第九話:承認
「似ているな……」
何にとも、何がとも言わない。ただそうとだけ、ぽつりと詩緒は呟いた。
受け流す少女の太刀行き、残心の取り方、その身の捌き方。その言葉は、それ対して少年が抱いた正直な感想が口に出たものだった。独り言のような声を漏らしながらも、小手を狙った少女の一撃を鍔元で受ける。ただ冷静に。詩緒は、二度、剣を交えた原型を複写するような、少女の動きを読んでいた。
幾重にも、幾重にも。牽制動作を織り交ぜ、晦まし手を置き、読まれまいとした琴音の一手。詩緒の鍔元に弾かれた剣士の小手打ちは、その本命の一手であった。だが、それを防がれようとも、少女は動じない。その体は攻勢を維持するべく躍動する。琴音の竹刀は、その次の瞬間には、少年の頭上に閃いていた。流れるように転じた上段からの急襲。端からそれが狙いであったように。落雷の如く鋭い一撃を琴音は走らせる。
下方より腕を抜き付け、そのまま上段より二の太刀を振り下ろす。偶然にも、しかし、狙いを持って放たれた、現状最良の手と思われる琴音の流れによる攻撃は、居合いの型の一つでもあった。流派によって『月影』や『勢中刀』などと呼ばれる技である。
それは完成された実戦的な型の一つ。初太刀と二の太刀。その連携技に滝口の少年は動かない。その場から微動だにしない。しかし、相対する少女剣士の神速の連携に反応できていないわけでは決してなかった。詩緒はその動作とて読みきっていたのだ。彼は避ける必要性を感じてないだけだった。
その一撃が、頭部を捕らえた。外野の誰もが、そう思った刹那。真剣によるものとは異なる軽い、しかし鋭い刃音が、先の打撃音と重なるように館内には響いていた。攻手の太刀筋は大きく狂う。少年の真横。板間を打つかのように、床擦れ擦れの場所にその切っ先は在る。詩緒は、その手に在る他人の竹刀で、直下する少女の同じ武器の中ほどを打ち弾いたのだ。
「――似ているのかな?」
反撃を許さぬように後方へと足を運ぶと、相対する者を見据えながら琴音は訊ねた。
「ああ」
短く詩緒は返答する。
「ありがとう」
耳を擘くような音と共に、強制的に変えられてしまった軌道。その太刀筋。その戦闘姿勢。それこそが少年の口にした『似ているもの』であると、少女には理解できていた。
気が付けば口にしていた感謝の言葉。それは例え『魔』に堕ちたと知ってしまった、今現在であっても、彼女の兄であり、剣の師である源蒼司に対する敬愛の現れである。
だからこそ、自らの手で蒼司を止めるべく、救うべく、少年の生きる世界に介入する決意を少女はしたのだ。
その最たる表現。少年の感想に浮かべた微笑。
その微笑んだ表情のまま、琴音は駆け出す。
それとは裏腹の凶悪と言える斬撃を、疾風の如き身のこなしを再び少女剣士は見せる。
防具のない彼らには、竹製の刀とて、当たれば無傷では済まないのだ。事、彼女の繰り出す一撃は、どれもが驚異的に速く、重く、そして、的確に少年の急所を捉える。
立会いを始めた当初、聞かれていた観戦者の悲鳴にも似た声。それは琴音の放つ剣撃のどれもが、非常に危険なものだったためだ。
しかし、その声は徐々に収まりつつあった。
今はただ、固唾を飲んで成り行きを見守る観客達。
観客は静観し、刮目する。
猛攻を見せる少女と、その全てを往なす少年の動きを見逃さぬように。
そこで繰り広げられる少年と少女の打ち合いは、数多くの剣道の試合を見てきた彼らにとっても、未見のハイレベルなものだった。
板間を蹴る足音。鋭く空を切る竹刀の音。激しく響く刃音。
戦いを奏でる音の応酬。
しかし、生身の体を打つ打撃音のみが存在しない。
竹刀の弾け合う音が、幾度も幾度も聞こえる最中。しかし、有効打どころか、互い、体に竹刀が擦りともしないのだ。まるで端から打ち合わせを済ませ、決められていた演舞を行なっているかのように。
しかし、違う。そこに観客を沸かせるための、各々の流派の特徴を知らしめるための見せ技など存在しない。
将棋。囲碁。チェス。その盤上の遊戯を名手たちが繰り広げるように。
何手も何十手先も見据え、読み合うような攻防戦を、少年と少女は続けているだけなのだ。
何もかもが、自分たちのやっているモノとは違う次元の競技に映る。
しかし、何れ。
自力の差が開き始める。少女の動きが鈍り始める。
それは実戦経験の差から来るもの。擬似的なものとはいえ、実戦に限りなく近い、極度の緊張化に於いて、その経験は圧倒的に少年が少女を凌駕しているのだ。詩緒は常に、命の危険にその身を晒し続けながら、その技量を磨いていたのだから。
否。ともすれば、少年はまだ本気ですらないのかも知れない。
幾手も幾手も打ち込む少女に対して、少年は僅かな返し手を放つに留まっていた。
当初。それは琴音の猛攻が、詩緒に反撃を許さない所為だと、彼らは思っていた。
だが、ここまで完璧に少女の攻撃を防ぎきって見せた事実は。少女だけが一方的に疲弊してしまった現状は。だから、まだ。新顔の剣士は余力を残しているのかも知れないと、二人の力量を量りきれない彼らにさえ、勘繰らせずにはいられない。
「――やっぱり凄いね。渡辺くんは」
顔に浮かんだ幾つもの汗を気にする素振りもなく、琴音は再び微笑んだ。
少女は悟っていた。今の自分では目の前の相手に太刀打ちできないであろうことを。
しかし、気分は悪くない。ここまで本気を出したことは、いつ以来だろうか。
「アドバンテージが在っただけだ。俺はお前の動きを知っていた」
対峙する者の動きに対して予備知識があったこと。それは詩緒にとっては大きな意味を持つ。彼は後の先を取る戦い方を得意とする剣士だからだ。少女の動きは、滝口を打ち負かした童子切安綱の使い手に非常に似ていた。ただ、その魔剣妖刀の類を振るう剣士に比べると、今は全てが劣る。その男との死闘を基に現状を読んでしまえば。極端な言い方をすると、少年は少女に対し、常に後出しでジャンケンをしていたに過ぎない。
最も、そう比喩するだけは至極、簡単である。しかし、それは渡辺詩緒という滝口の持つ、高度な技量、卓越した状況把握、常識を逸するような反射運動能力が在ってのことなのだ。
「……十分、凄いよ。例え、私に相手の太刀筋がある程度解っていたところで、渡辺くんの真似は出来ないもの」
間合いを取り、呼吸を整えながら琴音は返す。
「……お前は本当に足を踏み入れるつもりなのか?」
回復の暇を与えぬように踏み込む。そういう動きを見せず、変わりに詩緒は訊ねた。
「うん」
間髪入れずに即答する少女。そこに迷いや戸惑いは感じられない。曇りなく、唯、真っ直ぐと少年を見詰め、そして、竹刀を正眼に構え直す。
力みの無い、理想的な姿勢。
「お前らしい答え……なのかも知れないな」
その少女の姿に、少年は呟く。返された言葉よりも、それこそが自分に向けられた答えなのだと詩緒には感じられた。そして、覚悟もそこにある。源琴音という少女は、手心を加えられるような間を嫌ったのだ。だから、構えを直し、戦闘の続行を煽ってみせた。
実戦。命のやり取り。滝口として戦闘。それを見据えて。
凛として美しく、正面に竹刀を構えた少女剣士に対し、滝口は重心を低く構え、竹刀を寝かせ右後方に置く。
相手から見れば刀は最も遠方に在る。それはノーガードで誘うボクサーのような構えであった。
挑発的とも取れる姿勢を作りながら、詩緒は琴音を射抜くように見る。
それは少女が初めて、相対する少年の本気の眼差し。少年と初めて出会った夜に、彼女の命を奪おうとした襲撃者に対して見せていたもの。
「やっと本気になってくれたね」
「……来い」
今までとは違う。凍て付く様な張り詰めた空気が、二人の間を支配していた。
「――先生? あの構えは? あんな構え、あるんですか?」
不要だった。結果的には二人の戦いに見惚れ、意志を発言できなかった。とは言え、線審を買って出るつもりで荒川の横に辿り就いたその場で、動きを止めていた部員が口を開く。
しかし、返事はない。
部員は恐る恐ると、荒川を窺う。そこには空けた口をそのままにした中年男がいた。
「せ、先生……?」
引き攣った声で、生徒は再び教師に呼びかける。
「あ? あ、ああ?」
荒川は、我に返ると視線は二人から動かさずに反応して見せた。
「あの構えって何なんです?」
「ありゃぁ……確か、『右車』とかって呼ばれる構えだ」
面倒臭げに、指導者は教える。
部員が解らぬのも道理である。剣道には、その構えは存在しないのだから。
そして、荒川の予想は確信に変わっていた。右車と呼ばれる構えは古流剣術に見られるものだからだ。
右車の他にも、鳥居だの、垂針だの、背負だの、現代剣道に於いて見られない構えが古流剣術には多数在ることを、その師範役は知識としては知っていた。
「その右車って――」
「五月蝿い! 黙ってろ!」
質問を続けようとした生徒を一喝し、荒川は言葉を遮る。
静けさに在った武道館内に不意に響いた人の声。それに対面の部員たちの視線が、瞬間、この二人に注がれる。
「……源の奴、勝とうが負けようが、次で仕舞いにするつもりだ。黙って見てろ。剣道の話なら、その後、幾らでも付き合ってやる」
対峙する二人に気を使ってか、改めて、かなりの小声で返答してみせる荒川。
しかし、当事者たちはその周りの変化を気にする素振りも見せず、相手の動きを待っていた。
「――いきます」
律儀に呟くと、琴音は板間を蹴る。
それは僅かばかりとはいえ、回復の時間を与えた相手に対する返礼だったのかも知れない。
終盤。しかし、打ち合い始めて最速の動き。少女は一陣の風の如く、距離を詰める。後手を捨てた一撃を放つべく。自らの持てる全てと、想いを籠め、切っ先を突き出す。
その想いを形にしたように。少年に向け、真っ直ぐに。
誰もが決まった。それはそう思える神速の一手。
しかし、迫る切っ先を皮一枚の処で、詩緒は回避していた。鋭い突きが首筋を過ぎる。後ろ髪が数本、切り離されて宙を舞う。
それでも。少年には、焦りも驚きもなかった。ただ冷静に。相手の動きに反応した結果が、そこに在っただけなのだ。
同時に。少年の竹刀は空間を走っていた。鍔元。少女の細いウエストの辺りにそれを留める。
そこで全ては終わっていた。
「やっぱり、勝てなかった」
少女の微笑。
「お前は強い。立ち向かえるほど。任せられるほど」
少年は呟く。
「――滝口としてのお前に頼みがある」
竹刀を納刀しながら、詩緒は言葉を続けた。
「え?」
「お前なら瑞穂も気兼ねなく動けるだろう。もしもの時は、アイツを頼む」
「え?」
少年の真意を理解できず、琴音は呆然とする。
確かに。違和感は在ったのだ。
自分に用件があると少年は言った。
その言葉に、二人の距離が縮まったようで、琴音は浮かれていただけなのかも知れない。
渡辺詩緒という少年が、人と関わるという不可解な行動のを起こす真相を、少女には考えることができなかったのだ。
もしもの時。それは先日、彼が交戦した『魔』に因るものなのだろう。その相手が相性の極めて悪い相手であることを、陰陽師に聞いていた。敵に敗れるかも知れないということ。つまりは、少年は死を覚悟しているということ。
寧ろ、そういう不可解な行動さえ起こしたのだから、彼はその結果を、事実として享受してさえいるのかも知れない。
「瑞穂は渡辺くんにとって何なの?」
そして、何よりも、この言葉を琴音は訊ねたかった。少年は確かに、その少女に気を使って見せたのだ。自分が亡き後、その少女の力になって欲しいと、依頼に来たのだ。
しかし、立ち去る背中に何も言えず、少女は立ち尽くし、少年を見送る。力量を認められて嬉しいはずなのに、全てを素直に喜べず。
一人の部員に、勝手に借りていた竹刀を心無いような礼と共に返却して。引き止める荒川を無視すると、その滝口は琴音の視界から消えてしまった。




