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第八話:洗礼

 琴音たち部員一同がランニングから武道場に戻ってくると、一人の男子部員が竹刀を片手に、その中央に立っていた。しかし、その少年は面、籠手などの防具の類は一切身につけてはいない。学生服の上着だけを脱いだ、黒いシャツとスラックス姿である。

 剣道部員の練習姿としては異常ではあるが、この学校に彼の剣道具は置かれていないのだから、それは当然といえば当然といえる格好でもあった。突き詰めれば、手にした竹刀でさえも、彼の物ではないのだ。剣道部という部活動に参加していながら、それら剣道用の用具を彼自身が本当に所持しているのかさえも、はなはだ疑問であった。

 その少年はいわゆる幽霊部員なのである。

 転校初日に入部届けを提出しに来て以来、少年は一度として練習に参加したことがないのだ。

 では何故に剣道部というクラブに所属することを、彼は望んだのか。

 その答えを知る者は、本人を除けば学園に二人。そこにいる源琴音と、少年と同じ日に転校してきた賀茂瑞穂。彼が滝口であることを知る、少女たちであった。

 少年は竹刀袋を校内で持ち歩くための免罪符を入手せんがために、この部活に入部届けを提出したのである。

 その日の授業が全て終わり、陽が傾き始めた時刻とはいえ、気温は今だ高い。ただ、立っているだけでも汗ばむほどである。

 しかし、涼しげな表情で、詩緒は呼吸一つ乱さずに佇んでいた。自身とは対照的に、苦しそうに肩で息をする眼前の人物を見据えながら。

 上半身を前屈させた姿勢で息を整えている、その男。面の前当ての隙間から大粒の汗がぽたりぽたりと板張りの床に落ちては、彼の足元に溜りを作っていた。

 その男の剣道具けんどうぐは、部員の誰もが見飽きたと思っている一品である。

 それは何も、彼等の身に着けている物と同じ工場制手工業マニュファクチュアによる、安価な量産品だからではない。それはその業界では名の通ったの匠のこしらえた、一品物の超の付く最高級の剣道具なのだ。

 彼らがそう感じる原因の全ては、その男にあった。

 その防具一式に身を包んだ本人が、購入直後、毎日のように鼻にかけ、ひけらかしていたためだ。今でも事あるごとに、それを自慢しようとしている。見れば見るだけ、魅入られるような見事な一品でありながら、悲しいかな普段のその男の印象イメージも相まって、嫌でも彼らにはそう思えてしまうのだ。

 その業物の剣道具の持ち主こそが、男子、そして琴音ら女子剣道部の顧問教諭、荒川あらかわという男だった。

「……ご指導、ありがとうございました」

 果たして本心から述べているのか。それは些か怪しいことだが、詩緒は確かに感謝を告げると、荒川に一礼して見せ、琴音たち部員の方へと向き直る。

「……お、応……」

 力なく返答する濁声。行われていたであろうその指導が、荒川の意図する形で終わったのか。それは定かではないが、両者は短いやり取りでその終了を認めた。

 直後、その教員は一心不乱に防具を外しにかかる。暑いこの時節、面を被り続けるだけでも熱と汗、そして、そこに籠った臭いで滅入る。疲弊するのだ。

 どうやら男は意図したことなどは別として、とりあえず、一息つくことを優先したようだった。そうでなければ外聞や体裁をむやみに気にするこの男が、一番に威厳を保ちたがる彼らの前で、そのような醜態とも言える姿を晒すわけがないのだから。

 面を取るとその下から中年男の顔が露わになる。それはその男の持つ鼻を衝くような体臭が、部員たちの控えていた入り口付近にまで漂いそうな、むさ苦しい表情だった。

 指導という名を借りた、虐め。

 その師範が直接相手を担う乱取稽古は、男子部員の間ではそう揶揄されていた。

 この男は、生徒に気に食わない言動があると、それを以て報復行為を行うのだ。剣道とは全く関係のない日頃の憂さを晴らすために、白羽の矢を立てた相手に、難癖を付けた上で、それを行なうこともある。その稽古という名を借りた行為は、男の気が晴れるまで永遠と行われるのだ。動けなくなった相手を無理やりに引き起こすし、情け容赦なく打ち込んで来るのである。相手をさせられる者は、たまったものではない。

 女子部員には矢鱈と優しいくせに、男子生徒には只管ひたすら厳しい。

 剣の腕では確かに国体に代表として参加エントリーするほどの実力者でありながら、そういった側面が祟り、部員たちの人望は薄い指導者だった。

 だから、生徒たちは沸いていた。取り分け普段、その犠牲者たる男子部員たちは。ゆっくりと歩み寄る少年に、男の手前、歓声は送れないものの、歓喜のありありと見える笑顔を見せる。

 おそらくは、その少年が例の虐めを受けながら、その師範を打ち負かしたのであろうことを推し量って。

「渡辺くん! 君、強かったんだね!」

 男子主将が声を弾ませる。それが、来るべき秋季大会に向け、即戦力を獲得出来た喜びか、前出の理由に因るものであるのかは理解できないが。

 しかし、その声を完全に無視し、詩緒は琴音の前に立っていた。

「な、何かな? 渡辺くん……」

 少し動悸がちに、琴音は自身の目の前に立った少年に訊ねた。それは持久走を行なってきた直後だったから。そういう理由だけではない。

「源琴音。お前に用があって来た」

「え?」

 琴音は耳を疑う。この少年を知っていればこそ、その言葉が信じられなかった。

 彼は転校してきて以来、彼女に話しかけることなどなかった。いや。琴音の知る限り、非日常の世界で行動を共にする少女を除けば、誰にも自ら話しかけたことなどないのだ。それが、初めて話しかけてくれたどころか、個人限定の用事まであるとは。

 琴音は顔を染め、妄想とも言えるような展開シナリオを想い描いていた。

「俺と立ち会え」

 そんな少女に構わず、詩緒は続ける。それは彼女の脳裏を過ぎった絵空事とは、当然、遠く掛け離れた言葉。しかし、一瞬、驚きを浮かべたものの、少女は少年を真っ直ぐと見詰め、力強く頷いてみせた。

「――私も。私も一度、渡辺くんと勝負してみたかった」

 つい今、彼女の少年に抱いた感情に由来した妄想などなかったように、至って真剣な表情で答える。

 自分の力が滝口として通用するのか。それを知りたかったのが一つ。

 そして、何よりも。少女はこの少年に認めて欲しかったのだ。

 それは願ってもみないチャンスだった。

「……防具なし、の方がいいのかな?」

 しかし、緊張している様子は隠せない。少しだけ、ほんの僅か、うわずってしまった声がそれを教える。それに気づいた者がいたのかは別として。

「好きにしろ」

 短く返答をしながら、詩緒は再び自身がいた場所へと足を向ける。

「うん」

 言うが早いか、少女は手馴れた手つきで胴を固定する紐を解きにかかる。

「や、止めておけよ! 渡辺くん!」

 そのやり取りに周囲の者が慌てふためいていた。その少女が規格外の強さを誇っていることを知っているからだ。

 彼女は先の高校総体の県予選で公式戦に初参加しておきながら、圧倒的な強さで優勝をしてみせた剣士なのである。そして、その大会の水準は決して低かったわけではない。その少女は前年度の総体覇者をも、寄せ付けることなく打ち破っているのだ。

「……大丈夫よ。手加減するつもりでしょ? 琴音のことだから、せっかく部活に出た、あの子のやる気を削がないようにしたい、っていう感じなんでしょ。防具をつけないのも、同じ土俵で勝負してあげる、やさしさなんでしょうし……安心して見てなさいな」

 騒動の中、一人静かに状況を見守っていた少女が、詩緒を止めた男子主将を落ち着かせるように言う。

「あ、ああ……。そうかな? そうだよな?」

 返した言葉は、自身に言い聞かせるような口調だった。しかし、詩緒を止めようとしていた少年は、どうにか一応の落ち着きを取り戻す。

「……しっかし、甘いわね……どうせあの子も、琴音の追っかけの類かなんかなんでしょ? ……そういう種類の入部希望者が一時期、多かったじゃない。『昔、剣道やってたから俺のが強いぜ!』みたいな、力関係で恋愛が成り立つなんて、ガキ同然のアプローチ方法と思考回路しか持たない馬鹿な男の群れが。正直、そういう輩は、面倒だし、ウザイのよね。何なら本気で打ち込んで、追っ払えば早いのに……」

 だが、彼女は続けて愚痴って見せる。

「おっ、おいっ!? け、剣道部、じょ、女子主将たる君が!? な、なんてこと言うんだよォ!? け、怪我でもさして、事件にでもなったらどーすんの!? 大会出られないよ!?」

 ひっくり返る声。その愚痴に、少年の偽りの平常心は跡形もなく吹き飛んでいた。

 彼女の言った、そういう浮ついた気持ち。それで入部を希望してきた生徒は、確かに多かった。一時は、名前は知られているものの競技人口は少ないこの部活にも、創立以来、最大の部員数を誇った時期があったほどである。

 しかし、現状はほぼ例年通りの人数に減少していた。男女共に、団体戦にぎりぎり参加可能な程度の頭数しか残ってはいない。

 特に琴音目当てで入部して来た男子生徒は壊滅していた。

 彼女の気を惹くには、彼女と常に行動を共にする必要があるわけであるが、異常ともいえる琴音の練習メニューのハードさに、誰一人とついてはいけなかったのだ。そして、彼女に勝利した者もいなかった。

 つまりは剣道部に所属する利点メリットを無くした彼らは、非常に僅かな期間で退部していったのである。

 そういう連中に付き合うことは、やはり、彼女らにとって苦痛で不愉快でしかない。

 さらには、浮ついた彼らを前に荒川の機嫌は悪くなる一方なのである。

 おかげで、いわゆる虐めの時間が増加し、練習の雰囲気は険悪なものになるは、それ以外の通常のトレーニングメニューでさえもシゴキ的な側面だけ強化されるは、と真摯な気持ちで剣道に取り組む部員にとっては弊害でしかなかった。

「渡辺くん――本気でお願い。私も、本気だから」

 少女のその声を鵜呑みにしたわけでは決してない。しかし、袴姿になると、琴音はこれから相対する少年の背中にそう告げた。

「そうそう。おもいっきり、打――ええっ!?」

 ぼやいた少女は返事を遣さなかった少年に代わるかのように、その声に頷いて見せ、今度は驚く。

「ちょっ! ちょっと! 琴音! 本気で貴女が立ち会ったら、あの子、怪我するわよ!」

 気がつけば、一人冷静を保っていた彼女も慌てふためいていた。

「せ、先生!」

 しょうがなく助け舟を指導員に求める。競技場を挟んで対面。顔と体を拭いた、湿りきった手ぬぐいを肩に、男は丁度、立ち上がったところだった。

 そして、どよめいている教え子たちを見ると、大きく口を開く。

「黙れ!」

 一喝。蛮声。

 直後、武道場は静けさに在った。

「……お前ら。本気で剣道が好きなら黙って見てろ」

 何時になく真面目な声で荒川が呟く。静寂に在った道場に、その声はよく通っていた。

 男の視線は開始線に立つ二人へと向けられる。続いて部員たちの視線も少年と少女に注がれていた。

 この男がそう言うのなら、今から行なわれる二人の立会いは価値のあることなのだと部員たちは理解したのだ。

 荒川という男は、確かに人気のある指導者ではない。しかし、剣道に対する情熱は本物であることを、部員の誰もが認めているのだ。良い意味で取れば、賞与ボーナスを、貯金をはたいてまで高価な剣道具を購入したのは、その一例である。だから、そんな彼の元にあっても練習に参加できるのである。嫌な思いをしても、事、剣道の関する指示には従えるのである。

 正式な剣道の試合であれば、互いに蹲踞そんきょの姿勢を取り、開始を待つ。

 剣道は礼節を重んじる競技。本来ならば、この部活動に於いても、そういう決まり事は徹底して行なわれる。

 しかし、蹲踞の姿勢に入った琴音に対して、詩緒は直立のままであった。

 だが、荒川はそんな少年に、似合わないニヒルな笑いを送る。そして、おもむろに声を発する。

「――始めぇ!」

 その声は武道場に大きく反響し、二人の剣士の初動を呼んだ。


 渡辺詩緒という生徒は、剣道を知らないのだ。

 それは竹刀を交えた上での結論であった。

 古流剣術。近代剣術、いわゆる剣道の源流となったもの。渡辺詩緒という生徒は、その使い手であると荒川は踏んでいた。

 剣道という競技の規律ルールを全く知らなかったこの少年の剣の腕前は、しかし、彼の知りうる限り、古今東西、無双のものだったからだ。

「今、一番強い剣士は誰だと思う?」

 もし今。そういう旨の質問を荒川が受けたのだとしたら。

「剣道選手としては源琴音……そして、剣道という範疇でなく、剣士と言うのであれば。自分の知る限りで言えば、この少年である」

 迷わずに、そう即答するだろう。

 彼は今、心躍っていた。

 剣道界の至宝ともなる原石を見つけたのだ。否。原石ではないだろう。少年はすでに完成された輝きを放つ宝石なのである。

 自分でなくとも、少年は誰の指導も最早、必要とはしないだろう。自分を始めとする指導者という立場の人間が、彼に教えられることと言えば、剣道のルールだけなのだろうから。

 源琴音と渡辺詩緒。

 二人が磨き合えば、どのような光を見せるのか。

 現状の答えは、少年のように純粋な目を見せる中年教師の眼前で繰り広げられていた。






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