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第七話:転機

 山の端で大きく構える白い入道雲。辺りに聞こえるのは蝉の声に混ざった、子どもたちの笑声。

 部活に向かった琴音と別れた後。放課後といえども、まだ陽の高い空の下。住宅街の坂道を清美は独り歩いていた。

 彼女の左右には、まだ築年数の浅い家々が建ち並ぶ。建築中の住宅やマンションも、所々に見られていた。

 ここは数年前に山を切り開き、住宅地として整備された新興住宅地である。

 都心とこの都市を結ぶ私鉄沿線が開通して、十数年ほど。この街は、それを契機に急激な発展を見せていた。そして、未だに人口は増加傾向にあり、都市開発が継続されているということ。その様が、この地区の様子からも窺い知れる。

 この街で産まれ育ちながら。清美にとって、ここはゆかりの薄い地区だった。幼い頃から人見知りが激しく、外で遊ぶことをほとんどしなかった彼女にとっては、つい最近までのこの場所は秘境とも言える土地だったである。

 しかし、今の清美は、この土地に強いえにしを感じていた。

 その手にあるのは大きく膨らんだビニール袋。大きな小麦色をしたバケットパンと、程よく熟れた赤いトマトが、そこに入り切れずに露わになっている。たった今、この付近に在ったスーパーマーケットで購入した様々な食材が、そこには入っているのだ。

 自宅に帰ることなく目的地へと向かう、学生服姿の少女。その曖昧な記憶を頼りに、緩やかな傾斜を上る。まだ数えられる程度しか歩いたことのない、この道を。

 笑顔で彼氏が迎えてくれるであろうことを期待して。





 その日、安藤慎太郎は学校を欠席していた。

 それを清美が知ったのは、昼休みのことである。

「どしたの? 清美?」

 その時間。その教室を訪れたとき、彼女を出迎えたのはいつもと同じ親友の顔だった。しかし、その表情は、その言葉は、いつもの友人のものとは異なっている。

「え?」

 その対応に、清美はきょとんとした表情を浮かべた。

 普段の奈津美ならば、清美の顔を見るなり慎太郎を呼んで来てくれるのだ。

 慎太郎と清美。二人の恋のキューピッドとなった彼女は、今現在も、その橋渡し役を務めていた。

 想いを告白し、彼氏と彼女という夢にまで見た関係になることが叶った清美。しかし、学級という仕切りは、二人を引き離していたのだ。

 昼食を共にするために彼氏の元に行く。そういう理由があったにしても、清美には他所の教室に入るだけの勇気はなく、卒業前と同じく慎太郎とクラスメイトになれたという幸運――それは、そう清美が思うだけのことなのであろうが――に恵まれた彼女の助力を、今だ必要としていたのである。

 だが、先の態度は二人の仲介役の拒否とも清美には取れてしまっていた。

 その脳裏に、驚きと同時に湧き起こったものは疑念。

 白を切っている。慎太郎と私を合わせたくない。

 この親友と思っていた人間でさえも、私の恋の障害になってしまったのだろうか。慎太郎に惹かれてしまったのだろうか。

 そういう、いびつで濁った感情。

 しかし、それを清美はすぐさま振り払う。彼女は今尚、協力してくれる大事な友人なのだから。

 彼女に限ってそれはないのだ、彼女を信用しなくて誰を信用するのだ、と。

「え……っと、慎太郎は?」

 しかし、状況は理解できないでいた。いつもの用件を改めて伝えるべく、少女は口を開く。

「し――知らないの? 安藤のヤツから、何も聞いてない?」

 慌てたような、驚いたような。あやふやな表情を浮かべて、奈津美は疑問に疑問で返した。

「え? 何のこと?」

「携帯見てみなよ? メールとか入ってない?」

「う、うん」

 奈津美に言われるがままに、清美は彼氏と自分、二人分のお弁当の入った可愛らしい手さげ袋に手を伸ばす。そして、そこからパステルピンクの二つ折りの携帯を取り出すと、それを開いてみた。

 しかし、メインディスプレイには、メール着信を告げるアイコンは表示されてなどいない。

「……入ってないみたい……」

 小さな液晶画面に視線を落としたまま、少女は呟く。一応、念のために新着メール問い合わせの操作を行ってみるが、やはり言葉通りにそれは無かった。

「信じられない! 毎日、清美がお弁当作って持って来てくれること、知ってるくせに!」

「え? 何? どうしたの?」

 突如と憤慨して見せた友人に、要領を得ない清美は再び訊ねる。

「安藤のヤツは今日、欠席してるのよ!」

「――え? どこか悪いの?」

 奈津美の告げた言葉に、少女の顔には不安が浮かぶ。

「――もう……」

 そんな友人の態度に、奈津美は毒気を抜かれ、溜息を吐いていた。

「清美……アンタ、なんで怒らないの? アイツはアンタに一言も断りなく、休んだんだよ? 毎日、お弁当作るのだって大変でしょ!? アイツはそんなアンタを無視したんだよ? 普通、そーいう時、連絡の一つや二つ入れるモンでしょ?」

「……でも、連絡できないくらい、体調が悪いかも知れないじゃない? 私のコトなんてどうでもいいよ……慎太郎、大丈夫なのかな……」

 その顔にさらに不安が色濃くなる。

 そこに在る、今にも泣き出しそうな表情。すでに、ここに心あらず。彼女の想いは、彼氏へのみ送られているのが、奈津美でなくとも見て取れた。

「病気とかじゃないのよ! 今もウチのクラスの男子連中と、携帯で話してるの! ホラ!」

 再び起こった憤懣ふんまんの感情を表現するような声と共に、奈津美が室内を指す。その先には、男子生徒が群れて馬鹿騒ぎをしていた。

「ルーナルート突入には、二十二日の夜の公園で殺戮狩人ハウンドプレッシャーと戦闘するんだよ! ……え? 試した? ……強すぎて、勝てない!? 当たり前だろ!? 勝てるわけねぇーよ、素手で戦闘したって! 相手を誰だと思ってるんだよ!? 殺戮狩人だぞ!? アキラだぞ!? 関智せきともだぞ!? ハンドガンだよ! 何のために銃を持ってるんだよ!? それ、ぶっ放すんだよ! 威嚇射撃しろ! そしたら、過去回想イベントが始まって、戦闘が強制終了すっから!」

 その中心にいる、時代錯誤のリーゼント頭の少年が回りを気にする素振りもなく、携帯の通話口に大声で話しかける。

 その取り巻きが、その声に合いの手を入れるなり、関連の話題――清美には全く理解できないのだが、キャラクラーの名前だの、その声を担当している声優の名前だの、原作者の他作品の名前だのを出しては、またも盛り上がりを見せていた。

 室内に聞かれる騒音の大半は、そこから聞こえるものである。

「……何の話?」

 奈津美に視線を戻すと、根本的な疑問を清美は口にする。

「ゲームよ、ゲーム! 何でも昨日、宮増みやますが貸したソレを徹夜でやってて、休んだみたいよ? 本当にバカよね! バカ!」

 真っ先に視界に飛び込んだリーゼントの少年こそが、その宮増という生徒であることを清美は知っていた。慎太郎の親しい友人の一人だったからである。

 呆れ顔で友人の彼氏である人物を非難しながら、清美の疑問に返答を終えると、神妙な顔を作り、彼女は続ける。

「……ねぇ。本気で考えるべきだって……安藤のヤツは、清美のコトを彼女として、まともに扱ってないよ? 前から言ってるように、別れるべきだって……」

 この恋のキューピッドでさえ、今や清美に別れを促す友人の一人だった。いや。現状、二人の交際を応援してくれる人物など、清美には存在しないのだ。

 清美の誕生日という記念すべき日。恋愛関係にある二人にとっては、クリスマスと並ぶ一大イベントであろう、その日。しかし、慎太郎はその日のデートの約束をすっぽかしたのだ。

 以来、誰も彼を擁護しようとはしなかった。元々、その少年は清美という彼女をないがしろにする一面が見受けられていたので、その出来事は致命的な印象を友人たちに与えてしまったのである。

 その気持ちは清美にも解る。だが、当の本人はまだ、彼のことがが好きで好きで仕方ないのだ。その日、あれだけ悲しい想いをした張本人にも関わらず、別れようなどと思えもしないのだ。

 それは誰に否定も非難もされることではないはずである。

 しかし、清美は孤立してしまっていた。

 最早、誰にも彼氏との関係を相談できない状況だった。愚痴ですら同じである。誰に何を話しても、返ってくる答えは破局を促すものでしかないのだから。

「――何!? 昨日はツヅミルート攻略やってた!? 彼氏コータどうしたんだよ!? お前、正規ルーナルートのフラグ立てられないで、何で攻略板ネットでも攻略未確認のキャラのフラグ立てられんの!? ってか、頼むから突入条件、教えやがれ!」

 意味不明の大きなどよめきが起こっているその場所で。今まさに、友人と携帯越しに談笑しているであろう彼氏。

 そこは数歩、歩けば届く距離なのに。受話器の向こうに聞こえるであろう、愛しいその声は、清美には少しも届きはしない。

「……う……うん……」

 彼女には、そう返すしか術はなかった。例え、否定的な台詞を告げたとしても、それは火に油を注ぐだけの効果しか持ち得ないのだから。

「本当に!? アンタ、本当に分かったの?」

 嬉しそうな表情で奈津美は念を押す。

「考えとく……」

 お茶を濁す答えを呟くと、清美は間髪入れずに友人に小さく手を振った。

「ゴメン。奈津美。もう行くね?」

 そして、彼氏の友人たちの声にも背を向ける。

 奈津美という自身の友人も。慎太郎の友人である彼らも。

 これ以上ここに居ても、それらに心を苦しくさせられるだけなのが解ったから。

「清美!」

 自身を呼び止めるような叫びを振り切って、小走りで清美はその場を後にした。




 だから。少女が聞いた、その直後の授業時間での彼女ことねの呟きは、とても大きな救いに聞こえた。啓示だとさえ思えた。

 だから。勇気を出せた。面識のほとんどない人間に、初めて自身から声がかけられた。

 そして、希望は見えたのだ。まだ、慎太郎を好きでいられる自分が、他の誰かに認められる気がしたのだ。許される気がしたのだ。


 何より、自分の殻を破れたこと。

 それは間違いなく、最愛の人が与えてくれた力。彼を想う心が、可能にしてくれたこと。

 少女は少し、強くなれた気がしていた。彼を想う限り、自分の力で前に進めるのだ。

 自分から、また動こう。想いをまた、あの人に伝えよう。届け続けよう。そう思えた。

 春。自分を受け入れてくれた彼は、それできっと、もっと自分を好きになってくれる。そう信じて。




 彼の家に向かうということ。

 彼に告げず、彼の了解を得ず、突然に彼に会いに行くということ。

 恋愛関係にあるのなら、一度や二度、そういうことがあっても、何ら不思議ではないことなのかも知れない。

 しかし、清美は初めてそれを自分の意思で行っていた。自分の意思だけで、彼の元に向かっていた。会いに行く。ただ、それだけのことでさえ、清美は慎太郎の了解がなければ決して行なわなかったのだから。

 今までの彼女であれば、邪険にされること、怒られることが前に出てしまい、決して行えなかった行動なのだ。

 しかし、今。彼女を突き動かしているのは、その反対。

 一人で暮らしていて寂しい思いを慎太郎はしているかもしれない。だから、自分が来てくれたことを、きっと喜んでくれるだろう。お弁当を残さず食べてくれるように、手作りの晩ご飯を美味しそうに食べてくれるはず。

 そういう希望。


 一度大きな通りに出ると、そこを右折する。

 そこから二つ先の横断歩道を渡ると、彼の自宅はもう目と鼻の先だ。

 清美の足取りは、自然と軽やかになっていた。

 何よりも、彼女自身が彼に会いたくて仕方ないのだから。

 それは嘘偽りのない心。胸の奧からの想い。

 もしかすると、今までの自分がしていた行為――慎太郎を気遣うだけで、自分の想いを押し殺していたことが、二人に溝を作っていたのかも知れない。自分に自信が持てなかった要因だったのかも知れない。

 晴れやかな気持ちに、思考もポジティブに変わっていた。

 これから、何もかもが上手くいく気がしていた。

 本当に変われた気がしていた。

 清美は自然と微笑む。それは穏やかな表情。

 今、この瞬間の彼女は、とてもとても美しかった。

 微笑む少女の真横を、大きな体躯の男が過ぎる。

 接触しそうになり、慌てて清美は道を譲った。

「ごめんなさ――」

 男の方に向き直り、お詫び言葉を告げようとしていた、清美の口が不意に止まる。

 その顔。それまで湛えていた微笑も、冷たく凍り付く。

 手にしていた袋がするりと指をすり抜けて、舗装された地面に落ちた。


「……どうして……?」


 清美には世界の全てが静止したように感じられていた。

 聞こえていた蝉の声も、子どもたちの笑い声も、彼方の出来事のように。その一切が届かなくなっていた。

 酷く無音な世界に、少女は一人立ち尽くす。

 その世界に動くと感じられるものは二人。

 清美の視線の先、睦まじく並んで歩く少年と少女。


 そこには慎太郎と奈津美の姿が在った。






<人名解説>

関智せきとも:話題のゲーム中で殺戮狩人を演じる声優名。関智一(代表役:スネ夫・ドモン・イザーク等)では絶対にありませんよ。ええ(笑)

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