第伍話:接点
強い陽射しが少年と少女を照らす。
二つの白い制服の足元。熱を帯びたコンクリートの床面に、焼き付いた様な黒い影が落ちていた。
光に包まれた最中。
ただ、沈黙が流れる。
つい数分前までこの場所に届いてた、生徒たちの活気ある歓声は聞かれない。
五現目の授業の開始を告げるチャイムは、すでに鳴り終えているのだ。
二人を取り巻く静寂は、この施設に在って、当然の状況だった。
詩緒の発言の後。
暫くの間。
瑞穂はその状況に身を任せていた。
――渡辺詩緒という滝口の抹殺。
「……ええ。そうね……」
美しい少女は一つ、息を吐いて。そして、沈黙を破る。
彼女が呟いたのは肯定の言葉。
それは確に、その陰陽師の少女に課せられた任務の一つだった。
この国の各地に散り、『魔』を狩る滝口たち。
彼らはその役割によって、大きく二つに分類できる。
自身が生活する地域で発生した異変に対して動き、その土地を専属的に『魔』の脅威から守護する者――『防人』。
そして、『魔』による異変の発生した、或いは、発生すると予測された土地へと赴き、それを討伐する者――『遊撃』と、である。
――予測された。
つまりは、まだ発生してはいない未来の事変。それを。その『魔』の胎動を、予言する者たちが存在しているのだ。
賀茂瑞穂という陰陽師の属する組織、陰陽寮。そこで内勤を専門とする複数の陰陽道の占術者。陰陽博士、天文博士、暦博士の任に就く陰陽師たちである。
少女の目の前の少年を含め、遊撃の任に就く滝口は、彼らのもたらす言葉によって始めて効率的に活動することが適う。
滝口はあくまで武人、『魔』を狩る武士でしかないのだから。
予言者の存在がなければ。彼等は手探りで、虱潰しに活動するよりないのだ。そして、それは全ての『魔』によって起こされる惨劇に対して、完全に後手に回ることに他ならない。
賀茂瑞穂という陰陽師と、渡辺詩緒という滝口。
二人は単に幼少の頃に修行を共にした旧知の仲だから、という理由で行動を共にしているわけではないのだ。
それはむしろ、偶然に過ぎないこと。
ここにいる陰陽師の少女は、陰陽寮が天文、暦数を始めとした占術により予見した『魔』の兆候を少年に伝え、その意向を告げる伝言者なのだ。
陰陽寮。その総取締役を陰陽頭と言う。
その機関は、かつては明治初頭まで存在した正式な政府機関、中務省の一つであったが、土御門晴栄を最後の陰陽頭とし、表向きは廃止され、歴史からは消えていた。
しかし、その役目に就任する者は、陰陽寮が影で現存しているのと同じく、現代に於いても存在している。
現在の陰陽頭の名を安倍晴歌と言った。
彼女に滝口としての力量を認められ、信頼も厚い詩緒。彼の元に来る依頼、協力要請は難易度の高いものが多い。
また、現滝口の棟梁である平井万葉が不穏な動きを見せつつある今、彼女が頼れる滝口は彼を除いていない。そういう実情もあった。
複数の滝口に援軍要請出来ず、その上、危険度の非常に高い任務。だからこそ、共に行動し、協力することとなる陰陽寮から派遣される退魔術師にも、卓越した力が必要なのだ。
そこでその役目に任命された人物。それこそが若輩ながらも、稀代の、と謳われる陰陽師、賀茂瑞穂だったのである。
だが、それは滝口の少年に隠された任務を考慮して、という意味合いも強かった。
鬼という少年の心に宿った闇。紛う方ない『魔』。
その闇の強大さは、かつてこの国に大きな混乱と災いを招いた、伝説にさえ名を残す鬼の王たち――産まれながらの鬼、純血種のそれに匹敵する。
陰陽寮の首脳陣の間では、それは共通の所見であった。
彼に陰陽寮からの依頼を継続させること。渡辺詩緒という滝口を、『魔』の脅威に常に晒し続けること。
それは、彼自身を闇に堕とし込むことと同義なのではないか。秘められた『魔』が覚醒する危険性を増長させるだけなのではないか。新たなる脅威を創り出すだけなのではないか。
だからこそ、そう危惧する意見があるのは、さも自然な流れであった。
しかし、批判しながら、彼に頼らざるを得ない状況であることも、否定的な考えを持つ彼らにしても、真なのだ。
故に。
もしも、その『魔』が目覚めてしてしまった時に、即座に対応――宿り主の抹殺を行えるだけの術者が、その傍らには常に必要である。
その訴えが起こることも、当然の事態だった。
「……誰の入れ知恵なのかしら?」
辟易と瑞穂は呟く。
陰陽寮に属する少女には、幾つかの心当たりがあった。
いけ好かない。彼女がそう思う何人かの人物――この件に批判的な声を荒げる権力者、過去の陰陽寮の権威に確執する老害に、げんなりとして見せる。
「――でも安心なさい。私は『そういう事態にならない様』に、アンタの傍にいてあげるんだから」
それは陰陽頭の意向、願いでもあった。
本心からの協力者。そういう意思を伝える言葉。少年に向けられた、その表情も。先ほどまでのものと違い、それを現している。
自身に送られた少女の意思、やさしい微笑み。
しかし、それにも詩緒は反応を見せない。いつもと変わらぬ無表情で、冷たくそれを迎えていた。
「……まったく。こういう時くらい、感情を顕わにして欲しいわね……何の反応もなかったら、私はどうすればいいんだか……」
瑞穂は両手をそれぞれの腰に当て、詩緒から視線を逸らすと、先ほどよりも深い溜息を吐き、そうぼやいた。
「……別に誰に聞いたことでもない。考えなくとも、理解できることだ。安倍の立場を考慮すれば、無策で俺に陰陽寮の要請を遂行させるとは考えられない」
漸く口を吐いた少年の言葉は、ただ冷静に自身を分析したものだった。
一枚岩である組織は皆無と言えるほど少ない。むしろ、人が集まり作られたものが、一つの目的の元に完全に統一されることの方が異常と言えるだろう。
それは陰陽師であることが所属条件になるもの。つまりは、その特殊な才能が必要な故、現代に於いて、絶対的に構成員の少ない組織、陰陽寮にとっても同じことなのだ。
否。なまじ彼らには見えない物が見える分、そして、それが完全なる確定事項だと判断し難い分、見解の相違は大きく発生するのかも知れない。
彼らが見ることの出来る未来とは、あくまで『予測された未来』であり『確定された未来』ではないのだ。さらには読み手が変われば、読む場所が変化すれば、ズレや違いの生じる不安定なものなのだから。
渡辺詩緒という少年に関する齟齬は、その一例でしかない。
彼を使い続けるという、自身の意思。しかし、それに対する否定的な意見があるのならば、対処しておく必要性が集団の中心人物にはあるべきなのだ。組織というものを維持し、統括するためには。
そして、安倍晴歌という人物が、そういう対応の取れる優れた人物である。ただ、その事実を詩緒は知っているだけだ。
「へぇ……じゃあ、アンタは知ってて、これまで黙ってた、と。そのくせ、今回は敢えて確認したワケね? いざという時、自分を確実に抹殺させるために……何でわざわざ危ない橋を渡ろうとするの? まあ、アンタの考えることくらい解ってるつもりだけど……」
問いを言い終え、閉じられた艶やかな唇が間髪入れず開いていた。
「――返事は『お前には関係ない』かしら? 違うわね。『私に関係ある』からこそ、なんでしょ?」
そして、勝ち誇ったようにそれを綻ばせる。
「……というワケで、アンタの意見は却下よ。私だけは特別扱いしないで。愚痴りはするかもしれないけどね」
言葉の直後、二人を撫でるように風が流れた。
それは、そよぎ風。
心地よい小さな鈴の音色が聞こえる。少女の亜麻色の髪がそれに合わせて踊った様に、ふわりと揺れていた。
「……どうあれ、アンタの考察とおり、一応、私にはアンタをいつでも殺せるようにしておく義務があるの。野放しに放置なんて、できないわ。それにどーせ、もしもの時は『躊躇することなく俺を殺せ』とか言うつもりだったんでしょ? だったら、尚のことじゃない。私が傍にいた方が話が早いわよ? その時、本当にどうしようもないなら……アンタの遺志を汲んで、私が殺してあげるから」
「……好きにしろ」
目を瞑り、下に顔を向けると少年は少女に返す。
その刹那。一瞬だけ。そのいつもは変わらぬ仏頂面が、微かに微笑んだように瑞穂には見えた。
「詩緒……何なら今、遺言を預かっておこうか?」
笑顔で物騒な言葉を少女が何気なく聞くと、そこにはもう普段の少年がいる。日常に在りながら、滝口であり続ける少年の顔が。
「……お前の問いに答えておく。この間の召喚者は八卦衆の一人だった……狙いは、お前だ」
そして、さも当たり前の如く、先の本気とも取れる冗談を無視して見せる。
「やっぱり、ね。そんなことだろうと思ったわ……望むトコロじゃない。返り討ちにしてやるわよ」
納得げに呟くと、自信に満ち溢れた表情を浮かべ瑞穂は答えた。
「忠告しておく。おそらく、相手はお前に特化した力を持っているはずだ」
「解ってるわよ、そんなこと。だから、単体で私たちの前に現れたんでしょ? 関係ないわね。私を誰だと思ってるの?」
少年の警鐘。しかし、それでも少女の自信は揺るがない。
「……だったら、もう一つ。お前が動こうと、俺は単独で動く」
まだ対峙さえしていない敵に勝ち誇る陰陽師に、滝口はそう告げると屋上の出口へと足を向け歩き出す。
「ちょっ! 何、それ!? アンタ、私を餌にするってこと!?」
その少年の活動方針の報告に、聡明な少女は全てを理解していた。だから横切った少年に非難の声を上げるも、しかし、少年は何の反応も見せない。
何事もないように、それを流して歩き続ける。
「それ男の子のすること!?」
続けた聞こえた、どこかで聞いた台詞。
「特別扱いするな……だったな?」
ドアノブに手をかけていた詩緒は、振り返ると瑞穂を一瞥して返した。
それは確かに、戦術としては有効な策なのかも知れない。
全貌の明らかになっていない敵に対して、おとりを泳がせ、それに食い付いた瞬間に奇襲をかける。結果、挟撃になるわけである。
知性的な部分で、陰陽師はそれを理解していた。
しかし、少女としての感情が、それを拒絶したのだろう。
如何に稀代の陰陽師と謳われようと、賀茂瑞穂という人物はあくまで一人の少女なのだ。
こういう時にはやはり違った反応が、あって然るべきだと、その部分は訴えたかったらしい。
例えば、俺が守ってやる、そんな対応。
「愚痴りはすると言った!」
多くの学生たちが、教師の言葉に静かに耳を傾け教えを請う。もしくは、そういう素振りを見せている時間。
つまりは、極めて静かであったこの校舎に。
詩緒によって開かれた鉄扉を抜けて、瑞穂の怒声が響いていた。
からん。そう乾いた音を立てて、ピンク色のシャーペンが卓上に転がる。
「み、瑞穂?……」
手から落ちた筆記用具に手を伸ばさずに、それを額に当て俯くと、廊下に面した座席に座る少女は小さく呟いた。
つい先ほど。廊下を抜けて行った声は、幼馴染のものに間違いないことは明らかだった。
「もう……何をやってるのよ……」
呆れ声で一人ごちる。
教室は突然の大音声に、ざわめいていた。その中で彼女の小声の愚痴が続く。
「せっかく、渡辺くんの事は上手く理由付けできたのに……」
午後に入り、座席に座っていない詩緒に気付いた教科担に、欠席の理由を伝えたのは琴音だった。当然、真実を伝えたわけでなく、病欠として報告したのだが。
頭を抱えた琴音。彼女の真後ろに座る少女には、ざわめきに掻き消されていく、その嘆きの声が聞こえていた。
「……源さん……賀茂さんの知り合いなんだ……」
転校してきた、噂の美少女。社交的で、占いが得意なのだと彼女は賀茂瑞穂について聞いていた。
このクラスに編入されたのが、変人だと噂され始めた、あの少年でなく、彼女だったなら――。
少女は常々、そう思っていたのだ。
思わぬ場所で見つけた、彼女との接点。ある決意を胸にすると、少女は一人、頷いていた。
<用語解説>
陰陽博士:占い・呪術の実戦、および研究・教授を職掌とする役職。
天文博士:天体を観察し、そこにある異変から、その意味・未来への影響を判断。上級官庁に報告する役目を持つ役職。彼の安倍晴明が就いたことで有名(?)でもある。
暦博士:天の運行から暦を作成する役職。




