は笑っていた。
ずっと無表情だった女の子が、俺の顔を見ながら笑っていた。
体中が寒気をおぼえ、全身に鳥肌がたった
知ってる…
俺はこの子を知っている…
何年も前からずっと一緒だった。
そうか…
そうだったのか…
俺は全てを理解した。
何故この子が俺の前に現れたのか。
何故取り憑く事もせず、何も求めてこなかったのか。
そんな事をする必要がなかったからだ。
俺自身がその事に気づかなけれは意味のない事だからだ。
明らかに様子のおかしい俺を見て、おばさんと冴木美奈子は困惑の表情だ。
そんな二人をよそに、女の子は屈託のない笑顔で俺を見ている。
震えが止まらない。
全身が熱くて熱くて熱くて…
そんな俺を見ながら、女の子は笑っている。
まるで花か咲いたように
小さな八重歯とえくぼを見せながら…
俺はそのまま動けずにいた。
とても切ない気持ちでいっぱいだったから
もっと近くで顔が見たい。
だから、自分で自分に 動け! と命令した
だが、体は金縛りにあったように動かない
もっと顔を見せてくれ…
そう心で念じた時だ。
女の子の口が何やら言葉を話した。
たったの一言
短い言葉だった
なんだ?
そう思った直後
耳をつんざくようなけたたましい音が病室に響き渡った。
それに重なるように
「愛海っ!!!」
おばさんのただならぬ叫び声が聞こえた。
その声に、まるで現実に引き戻されたかのようにハッとなり、何が起こったのか辺りを見渡した。
おばさんは愛海の名前を何度も呼んでいる
冴木美奈子は両手で口を抑えながら立ち尽くしている。
その横に、赤く点滅した物がみえた。
心電図の数字が明らかにおかしな動きをしている。
そうか…
これは、愛海の命に危機が迫っていることを伝えるアラームの音だ…
ようやく事態を把握した。
でも、何故突然…?
俺は女の子を探した。
だが、そこにさっきまで笑っていた女の子はいなかった。
あいつが何か言葉を話した途端こうなった
あいつは最後になんて言ったんだ?
とても短い言葉だった。
とても短い…
まさか……
考えたくもない事が頭をよぎる。
信じる…って、決めたのに!
間も無くして、看護師が慌てて部屋に飛び込んできた。
「鈴木さん? 鈴木さん?」
眠ったままの愛海の耳元で何度か名前を呼んだ。
「すぐに先生も来ますので」
落ち着いた口調で、今にも泣き出しそうなおばさんに声をかけると、また名前を呼び続けた。
そのすぐ後、さらにもう一人の看護師が、点滴や医療器具の乗ったワゴンを押しながら入って来た。
それに続くように担当医が姿を見せた。
「先生、血圧、脈拍、共に下がってます」
担当医は瞳孔の様子を確認したあと、聴診器をあてながら看護師に何やら指示をだしている。看護師もそれに応え、テキパキと機敏に動いている。
その様子を見守りながら、おばさんは
「先生、大丈夫ですよね。愛海は助かりますよね」
そんな願いにも似た言葉をかけた。
俺は、そんな場面を目の当たりにしても、そこを一歩も動かなかった。
愛海は必ず戻ってくると、そう心に決めたところなんだ。
こんなこと、あってはならないことだろ?
そう思っていた。
だが、担当医が口にした言葉に、
俺は耳を疑った。
「最善は尽くします」
最善は、尽くす…… だと?
は、ってなんだよ。
それって、愛海に何かあった時の為の逃げの言葉じゃないのか?
ふざけんな………
俺は、握りしめた拳が熱くなるのを必死で抑えていた。
だが、担当医は懸命な治療を続けながら何度も首をかしげている。
その姿を見て、俺は一気に理性を失った。
「…ざけんな…」
俺は、目の前にある物や看護師を押しのけ担当医の所まで詰め寄ると、その胸ぐらを掴みそのまま壁に押し付けた
「おい! お前っ!
早くなんとかしろよ! 医者だろうがっ!」
「先生!」
「落ち着いて下さい!」
看護師の声など耳に入らない
「医者が何回も首ひねってんじゃねぇよ!
ふざけんなっ!」
愛海がこうなったのは医者のせいじゃない
もちろんそんな事は分かっていた。
だが、どうする事も出来ない苛立ちや悔しさで、無力な両腕が行き場をなくしていた。
それをぶつける所がそこしかなかった。
担当医は壁に背中を打ち付け、痛みに顔を歪めていた。
でも、俺はつかみかかった手の力を緩める事は出来なかった。
誰一人、動けずにいた。
ピンと張り詰めた空気の中、警告音は今もけたたましくなり響いている。
その音を押しのけるようにおばさんは叫んだ
「遥人君 やめてっ!!」
その声に、俺はやっと我に帰った。
「すみません…」
色が変わる程力の入っていた手をゆっくりと離した。
担当医は、乱れた白衣を軽く整え、気遣う看護師に、大丈夫だ、と手で示した後、俺の目をまっすぐに見ながら深刻な顔で言った。
「お気持ちはわかります。
私がとった行動に問題があったのなら心からお詫びします。 申し訳ありませんでした」
そう言って担当医は頭を下げた。
そして、言った。
「彼女の傷は完治しています。脳の損傷も見られません。ですが、何故彼女が目を覚まさないのか、その原因さえ分かっていないんです」
全身の力を削ぎ落とされたような気がした
……50%の確率
その意味を、今やっと理解した……
「私達も出来る限りのことはします。
だから、どうか今は…」
担当医はそう言ってもう一度頭を下げ、何事もなかったように治療に戻った。
俺は、ただ力無く壁にもたれかかり、すすり泣くおばさんの声を聞きながら、曇った目でそれを見ていた。
病室が再び静けさを取り戻したのは、翌日の明け方だった。
俺は、病院の待合室の長椅子に一人座っていた。
ふと前を見ると、おばさんが公衆電話で誰かと話こんでいた。
俺の位置からは、遠くてその表情や内容を伺う事は出来ない。
もう何時間こうしているのか。
最後に睡眠をとったのはいつだったのか。
そんな事もわからない。
女の子はあれ以来姿を見せなくなった。
俺は俯いたまま目を閉じ、なんともいえない孤独感に耐えていた。
しばらくして、誰かの気配を感じ顔を上げた
そこには、電話を終えたおばさんが立っていた。
静かに立ち上がった。
おばさんの目は、とても優しかった。
「遥人君、今まであの子のそばにいてくれてありがとう。本当に感謝してます」
そう言って、おばさんは深く頭を下げた。
そして、顔を上げたその目には、うっすらと涙が滲んでいた。
おばさんはその涙を軽く指で拭うと、俺の目をまっすぐに見つめながら言った。
「あの子が好きになった人があなたでよかった。愛海の所へ行ってあげて下さい」
俺の中から、
何かがスッと解き放たれたような気がした
俺は、病室へと向かった。
部屋の前に立つ。
毎日、欠かさず通っていた場所。
俺たちに許された唯一の場所。
余計な色も、音も何もない、ただ白いだけの世界。
目を閉じ、深呼吸を一つ。
扉のとってに手をかけた。
そして
静かにその扉は開かれた。
目の前にあの真っ白な世界が広がっていく
俺はあまりの眩しさに目を細めた。
少し狭くなった視界。
そこに映った物は少しだけ開いた窓。
そこから入ってくる風に揺れるカーテン。
昨日の警告音はもう聞こえない。
俺は、一呼吸おいて、その白い世界に足を踏み入れた。 そして、扉をしめた。
扉を閉めた事で外の世界は遮断され、今まで以上に部屋は静かになった。
自分の心臓の音さえ聞こえてきそうだ。
いや… 待て…
そんな事はない。
開いた窓から鳥のさえずりが聞こえる。
遠くで走る電車の音も。
近くの小学校からは元気な子供達の声も聞こえてくる。
……なんだ、
ぜんぜん殺風景じゃねぇじゃん……
俺は、微かに薫る花の匂いを感じながら
窓から差し込む光の下へと向かった。
そこには、今までと変わらず眠り姫が静かに横たわっている。
昨日の事が嘘のようだ。
あんなに乱れていたシーツも綺麗に整えられている。
俺は、椅子に座り、しばらくその顔を見つめていた。
吹き込んでくる風が、彼女の細く長い髪を静かに揺らしている。
光に反射してとても綺麗だ。
「前髪…
伸びたな……」
静かに語りかけ、覆っていた目元の髪をそっとかきあげた。
指の間から彼女の髪がスルスルと滑り落ちていく。
その髪の隙間から、彼女の瞳が見えた。
長い間、かたく閉じられていた瞳…
コンタクトに頼らなくてもいいくらいの大きな黒目が特徴的だった。
時にはコロコロとよく動き、時には俺をまっすぐに見つめながら何度も「好き」と言った
今まで一度も信じた事のない俺が言ったらかえって罰があたりそうだけど、
もし… もしも神様がいるとしたら
ひとつだけ聞きたい事がある。
………今ならまだ
間に合いますか?………