出逢う!
一族を自分一人残して殲滅した双子の兄・香月を捜しながら、日中は料亭・鈴屋で女中を勤める香炎。
そんな香炎だが、ある日一人の侍と出会う。
どうも気に入られてしまったようで…?
それは、今から二月ほど前に遡る。
香炎が女中を勤める料亭・鈴屋にその男は客として現れた。
本当に、思いがけない…衝撃的な邂逅だった。
「香炎ちゃん、菊乃間にお膳一つお願いねーっ」
「はあい!」
栗色と萌葱の混ざった髪を揺らして、一人の女中が厨房へとまろんで行く。
年の頃は十代後半。
ほっそりとした、美しい少女だ。
「今日のお客様はどなた?」
「おや、珍しく知りたがりだねぇ。あたしから伝えるより、実際に見に行ってきた方が早いよ」
ひょっこりと顔を出した『看板娘』に、女将はにこにこと穏やかな笑みを向ける。
「そ、それはそうですが…」
(教えてくれたって…)
ぷう、と可愛らしく頬を膨らせた香炎に、女将は先とは違う上司の顔で告げた。
「早く行っておやり、その旦那ねぇ…『天女』をご所望だよ」
「え、今時間からですか?」
『天女』が呼ばれるのは、いつもはもっと日が落ちてからのこと。
日がある内に呼ばれるなど異例だ。
「ぼやぼやしない、旦那がお待ちだよ」
やんわりと背を押されて、香炎は再び不服そうに唇を尖らせた。
「もう、分かりましたよ……行って参ります」
ぱたぱたと廊下を戻っていく香炎を見送って、女将は『まだ若い若い』と肩をすくめる。
それは、どこか楽しそうにも見えた。
天女、とは香炎の異名。
神懸かった造作の彼女にいつの間にかつけられ、広まってしまったいわゆる通り名みたいなものである。
それに、香炎がそこまで執拗に尋ねたのには訳があったのだ。
犬が、悪臭を防ぐすべを知っているように。
他より鋭敏な神経を持つ香炎は本能的な危機を感じ、数日前から身構えていたのである。
「失礼致します、膳をお持ち致しました……」
「ああ、忝ない」
目が合った瞬間、香炎は全身が勠立つのを感じた。
(こ……この男!?)
刀を佩いている彼は、どこから見ても侍。
彼からは、自分と同じ気配がする。
『侍』独特の、重々しい気配。
(――――やはり、当たった。侍が来る気配がしたんだ)
ここで一つ説明しておこう。
香炎の本業は侍だ。
無所属の傭兵といったところか。
女中の仕事は、昼間の仮の姿。
だが香炎は、この仕事が嫌いではない。
簡素な理由を言うならば、情報を聞き出すにはこれ程まで理にかなった職はないからだ。
凡て計算ずくだが、香炎はこの仕事が楽しかった。
「ん…どうした? なにかまだ所用でも?」
「あの…『天女』をご所望、と聞いて参ったのですが…」
侍に見とれていた香炎は、彼の問い掛けに言葉通り飛び上がってしまう。
「ああ、部下に『いいから見に行ってみろ』と急かされてな…余りに煩いものだから辻褄合わせに一目…と」
「まあ…」
(なーんだ、このおっさん物見だけか。ホッ)
「やはり…噂に違わぬのだな」
「はい?」
「いや…どうも女子を褒めるのは苦手でな」
ふわりと首を傾げた香炎に、侍は頬染めて口ごもる。
料理と他愛ない話を交えているうちに、一刻がすぎた。
ここ、鈴屋は時間制なのだ。
「そろそろ、時間ですわね…」
「……そうか、早いものだ」
二人はなにも言わずに、暫し見つめ合ったまま動きを止める。
沈黙を破り、始めに切り出したのは香炎の方だった。
「あ…そろそろお送りしますね。…こちらへ」
「いや待て…」
「あっ」
手首を捕まれ、香炎の体温が上がった。
穏やかな琥珀色の瞳が、香炎を捕らえて離さない。
検分するようにじっと見つめられて、香炎は居心地悪そうに赤面した。
「な、なに…か?」
「お主、よい目をしているな…」
「は、はあ…」
(何だろう、この感じ? 吸い寄せられる……)
「お主、名は?」
「……香炎、と申します」
(はっ! なに、このオッサン、いきなり口説き!? でも、でも…いい男)
「香炎か…お主に似合いの、その……」
「はい?」
「……よい名だな」
俯いたまま告げる彼の顔は、これでもか…というくらいに赤くなっている。
(この人…素直な人だなぁ。殿方でも、珍しい誠実な方)
香炎は、初めて逢った『侍』の彼に興味を持った。
「あの、そろそろ離していただけますか…? 戻らないと、怪しまれます」
「あ、ああ…そうか。引き留めてしまって済まない」
「いえ……」
握っていた手首を離してしまってから、彼は名残惜しげに温もりの残る手を握りしめた。
香炎はそそくさと礼を取って、部屋を出ようとした。
「和隆という、儂の名だ。覚えておいてくれ」
「……はい」
和隆を見送った後、香炎は急激な不安に襲われた。
――――見透かすような目だった。
廊下の途中で、香炎は未だ静まらぬ動悸を必死に押さえる。
このまま戻ったら、確実に周囲の迷惑になるだろう。
「どうしよう…」
もしかしたら、あの時に正体を見破られてしまったかもしれない。
真偽は解らないが、警戒するに越したことはないだろう。
(冗談じゃない)
ほか、特に男連中に正体がばれた時は本当に碌な事がないのだ。
大方の男は同情する素振りを見せて付け入り、情報料――つまり体を求めてくるのが常。
勿論、その場合は思い切り撃退している。
弱いだけの女ではない。
料亭・鈴屋の厨房で、食器を片づけながら香炎は深々と溜息した。
その眉間には渓谷並みの皺が寄っている。
「あらら、怖い顔。先刻のお侍様がどうかした?」
和隆のことばかり気にして上の空だった香炎は、急に話をふられてぎくりと肩を跳ねさせた。
「えっ……いいえ、少し、気になっただけです」
洗い物をしている隣で、女将が楽しそうに聞いてくる。
(触れられた手首……熱い。どうしたんだ……あたし)
あの男―――自分と10、いや20は離れているだろうか?
しっかりとした中にも鋭さを感じさせる、歴戦の侍の雰囲気だ。
褐色の肌…焦げ茶色の髪に、鳶色の瞳。
(もっと触れて欲しかった)
など思った自分が呪わしいが、本心なので仕方ない。
多分、同業に思いがけず出逢って嬉しかったのだろう。
(もう、本当にどうしたんだ)
未だ、揺れ動く思いがもどかしくて堪らない。
『恋』なんか知らない。
いや、知らなくていい。
自分は『侍』なのだから。
自分は女であり、女ではない。
『あの時』にそう誓っただろう。
自分の志に色恋など無用。
知ってしまえば、どうなるかなど明白だ。
(でも、離れたくないと思ったのは……なぜ?)
世間的に言う、これが一目惚れというやつなのだろうか?
(いけない…)
解っている。
それは、知ってはいけない禁忌。
自分は『目的』ただ一つのためだけに生きている。
無用な感情など、持つべきではないと言うことを。
終勤後、窓枠に腰掛けた香炎は和隆が帰っていった方角をいつまでも朦っと見つめていた。
どこからか『あれは絶対に恋煩いだわ』とからかう声があったが、香炎本人には届いていなかった。