第参話:使者
「居心地良さそうだな?」
昼間だというのに薄暗く、換気もままならずに湿度の高いこの場所は、夏本番を迎えようとしているこの時期に、居心地が良いなどと有り得るはずもない。
それは明らかに、そこに幽閉されている少年に対する野次た言葉であった。
その台詞を言い放った松明に照らされた少年の顔は、やはりそういう意図が滲み出ている。
その目に映るのは、土牢にいる薄汚れた衣服に身を包む同じ年頃の少年。
彼が独断で行動を起こした罰として、ここに囚われて早一月が経過しているのだ。そういう身なりに陥るのは、至極、当然の状態であった。
しかし、牢獄の中の少年の顔は生気を失ってなどいない。寧ろ、日に日に強まる自らにこのような仕打を科した元凶を憎む気持ちに駆られ、拗くれた感情によるものとはいえど、精彩を放っていた。
少年は、その象徴たる血走った目をギロリと動かし、声をかけた相手を見遣る。
「……何の用だよ? 丑寅……わざわざ俺に馬鹿にされに来てくれたのか?」
そして、口元を歪めた。来訪者を、その捌け口の対象と認定する。
「違うだろ? 逆だろ? 普通? テメェが馬鹿にされる立場だってーの、自称『八卦衆筆頭剣士』の辰巳さんよ……頭、働いてるか? 現状を把握しろよ? この馬鹿」
牢と怒りに囚われた少年。狭い空間に拘束され、外部に被害を及ぼせないとしても、そこには他者を怖けつかせるに十分な迫力があった。
しかし、そんな少年に物怖じ一つせずに、彼が与えようとした役どころを拒否し、丑寅は嗤う。
この穴倉を利用し作られた、地下牢に囚われた少年の名前は辰巳当麻という。現在の滝口の頭取、棟梁の役職に就く平井万葉。彼女の編成した親衛隊とも言える部隊、八卦衆の一員であった。
「良いことを教えに来てやったんだ。感謝しろよ? ……お前が仕留めそこなった陰陽師だけどな。俺に棟梁から直々に命が下ったんだよ。始末しろ、ってな?」
自由を剥奪された同僚を見下し、丑寅は言う。彼もその一門に籍を置く者であった。
「何だと?」
その内容に、当麻は眉間に皺を寄せる。
「……棟梁からすれば、お前より俺のが上、ってことだろ? お前に出来なかったことを、俺に命じるんだからな。理解したか? 自分が一番だなんて下らない妄想はとっとと捨てて、ここから出られたときは俺に尻尾を振って従えよ?」
そう言い終えるなり、丑寅は大声で嗤った。野卑た笑声が、土壌が剥き出しの壁面に反響する。
「ふ……ふはははっ! お前は本当に馬鹿だな! お前は時間稼ぎの捨石にでもされたんだよ! 滑稽だな! そんな勘違いでいい気になって、俺にさも自慢気に語りに来たのか!? オメデタイ奴だな!」
当麻はしかし、丑寅のその様を嘲け返す。
「お前と俺と! どっちの戦闘能力が上だと思ってるんだ!? 中途半端な能力しか持たないお前が! 俺より上だと!? 笑わせる! お前じゃせいぜい時間を稼いで、お終いだよ! そんなことは棟梁には解ってるんだよ! 知らぬは本人だけって、か!? 無様だな!」
矢継ぎ早に繰られる暴言。だが。それを相手に叩き付けたところで、当麻の怒りは治まらない。丑寅ごときに馬鹿にされた状況に、今の自分はある。その事実は曲げようもないことなのだから。
それ故に。当麻の言葉と共に狭い空間のなかの大気が唸りを上げ、震えていた。
感情の高ぶりは、それまで抑圧し、蓄積されてきていた己の感情統制の限界を超える。抑制の許容を超えた意志は暴走し、大気に影響を与えたのだ。それは辰巳当麻の持つ異能の力、八卦の力によるものである。
彼は八卦の一卦、風を司る剣士なのだ。
如何にも有り合わせで作られたこの牢獄。それに不釣合いな、そこだけ頑強に作られた、太い鉄製の枠が空圧に軋む。
「っを!?」
襲い来る大気。不可視の凶器。それは衝撃の波。
巨大な鈍器で打ち付けられたような、鈍い痛みが丑寅の全身を襲う。そのベクトルに吹き飛ばされそうになるも、ぎりぎりのところで自身の能力を開放し、彼は踏み止まった。
壁面が、天井が一部欠落する。
風はその猛威を奮いつづけるも、その能力により丑寅に対する干渉力を失っていた。吹き荒ぶ風の中、同僚であるはずの剣士を殺意のありありと取れる目で丑寅は睨み付ける。
「……お前……勘違いしてないか!? 確かに一対一でお前と俺が殺し合えば、お前が上かも知れないがな! 俺には鬼眼があんだよ! 『戦力』としては俺が! お前よりも上なんだよ!」
吼えつつ、動かす視線。丑寅は当麻のすぐ横の空間を視る。そこには何も存在してはいない。
しかし、それは彼以外の視覚であれば、の話である。
彼には視えているのだ。そこに自身の攻撃札の一枚となるカードの存在が。
「先に力を使って危害を加えたのは、お前だからな! 恨むんじゃねぇぞ! お前の悪意が産んだ異形に殺られるんだ! 本望だろ!」
丑寅の目に視えているのは、今にも具現化しそうな鬼の姿であった。
それは辰巳当麻が、ここで放ち続けた恨み、怒りの幻像に他ならない。
「――やめておけ。それ以上の対立は、見逃すことは出来んぞ?」
野太い声が洞穴に響いた。それは対峙していた二人の身体を、瞬間、萎縮させる。
同時に二人の視線が、この地下牢の入り口へと向けられた。
その二人の視軸の交差した点に立つ、威風堂々とした巨漢。彼こそが、先の声の主であった。
浅黒い肌、隆々とした筋肉。えらの張った厳つい顔。そこにある太い眉の下にある大きく見開かれた目が、二人の剣士を映す。その巨漢の風貌は、本人にその気がなくとも、相手を威迫するのに十分なものだった。
だが、二人は並の神経の持ち主ではない。世界の裏。表にある常識では計り知れない、超常の中に生きる者である。見てくれで気後れするような神経の脆弱さはない。
彼らは知っているのだ。その巨漢の持つ力を。
「……大隈さん……」
怯えに似た面持ちで、丑寅は彼の名前を呟いていた。
大隈雄悟。四天王の一人であった。
◇
月空の下、爆音が響いた。
それは二人の人物の立つ足元、コンクリートの地面を揺らす。
「……力技に出たか」
呟く、滝口。
「……加減ってモンを知らないのか!?」
フードに隠れた顔から声が漏れる。それは男のものだった。
「お前が言うことじゃない……少なくとも人的被害はない。お前と違ってな」
言い放ち、詩緒は刀をゆっくりと構えた。
「……そうかもな」
含み笑いが声に続く。確かに召還者は裏の世界とは無関係な人間の多く通うこの施設に、大掛かりで危険な罠を張ったのだ。他人をとやかく非難する立場ではない。それどころか召還するのに使った餌は紛れもなく人であった。滝口と陰陽師の感じた瘴気に混ざり、臭ったものは被害者の血の臭いに他ならないのだから。
フェンスの向こうには、街の明かりが広がっていた。
それは絶景と呼ぶに値するものだ。
冬場。街がクリスマスのイルミネーションを着飾る時期に比べれば、やはり、見劣りはするものの、そこに広がるそれは、やはり煌びやかで美しいものだった。
それは人の営みが作り出す芸術の灯。
高台にあるこの学園の屋上は、それを見渡すに適した絶好の展望点であった。
しかし、この場に居合わせた二人に、その光景は映ってはいない。
二人の目に映るのは、敵と認識される互い。
殺気の張り詰めた空気が辺りを支配する。
「……一応、聞いておく。お前は何者だ? 何の目的でこんなふざけた真似をした?」
刀を携えた白い学生服に身を包んだ滝口は訊ねた。
「正体を明かすつもりがあるんなら、こんな格好しねぇだろ? 言うと思うか?」
少年と対峙する者。それは含み笑いを漏らし、言葉を返す。男と思しき人物は、全身を外套で覆い、頭部にも深々とフードを下ろしているのだ。
「……よく笑う。だから、一応、と言ったはずだ」
詩緒は射抜く様な視線を、敵に向けていた。どのような答えが返ってこようとも、彼の意思は変わらないのだ。それは排除すべき対象でしかない。
「そうだったな……しかし……まともな武器がない状態に襲撃してやろうと学校に罠を張ったのにな……真剣を持って通学するか? 普通?」
フードに隠れた顔から、辟易とした声が起こる。
「……生憎と普通じゃないらしいな……」
無表情に。至って真剣な顔で滝口は言う。
二人の間を風が流れた。
その風は、都会特有の湿気を含んだ纏わりつく様な嫌な風ではない。乾いた涼をもたらすものだ。
自然との融合。それをスローガンに掲げ、発展して来た都市としては歴史の浅いこの街。
だからこそ、他都市では問題になって久しいヒートアイランド現象など、文字通り、どこ吹く風である。
その夜風に靡いた外套がバタバタと大きく音を立てる。そして、対照的に。少年の左手首に在る小さな鈴は微かな音色を奏でていた。
場面が場面であれば、その音は、暑苦しい宵に更なる涼を届けていたことだろう。
そんな粋は思考の元に、それを聴いたわけではない。しかし、鈴の持ち主と相対する男は、その音源に視線を送っていた。
「……鈴? ……お前が当麻の言っていた滝口か?」
「――渡辺詩緒。お前を殺す人間の名だ」
その問いに名乗り、駆ける。
それは開戦の狼煙でもあった。
「……渡――っ!?」
一足にして間合いを詰め、弧の軌道を描き月光に閃く刀身。マントを大きく裂かれながら、鬼の召喚者とおぼしき人物は寸でのところで、それをどうにか回避していた。
渡辺、ね。不敵に嗤い、滝口の名を呟く。外套に身を包む者は自身の強さを、優位さを演出するかの如く、そう行なうつもりであった。
しかし、それを渡辺詩緒という剣士は許さなかったのだ。
マントの下に忍ばせていた小太刀を引き抜き、滝口の一ノ太刀を華麗に避け、その白刃で切り裂く。標的を始末するための障害の息の根を止める。
その算段も大きく狂っていた。
彼が得物を引き抜こうとする時には、相対する剣士はすでに返し刀、刀を走らせている。
返し手を捨て。その斬撃をかわす動作に専念する。否。そうすることだけが、その者にとって、命を取り繋ぐ唯一の行動であった。
彼は――丑寅は大きな誤算を認識する。
それは名もなき雑兵、つまりは賀茂瑞穂という標的に御付的に存在する滝口程度に、同じ滝口で棟梁直々に選ばれた八卦衆が劣るはずがないという考えであった。
体裁などを考える余裕なくコンクリートの上を転がりながら、歯軋りする。
そして、命を繋ぐべく、視た。
その瞳孔に意志の力を、魔力を籠める。
召喚ぶことの出来る僕を探す。目まぐるしく焦点の合わない視界。それでもその中に、この危機を打破する鍵を必死に探るしか最早、勝つ術はないのだ。
見鬼。
まだこの世界に干渉できない、思念としてしか存在しない鬼。それを視る能力。
それが丑寅が持つ異能の力の一つである。
その目が捉えたモノに、丑寅は驚愕した。
しかし、自らの能力の発動は忘れない。
さらに目に魔力を籠める。
「――ぐっ!?」
その眼力に詩緒の動きが止まる。
身を襲う、有り得ないほど強烈な痛み。
外傷などはない。しかし、体を支配した痛覚は尋常ではなかった。
転がった勢いのまま、フェンスに衝突する丑寅。金網の軋む無機質な音が響く。体裁を捨てていた彼に、スマートに体制を整える余裕などはなかったのだ。
「……お前……爆弾を抱えて俺に挑もうなんて馬鹿の極みだなぁ……」
それでも、立ち上がりの際は然も端から常に自身がそうであったように、相手を見下す。
「……俺はお前の爆弾の起爆スイッチを持ってるんだぜ?」
フードに隠した歓喜。丑寅の持つ残りの能力。それは見鬼したものを具現化し、使役する能力である。召鬼、使鬼であった。
彼が視たのは、渡辺詩緒という少年に宿る闇であった。
その滝口は、心に鬼を住まわせていたのだ。
丑寅により送られた魔力により、その闇が活発化した状態。それが現状であった。
「……お前は……」
詩緒はそれでも戦意を失ってはいなかった。激痛に蝕まれながらも呟き、敵をその目に捉える。
滝口の少年の存在そのものを消滅させるべく、その身を侵す闇。それに伴う痛覚。それは幾度の実践や、訓練によって、その感覚に異常なほどの耐性を持つ詩緒にも、行動を許さないほど強烈なものだった。
あと僅か。丑寅の魔力が流れ込めば、少年の中に潜む鬼は人間の肉体という殻を破り、この世界に存在するに至るだろう。
「……さて。俺にお前は到底敵わないって、身の程を知ったろ?」
完全に取り戻された自信。そして、確立された完璧なる優位性。
立ち続けることだけで懸命な滝口にゆっくりと近づきながら、丑寅は歓喜を押し殺し冷徹に口を開いた。




