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病室へ戻ろうとすると、部屋の前に誰かが立っていた。そいつは、俺の事に気がつくと
ピッと右手をあげ
「ヨッ! 最悪の顔色だな」
偉そうに嫌味めいた挨拶をしてきたのは、同じ職場の連れ。
やたらでかい態度でいつも俺に説教をする
成瀬 樹ってやつ。
たまにムカつく時もあるが、結構面倒見のいい奴でもある。
猫を預けた奴ってのもこいつ。
信用だけはできるんだ。
「猫、元気にしてるか?」
「タマか? メチャクチャ元気だぜ! 餌もたくさん食うし、なんかちょっとでかくなったぞ」
タマ…?
こいつと同じレベルかと思うと何かムカつく
「最近は遊び盛りっつうかなんつうか、やたら腕に絡みついてきてさぁ、結構可愛いもんだな」
「……ふ〜ん」
成瀬は、言うだけ言うと、うざったい目をしている俺の目を気にする事もなく
「そんな事より、矢神、ちょっと付き合え」
「はぁ? なんだよ。見舞いに来たんじゃねぇのかよ」
「愛海ちゃんの見舞いならもう済んだ。
今度はお前の番だ」
「俺? 俺は別に病気でも何でもねぇし」
「よく言うぜ。 お前、最近鏡で自分の顔見た事あんのか? まるで病人だぞ。 もやしと喧嘩しても負けんじゃねぇの?」
そういえば、ここ最近、鏡なんてまともにみでいない。言われるまで気づきもしなかった
「ただの煙草の吸い過ぎだ」
確かに、以前より本数は増えた。
だけど、こんなのただの屁理屈に過ぎない。
わかってるんだよ。そんな事…
「いいからとにかくちょっと来い」
成瀬は、少し強めに言うと、一人スタスタと歩いていってしまった。
で、今、俺が手に持っているのはただの缶コーヒー。
「なんだよ。偉そうに付き合えっつうから飯でもおごってくれんのかと思ったのによぉ
自販機横のベンチってどうなのよ」
「何処だっていいだろ、話ができんなら。
グダグダ言ってねぇでとっとと座れ!」
そうだ… 成瀬樹という奴はこういう男だった。 俺はおとなしく腰をおろした。
成瀬は、ズビッとコーヒーを一飲みすると静かに言った。
「愛海ちゃん、どうた? やっぱりまだ意識戻りそうにないのか?」
「さぁな…」
「さぁなってなんだよ。 何かあったのか?」
「別に…」
俺はぶっきらぼうにそう答えた。
たが、この説教男にそんな適当な返事は通用しない。 成瀬は、何かを探るような目で俺の横顔を見る。
「こりゃ なんかあったな」
「ねぇよ」
「何があった? 話せ」
俺の心情を全く無視するようなくいさがった言葉に一気に血が上る。
「なんもねぇって言ってんだろ!
しつこいぞっ!」
明らかにいつもの俺じゃない。
いくら相手が気心しれた奴とはいえ、わざわざ彼女の見舞いに来てくれた奴にこんな態度をとるほど、普段の俺は礼儀知らずじゃないはずだ。
だけど、どうしても抑える事ができなかった
…こりゃキレるな。
普段の成瀬なら、勝手にしろ! そう言って帰ってしまうはずだ。
だが、こいつもまた、いつもの成瀬ではなかった。
「いいから話せって」
今まで聞いたことの無いような、静かで落ち着いた声だった。
まるで、一人苛立っている俺をなだめるような。 俺は観念した。
「さっきおばさんに言われたんだ」
「なんて?」
「あなたはまだ若いからやり直しはいくらでもできる。何も自らこんな重荷わ背負うことはないって。 それって、つまりアレだろ?
あの、なんて言うか、その…」
先の言葉が詰まって出てこない。
だが、こいつは容赦ない。
「別れた方がいいってことか?」
胸にズキッとした痛みが走る
「そういうことだろ…」
俺たちは、暫く無言のままコーヒーを飲んでいた。 とても重い空気に包まれたようで、できるならもうこの場から逃げ出したかった。
といっても逃げる場所なんて何処にもないんだが…
「お前はどうしたいんだ?」
「……俺は…」
すぐに答えは返せなかった。
何故なら、最後に会ったあの日。事故に遭う2日前だ。 俺たちは喧嘩別れをしていた。
原因も思い出せないような些細な事がきっかけで。
俺と愛海は付き合い始めて三年が経つ。
お互いの事ならたいがいの事は知っている。
そんな仲になっていた。 でも、それはいい事ばかりじゃなくて悪い事も含めての事だ。
そうなってくると、馴れ合いすぎて自然とお互いに遠慮ってものもなくなってくる。
だから、ちょっとした事でもすぐに喧嘩へと発展してしまう。 はっきり言って、ここ半年くらいは会えば必ず喧嘩の一つや二つは勃発していた。
でもなんでだろうか。別れる時にはいつのまにか仲直りしていた。
ところが、あの日だけは違っていた。
「俺は… わかんねぇ、そんな事」
「わかんねぇってなんだよ。 ったく頼りねぇなぁ。お前オムツとれてから何年経つんだよ」
……意味がわからない……
おそらく、男はオムツがとれたら一人前。
そんな無茶振りともとれる、なんの根拠もない事を言いたかったんだろう。
「本当にわからないんだ!」
思わす声を荒げた。
成瀬は何も言わずに俺の横顔を見ている。
「最後に会ったあの日、あいつ、別れ際にサヨナラって言ったんだ」
「別に普通じゃん」
「普通じゃねぇだろ! 三年も付き合ってんだぞ。そんなかしこまった言葉、普通言わねぇだろ」
「確かに… でも、それがわからない理由なのか?」
「あいつ、別れる時は必ず またね って言うんだ。 なのに…」
どうしてか、言葉が思ったようにでてこない
「でも、はっきり別れようって言葉がでた訳じゃないんだろ?」
「ああ、だからさっきからわからないって言ってるだろ」
「じゃあ、ぶっちゃけ、お前愛海ちゃんの事どう思ってんだよ」
「何が」
「好きかどうかに決まってんだろ。アホか」
「わかんねぇ…」
「わかんねぇってなに、
それもわかんねぇの?」
横で大きな溜息が聞こえた
「わからないんだ」
「それはもう聞いた」
「違う! そうじゃない」
「………………」
「じゃあ何」
成瀬は静かに問う
「あいつがどんな顔してたのか」
「はぁ!?」
最もな反応だ。
だが、それは俺にとって切実な問題だった。
「どんな風に笑って、どんな風に泣いてたのか、何も思い出せないんだ。
この一ヶ月間、あいつの寝顔を見ながらずっと考えてた。でもわからなかった。
三年も一緒にいたのに、なんでわからないのかわからない」
写真を見ればいいとか、そんな単純な事じゃない。実際、何度も何枚も見てきた。
でも、そこに写っていたのは、目の前で眠っている愛海と同じ顔をした他人だった。
「それだけじゃない。俺、あいつがああなってから一度も泣いてないんだぜ。一粒の涙もでてきやしない。 そんなんで好きだなんてお前なら言えんのか?」
話せば楽になる。なんてよく言うが、今の俺には全く意味のわからない言葉だ。
限界が近いのが自分でもわかる。
それを知ってか知らずか、この説教屋は落ち込む俺に対してこう言い放った。
「泣き言言ってる場合かよ」
「そんなんじゃねぇし」
そう言ってふてくされる。
「お前さぁ、まさか愛海ちゃんがもしかしたらこのまま…とか思ってんじゃねぇだろうなあ」
胸に強い衝撃をおぼえ、何も言い返せない。
「いいか、よく聞けよ」
俺は、グッと唾を飲み込んだ。
「彼女は生きてる。眠りの中で今も生きてるんだ。お前がこうやって情けない事吐いてる間もたった一人で戦ってんだぞ。
お前さぁ、
彼女が戻ってきたら、どんな顔して迎えてやろうかとか考えた事あんのかよ。
ほんと情けねぇわ。おばさんがなんでお前にあんな事言ったのかわかるか? こんなヘタレ野郎に大事な娘を任せられるわけねぇからだよ。 わからないんなら更にもっと考えろよ。思い出せないんなら死に物狂いで探せばいいだろ!」
ヘタレ野郎…
本当なら胸ぐらを掴んで殴り飛ばしたいところだ。 だが、俺の胸の中は何かにかきむしられたように痛みうつむいたまま、ただ床を見ている事しかできなかった。
「手繰りよせればわかる何かがあるんじゃないのか? 目ぇ背けんなよ。ちゃんと現実を受け止めてやれ。まずはそっからだ」
俺は、もう何も言えなかった。
わかっていた、そんな事。 わかっていたんだ
多分、ずっと前から。でも、あの サヨナラ
の言葉がどうしても消化しきれなくて、
本当に俺でいいのか? もしかして愛海はもうそんな事望んじゃいないんじゃないのか?
そんな大きな不安で押しつぶされそうだった
崩壊寸前の俺の心は、もう、前どころか後ろもわからなくなっていた。
「猫のことは任せろ!」
そう言い残して成瀬は帰って行った。
だが、その後も俺は病室には戻らず、そのままベンチに座っていた。
……自己嫌悪MAXだ……
たまたま目の前にあった時計を見ると、4時を回っていた。
俺は、空き缶をゴミ箱へ投げ入れると、両手で頭を抱えこんだ。
すると、その拍子にポケットから何かがカツンと音をたてて床に落ちた。
それは、ピンクの花柄のスマホ。
愛海のだ。
俺の横では誰かが電話で話している。
どうやらここは携帯電話の使用が可能な場所らしい。
俺は、この時初めて、愛海のスマホの電源をいれた。
「で、どうするよ…」
なんとなく電源を入れてはみたものの、何をすればいいのかわからない。
そんな時、あの説教屋の言葉がふと、頭の中に浮かんだ。
ーわからないんなら考えろ。
思い出せないんなら探せー
俺はたまたま目にはいった写真を見てみる事にした。
タップすると、たちまち、小さく分割された写真で画面はいっぱいになった。
俺は、暫らくの間、愛海が撮ったであろう写真をぼんやりと眺めていた。
ところが、ある場所にきたどころで、俺はある違和感を感じはじめていた。
「なんだ? この絵葉書みたいな写真は…」
ザッと数えても50枚以上はありそうだ。
どれもこれも、何処かの景色を写したもののようだが…
青い空に、青い海?
「アレ? これって…」
俺はこの景色に見覚えがあった。
もっとよく見てみる。
「やっぱりあった。思った通りだ」
それは、厳つい顔でこちらを睨む魔除けの神
シーサーだ。
…これ、沖縄の写真だ…
俺たちは去年の八月、沖縄に旅行へ行っていた。
「あいつ、こんなに景色の写真撮ってたっけ
つうか、二人で撮った写真は何処だよ。
一枚も出てこないなんておかしいだろ」
もしかしたて、全て削除してしまったのか?
一瞬そんな風にも思ったが、やはり、何かが違う。
俺は、ふと思った。
これ、いつの写真だ?
鼓動が激しく打ちはじめた。早く確認しろと急かされているようだ。
そして…
その日付けは
愛海が事故に遭う前日。
俺と喧嘩別れをした翌日になっていた。
更に鼓動は激しくなる。
いったい何故。なんの為に。
真っ白になった頭の中を、なんでなんでが繰り返される。
俺は、静かなパニック状態に陥った。
だから、すぐにスマホの電源を切った。
何がなんだかわからなくなった。
数時間ぶりに立ち上がる。
その足に何かがカコンと当たり、目の前を転がった。
それを見たおれの頭の中に、またもや成瀬の言葉がふと浮かんだ。
……手繰り寄せればわかる何かがあるんじゃないのか?……
女の子が言った 『糸』
成瀬が言った 『手繰り寄せる』
そして 『沖縄』
何かのキーワードみたいだと思った。
だから、俺は久しぶりに頭を使って考えた。
だが、当然わかるはずもない。
煙草が欲しい。
あいにくここは禁煙場所。
イライラする。
そんな俺がなんとか叩き出した答え。
「糸、手繰り寄せてみるか…」
そして、拾った空き缶をゴミ箱に捨てた。